8. Exterminated
-デレク・キムラ-
イルヘルミナの爆撃機を洋上で撃墜し、敵の大きな作戦行動を阻止したことで、基地の雰囲気は明るい。
敵の航空優勢圏内を突っ切って敵地の真上に爆撃機を運んでいくのは、ある種の賭けだ。どちらかと言えば、こちらの陣営のほうが先にしびれを切らしてしまったと言ったほうが実態に近い。成功すれば一気に敵の勢いを削ぐことができるけれども、投入コストは決して安くはないし、成功率の高い作戦というわけでもなかった。
まあでも、結果的には成功したわけだから、その時のバークワースの判断は正しかったということになる。なんだって、結果が出ない限りは判断ができない。
飛行機は基地がなければ飛ぶことができない。滑走路が潰れれば、航空戦力は当分の間は後退せざるを得ない。基地が後退すれば、戦闘機がカバーできる空域も後退する。制空権を確保すれば、洋上なら艦船を、上陸してしまえば地上軍を安全に進軍させることができる。地上を制圧すれば、さらに敵の戦闘機がカバーできる空域は後退する。
制空権がすべての作戦行動の要なのだ。航空撃滅戦で先に敵の航空戦力を殲滅し尽くしたほうが、地上部隊を展開し次の作戦行動をはじめることができる。どちらかの上陸戦が始まった時点で、もう戦争の大勢は決してしまっていると言ってもいい。
逆に言えば、空のうえで僕たちがドンパチをやっているうちは、まだ本格的な戦争は始まっていないということ。本当の戦争は、空のテーブルゲームが終わった後で始まる。
「イカが来てなかったからな。楽なもんやな」
イーサンはそう言ったし、イカに比べれば他の機体はまだ現実的な機動で飛ぶから、それは相対的な意味では真実ではあった。でも、相手だって躍起になって戦争をやっているのだ。楽なものなんてないし、その過程で落ちたやつも何人かいる。
作戦が大規模になればなるほど、完封勝利というのはまずない。作戦の段階で、こちらにどれぐらいの損耗が見込まれて、敵にどれくらいの打撃を与えるのか。何機までなら墜ちても勝利と言えるのか。そういった数字がちゃんと弾き出されている。事前に想定されていたよりもいくらか少ない損耗で目的を達成できたから、今回の作戦は大成功だったと見做されている。そういうことだ。
僕たちパイロットは書類上の数字のひとつになって、それをイルヘルミナと交換する。
それぞれの立場で、それぞれの人間に、それぞれの仕事というのがある。戦闘機に乗って敵を撃ち墜としてくるのが仕事なら、それを数字にして書類を作るのもまた仕事だ。
作戦から帰投した夜には、墜ちていった連中のために、基地のみんなで空に向けて乾杯をした。人が死んでいるのに、酒を飲んでいる場合なのだろうかという気持ちもなくもないけれど、どんな場合であっても、雰囲気が暗く沈んでいるよりは明るく和やかなほうが、いくらかはいい。
もし僕が墜ちたとしても、その日の夜はみんながこんなテンションで、軽いノリで乾杯をして魂を空に送り出してくれたらいいと思う。
空で死んだやつには、きっと地獄よりも天国のほうがずっと近いだろう。
談話室ではテレビの前に人だかりができていた。イーサンが手招きするので僕も見にいってみたら、国営放送で飛行服姿の若い男がマイクを向けられてインタビューに答えていた。
「バークワースの領空もまた、バークワースの固有の領土で、バークワースにはこれを侵されない権利があります。イルヘルミナの戦闘機にバークワースの領空を好きに飛ばさせはしません」
その建前は少し古いものだな、と僕は思う。ちょっと前までならバークワースは領空に飛来するイルヘルミナ機の撃退をしているだけだという建前もまだ通用したけれど、今となってはこちらからイルヘルミナの領空どころか領土にまで侵入して爆撃機から爆弾を落としているのだ。録画してから放送するまでの間に情勢が変わってしまったわけだ。
まあ、どっちみち建前なんか最初からぜんぶ嘘みたいなものなんだけど。
問題は、テレビで喋っているその若い男というのが、僕だということだ。
「これで僕ちゃんもすっかり有名人やな」と、イーサンに肩を叩かれる。たまったものではない。
