9. Hot Scramble
-エルネスタ・コンツ-
仰向けに寝転がり両方の掌を下に向けて床にぴったりとつける→右ヒザを90度に曲げる→ヒザを上げて股関節も90度になるように→右ヒザを左に倒し床にぴったりとつける(このとき、床につけた掌が離れないように)。これは腰の側面を伸ばすストレッチ。
転がってうつ伏せになり脇をしめて掌はそれぞれ肩の真横に→つま先はそれぞれ内側に向けて指先までなるべく伸ばす→肘を伸ばして胸を上げ、首を反らせて後ろのほうを見る。これは腰の下のほう、脊柱起立筋を伸ばすストレッチ。
ヒザを曲げないように開脚して床に座り、つま先はピンと天井に向ける→左手を真っ直ぐ上に伸ばし、腰から上全体をゆっくりと右側に倒していく(このとき、右手で左のヒザ小僧を触りにいく)→目一杯のところで三十秒キープ×左右それぞれ三回。これは体側のストレッチ。
「なにをしているの?」
わたしの上下逆さの視界の中で、ウィルマが部屋に入ってくるなりそう言って首を傾げる。
「逆立ち」
正確に言うと、開脚三点倒立。頭と両手をついて逆立ちして、そのままパカッと脚を開く。キャスカルは特性的に頭に血が上るという現象がほぼ起きないので、バランスさえ取っていれば、いつまででもこの体勢を維持できるし、一度このポーズになってしまうとあとはボーッとしてるだけでも脚の重みで自然に開脚されて股関節のストレッチになるから楽チンなのだ。
「なにもこんな狭いところでやらなくても、ジムに行けばいいよね」
寮の部屋は二段ベッドとそれぞれのデスクとロッカーでパンパンで、残りの床面積はマットレス一枚分もないから、開脚三転倒立状態のわたしとウィルマが向かい合うと、もうそれだけでギッチギチで隙間がない。というより、わたしひとりだったとしてもわりと気を使いながら開脚しないと、あちこちにぶつけてしまうことになる。実際、もう何か所もぶつけてしまっている。
「うんまあ、そうなんだけど」
基地にはもちろんトレーニング用のジムも用意されていて、地上にいるあいだエビエーターがなにをしているかというと、だいたいトレーニングをしている。男の人だと、懸垂が趣味みたいな変態も多い。
とはいえ、通常のエビエーターなら体力や筋力の差で耐G能力にけっこうな違いが出てくるから、トレーニングにも大いに意味があるけど、キャスカルの場合は生まれつきGによる血流の偏りが問題にならないので、トレーニングをしてもそこまで顕著な差が出るわけではない。Gによって身体にかかる自重はどうしようもないから、なるべく痩せていたほうが有利ではある。まあそれも程度問題で、適切に健康な状態を維持しておくのが一番良い。
脚を閉じ、胸に抱え込んで、そのままでんぐり返しして立ち上がろうとする。コロンと転がってウィルマの足にゴンと当たる。
「ああ、もう。だから言ったよね?」
「ごめんごめん」と、ウィルマに雑に謝りながら立ち上がり、またすぐベッドに倒れ込む。「なんか最近、知らない人が増えてきたから、ジムとかちょっと居心地が悪くてさ」
気が付けば、コジマおばさんを除けばわたしとウィルマがこの基地で一番の古株になっている。
知っている顔は、みんな墜ちたか、どこか別の場所に行ってしまった。
空で墜ちると、滅多なことにその死体を確認するということがない。ただ、アッと思った次の瞬間には、この世界からいなくなっている。
そのせいか、その人たちがきっともう死んでしまっているということが、たぶん、わたしにはうまく認識できていないのだ。
なんとなく、今もまだ、みんなどこかでなんとか、それなりにうまいことやっているのではないかという気もする。わたしたちだけがこの場所に取り残されているような感じもする。
「まあ、面子もだいぶ入れ替わっちゃったからね」と言って、ウィルマはドアを閉めて部屋に入る。「はい、これ」と、なにかの封筒を差し出してくる。
