7. Be Fired
-エルネスタ・コンツ-
家族のことはあまり覚えていない。
五歳のときにはわたしは既に軍の施設に入っていて、そのころのことは今でもよく覚えているけれど、それ以前のことを思い出そうとすると、急に霞がかかったように、白く淡く、記憶が朧げになってしまう。まだ小さかったから、というのもありそうだけど、それにしたって五歳といえばもうそれなりに物心だってついていそうなものだ。ここまでなにも覚えていないのは、自分でも不思議に思えてしまう。
両親はわたしを手放したけど、だからといって、わたしのことを愛していなかったというわけでもないだろう。そもそも軍から要請されたら、それを拒否するという選択肢は、イルヘルミナでは存在しない。どうしようもないのだ。
迎えにきた施設の職員にわたしを引き渡すとき、母がまだ小さなわたしの前に屈み込んで、わたしの頭を撫でながらなにかを言ったのを覚えている。
なにを言われたのかは、まったく覚えていない。
そのときの母の声も、母の顔も。
子供のころのことを思い出そうとすると、景色はすべて白く霞がかっていて彩度が低く、どこかモノクロな印象になる。これはたぶん、実際によく白い霞がかかっていたせいだろう。霧の多い地方だったはずだ。
わたしが生まれたイルヘルミナ北部の山間は、貧しい土地だ。
寒冷で雨が少なく乾燥していて、土地も痩せているから小麦の栽培には適さない。わたしが暮らしていた、小屋と呼んだほうがまだ近い貧相な木造の家屋の周囲は、一面のソバの畑が広がっていた。水はけをよくしないといけないから、畑は緩やかに均一な角度で傾斜していて、うえから見下ろすと、平らかな畑よりもずっと遠くまで見通すことができる。
ソバは白い花をたくさんつける。五枚の花びらの、小さく可憐な花だ。それが、視界が果てるところまでずっと続いている。ソバはガレットにして食べる。南部のような甘いデザートとしてのガレットではなく、しょっぱくて硬い。
曇りがちで灰色がかった空と、遠景の蒼く高い山脈。そして白い霧と、一面の白いソバの花。それがわたしが思い出せるわたしの生まれ故郷の光景だ。そして、その情景を思い浮かべようとするとき、なぜかわたしの記憶には一切の音がなく、モノクロで、大抵は人物が誰も登場しない。ちょうど、古い無声映画のように。
「えるねるね?」
「エルネスタ」
「えるねすね?」
「エ・ル・ネ・ス・タ。エルネスタ・コンツだよ」
「エルナ」
「まあ、それでもいいけど」
わたしの中で音声が登場する一番古い記憶は、このウィルマとの出会いの場面だ。ウィルマは今でも小さいけれど、子供のころは輪をかけてさらに小さくて、最初はわたしよりもずっと年下の女の子だと思っていた。キャスカルは病症の影響なのか、たんに遺伝的な傾向なのかは分からないけれど、性格的にはボーッとした子が多いから、そのせいもあって、実際の年齢よりも幼く見えたのだろう。そういうわたしだって、ウィルマに負けず劣らずのボーッとした子供だった。特定の似たような遺伝子グループから発現するものだから、性格的にも似てしまうのかもしれない。
「わたしはウィルマだよね」と、ウィルマは簡単に名乗ったけれど、ウィルマの本当の名前はもっと難しくて、正しくはウィルムフリーデ・ディーゲルマンという。このときは、ウィルマはまだ自分でも自分の名前をちゃんと言えていなかった。そもそも、自分の名前を名乗っているはずなのに、どこか付加疑問形だったし、そんなのわたしに訊かれても困る。
「こらこら、ウィルムフリーデ。エルネスタが困ってるじゃん」
そう言って「ほら、行こう」と、ウィルマとわたしの背中を押したイングリットは、この当時からもう手足がにょろりと長くて、わたしと三歳しか離れてないはずなのに、すそく大人びていた。これはたぶん、健康診断のための待ち時間の場面だ。
イングリットだけは、わたしのことを正しくエルネスタと呼んでいたし、ウィルマのこともウィルムフリーデと呼んでいた。あれはひょっとしたら、自分がわたしたちよりも少しお姉さんで、難しい名前でもちゃんと発音できると自慢したかったのだろうか。
イングリットにはそういう、自分が人よりも上手にできることを見せびらかしたがるところが昔からあった。ただ、性格的にカラッとしているのと、実際にイングリットが飛びぬけて優秀だったこともあって、それが鼻につくということはあまりなかった。あるいはそれは、いつも隣に付き添っていたエーコが、細やかにフォローを入れていたせいかもしれない。
