6. 1st Tactical Fighter Squadron
-デレク・キムラ-
パイロットを目指す候補生にとってひとつの節目となるものに、初単独飛行がある。
パイロットなら誰にでも、初単独飛行の想い出があるものだ。どんな老年のパイロットだろうと、初単独飛行のことを訪ねれば、まるで昨日の出来事のように仔細にその様子を教えてくれることだろう。生まれて初めての単独飛行というのは、それぐらい強烈な体験で、忘れがたいものだ。
もちろん、単独飛行に至るまでにはいくつもの選考があって、いろんなところからいろんな事情で集められた子供たちが、たとえば、なにもない真っ白な部屋に閉じ込められて真っ白なジグソーパズルをひたすら完成させたりとか(これでなにが判定できるのかは分からないが、僕はこれは単純に楽しかった)、遊園地のバイキングマシーンを十倍くらい過激にしたようなグルグル回る機械に乗せられてグルグルされたりとかする。
丁重に育成してもらえるアルメア人の候補生たちと違って、前線に送り込むためのパイロットを探し出すための選考はシビアだ。バリバリ篩にかけられ、バシバシ落とされる。朝は何十人もいた候補生たちが、夕方にはほんの数人にまで減っている。誰も残らない組もたくさんあったそうだ。たぶん、最終的な倍率は数百倍を超える。
でも、一度そういった馬鹿馬鹿しい選考をすり抜けてしまうと、二週間くらいのシミュレーター訓練を経て、拍子抜けするほどあっさりと実機に乗せられる。とにかく飛べるようにして、さっさと前線に送り込んでしまえというわけだ。
アルメアでは通常、訓練にはタロンという複座の双発ジェット機を使う。見るからに古い機体だけれど、アフターバーナーを使えば音速を超えて、すべてのルールが切り替わるマッハの世界を垣間見ることもできる。これに、教官と一緒に乗りこんで空を飛ぶ。
離着陸を除けば、航空機の操作なんてとても簡単なものだ。上空にあがってからなら、教官に突然ポンと操縦桿を譲られたとしても、勘のいいやつならある程度はすぐに操縦できるようになる。ある程度は、だ。その先には果てしない無限の研鑽の道が待っている。突き詰めていけばきりがない。
教官を乗せて何度も離着陸をこなした頃、地上に戻ってタロンをタキシングし、機体を滑走路から格納庫の前につけたところで、ヘルメットを外した教官が不意に僕に「もうちょっと飛んでてもいいぞ」と気安く言って、先にひとりでコックピットを出ていってしまった。単独飛行の許可が出たのだ。
あのときの担当教官の名前はもう忘れてしまったけど、顔は今でもよく覚えている。そのときの光景が丸ごと、胸の奥から湧き上がる表現しがたい感情と共に、鮮明に記憶に焼き付いてしまっているからだ。
期待とか不安とか、あと自信とか誇りとか、そういったものが混然一体となった、とても高揚感のある感情だ。あれを一言で的確に表現できる語彙を僕は知らない。
一度は外しかけたシートベルトを再び締め直して、フライト前点検をする。計器類をチェックして、自分で管制に無線で離陸許可を申請する。離陸の許可が下りる。
よく晴れた、本格的な冬が到来する前のポカポカとした小春日和だった。
なんの目的もなく、ただ飛ぶためだけに空を飛んだ経験は、後にも先にもあの一度しかない。小型ジェット機のタロンはすさまじく排気音がうるさいはずなのに、それはとても静かで穏やかな時間だった。とんでもなく楽しかった。そして普通、訓練での単独飛行が終われば、以降はパイロットがひとりきりで空を飛ぶことは二度とない。
任務につく戦闘機は、必ず僚機を伴う。
二機が最小単位で、四機で小隊を構成する。小隊がいくつか集まって、飛行隊を編成する。単機で任務につくことはまずあり得ない。だから基本的に空では、常に誰か仲間と一緒に飛んでいることになる。