すこし前、帰投したら宣伝省のカメラが基地にきていて、飛行服のままでいくらかインタビューをされたのだ。別に僕が思ったことを話したわけではなく、担当官に言われた通りに喋っただけだけだし、そのときはこんなものを撮っていったいなにになるんだろうと思っていたんだけど、放送された映像は上手に編集されていた。そこに映って喋っているのが僕自身でなかったら、これを見ても僕もとくになにも思わなかっただろう。ただの、たくさんある戦意高揚番組のうちのひとつだ。
映像では空を飛ぶ戦闘機の映像に被せて「トーワに生まれ、セオル人として育ち、アルメア軍のパイロットとしてバークワースの為に空を飛ぶキムラ空尉は、まさに我々連合軍の連帯の象徴です」と、ナレーションが入る。なるほど、ものは言いようだなと思う。
いつの間にか、バークワースの陣営はバークワース単独ではなく、アルメアを含む複数の国との連合軍ということになっている。
「うまいことやるもんやな」と、イーサンが頷く。
「どういうこと?」と僕がきくと、イーサンは「バークワースは歴史的にずっと独立を維持してきた島国やから、もともと自主独立の気風が強いやな」と説明する。
「バークワース軍としてはアルメアの支援をもっと受けたいけれど、世論はアルメアのバークワースへの介入に抵抗がある。でも僕ちゃんを前面に出して、実際にバークワースのために戦っているのがアルメア人でなく亡国トーワのサムライボーイってことになれば、大国の介入っていうよりは、自国のために駆けつけてくれた善意の義勇軍っぽくて、ちょっとアタリが柔らかくなるやろ? バークワース人は概ね、トーワの経緯についても同情的やしな」
そういうものなのだろうか。そのへんの理屈は僕にはよく分からない。
「それに、僕ちゃんは顔もおぼこいから、あまり威圧的な印象は与えないやな」
「おぼこい?」
「あれ? おぼこいって分からんか? えーっと、顔が幼いってことやな」
「頼りなく見えてしまうんじゃないかな?」
「筋肉ムキムキのマッチョマンがウケるアルメアとは違って、バークワース人の好むヒーロー像っていうのは昔からそういうもんやな。サムライとかニンジャも大好きやしな」
「そういうものなのか」
「たぶん、これを機にアルメアの介入はさらに大きくなってくるんと違うかな」
敵の航空基地をひとつ潰して海洋上の航空優勢を確保したバークワースは、次に海軍戦力を前に進めていくことになる。基地を爆撃で潰したと言っても、航空機そのものを殲滅したわけじゃない。飛行機は飛び立ってしまえば済む話だから、大半はすこし後退しただけで生き残っているだろう。飛行機さえあれば、極端な話、滑走路さえ再整備してしまえば地上の基地というのはわりとすぐに復旧してしまうから、あまり時間を置くわけにもいかない。相手が体制を立て直す前に畳みかけないと、もたもたしていたらせっかく確保した優勢が押し戻されてしまいかねない。
アルメアがバークワースに介入を強めてくるならば、当然、ベイルーシュもイルヘルミナの支援に回るだろう。世界中のあらゆる紛争は、最終的にはアルメアとベイルーシュの代理戦争だ。そうなってしまえば、イルヘルミナもハッカリの再現だ。泥沼の戦場になる。今よりもっと、たくさん死ぬことになる。
それを避けるためには、ベイルーシュが腰をあげるまえに、一気に押し切って戦争を終結させてしまうしかない。
「自分は飛ばなくていいというのは、どういうことですか?」
海軍戦力を進行させるための護衛作戦の前に、司令官室に呼び出されて、そういう意向を伝えられた。今回の作戦には、僕は参加しなくてもいいらしい。
「そのままの意味だよ。次の作戦では我が基地から拠出する航空戦力はワーウルフ隊とヘリング隊の二小隊で十分だ。飛びっぱなしの君の機体にも、整備が必要だろう。今回の作戦では君たちヴォルチャー隊の四機は待機だ」
「わかりました」
もちろん、そういう指示がくれば、そう答えるほかない。作戦を考えるのは僕の仕事じゃない。
「君たちも連日の飛行で疲れが溜まっているだろう。少し身体を休ませるといい」
敬礼をして司令官室を出ると「中央から僕ちゃんをなるべく飛ばすなって指示がきてるんと違うかな」と、イーサンが言った。「せっかく持ち上げた神輿やから、すぐに損耗してしまったらもったいないやな」