「なに?」
「手紙。エーコから」
その短い台詞をウィルマが言い終わらないうちに、わたしは跳ね起きて、奪い取るような勢いで封筒を受け取る。封筒の表には濃い青のインクで、エーコらしい几帳面な字で、わたしとウィルマの名前が書かれている。封は、これまたウィルマらしく実に丁寧に、刃物でスッと一直線に解かれている。
わたしは一度、掌をシャツの裾で擦ってから、慎重に封筒から便箋を取り出す。
「よかった。いい病院が見つかったみたいだね」
「うん。北部の山のほう。涼しくて静かなところだって」
「そのうち、お見舞いに行こうね。ピグミーに乗って」
「そうだね。もうちょっと情勢が落ち着いたらね」
そう言いながら、わたしもウィルマも、きっとそんなことにはならないだろうということを知っている。エーコがいるのはたしかに、静かで涼しくて環境の良い場所なのだろうけど、そこは病気の治療のための病院ではなく終末期ケアのためのホスピスだし、現実的な期間のうちに、わたしたちに長い休暇が認められるほど情勢が安定することも、きっとない。
そんなことは分かっているのだけど、わたしたちはそれを口に出しては言わない。
最近のわたしたちは、本当の話なんて、ほとんどなにもしていない。
いつだって本当の明日はくる。まるで息を吸うように、当たり前に。
そのときがきてしまうまで、わたしたちは今日をうまくやり過ごす。
一度はバークワースの爆撃機に本土侵入を許し、航空優勢域を大きく後退させたイルヘルミナだったけど、その後、一気に畳みかけようと進行してきたバークワースの戦闘機群をことごとく撃墜したことで、また勢いを取り戻している。南部から一時的に退避してきた飛行隊と、後方からの追加要員が合流して、この基地はかつてないほどの大所帯となっているし、各員の士気も高い。
談話室も食堂も、よく言えば活気があって、でもわたしにはちょっと馴染まないというか、混じりづらい雰囲気がある。もともとあまり騒がしいのは得意ではないし、あまり人が多いと熱気にあてられてしまう。
その熱気の中心にいるのがユディトとユリアナだ。
スクワルトはまだ研究途上の機体で、わたしたちハティ隊は本来、本格運用に向けたデータ収拾のため、試験的に運用されていただけの部隊だった。配備されたスクワルトも、まだ数機しか存在しないプロトタイプのうちの四機で、本当はまだ実戦に投入するような段階ではなかったのだ。たまたま、試験飛行中に偶発的な戦闘が起こり、そこでイングリットが驚異的な勝ち星をあげてしまったから、プロトタイプがそのままなし崩してきに実戦に配備されていただけだ。
当然、そのあいだにも後方の研究所ではスクワルトの量産に向けた開発が続けられていた。ユディトとユリアナはそこでテストパイロットをしていたキャスカルだ。そのふたりが、ハティ隊再編のために緊急に前線へと派遣されてきた。
スクワルトも一機、試験的にアビオニクス系が強化された、新型のテスト用機体が補充された。ユディトはこれに乗って後方から直接基地まで飛んできた。
「やっほーっ! わあ、すごい!! 聞いていたとおりの綺麗な銀髪! あなたが四番機のエルナちゃんね! わたしはユディト!! 今日からあなたたちハティ隊の一番機を務めるよ! よろしくねっ!!!!」
着陸して、両翼の先が赤く塗装されたスクワルト改から跳ねるように降りてくるなり、迎えに出ていたわたしにバッと駆け寄ってきて、肩をガッシと掴んでユディトはそう言った。なお、わたしとユディトはこのときが初対面だ。
「……はあ。よろしく、お願いします」
「え? ほっそ! 大丈夫? ちゃんと食べてる? わ、指なっが!! いいな~、スッとしてて綺麗。あ、かわいいヘアピン! 模造石がついてるのね!! どこで買ったの??」