例外的に単機で飛ぶことになってしまうのは、任務中に僚機が墜とされたときの帰路だけだ。
今までに一度だけ、単機で飛ぶ羽目になったことがある。
戦闘空域を抜けてなんとか落ち着いたころには、空はすっかり夜に包まれていて、眼下は一面の雲海だった。雲の上では、月が驚くほど明るい。雲海が月の光を反射して、下からの照明で照らされているみたいだ。
夜の空では流れ星もよく見える。このときは、基地に着陸するまでに六つもの流れ星を見た。ちゃんと数えていたから、間違いない。
戦闘があったのは激戦のハッカリ上空で、出掛けるときは四機で離陸した。みんな、とくに気負うでもなく、鼻唄でも歌い出しそうな軽いノリで空にあがった。行きがけには、無線で冗談も飛ばしあった。その日の夜まで生き残っていたのは僕だけだ。
僕の僚機に向かって敵のミサイルが発射されたそのときには、僕もそいつに向かってミサイルを撃っていた。最後の敵機と僚機が同時に墜ちて、空には僕の機体だけが残された。
あと一秒はやく、僕が敵機を撃墜していれば、僚機は墜ちずに済んだだろう。
どこでどうしていれば、あと一秒を稼ぐことができたのか。月明かりに淡く照らされたコックピットの中でひとり、流れ星の数を数えながら、ずっとそのことを考えていた。
想定できる機動はいくつかある。答えはまだ出ない。
ああ、そうか。最初に会ったときからセブになんだか親近感を覚えたのは、あのときの僕の担当教官に雰囲気が似ていたんだなと、いまさらになってフッと思い出す。もうちょっと飛んでてもいいぞ、と言ってくれた教官だ。
セブとは、それほど深く関わったわけじゃない。結局、一緒に飛んだのだって数えるほどだ。
でも、いい人だったなと、なんとなく思う。
空で墜ちると、記憶の中ではみんないいやつになってしまう。
今回は、イーサンだけはなんとか生き残ってくれたから、あのときよりはまだマシだ。イーサンが生き残ったのはべつに僕の力ではなく、単にイーサンの腕が良いからだけど。
僕とイーサンが基地に帰投して空飛ぶイカ撃墜の報告をすると、どこから話がまわるのか知らないけど、あっという間にその情報はすべてのパイロットのあいだで共有されていて、基地はお祭り騒ぎになった。
いままで散々煮え湯を飲まされてきた、誰も墜とせなかった空飛ぶイカを、一機とはいえ、ついに撃墜したからだ。一機が墜ちたことで、絶対に墜とせない存在というわけではないことが分かったのだ。相手は悪魔でも心霊でもなく、揚力と推力と空気抵抗と重力加速度で動くだけの、ただの戦闘機だ。後ろからミサイルをブチ込んでやれば、もちろん墜ちる。
でもやっぱり、たったの一機落としただけなのに、ずいぶんと気が早いのではないかと思う。
南部戦線の基地の連中は、北部のおぼっちゃまたちに比べれば屈託がない。外国人部隊の僕やイーサンにも、撃墜時の様子を詳しく聞きたがる。あるいは単に、ちょっとやそっとの軋轢ぐらいは吹き飛ばしてしまうくらいに、空飛ぶイカ撃墜のニュースが大きかったということなのかもしれない。僕はいろんな場所で、いろんなやつに、何度も繰り返し、どうやってイカを撃墜したのかを話す羽目になった。おかげで、自分でも自分の機動を何度も精確に思い返すことになったから、そこから得るものも多少はあった。だからまあ、質問責めにされてみるのも、悪いことばかりではない。コストパフォーマンスという概念を導入しなければの話だ。