「戦力を温存している余裕なんかあるのかな」と、僕は答える。一般的には、相手に反撃の隙を与えず最大火力で一気に押し切ってしまったほうが、最終的な損耗は双方ともに最小になる。
「デカい戦艦と同じやな。今となっては緑しっぽはバークワース軍の無敵のエースや。敵も当然、警戒する。僕ちゃんが後ろに控えてるだけでも敵に対して示威効果が期待できるやったら、下手に前に出して損耗する危険を冒すよりは、奥に引っ込めておいて示威効果を発揮しといてもらおうって話やな」
「負け戦のパターンだ」と、僕は苦笑いする。
「せや」と、アーロンも笑う。
まあ、楽させてもらえるなら楽させてもらえばええやん、と言って、イーサンはこの話題を切り上げた。作戦に参加できないのは少し残念なような気もするけど、飛ばなくていいならそれはそれで、楽なことではある。機体に整備が必要なのも事実だ。
僕の機体の整備に関してはひとつ、司令官から嬉しい知らせがあった。
「ライナー!!」
機体を見るために格納庫のほうに向かっていた僕は、格納庫の隣に乗りつけられた大型のトレイラー車からライナーが降りてくるのを見つけて、大きく手を振った。僕の声に振り向いたライナーも、皮肉げに口を左右非対称に歪めて、軽く手を挙げて応じる。僕はライナーに駆け寄る。
「すごい、本当に来てくれたんだ。ごめん、なんか呼びつけたみたいになってしまって」
「いや、いいさ。俺としても今回の異動は破格の待遇だ。むしろありがたい」
久しぶりだな、と言って、ライナーが右手を差し出してくる。僕はそこに自分の右手をパチンと当てて、つぎに握り拳にして、軽く打ち合わせる。
司令官になにか希望はあるかと訊かれたので、ためしに前の基地にいた整備士がよかったという話をしてみたら、本当に僕の希望が通ってライナーがこちらに異動してきたのだ。これが司令官の言っていた、第一飛行隊の隊長になることによって発生する「僕にとってよいこと」のうちのひとつなのだろう。これは確かに「よいこと」だ。
「それに、俺だけじゃないぜ」と言って、ライナーが親指でトレイラーを指し示す。そちらを見てみると、助手席側のドアから身体の大きな男がひとり、四苦八苦しながら降りてくるところだった。
「セブ!!」
僕は悲鳴に近い声をあげる。本当に驚いた。元ヴォルチャー隊一番機、空飛ぶイカに撃墜されたはずのセブ・ワンがそこにいた。幽霊じゃないし、そっくりさんでもない。どこかの国では人間のクローンを生み出す技術も、すでに実用化されているなんて噂を聞いたことがあるけど、たぶんそういうのでもない。本物のセブだ。左手にギプスをつけて三角巾で吊っているけど、それ以外にはとくに問題なさそうに見える。
「よお、久しぶりだな僕ちゃん。ずいぶんと立派になったそうじゃないか」
そう言って笑って、セブが無事なほうの右手で力強く僕の肩をパンパンと叩く。肩が外れてしまいそうなほど、力強い。元気そうだ。
「生きてたんだ……」
「ああ、射出座席ってのは本当に使えるもんなんだな。まあ、どこかでなにかに干渉でもしたのか、気が付いたら左腕はこんなことになっていたから、百点満点ってわけでもないが。医者が言うには、いちおう身体にくっついているだけで、もう一生マトモに使い物にはならないだろうって話だ」
パイロットはもう引退だな、とセブが寂しそうな顔で笑う。
「でも……本当によかった。生きてて」僕はなにかを言おうとしたけれど、それ以上はあまり言葉にならない。よかった。それだけだ。
生きて戦闘機のパイロットを引退できるやつなんて、そう多くはない。ある意味ではベストなシナリオとも言える。空に憑りつかれた人間は、五体が満足に動くうちは、結局は空にあがることになってしまうだろうから。せっかく拾った命を、また捨てにいくことになってしまうかもしれない。
「まあ、積もる話は後にしよう。べつに俺を乗せてくるためだけに、こんな馬鹿でかいトレイラーで来たわけじゃないんだ。後ろに土産がある」
ライナーと協力して荷台に掛けられたロープを外し、カーキ色のビニールカバーをめくってみると、見えたのはどこかで見たことがあるような、特徴的な巨大な曲線だった。
「これ……まさか空飛ぶイカ? 機体を回収できたのか?」