「あ、えっと……ハンザのグランバザーで」
ユディトはわたしの露骨に引き気味な反応もまったく気にする様子がなく、無遠慮にペタペタとわたしの身体のあちこちを触ってくる。スキンシップがとても激しい。
ウィルマのほうはもっと酷くて(?)、ユディトはウィルマを見るなり「え? ちっちゃ! かわいっ! え? うそ、ちっちゃ!! かわいっ!!!!」って感じで「ちっちゃ!」と「かわいっ!」をひたすら連呼するだけのマシーンになった。
たしかに、ニョロンと手足の長いユディトに比べるとウィルマのほうが背は小さい。でも、年齢的にはユディトのほうが年下だろう。若い、というよりも、まだ幼い。
「すっごい! ふたりとも綺麗だし可愛いし、素敵なお姉さんができたみたいでうれしいな!! わたしがんばるから! これからよろしくね! よろしくね??」と、ユディトは顔を上気させながら、無邪気に歯を見せて笑った。
わたしはすっかり困惑してしまう。
ユディトのノリにではなく、いや、少なからずノリにも困惑してはいたのだけど、でも、そういうのじゃなくて、それ以上に。
ユディトのその顔に、わたしは戸惑う。
すこし空気を含んで膨らんだ、緩くうねった柔らかそうな金色の髪。スッと通った鼻筋と、そこを彩るちょっとのそばかす。細くて長い首と、鋭角的な顎のライン。大きな瑠璃色の瞳。
ユディトの顔はまるっきり、幼いころのイングリットそのままだった。
ユディトにすこし遅れて、あとから輸送機でやってきたユリアナの存在も、わたしとウィルマをさらに混乱させた。ユリアナもユディトにそっくりなのだ。まるで双子のように。
つまり、ふたりともイングリットにとても似ている。
ユディトとユリアナはエビエータにしては珍しく荷物の多いタイプの子で、少し前までイングリットとエーコが使っていた部屋に案内すると、あっという間に巨大なクッションや熊のぬいぐるみや服やら服やら服やらで埋め尽くしてしまった。わたしたちの部屋と同じ間取りのはずなのに、とてもそうは思えない。
晩ごはんを食べに食堂におりたら、ユディトとユリアナはさっそくコジマおばさんと並んで一緒に芋の皮を剥きながら「コジマおばさんのその三角巾いいね! 超オシャレ!」「そうかねぇ…?」なんて談笑していたし、愛想がないので有名な整備兵のブルーノおじさんにも遠くから「あ! やっほ~、ブルーノおじさん!! 元気~!?」とか声を掛けていて、ブルーノおじさんのほうもまんざらでもないような表情で軽く手を振り返していて。
なんだかあっという間に、まるでもう何年も前からここに住んでいるみたいに馴染んでしまった。
「なんかちょっと、ヤな感じかも」
夜、眠るまえ、ベッドでウィルマが呟くようにそう言ったのを、わたしは聞いていた。
「うまく言えないけれど……なんだか、イングリットが上書きされてしまうみたいな気がして、ちょっとヤだ」
「……うん」
どう言ったらいいのかよく分からなくて、わたしもそういう曖昧な返事しかできないけど、ウィルマの言いたいことはなんとなく分かる。ユディトがイングリットの場所で、イングリットみたいな顔をしていると、イングリットの記憶が侵されていくような奇妙な感覚を味わってしまう。ふと、イングリットもあんなキャラだったような気がしてしまっているときがある。イングリットも明るいタイプではあったけど、あそこまで無茶苦茶じゃなかった。
自分がイングリットのことを忘れてしまうんじゃないか、みたいな、漠然とした不安を覚えて、落ち着かない。
でも、どんな顔に生まれてくるかなんて、自分で選べるわけじゃないし。
ユディトとユリアナがイングリットにとても似ているのは、別に彼女たちのせいではない。もともと、キャスカルは似たような遺伝子のグループから発現する病気なのだ。キャスカルである時点で全員が親戚のようなものだから、顔が似てたっておかしくない。