「最初に僕がケツについたやつは、ガクンってものすごい角度で曲がって、気が付いたらポジションを入れ替えられていた。回転ドアみたいな感じだ。前にあったはずの扉が、気が付いたら後ろから追ってくる。なにかがおかしいと思って、敵の動きを確認する前に直感でとにかく降下に入れた。バレルロール中にたまたま相手の位置を確認できたから、そのままループしてまたケツを取りなおした。そこで、別のヤツが援護に入ってきて、諦めてまた降下。二番目に後ろにくっついてきたヤツは反応が異常に良かった。僕の機体の機首が実際に動き始めるよりも一瞬早く、フラッペロンが動き出す予兆を見て、それでもう動き出しているんだと思った。敵のことがよく見えているやつだ。だから逆に、フェイントが効くかもしれないと考えた。相手に機体の上側を見せるようピッチを少し上げて、一瞬だけアフターバーナーを点火した。同時に、主脚のカバーを開いた。ブログラーの主脚カバーはサブのエアブレーキも兼ねている。腹側だから、向こうからは見えない位置だ。それで、相手が僕の速度をわずかに見誤ってくれるのを期待した。エアブレーキに引っ張られて上げたピッチが戻った。それも一瞬のことで、次の瞬間には上側のエアブレーキも全開にした。究極の効率を追求して、ギリギリのラインでダイブしてくるような飛びかたをするヤツだったから、そのわずかな減速でも僕を追い越して、前に出てしまった。ほとんど機体同士がぶつかるぐらいの距離で、一瞬だけヤツの腹が見えたから、そのままロックオンもせずにミサイルを発射した」
もう何度目かになる説明を、僕は淀みなく一気に喋りきる。
「誘導を使わずに直射したのか?」と、何本目かのビールで幾分、目元がおぼつかなくなっているように見える男が、二度目の同じ質問をしてきた。
「目を瞑って撃っても当たるぐらいの近距離だったんだ。ロックオンを待っていたら、チャンスを逃していた」
「つまり……その機動はコブラか?」と、また別の男が、今日で三度目の同じ質問をしてきた。話を聞いて、なんとか機動を頭の中で再現しようとしているのだろう。両方の掌を飛行機の形にして、スイスイと空中を動かしている。オールドスクールなダンスの一種に見えなくもない。あまりおしゃれとは言えない。
「結果として、挙動としてはコブラに似た動きになったかもしれないけど、コブラと言えるほど極端な動きじゃない。フェイントのためにちょっとピッチを上げただけだ。どっちにせよ、たまたまの一発ネタだから二度とは通じない」
僕がそう説明すると、それがいつの間にかコブラだったことになり、僕ちゃんがコブラでイカに直射だと、噂話が完全に僕の手を離れて空へと軽やかにテイクオフしていく。こうして、噂話というのは往々にして盛られる結果になるわけだな、と納得する。
隙を見て、ビール瓶を片手に、まだ話が盛り上がっている談話室を出た。ポーチの石段に座って夜風に当たっていると、イーサンも後からやってきて、横に座った。
「一躍人気者やな」と言って、イーサンがビール瓶をこちらに向けてくる。
「呑気なもんだね。別に戦争に勝ったってわけでもないのに」
僕はそう答えて、イーサンのビール瓶に自分の瓶を合わせた。ゴツンと、鈍い音がする。ビール瓶のガラスが意外と分厚いのだ。あまり綺麗な音は鳴らない。
「スコアとしては2-1だ。数字的には負け戦だよ」
「まあでも、イカの機動は実際すごかったやな。なにをどうやってるのか知らんけど、あの旋回、10Gぐらい掛かってるんとちがうかな」
そうだ。いくらなんでも10Gってことはないだろうけど、でもあんな旋回、普通は機体もパイロットもその荷重に耐えられない。
急激な旋回に耐えられるよう強度を上げれば、必然的に機体の重量は重くなる。機体の重量が重くなれば、主翼の面積を増やさなければならない。そうなると当然、尾翼や垂直尾翼も大きくしないとバランスが取れない。翼面積が広くなれば広くなっただけ、翼の付け根に掛かる荷重はさらに増えるから、もっと強くしないといけなくなる。つまり、重くなる。そうなると、エンジンもより強力にしなければならなくなって、その重量が着陸の衝撃に耐えられるように脚も丈夫にすることになる。また重くなる。もっと主翼の面積を増やさないといけなくなって、最初に戻る。