見えていたのは、イカの細く長い機首部分だった。僕が墜とした機体だろう。空で僕が確認した時点でも片翼は完全にぶっ飛んでいたから、完全な形ではないはずだけど、いまパッと見で確認できる機首部分は完全に原型を保ったままで、とても綺麗な状態に見える。今から組み立てるための部品だと言われても信じてしまいそうだ。コントロールを失った機体があの高度から落ちて、原型を保っていられるわけがない。
「まさか、コントロールを失っていなかったのか?」
「ああ、どうもそうらしい。片翼を失った状態で、最後まで墜落しないよう制動していたんだ。すごい執念だよ。おまけに、着水時にうまいこと機首のところでポッキリ折れたらしくてな。エンジンは海の底だが、この機首部分だけは縦になって水に浮いていた」
釣りに使う浮きみたいな感じだ、とセブが説明する。「俺も、たまたまその近くに墜ちたから助かったようなもんだ。海に浮いている人間を見つけるのは難しいが、こいつは目立つ」
近年の戦闘機は胴体と翼の役割が完全に分かれてはおらず、翼と一体化したなだらかな曲線の胴体形状を有している。胴体そのものにも揚力があるということだ。理論上、片翼が欠けて左右のバランスを失った状態でも、速度を上げてフラップを調整してやれば水平飛行を回復することはできなくはない。
あのとき、イカは完全にスピンして墜落の軌道に入っていた。あそこから水平飛行を回復したのか。それに、片翼を失えばたとえ水平飛行を回復したとしても、相当な速度を出さなければ揚力が足りなくなってしまう。たとえどれだけ上手く操舵して速度を落としたとしても、着水時の速度は時速数百キロを超えていただろう。
とんでもなく繊細な操舵技術がなければ、不時着水したところで木っ端微塵になっていたはずだ。
飛び抜けてうまいパイロットだとは思っていたけれど、ひょっとすると、僕が想像していた以上だったのだろうか。あの一瞬で、一撃で仕留められたのは、本当に幸運だった。
あいつがまだ生きていたら、ひょっとすると戦況そのものが根本的に違っていたかもしれない。
イカの外装を拳の裏で叩いてみると、パカパカとした驚くほど軽い音が鳴る。アルミニウムやステンレスなんかの金属の感触ではない。
「なんだこれ……? プラスチックなのか?」
「炭素系の複合素材のようだが、そうだな、大雑把に言えば、ほとんどすべて、プラスチックとボンドでできていると思っていい。馬鹿でかいプラモデルみたいなもんだよ。こんなモノづくり、見たこともない」と、ライナーが顎を撫でながら言う。
「そんなので飛び回って平気なの?」
「俺にはとても平気だとは思えないが、でも、アンタは実際にこれが平気で飛び回っていたのを見たんだろう?」
そりゃそうだ。実際にそれを見たのは僕なのだ。そこを疑問視しても仕方がない。
「どうするのこれ?」
「研究所に持っていって調べるとさ。なにか分かることがあるかもしれない」
「弱点とか?」
「さあ、どうかな。肝心のエンジンがないし、どこまでのことが分かるか知らないが、でも、この機首から胴体にかけてを見るだけでも、分かることはある」
「たとえば?」
「そうだな……。この細長い形状は高速域での機動性を追求した結果だろう。あらゆる面で完璧な飛行機なんて絶対に作れない。高速度域が得意なぶん、失速寸前の超低速域は苦手なはずだ。ブログラーは逆に超低速域でも必要な揚力が得られる形状になっているから、格闘戦では、なるべく低速域に持ち込んだほうが有利だろう」
そのあと、トレイラーは別のやつに引き渡されて基地を出ていった。研究所とやらに運ばれるのだろう。パイロットが機体を諦めて緊急脱出していれば、イカはもっと派手に壊れて回収不可能だったはずだ。片翼になっても最後まで制動していたパイロットの執念にはすさまじいものがあるけど、まだ謎が多い新機体が原型を留めた状態で敵の手に渡ってしまっているのだから、結果だけ見れば余計なことをしたことになる。
でも、そのパイロットの気持ちはすこし、分からなくもない。
海に墜落してバラバラになってしまうなんて、飛行機がかわいそうだ。
僕だって、できることなら、なるべくソフトに着水させてやりたいと思うだろう。
命と引き換えにしても、とまで思えるかどうかは、そのときになってみないと分からない。
セブはあと一日だけ滞在して、アルメアに帰還することになるらしい。戦闘機に乗れないんじゃ、わざわざ異国の地に留まっていても意味がない。