彼女たちがなにか悪いわけでは、きっとない。
ただ、わたしが彼女たちにうまく対応できていないだけなのだ。たぶん。
エーコの機体にはユリアナが乗ることになった。エーコのコールサインのハティ2も、そのままユリアナに受け継がれ、ユディトがハティ1。つまり、わたしたちハティ隊の隊長だ。
そこはかつて、イングリットの場所だったのだ。
ウィルマは最初、それがあまり面白くなさそうだった。ウィルマにもイングリットの場所をユディトに奪われた、みたいな感覚はあっただろうし、それに普通に考えれば、今となっては隊で一番古参となったウィルマが、一番機に繰り上がるのが筋ではあるからだ。よそから来たよく知らない子が、自分の頭を飛び越えていきなり隊長なのだから、そういった気持ちが湧くのも分からなくはない。
まあ、ウィルマが隊長をやりたがるかというと、それも疑問ではあるけれど。
でも実戦に出て結果が数字になってしまえば、そんな不満もすべて吹き飛んで、その采配に納得せざるを得なくなった。
ユディトの強さは驚異的だった。
初出撃で、空にあがってきたバークワースの機体をすべて撃墜してしまったのだ。
全機撃墜は航空格闘戦の理想だけど、実際には滅多にあることじゃない。戦闘機は燃料があるあいだしか飛べないし、戦闘開始前には高速の戦闘機動をするために、抱えてきた重い増槽も切り離す。急激な機動を繰り返すことになる格闘戦では、燃料の消費も激しい。それに当然、自分が基地に戻るための帰りの燃料も残しておかないといけないわけで、一回の飛行に許される戦闘時間は、それほど長くない。
空対空兵装だって、かなり搭載量が多い大型のスクワルトでも最大で十発だ。
通常は敵機が残存していようとも、頃合いを見て離脱することになる。
「ンッフッフッフッフ~フ~ン♪ ンッフッフッフッフ~ン♪」
格闘戦のあいだ中、無線からはずっと、機嫌が良さそうなユディトの鼻唄が聴こえてきていた。
「敵影視認! 先手必勝ってね! ハティ1、交戦開始! とぅりゃあ~!!」
ユディトが機体をバンクさせて急降下に入ると、以降は面白いように敵が次々と落ちていった。
十発の空対空ミサイルを使って、きっちり十機。
さらに、機銃だけでも追加で二機を撃墜。
「もうアイツだけでいいんじゃないのか?」
誰か、あまり聞き慣れない声のエビエータの、呆れたようなそんな声が無線から聞こえてきた。その場に居合わせた誰もが、同じことを思っていただろう。
戦闘開始からほんの二~三分で、編隊もままならなくなって散り散りになったバークワース軍の残りの機体を、手分けして片付けるのは簡単な仕事だった。
結果、こちらの損耗はゼロで、敵機を全機撃墜という圧倒的な大勝利だった。
もちろん、本当に全機をユディトがひとりで墜としたわけではないけれど、この大勝利が誰の功績によるものかは考えるまでもなく明白だった。
その日の夜は、みんなで頭からお酒を浴びせあうほどの大騒ぎになった。その中心であるユディトは、その持ち前の馴れ馴れしさもあって、あっという間に基地の全員と仲間になってしまった。エビエータも整備士も、管制や司令部の人間までも、みんなユディトに笑顔にさせられていた。わたしとウィルマは、いまいちうまくその輪の中に入ることができずに、喧騒を少し離れたところから眺めていた。
「めちゃくちゃ強かったね、ユディト」と、わたしが呟くと、横でウィルマが「本当に、今までわたしたちがやってたのはなんだったのか、みたいな気分になるよね」と肩をすくめた。「ユディトだけじゃない。僚機のユリアナも、ユディトを存分に暴れさせるために、完全に息の合ったサポートをしていた。ふたりとも、強いよ。とんでもなく」