この問題の一番簡単な解決策は、そもそもそんな急激な旋回をしないことだ。
だいたい、操縦しているパイロットがそんな急激なGに耐えられない。10Gってことは六十キロの人間が六百キロで押し付けられている状態で、普通は自分の体重でへしゃげてしまう。
そうでなくても、人間は血流で酸素を脳に供給しているから、血流が偏って脳が酸欠になれば意識を失う。ブラックアウトだ。これは、身体がペチャンコになるよりもずっと早くて、常人ならだいたい4G~5Gで失神する。訓練を受けたパイロットが耐Gスーツを着てなんとか耐えられるという領域がそのあたり。
10Gの旋回に耐えられる機体を作ったって、それを操縦できる人間がいないんじゃ意味がない。
まあでも実際にそれをやっているのだ。理屈は知らないけど、なんとかしたのだろう。
「あれは一機落としただけでも、上出来なんかもしらんやで。よくやったやな、僕ちゃん」
ヴォルチャー隊は一番機と二番機が墜とされた。こっちも、たぶん相手の一番機を落としてやったけど、他のには逃げられた。絶対的な巡行速度はイカのほうが速い。向かいあってしまえばお互いの速度が足し算されるから、最高速はそれほど重要なスペックではないけど、反転して逃走に徹されるとブログラーでは追いつけない。
撤退の判断は素早かった。あのはやさはなかなかない。一番機を墜とされたら、普通は多少なりとも動揺するし、迷う。迷ってくれれば、そのあいだにさらに一機ぐらいは追加で墜とせる。
でも逆に、あの二番機には駄賃みたいに最後にもう一機墜とされた。こちらの二番機を墜とすなり、反転して迷いなく一目散に撤退していった。たぶん、あの二番機も一番機のやつと同じくらい、頭がキレる。
「最初、僕のほうに来たやつはヘタクソだった。アイツのおかげで、あのガクンと曲がる機動を見ることができた。初見であの一番機が来ていたら、たぶん驚いている隙にやられただろうね。一度、ヘタクソなやつでアレを見ていたから、なんとか生き残って対応できた。たしかに、ものすごい機動だけど、でも、すごい機動で曲がるってことを分かっていれば、やりようはいくらか思いつける」
所詮は猫だましみたいなものだ。最初に見たときは驚いてしまったけど、来ると分かっていれば大したことはない。世界の空にはいろんなコンセプトのいろんな戦闘機があって、それぞれに独特な挙動をする。そういう意味では、他の戦闘機と変わりはない。
「まあ、せやな。よく曲がるって言っても、結局操縦してるんは人間やからな。根本的な発想にそこまで幅があるわけとちがうやな」と、イーサンも同意する。
「一番強いやつは今日で墜とした。アイツだけが飛び抜けてすごかった。他のやつらは変わったオモチャを乗り回しているだけのガキだ。僕たちの敵じゃない。三機まとめてきたとしても、次は負けない」
「せや。いっぺん見直して回収すべきもんを全部回収し終わったら、あとは次のことを考えてたらええやな。墜ちたやつはもう帰ってこないやから、後悔してもしゃーない」
翌日は午前中から呼び出されて、イーサンとふたりで中央棟の司令官室に出向いた。飛行服以外の制服を着るのなんて久しぶりのことだ。この基地に移動してきて以来、トランクの奥に詰め込まれたままだったのをひっぱり出してみたら、ジャケットもスラックスも見事にしわくちゃになっていた。
「なんやそれ、ダンボールを着てるみたいやな」と、イーサンに笑われる。
イーサンのはいつの間にそんなことをしていたのか、ちゃんとアイロンをあててロッカーに吊るしていたみたいで、新品みたいにパリッとしていた。こう見えて、意外とマメなやつなのだ。髪まで油で撫でつけていると、銀行員か市役所の職員のようだ。戦闘機のパイロットには見えない。
ノックをしてドアを開け、素早く中に入り敬礼をする。司令官はデスクに座り、メガネをかけてパソコンを触っているところだった。