僕たちヴォルチャー隊の四人も、空にあがる用事がない以上はすることがないから、セブの生還祝いに、夕食を済ませてから街にすこし飲みに出ることになった。新旧ヴォルチャー隊が大集合ってわけだ。車はベーグルが出してくれた。
「自分は下戸ですから、帰りもちゃんと運転できますよ。ご心配なく」
ベーグルの車は金色のメタリック塗装の、アルメア製の平ぺったいコンパーチブルで、ひとむかし前のスパイ映画にでも出てきそうなかっこよさだった。キングサイズのベッドに車輪をつけて走っているみたいなもので、大の大人(比喩でなく本当に僕以外はみんな大サイズだ)が五人乗っても、まだあいだに女の子を挟めるくらいの余裕がある。
「翼がついてるね。空も飛べるの?」と僕が冗談を言うと「いえ、これはダウンフォースといって、飛行機の翼とは逆に、自動車を地面に押し付ける力を得るためのものです」と、真面目に返された。仕方がないので僕は「なるほど」と、頷く。
せっかくのコンパーチブルだから、幌をオープンにして街まで走った。「速いね。ブログラーよりもよっぽど空を飛んでいるみたいだ」と、僕は言う。風を切り裂きながら大空を音速で飛ぶブログラーは、密閉式の強化アクリルのキャノピーに完全に守られていて、操縦していても直接に風を感じることはできない。もっとも、厚さ三十ミリのキャノピーの向こうは秒速百メートルにも達するジェット気流だから、風を楽しむどころの騒ぎではないんだけど。
掌を飛行機にして風に当てると、手に加わる揚力を感じられる。僕がそうやって掌を風圧で上に持っていかれたり、下に押し付けたりして遊んでいたら「まるっきり子供みたいやな、僕ちゃん」と、イーサンが笑った。
海沿いの街まで出て、車を通りに横づけしてぞろぞろと隊員を引き連れて酒場に入ると、奥のほうで意地の悪そうな水兵たちが数人、しつこく酒場の娘をからかっていた。イーサンがうしろから肩を叩きながら「君ら、そのへんにしとくやな。娘さん、嫌がってはるやろ?」と、コッテコテの極東訛りで海兵たちに声を掛けたら「なんだぁ、テメェ?」と、威勢よく振り向いた海兵たちが次の瞬間、イーサンのジャケットにくっついた金のハゲワシのワッペンを見て、サッと立ち上がったのは傑作だった。
「あ、すいません。大変……失礼いたしました」
「いや、俺は別になんも失礼されてへんよ。謝る相手を間違えてるやな」
金のヴォルチャーのワッペンは、この国では今や英雄の証だ。バークワース軍全体の撃墜数の半数ちかくがヴォルチャー隊によるものなのだ。ヴォルチャー隊だけで戦争をやっているようなものだ。航空戦力のおかげで安全な海で遊んでいられる水兵たちは、パイロットに対しては頭が上がらない。
水兵たちが娘に詫びを入れているのを横に見ながら、店の奥に進んだ。酒場は賑わっていて、僕たち全員が座れる席はなさそうだったけど、奥のソファーに陣取っていた海軍兵たちが場所を譲ってくれた。さっきの水兵たちよりは階級が高そうだ。海軍の航空パイロットかもしれない。海軍にも航空戦力はある。
「自分たちはもう食事は済みましたので、酒は立ってでも飲めますから」
「なるほど。ありがとう」
席についたら、注文もしていないのにビールが運ばれてきた。店の娘が「さっきはありがとう。これはわたしの奢り」と言って、トレイを抱えてはにかんで笑う。
「握手してもらってもいいですか?」
「握手? 僕と?」
「はい」
「まあ、いいけど?」
僕が中腰ぐらいに立ち上がって右手を差し出すと、娘は指先だけをちょこんと握るようにして、小さく上下に動かした。
「わあ、うれしい。がんばってくださいね。応援しています」
「ああ、どうも。ありがとう」
なんだか腑に落ちなくて、首を傾げながらまたソファーに腰を下ろすと、横でイーサンがまた「人気者やな僕ちゃん」と笑っていた。
「それでは、我らの隊長の生還と、新隊長の更なる健闘を祈って」
そんなイーサンの雑な音頭で乾杯をする。こういう場合、エースパイロットはまず頭からビールをかけられるのが慣例なのだけど、残念ながらヴォルチャー隊は全員がエースの資格を満たしてしまっているので、いちいちそんなことをやっていたら収拾がつかなくなってしまう。大人しく杯を打ち合わせる。