基地の人たちは、みんなしてユディトのことをイングリットの再来だと持て囃している。初戦の戦績だけで言えば、ユディトはイングリットさえも超越しているのだ。この調子なら、次の出撃でイングリットの通算戦績さえも塗り替えるだろう。その次の出撃では、戦争を終わらせてしまうのかもしれない。
「でも、やっぱりイングリットとは、全然ちがうよね」
「……そうだね」
ユディトの機動はスクワルトの機体特性と強化された電子制御系の支援をフルに生かして、高速での急旋回からエンジンパワーにモノを言わせた急加速で直線的に敵のおしりを取りにいくスタイルで、かなり強引な飛びかただ。
少なくとも、エレガントなタイプではない。
イングリットは逆に、ほとんど無駄なエネルギーを消費せず、常にポテンシャルを高く保ち、高高度から加速しながらダイブして、バッチリのところでバッチリに速度と高度をあわせて敵を追従するスタイルで、基本的に旋回径は大きく、傍目には実にのんびり優雅に飛んでいるようにさえ見える。それが何故か、気が付いたら敵のおしりにピッタリとくっついているのだ。
イングリットの機動が空の残された美麗な筆記体だとすれば、ユディトのそれは、まさに空を引き裂くモンスターの爪痕だ。
でも、そういったキャスカルの耐G特性とスクワルトの機体性能にまかせた強引な飛びかたこそが、スクワルトにおいては最適解だったということなのかもしれない。数字だけを見て判断をするならば、そういうことになる。
「なんかでも……わたしはちょっとヤだな、アレ」
わたしは自分のつま先を見つめながら、つい、そんなことを言ってしまう。
だけど、わたしたちはべつに、機動の優雅さを競うスポーツをやっているわけじゃない。
わたしたちがやっているのは戦争で、戦争なのだから、敵をより多く墜とせる機動こそが正しい。価値基準はそれだけなのだ。
「たぶん、わたしたちが狭量になってしまっているだけなんだよ」と、ウィルマが言う。「わたしたち、ずっと四人で一緒だったから、あまり知らない人に慣れていないんだよね。たぶん、それだけのことなんだよね」
きっとそうなのだろうと、わたしも思う。わたしたちが、ユディトとユリアナを受け入れるべきでない理由など、なにもない。ユディトは、ちょっと馴れ馴れしすぎるというか、距離感が妙に近いところはあるけれど、でも基本的にはいい子だし、それになにより、圧倒的に強い。わたしもヤだとか言っていないで、ユディトの機動からスクワルトの本当の動かしかたを学ぶべきなのだ、本来は。
「ごめんなさい。あの子、さすがにちょっとはしゃぎすぎですよね?」
不意に後ろから声を掛けられて、わたしもウィルマも驚いてしまう。振り向くとユリアナがいて、すこしお酒を飲んだのか、頬をうっすらと赤く上気させている。
あの子、というのはもちろん、ユディトのことだろう。
「いや、別にそんなことは」と、わたしは反射的に返事をする。ユリアナはとくに気にした風でもなく、スッとわたしの横につけてくる。ユディトほど露骨ではないけれど、ユリアナもそこそこに人懐っこい性質をしている。
「わたしとユディト、ずっと研究所でふたりきりだったから、こんなにたくさんの仲間がいるのが初めてで、それが嬉しいんです。他のエビエータの人たちもだけど、なにより、あなたたちの仲間になれたことが。あの子、今はちょっと有頂天になってしまっているんです。さすがにずっとあの調子ってわけじゃないから、そのうち落ち着くと思います」
ユリアナに仲間と呼ばれて、わたしは胸の奥に小さな罪悪感を覚える。
「あんなにたくさんの仲間と一緒に空を飛ぶのも初めてのことだったし、自分の力が誰かの役に立つんだって思えたのも、たぶん初めてのことだったから。研究所で来る日も来る日もテスト飛行をしているだけだと、こんなことをして一体なにになるんだろうって、自分の存在に疑問を感じてしまうんですよね」