「どうぞ、座ってくれ」と、画面から目を離さないまま身振りで勧められ、僕とイーサンは応接用のソファーではなく、デスクの対面のチェアに座る。
一分ほどキーボードをタイプした後で、司令官が眼鏡を外し、目元を揉んでからパチンと手を叩いた。どういう意味のジェスチャーなのかは分からない。
「わざわざ済まないな。まずは、よくやってくれた。ご苦労だった」
指令官がそう言って、チェアから軽く腰を浮かせ、こちらに右手を差し出してくる。最初は一瞬、なんのことだか分からなかった。イーサンが立ちあがってその右手を取ったので、握手を求めていたのだと僕もようやく理解する。司令官がパイロットに握手を求めるなんて、そんなの見たこともない。
イーサンに続いて僕も握手を済ませると、司令官は再びチェアに深く座りなおし「あの空飛ぶイカを落としたのは、この南部戦線においては実に重要な勝利だった」と言って、顎を撫でた。
「あの」と、僕はつい、反射的に声をあげる。
「なんだね?」と、司令官が片方の眉だけを大きく上にやって言う。表情筋が器用だ。
「ヴォルチャー隊は僚機を二機落とされました。それも一番機と二番機です。こちらが落としたのは一機だけなので、勝利してはいません」
「ああ、そう。そうだな。その通りだ」と、司令官は答える。
「しかし、あの空飛ぶイカにはこちらのグレモリーがこれまでで合計十七機も落とされていた。おそらく、そのうちの十機以上が君のやってくれた機体の仕業だ。つまり、一機の撃墜で敵の戦力の六割以上は削ったと考えることもできる。なにをもって勝利と捉えるか敗北とするかは、ときに流動的だ」
それはまあ、そういう捉え方もあるのだろう。少なくとも、司令官に肯定的に評価をされるのは、逆の場合よりも安全側だ。良い評価をされるほうが、行動の自由度を上げられる可能性が高い。
「そう、それでヴォルチャー隊だが……各飛行小隊には多くの欠員が出ている。当第十航空師団の飛行隊を大きく編成し直すことになる。君たちヴォルチャー隊の二名は、第一戦闘飛行隊に編入される」
「第一戦闘飛行隊ですか?」
例外も大いにあるけれど、飛行隊は基本的には数字が若いほうが、より重要度が高いと思っていい。第一飛行隊はたしか、ワーウルフ隊だったか。
「そして、君がヴォルチャー1だ。デレク・キムラ空尉」
司令官が言っていることの意味がよく分からなくて、僕はイーサンのほうを見る。イーサンからは、なんらかのアイコンタクトが送り返されてきたけれど、残念ながら僕のほうにはその暗号を読み解くためのコーデックがない。
仕方がないので、また司令官のほうに顔を向けて「えっと、自分は元はヴォルチャー4で、末席でした。ヴォルチャー1への繰り上げなら、リー空尉のほうが順当かと思います」と、提案してみる。
「いえ、自分は異存ありません。キムラ空尉が一番機を務めるのが妥当と思います」
間髪を入れないイーサンの言葉に、僕は思わず顔面の下げられるところを全部したに下げる。その表情のまま、イーサンの顔をジッと見る。たぶん、いま僕はラブラドールレトリバーみたいな顔になっているだろう。
「それより、我々を第一戦闘飛行隊に編入するなら、我々のコールサインもワーウルフになるのでは?」と、イーサンが僕の視線を完全に無視して話を進める。
「いや。今後は第一飛行隊のコールサインをヴォルチャーとする」
「どうしてですか?」
「そのほうが都合がいいからだ」
イーサンの問いに、司令官は短く返答する。
「基本的には、バークワースの航空戦力はイルヘルミナを完全に上回っている。普通にやっていれば劣勢になることなどそもそもあり得なかったのだ。ただ、立ち上がりで鼻先に変則的なパンチを食らって、そのまま持ち直すのに随分と時間が掛かってしまった。体勢を立て直すために、いま我々には英雄が必要だ」