イングリットとエーコはわたしたちよりも早くから施設に入っていて、よく勝手を知っていたから、自然とわたしやウィルマの世代の子たちの面倒を見る立場になっていた。イングリットの世代はイングリットとエーコのふたりだけだったけれど、わたしたちの世代には全員で十人ほどの少女がいたように思う。最初は、十人くらいはいたはずだ。
あの子たちは、いつの間に、どこにいってしまったのだろうか。
イングリットとエーコは、わたしたちが来るまではずっとふたりきりだったこともあってか、とても仲が良くて、ずっとお互いの手を握りあっていた。本当にずっと手を繋いでいるのだ。大きくなってからはさすがにそこまでべったりとくっついていることはなくなったけど、子供のころは食事のときまで、テーブルのしたで手を繋いだまま、イングリットは右手で、エーコは左手でフォークを使って食事をしていた。
それを見て「もとから左利きなのかな?」と、わたしは言った。
ふと口をついて出てしまった独り言のようなもので、別にウィルマに質問をしたわけではなかったのだけど、隣でウィルマが「もとからって?」と返事をしたので、わたしは食事を続けながら顎でエーコのほうを指し示した。すこし行儀の悪い仕草だったかもしれない。
「エーコの右手がふさがっているでしょう? もとから左利きなのか、それともイングリットと手を繋ぐために左手で食事をしているのか、どっちかなって思って」
わたしがそう説明をすると、ウィルマはなにかを探すみたいに虚空をジッと見つめてから「たぶん、もとから左利きだよね。鉛筆も左手で持っていたし」と答えた。ウィルマには、考え事をするときに、こうしてジッと虚空を見つめる癖があった。ひょっとしたら、虚空の自分だけが見れるスクリーンに必要な情報を投影するような、なにか秘密の機能がついているのかもしれない。
家族のことはあまり覚えていない。
わたしにとって、家族の想い出といえば、ウィルマとエーコと、そしてイングリットと過ごした施設での記憶だ。
わたしたちは家族だった。
「検査、どうだった?」
雨を見ていたら、ウィルマが部屋に入ってきて、わたしにそう訊いた。今日は定期健診だったからだ。ウィルマもいま検診を終えて戻ってきたところだろう。
「うん」
わたしは窓の脇にチェアを置いて、それに膝をついて両手を窓枠にかけて、庇の向こうを覗き込むように空を見上げていた。部屋の入口におしりを向ける体勢だったから、身体をねじくってウィルマのほうを振り返る。
「安定してるみたい。いつも通りのお薬を貰っただけ」
「そう、よかった。わたしもまだ、大丈夫みたい」
ウィルマはそう答えてから、倒れ込むようにしてベッドに腰掛ける。わたしはまた背中を向けて、じっと雨模様の空を見上げる。
「なにしてるの?」
「雨を、見ているの」
「バスの中の子供みたいだよね」
ここ二日ほど、外はずっとどんよりとした雨模様だ。冷たく細かい雨が、しとしとと降り続いている。地上がどんな天気でも空のうえにあがってしまえば関係ないのだけど、あいにくと《《あれ》》以来、出撃命令は出ていない。ハティ隊は隊長機を欠いているためだ。
雲が太陽の光を遮り、雨は降り続き、景色は彩度を失う。世界がモノクロになる。まるで、空から墜ちた戦士たちの死を悼むかのように。
「わたしのせいだな……」
またそんな言葉が、口からぽつりとこぼれた。うしろで、ウィルマが溜め息をついたのが気配で分かる。
「わたしが最初にあの緑しっぽをきっちりと墜としていれば、イングリットは墜ちずに済んだのに」
「言っても仕方のないことだよね。終わったことだもの」
もう何度目かのやりとりだから、言う前からウィルマがどう答えるかは、わたしにも分かっている。
「こっちが相手を墜としてやろうとしているのと同じように、むこうだって必死になってこっちを墜とそうとしているんだもの。そういうこともあるよね。違う?」
「うん、違わないよ」
わたしたちもスクワルトで敵のエビエーターを何人も殺してきたのだし、当然、ときにはわたしたちのほうが死ぬことだってある。戦争をやっているのだ。戦争をすれば、人が死ぬ。そんなことは、とっくの昔に了承した事だったはずだ。
だから、わたしだって分かってはいるのだ。