ユディトとユリアナは屈託なくわたしのことを仲間だと思ってくれているのに、わたしは特にこれといった明確な理由もなしに、どこかユディトとユリアナを否定できる材料を探してしまっている。彼女たちがイングリットよりも優れていなければいいのになと、そんな風に思ってしまっている。
「ユディトだって、生まれつきあんなに強かったわけじゃないんですよ。物心もつかないうちから、本当に過酷な訓練を乗り越えてきたの。最初はもっとたくさんいたのに、今では残っているのは、わたしとユディトのふたりだけ。その積み上げてきた時間が、磨き上げてきた技術が、無駄じゃなかったんだって、間違えてなかったんだって、そう思えて。たくさんの人の役に立てて必要とされているのが、本当に嬉しいんです。わたしたち」
そう言って笑ったユリアナの顔は、本当にイングリットみたいで、とても綺麗だった。
やっぱり、わたしがすこし、狭量になってしまっているだけなのだろう。
ユディトもユリアナもとても良い子だし、わたしのことを仲間だと思ってくれているのなら、わたしも嬉しい。たぶん、わたしもすこし驚いてしまっているだけで、ユディトのこともユリアナのことも、ぜんぜん嫌いではない。
でも、理屈では分かっていても、わたしはすぐに素直に動くことができないでいる。
地上では、わたしの機動は自分でも嫌になるほど重い。
かわりに、わたしは話をそらすようにして「ふたりは……双子、というわけではないの?」と、すこし気になっていたことを質問してみる。
ユディトとユリアナは双子のようにそっくりで、どちらにもイングリットの面影がある。だけど、どうやら姉妹ではないらしい。
「出てきたお腹は別々だけれど、遺伝子てきな話をするのであれば、ええ、そうですね、双子と考えてしまうのが近いかもしれません」と、ユリアナはよく分からない返事をする。
「遺伝子てきな話?」
「わたしたちは、作られた子供ですから」
「ああ……」
その説明だけで、わたしは概ね理解する。
キャスカルはイルヘルミナ北部の特定の遺伝子グループの中から稀に発現してしまう、とても希少な遺伝子疾患だ。病気なのだから希少と言ってしまうのもアレだけれど、軍が求めるような、ちょうどいい症例の子が、都合よく生まれてくるとは限らない。
たとえキャスカルに生まれても、症状が穏やかではエビエータには向かないし、逆に病症が深刻だと、あっという間に発症して死んでしまう。
それにキャスカルは遺伝子疾患だから、イルヘルミナ北部では病気を避けるためになるべく外部の人間との婚姻を志向する傾向があって、キャスカルの新規の出生は、それが遺伝子疾患だと明らかになってから一貫して減少し続けている。
仮に本格的なスクワルトの量産がはじまったとしても、自然な出生に頼っている限り、今度はエビエータの確保が困難になるということだ。だったら、人為的に作ってしまえばいいという、乱暴で合理的な判断は、いかにもイルヘルミナの軍部らしい。
キャスカルはその要素が強く出ているほど色素が薄くなる傾向がある。要素は強すぎても弱すぎてもいけない。ライトブロンドの髪に、アンバーの瞳を持つイングリッドは、エビエータとして最も理想的なバランスのキャスカルだった。
軍部の人間は、イングリットが実戦で成果を叩き出すずっと前から、そのように判断していたのだろう。結果から言えば、その判断は大当たりだったということだ。
ユディトとユリアナは、イングリットのクローンなのだ。
翌朝は緊急ブリーフィングの招集で起こされた。
寝巻きの上からスポンと飛行服を被って会議室に急ぐ。ものの数分で基地の全エビエータが会議室に集まった。一時的に大所帯になっているので、一部のエビエータは折り畳みの椅子を引っ張り出して壁際になんとか場所を見つけて座っている。