酒がすすんでくると、空軍とか海軍とかバークワース軍だとかアルメア軍だとか、あと自分の席だとか、そういった概念が曖昧になってきて、各々がフラフラと歩き回りながらそのへんのやつを捕まえて適当に喋るようになってくる。
イーサンは特にこういうフィールドが得意らしく、あっちこっちに首を突っ込んではドッと笑い声を響かせている。戦場でも同じで、混戦になればなるほどイーサンの動きは冴える。何気ないように見える機動が、すべて一手先を読んでいるのだ。イーサンが読んでいるのと同じ一手先が見えていれば、僕もそこに合わせて動いていける。空のうえではそのコンビネーションは完璧なんだけど、地上ではあまりうまくはいかないらしい。ベーグルとセブは意外と気が合うのか、ソファー席の奥に陣取ったまま、海軍の階級の高そうなやつをひとり交えて、熱心になにかを語り合っている。結果として、僕はよくわからない空域に、僚機もいないままポーンと放り出されることになってしまう。
「自分になにかアドバイスを頂けないでしょうか、キムラ空尉」
ジョッキ片手に所在なくフラフラと彷徨っていたら、海軍の若い男に、そう話しかけられた。胸の徽章を見るに、どうやらパイロットらしい。
「アドバイス?」と、僕は問い返す。
「はい。どうやったら自分もキムラ空尉のように次々と敵を撃墜することができますか? なにか、コツとかそういったものは」
「あー」と、僕は言って、ビールを一口あおる。「教練で基本戦術の本は読んだよね?」
「はい」
「じゃあ、その通りに。なんでも、基本が一番大事だよ」
それでも男は納得がいかないようで、首をひねって「もっと、なにかキムラ空尉独自の、コツのようなものがあるのではないですか?」と食い下がってくる。
「まあ、あるにはあるけれど」
戦場を長く飛んでいるパイロットは、場数を踏むたびに経験を積み重ねて、その中で自分なりの戦術なり方針なり、もっと堅い言葉を使えば独自の哲学だったりを作り上げていくものだ。でも、それはそのパイロットのオリジナルでスペシャルなもので、他のパイロットにも適用できるかは分からない。
それぞれのパイロットは、自分の哲学こそが正しいと信じている。どんな哲学を持ったパイロットだって、これまでそれで勝ち残り続けてきたからだ。どんな哲学も、自分が墜ちないかぎりはその間違いを自覚することができないから、必然的にそうなる。墜ちたやつは、基本的には帰ってこない。
自分の哲学に殉じて死んでいくなら、まだ仕方のないことだけれど。
他人の言うことに従って、それのせいで死んでしまったら、きっと納得いかないだろう。
「それを教えていただきたいのです」と、男が熱っぽそうな顔で訊いてくる。ひょっとすると、かなり飲んでいるのかもしれない。だからまあ、多少はいい加減なことを言っても大丈夫だろう。「他人のアドバイスなんか信用しないことだ」と言ってやろうかと思ったけれど、あまり愉快な結果にはなりそうにないからやめておいた。
「敵のおしりを見ないことかな」と、僕は答える。
「敵のおしりを見ない? 見ずに撃つのですか?」と、男がまた首を傾げる。
「いや、もちろん見るには見るんだけれど、敵のおしりを見据えていると、挙動に対して常にワンテンポ遅れてしまう。だからおしりを真ん中に見据えるんじゃなくて、見るのは敵の機首の、そのまた少し先、ここよりも一瞬先の世界の、敵のゴーストを見るって感じ」
その後も何パターンか表現を工夫してみたけれど、結局、男には僕のイメージは正しく伝わらなかったようだ。僕のアドバイスが彼を余計に混乱させる結果にならなければいいなと思うけど、たぶん、寝て起きたら僕の言ったことなんかなにも覚えていないというのが、一番ありそうだ。
それ以降のことは、寝て起きてしまうと僕もほとんど忘れてしまっていた。
なんとなく、楽しかったような覚えがなくもない。
地上だって、それほど悪い場所というわけじゃない、みたいなことを思ったような気もする。
「おい僕ちゃん」と、またイーサンに毛布を引き抜かれて、グルグルと高速回転しながら、僕は目覚めた。
「緊急ブリーフィングだ。ヘリング隊が全滅。イカが出たやな」
イーサンにそう言われた一秒後には、僕はもう完全に覚醒していた。