ただ、こうしてボーッと雨空を見上げていると、そんな言葉がつい口をついて出てしまう。
あの尾翼が下塗りのブログラーは、たしかに強かった。ブログラーは一世代前の旧型機だけれど、最新鋭のグレモリーに乗っていた他のエビエーターよりもずっと、鋭い機動をしていた。
動きがはやいのではなく、動き始めるのがはやい。
見て動いているのではなく、予測して動いている。
動きはじめが早ければ、絶対的な速度差さえもカバーすることができる。
でも、どれだけ強いと言ったって、所詮、相手はただの人間のエビエーターなのだ。キャスカルはイルヘルミナ北部がルーツの特定の遺伝子グループにだけ発現する風土病だから、バークワースにキャスカルはいない。キャスカルはエビエーターとして普通の人間より、根本的な限界点で上回っている。耐G能力でも、空間認識能力でも。まして、イングリットは最強のキャスカルだった。模擬戦では、誰一人としてイングリットに勝てたエビエーターはいない。まともにやっていれば、イングリットが負ける道理はないのだ。
「戦争なんだから、最初からまともじゃないよ。まともじゃないことをやっているの。命を賭けて殺し合いをやってるんだよね。道理にあわないことだって起こるよ。リボルバーに一発だけ弾を込めてルーレットをやっているのと同じ。個人の強い弱いなんて、そんなに関係ないよね」
それに、と言って、ウィルマはそこで少し言い淀んで、でもなにかを決意したみたいに頷いて、続けた。
「負けるわけがないというのが、既に慢心だよね。どれだけ強くても、強い機体でも、油断すれば墜ちることにもなるよ」
「ウィルムフリーデ」
わたしは少し強い口調で、ウィルマの名前を正しく呼ぶ。
「別に、イングリットを悪く言おうとしているわけじゃないよね。ただ、終わったことを引きずっていつまでもグネグネしてたんじゃ、次はわたしたちも落ちることになるよ。イングリットの敵をとりたいなら、ちゃんと気を引き締めて。あいつの最後の挙動は、ただのまぐれや偶然なんかじゃない。あの緑しっぽは、強いよ」
緑しっぽの最後の挙動。頭の中で何度も繰り返し再生したから、今だって脳裏に正確に思い描くことができる。直進したまま少し機首を上げて、そこからなにかに引っかかったみたいにまたすぐ機首を戻した。その動きで、機体に無理矢理、急制動をかけたのだ。それで、イングリットの機体が緑しっぽの速度を見誤って、追い抜いてしまった。見たこともない挙動だった。操縦桿からの指示をコンピューターで適切に解釈しなおして、各操舵系を動かすスクワルトでは不可能な芸当だ。一世代前の、パイロットの操作がそのままダイレクトに伝わる操舵系だからこそ、できた動きだろう。
あんなのは、戦闘機動とは呼べない。どちらかと言えば、曲芸に近い。一度見てしまえば、二度とは通じない。
でも、その一度の曲芸で、緑しっぽはイングリットを墜としてみせた。そして、一度墜としてしまえば充分なのだ。堕ちた人間は、もう戻ってこない。
空戦という極限状況であんなことを思いつける発想が、そもそも凄い。
認めよう。あの緑しっぽは、強い。
でもそんなことよりも、ウィルマの言ったイングリットの敵、というフレーズがわたしにはなんだか唐突に感じられて、すこしおかしくて、ちょっと笑いそうになってしまう。
わたしは、イングリットの敵をとりたいのだろうか。
顔を俯けて、わたしは自分の胸の奥のほうを探ってみる。でも、イングリットの敵をとるというフレーズは、いまいちしっくりと嵌るところがない。イングリットが墜ちてしまったことは悲しいけれど、たとえば、それであの緑しっぽを恨んだり憎んだりする気持ちがあるかというと、そんなことはない。
ただ、悲しいだけだ。
急に死が身近に感じられて、すこし驚いているというか、困惑しているのかもしれない。
キャスカルにとって、死はずっと傍らにあるものだ。もともと死に至る不治の病なのだ。なんの治療もしなければ、この歳まで生きていることすらできない。治療といっても、根本的な完治はできないから、うまく症状を落ち着かせてだましだまし延命していくしかない。それにだって、限界はある。どちらにせよ、二十歳を超えて長く生きる者はいない。だから、キャスカルはみんな、自分が死ぬということは受け入れている。受け入れざるを得ない。