ほとんど走るみたいな大股の早足で会議室に入ってきた司令官が「時間がないので手短に」と前置きして、説明をはじめる。
「バークワースの大編隊がすでにイルヘルミナに向けて飛行中。あれだけの打撃を受けて、すぐにまた攻勢に出てくるのは完全に予想外で、捕捉が少々遅れた。これはわたしのミスだ、すまない。総数などの詳しい情報は不明だが、三十は下らないものと思われる。詳細は現地で各員に確認してもらうしかない。当基地からは全機出撃。兵装と燃料を持てるだけ持って可能な限り早急に離陸してくれ」
以上だ、と司令官が言うのと同時に、エビエータたちが一斉に動く。すでに整備兵たちは機体の装備を整えて格納庫から出している。わたしも飛行服のジッパーをあげて、そのまま格納庫に走る。ヘルメットを被り、コックピットによじ登る。エンジンを始動し、各部の点検を手早く済ませる。無線のスイッチを入れる。
「こちらハティ1!! ハティ隊各員! 準備の状況は!?」と、無数の怒号に近い通信に混じって、ユディトの甲高い声が聞こえてくる。
「こちらハティ4! スタンバイ!」と、返事をする。続いて「ハティ3! スタンバイ!」「ハティ2! スタンバイ!」と、ウィルマとユリアナの声もする。
「おっけ~!! ハティ隊から管制へ!! ハティ隊オールスタンバイ! 離陸許可を申請!!」
「こちら管制!! ハティ隊、離陸を許可する。ハティ1から順次、二番滑走路へ!! 準備のできたやつから教えろ。どんどん飛んでいけ!」
各機のエンジンが立て続けに唸りを上げて、キーンというファンの甲高い音が響き渡る。ユディトを先頭に次々と離陸していく。基地の上空で旋回しながら全機の離陸を待ち、編隊を組む。総勢二十四機。圧巻の大編隊だけど、バークワース側はさらに多いらしい。後方の基地からも応援が駆けつけるだろうけど、ひとまずはこの二十四機で持ちこたえなければならない。
「迎え撃つよ! 全機全速!!」
ユディトの号令で全機がエンジン出力を最大まで上げる。あっという間にハンザの丘を越えて洋上へと出る。
陸は快晴だったけど、海のうえには少し雲が出ていた。高空から雲の形を見下ろすと、大地が雲を作るのだということがよく分かる。雲はまるでバークワースの海岸線をコピーしたみたいな形をしていて、東へとゆっくりと移動している。白い大陸が迫ってきているみたいだ。
雲の下になにかが、一瞬。
「ユディト! 下だ!!」
わたしは叫ぶ。
雲の隙間から、ほとんど海面スレスレみたいな低高度を走り抜ける機影が見えた。交戦を避けて本土を直接狙うつもりかもしれない。
「ナイス視認エルナ! バークワースの戦闘機にイルヘルミナの空を飛ばせるわけにはいかない! ここで食い止めるよ!! 全機わたしに続け~!!」
ユディトが機体を左に横転させ、降下する。編隊の先頭から順にダイブしていく。かなりの高度差。こちらが圧倒的に優位なポジションだけれど、スクワルトはともかく他の機体では逆に速度が速くなりすぎて、やりにくいかもしれない。
雲に突っ込む。
視界が白に。
突き抜けて、海の青。
光が煌めく。
再び敵機を視認。正確な数は分からない。かなり多い。
「ハティ1! 交戦開始!!」
無線からユディトの声がする。海面スレスレで、もうすでに水平飛行に移っている。
敵機も編隊を解いて散開する。こちらに気付いた。
エレベーターアップ。
ループの頂点で、海面上の弾力のある空気で跳ねる。
丁度いい位置に敵機が一機いる。
「ハティ1! FOX2!」
視界の端に一瞬、爆炎がチラつく。
スルットルハイ。
敵機は左に旋回を入れる。旋回に入る前にわたしはそれに気付いている。
「ハティ1、一機撃墜。いいぞ、今回も早い」
誰か、男の人の声。高揚しているのが、無線からも伝わる。
操縦桿を左に倒す。ラダーをやや右に。
うっかりしたら海面を翼で擦ってしまいそうだ。