でも、そんなことは普通の人間にしてみても同じことではないだろうか。
それが数年後であろうと数十年後であろうと、いずれにせよ、遠からず人間はみんな死ぬ。どれほど長生きしてみたところで、歴史の尺度と比べれば、人間の一生なんか誤差みたいなもの。ほとんど、ほんの一瞬の煌めきと変わらない。
誰しも、それを分かっていないわけではないはずだ。
自分がいつか死ぬということをちゃんと理解しながら、それでも、そのことを棚上げにして、すっかり忘れたみたいな顔をして、ちゃんと今日を生きることができる。そういう普通の人間に普通に備わっているなんらかのシステムが、わたしにはとても不思議で、不合理なもののようにも感じられる。
いったい、どういう仕組みなのだろうか。
わたしはすこし、困惑して、混乱している。
「どうして、あんたたちみたいな若い子から死んでいかなきゃならないのかねぇ」
部屋で雨を見上げてばかりいてもロクなことを考えないし、ウィルマに怒られてしまうので、コジマおばさんの無限芋剥きを手伝っていたら、コジマおばさんが横で無限に芋の皮を剥きながらポツリとそう呟いた。なにも考えたくないときは、単純な作業をするのが一番いい。作業に没頭している間は、余計なことを考えなくても済む。そう思って、無限に芋の皮を剥いていたのだけれど。
基地内のどこに行っても、イングリットの死から逃れることはできない。イングリットの死は大きすぎて、しとしとと降る雨と共にすっぽりと基地全体を覆ってしまっている。
「でも、他に生きる方法も知らないし」
コジマおばさんの言葉はわたしに話しかけているというよりも、どこか虚空に話しかけているみたいな感じだったから、わたしも芋の皮剥きに集中しながら、コジマおばさんにではなく、どこかの虚空に向けて語りかける。誰かが聞いてくれてたらいいな、くらいの淡い期待をしているのかもしれない。たとえば、神とかが。
「老いるというのも、きっとあんたたちが思っているほどには、悪いことではないよ」と、コジマおばさんが言った。わたしの台詞とは意味がまったく繋がっていないから、やっぱり、わたしとは別の虚空の誰かと話しているのだろう。神がそこまで来ているのだろうか。
キャスカルの生き方が刹那的に見えるということなのかもしれないけど、でも別に、わたしたちだって老いるのを嫌がっているわけじゃない。キャスカルとして生まれてしまった以上は、エビエーターになる他に選べる道なんてなかっただけだ。
でも、じゃあ運命に抗えず、仕方なくエビエーターをやっているのかというと、そんなこともない。たとえばの話、わたしがキャスカルでなく、もっと別の人生があり得たとして、それを望んだかというと、そうでもないように思う。
なぜ今日を生きているのかと問われれば、明日飛べるかもしれないからだ、と答える。
わたしたちは戦闘機のエビエーターで、空にあがれば敵を撃ち墜とすし、いつかは敵に撃墜されて死ぬ。だけど、そのことを恐れる気持ちというのはあまりない。ううん、怖いのは怖いけれど、でも、空を飛ぶことには、命を賭けるだけの価値がある。そう思う。
世界にこれだけたくさんの人間が生きていて、そのうちのいったいどれだけが生きているうちに本当の自由を知ることができるだろう。
わたしたちはそれを知っている。
本当の自由は、空にある。
この世界には本当の無限なんてどこにも存在してなくて、無限のような芋の皮剥きだって、ふたりで黙々とひたすらやっていれば有限の時間内に終わってしまう。コジマおばさんは久しぶりに一息ついて、椅子に座ってお茶を飲んでいる。そういえば、この人がなにも仕事をせずに座っているのをものすごく久しぶりに見たなと思う。
手持ち無沙汰になってしまったので談話室を覗いてみたら、明かりも点けずにエーコがぼんやりとテレビの画面を見ていた。靴を脱いで、靴下もその中に突っ込んで、素足をソファーの上にあげて膝を抱えるように丸くなっている。ブラウン管のチカチカとした青白い光だけが、しなやかなエーコの輪郭を淡く照らし出していた。
エーコはわたしたちの中では一番きっちりとしていて、いつも制服には皺ひとつないし、食事の最中でも背中が真っ直ぐに伸びていて、こんな風に丸くなっているのを見るのは初めてのことだ。やっぱり、イングリットのことで一番ショックを受けているのは、エーコなのだろう。エーコはずっと、イングリットの相棒だったのだ。