「ンッフッフッフッフ~フ~ン♪ ンッフッフッフッフ~ン♪」
ユディトの鼻歌がはじまる。
敵機が切り返す。わたしはそれを読んでいる。
レーダーロック。まだ近づく。
「き……ハーピー……歌声だ……あ……バケモノがきて……ぞ」
バークワースのパイロットの声も混入する。ユディトの存在に慄いている。戦場では怯えも慢心も、音声無線はお互いにダダ漏れだ。
ぶつかりそうに思えるほどの至近距離。
レーダーロック。
「ハティ4! FOX2!」
ミサイル発射。
一機撃墜。
「ハティ1! FOX2! FOX2!!」
「ナイスキル!! ハティ1、二機撃墜!」
無線がうるさい。
ユディトが空を切り裂き、順調にバークワースの数を削っていく。
「ンッフッフッフッフ~フ~ン♪ ンッフ♪ は~い! FOX2!!」
「……が戦況……一機でひっく……バケモノだ……」
ミサイルアラート。
レーダーの照射を受けている。この低高度ではダイブして速度を稼ぐことはできない。
急旋回してキャノピーの上に視線を向ける。後ろに一機貼りついてきている。
敵の旋回のほうがやや大回りだ。
「ハティ3! FOX2!」
わたしが振り切ったところで、別のスクワルトがそいつを撃ち落としている。ウィルマだ。
いったん高度を上げる。減速しているのでそこまで高度は稼げない。
「ンッフッフッフン♪ っとお! エルナ! ひっつかれるよ! ブレイク!! ブレイク!!」
ユディトの声。
一瞬あとでミサイルアラート。
左足を踏み込む。
機体が右滑りに。
左に急バンク。左滑り。
さらに左を踏み込んで、操縦桿を左前に突く。
敵機のミサイルが右下に逸れる。
旋回しながら敵機を確認。
緑の垂直尾翼。
緑しっぽだ。
イングリットの敵をとりたいなら。
位置が悪い。わたしは回避機動に。
「ンッフッフッフン♪ っと、そこぉ! も~らい!!」
ユディトが緑しっぽの後ろにつく。
緑しっぽが機首を上げる。垂直に近い角度でロールしながら上昇していく。
緑しっぽのほうがやや優速だけれど、純粋な推力勝負になれば緑しっぽの機体ではスクワルトに勝てない。
「視野が狭いやな、鼻唄のお嬢ちゃん」
すごい訛り。無線にはっきりと、誰かの声が。
雲の中から、敵の機体が。急降下してきて。
「ユディト! ブレイク!」
わたしは叫ぶ。
素早くロールさせて、ギリギリで敵の機体とすれ違うように、ユディトがかわす。
「あ」
聞こえたのは、ユリアナのそんな声だけ。
敵の狙いは、最初からユディトじゃない。
そのうしろでサポートしていたユリアナのスクワルトが、気付けば火を吹いている。
「ユリアナ!」
ユディトが、ユリアナの名前を呼ぶ。
「よそ見している暇があるのか?」
声。
若い。いっそ幼い、男の。
垂直に上昇していた緑しっぽの機体が、いつの間にか機首を下に向けている。
ユディトの反応が一瞬遅れて。
「ヴォルチャー1、FOX2」
ミサイル。
ユディトの機体が、爆発を。
「エルナ!」声。ウィルマの。
よかった、ウィルマはまだ飛んでいた。
わたしも、見ている場合じゃない。
ミサイルアラート。
機首を引き上げて急上昇しながら、90度ロール。
機速が落ちる。ラダー。180度ターン。
「それを避けるか」
敵機の後ろが、見えて。緑のしっぽが、すこし遠い。
スロットルハイ。
速度が、ほんのちょっと足りない。
撃つ。
敵機がバレルロールで回避する。
「エルナ! 撤退だよね!」
ウィルマの声が聞こえる。
「でも……」わたしはなにかを言いかけて。
緑しっぽの機影が、すぐそこに。
「お願いだから」
わたしは操縦桿を引いて機首を上げる。離脱機動に入る。
敵も反転する方向にターンしている。潮時だ。
雲を突き破って上空に出る。
ユディトとユリアナの機体は、雲のうえにはあがってこなかった。