イングリットが堕ちた直後、浮足立つわたしとウィルマに、エーコは即座に撤退の指示を出した。もののついでのように、敵機を一機撃墜までして。あれより的確な行動なんて、想定できない。たぶん、エーコだって混乱していただろうに。
エーコはとても強い人だ。戦闘機を操る技量でも、人間的な意味でも。
わたしはなんとなく、足音を忍ばせるように談話室に入って、回り込むような軌道でそっとエーコに近付いた。なんだか気安く声をかけられるような雰囲気ではなくて、つい虚空を見回してしまう。わたしにもウィルマのように、虚空の秘密のスクリーンが見えればいいのに。
「検査どうだった?」
わたしはなるべくなんでもない風を装って、ソファーの背から覗くエーコの後頭部に声を掛けた。エーコの頭がすこしピクッと揺れて、ゆっくりとこちらを振り返る。
エーコの髪はまっすぐで黒くて、それが幾筋か、頬に貼りついていた。泣いていたのかもしれない。頬には血の気が薄く、透き通るように青白い。
エーコがゆったりと微笑みを浮かべて。
なにかを言った。
「え? ごめん。聞こえなかった」
だめだった。
そう言ったように聞こえた。だめって、いったいなにがだめなんだろう。
「だから、だめだったのよ。エビエータはクビね。前から数値は怪しかったんだけど、もうだましだましやっていくのも限界ってことみたい。もう、スクワルトには乗れないって。君のために高価な棺桶を用意するつもりはないって」
エーコの言っていることが、わたしには分からない。いや、分かっている。分かっているけれど。
キャスカルを根本的に治す方法というのはない。うまく症状を落ち着かせてだましだまし延命していくしかない。なにごとにも、限界はある。
世界には本当の無限なんて存在していない。
「それって……どういうこと?」
分かってて、わたしはそうエーコに訊いてしまう。それがどれだけ残酷なことかも自覚せずに、エーコに言わせてしまう。
「病気なの。ステージ3に進行してキャスカルが発症した。わたし、もうすぐ死ぬのよ。もう、空を飛べない」
最後のほうは声が掠れていて、ほとんど音になっていなかった。わたしはなにも言えなくて、ただ歩み寄って、エーコの頭を自分の胸に抱きよせた。わたしの掌に触れるエーコの黒い髪は艶やかで柔らかくて、まるっきりただの女の子みたいだった。
キャスカルもいつかは限界を迎える。ずっと空を飛び続けることはできない。でも、それがよりにもよってエーコで、よりにもよって、今だなんて。
キャスカルはその要素が強いほど、色素が薄くなる傾向がある。黒い髪のエーコは、単純なキャスカルの病症だけで言えば、わたしたち四人の中ではもっとも症状が穏やかだった。アッシュブロンドのウィルマや、ほとんどシルバーに近いわたしなんかよりも長生きしておかしくなかったはずだ。でも、病気なのだ。理屈の通りに進行してはくれないし、こっちの事情なんか慮ってはくれない。
その日は、ゴードンの機体が基地に戻ってこなかった。
代わりに、別の機体とエビエーターが数機、基地に着陸してきた。後方から新しく補充されてきたのではなく、ここよりもさらに南西の基地が一か所、滑走路を爆撃されて使い物にならなくなって、飛び立ったはいいものの着陸できなくなってしまったから、こちらに逃げてきたのだ。
エーコも戦線を離脱することになり、ハティ隊はわたしとウィルマの二機だけになってしまった。わたしたちに出撃命令はまだ来ない。ハティ隊は人員を再編する必要があるけれど、誰をどうするのかがまだ決まらないのだろう。
制服を返却して私服に着替えたエーコは、とても普通に、普通の女の子に見えた。ノースリーブのワンピースと鍔の広い大きな帽子が、久しぶりの快晴になった空の深く青いグラデーションによく映えて、綺麗だ。
わたしはまたピグミーを借りて、退役するエーコを駅まで送っていく。ピグミーには座席がふたつしかないから、ウィルマのお見送りは寮の玄関までだ。
「ちょっと療養すれば、きっとまたスクワルトに乗れるようになるよね」と、ウィルマは言った。それがあまりにも楽観的な予測で、ただ気休めに過ぎないことは、きっと言っているウィルマも、言われているエーコも分かっていただろうけれど。
エーコは「ありがとう。ここ数年、ゆっくりできることなんてなかったから、本でも読みながらのんびりすることにするわ」と答えて、ウィルマと握手を交わした。
「ウィルマも、これから大変になるだろうけど、がんばって」
「うん、ありがとう。がんばるよね」
今日に限って、ピグミーはぐずることもなく一発でエンジンが掛かった。わたしはおそるおそるクラッチを踏んで、ギアを一速に入れる。バコンッ! と車体が大きく揺れて、さっそくエンストする。
「ちょっと、本当に大丈夫? やっぱりわたしが運転していこうか?」
「大丈夫だいじょーぶ。こんなの、スクワルトに比べれば全然簡単なはずなんだから」
ウィルマは眉をハの字に下げて、不安そうにこちらを見ている。それを見て、エーコもクスクスと笑っている。ちょっと恥ずかしかったけれど、まあ笑ってもらえたのなら、こういうのも悪くはないかなと思う。
トロトロと、ドライブウェイからピグミーを道路に出す。慎重に二速に繋いで加速する。思い切って三速に入れて、アクセルを踏み込む。バックミラーには、こちらに手を振り続けているウィルマの姿が、見えなくなるまでずっと映っていた。
見通しのいい道に出るころには、自動車の運転もいくらか思い出して、景色を見る余裕がでてきた。すこし前にハンザの街まで出掛けたときよりも、ずっと緑が色濃くなっている。遠くまでずっと続く彩度の高い空の青と、牧草地の緑のコントラストがとても綺麗だ。コブ羊たちはのきなみ毛を刈られて、ずいぶんとスリムになっていた。モコモコの毛をすっかり刈り取られてしまったコブ羊たちは、どこか腑に落ちない表情のようにも見える。ひょっとしたら自分の生物としてのアイデンティティに危機感を抱いていたりするのかもしれない。
石造りの橋をバンバンと軽快に揺れながら通過して、しばらく行ったところで、基地を出てからずっと黙っていたエーコが「すこし、停めてもらってもいいかな」と言った。「もちろん」と返事をして、わたしはピグミーを半分くらい草地に突っ込んで停めた。
エーコがゆっくりとピグミーを降りる。
ここで車を停めた理由は明白だ。ちょっと小高いここからだと、基地を離陸する航空機を見ることができる。午後のミッションに備えて、数機が格納庫の前でスタンバイしていた。バークワースの爆撃機に基地をひとつ潰されたから、こちらからも爆撃機を飛ばして仕返ししてやるつもりなのだ。重爆撃機のような大きな機体はこの基地からは飛ばせないから、もっと後方の大きな基地から飛んでくる。護衛として一緒に飛んできた戦闘機は、航続距離の都合で最後まで一緒にいくことはできないから、ここから飛び立った戦闘機も途中から護衛に加わる。
風が少し強く吹いて、エーコの帽子が煽られる。帽子を手で押さえて俯きながら「爆撃機って、野蛮だと思わない?」と、エーコが呟いた。帽子の大きな鍔に隠れて、エーコの表情は見えない。
「戦闘機が離着陸する基地じたいを爆撃してやろうなんて、どうしてそんな野蛮なことを思いつくのかしら」
まあ、そんなこと言い出したら、戦争じたいがとても野蛮なことなのだけど。
でも、エーコの言うことはよく分かる。戦闘機同士の格闘戦で負けて墜ちるのは仕方がないと諦められても、寝ているところに上から爆弾を落とされて死ぬなんて、どう考えても納得できない。
「前はイングリットがいたせいで、とてもじゃないけれど大きな爆撃機をトロトロとイルヘルミナ本土まで運んでくることなんて、バークワースにはできなかったのよね。それが、イングリットがいなくなってしまった途端にこれだもの。イングリットは、本当にたったひとりで戦争をやっていたようなものだったんだわ。呆れちゃう」
相棒の苦労なんて知りもしないでさ、と、エーコは仕方なさそうに笑う。
「イングリットは……最後まで勇敢だった。立派だった」
そう言ったエーコの頬にまた一筋、涙が光って。
エーコはしゃがみ込んで、顔を伏せてしまう。
「わたしもせめて、空で死にたかった」
掠れた声は後半、基地を飛び立っていく戦闘機たちのエンジン音でかき消された。
わたしは頭上を通過していく編隊を見送る。
スクワルトのコックピットに乗った自分が、海に墜ちていくところを想像してみる。キャノピーを閉じたまま、冷たく暗い深い海の底に沈んでいくところをイメージしてみる。そのまま誰にも見つからず、何万年もそこで眠り続けることができたら、それはどんなに素敵なことだろうか。
そうなったら、きっと海の底で、わたしは微笑みながら眠りにつくのだろう。