「幻想です」
「その幻想が必要だという話だよ。問題は士気の低下だ。我々の分析では、航空戦力じたいは今なおバークワースが圧倒的な優勢を維持している。ただ、あの忌々しいイカのせいで、こちらが劣勢だという雰囲気が漂っていただけのこと。雰囲気を払拭するには、幻想が一番効くだろう」
司令官とイーサンの間だけでどんどん話が進んでしまうので、僕はテニスの試合を観戦しているみたいに首を左右に振るしかない。
「あの……」と、タイミングを見て、おずおずと声をあげてみる。「英雄っていうのは、一体誰のことですか?」
「もちろん、君のことだよ。デレク・キムラ空尉」それは驚きだ。
「えっと、それで自分はいったいなにをすれば良いのです?」
司令官はこちらに顔を向けて一度頷くと「なにもする必要はない」と鷹揚そうに答えた。「演出はすべて、中央の情報部が受け持つ」
「でも、自分はその……この国では外国人です。あまり出しゃばると、色々と軋轢があるのでは」
「それも、君が考える必要はない。君はただ、ヴォルチャー1としてこれまで通り、指令に従ってくれればそれでいい。書類上の所属と、コールサインが少し変わるだけのことだ」
なんだろう。なんだかすこし、嫌な感じはするけど。
でも、どっちみち兵士である僕に拒否権はないのだ。こうして司令官が自ら話をしてくれていることに、それなりの敬意と誠意を感じとるべきなのだろう。
「わかりました」
どう思ったところで、なにを考えたところで、最終的にはそう答えるしかない。
僕は兵士で、パイロットだ。飛べと言われれば飛んで、目の前の敵を墜とす。ただそれだけだ。
「あと、正式に告示されるまでは、この件は誰にも話さないように」
「わかりました」
こちらが急に従順になると、それはそれでまた不安になるのか、司令官はデスクに身を乗り出して「不満があるかね?」と訊いてきた。
「いいえ」と、僕は答える。そう、不満は特にない。
隊長というポジションに、すこし居心地が悪そうな予感がしているだけだ。
でも、どんなバッヂを胸につけていたところで、それもこれも地上だけでのこと。
空にあがってしまえば、そんなものはすべて関係なくなる。
地上のことなんか、ぜんぶどうでもいい。
「おそらく、これは君にとっても良いことになるだろう」
「それは、どのように?」
「まだ具体的にどうとは言えない。だが、悪いことにはならない。私を信頼してくれ」
「ええ、そうします」
話はそれで終わったようだったので、僕とイーサンは立ち上がり、踵を揃えて素早く敬礼をして部屋を辞した。廊下に出るなり、ピンと真っ直ぐだったイーサンがまたヘニャッと曲がる。わりと権威主義てきなところがあるのだ。
「まさか、僕ちゃんが一番隊の隊長とは、出世したやな。もう僕ちゃんとか言うてられへんやな」
「やめてくれよイーサン」
「サー・イエス・サー」
「やめろ」
その次の全体ブリーフィングで、飛行隊の再編成が正式に告示された。事前に聞いていた通り、第一飛行隊のコールサインがヴォルチャーで、僕がヴォルチャー1。つまり、第一飛行隊の隊長だ。飛行部隊の組織図の一番上に、僕の名前がある。相棒は引き続きイーサンだから、自動的にイーサンがヴォルチャー2になって、上から2番目に名前が書かれている。三番機と四番機は元ワーウルフ隊の一番と二番だ。
意外なことに、この再編に異を唱えるものは誰もいなかった。
もちろん、司令官から正式な告示が出た後で兵士が異を唱えたところで何にもならないのだけど、そういう水準の話ではなく肌に感じる感覚として、わりと基地のパイロットたちに、すんなりと受け入れられているように思えた。
僕が彼らの一番上に位置しているという状態に、彼らは納得しているようなのだ。
とても奇妙なことのように思えた。
全体ブリーフィングのあと、個別のチームブリーフィングで元ワーウルフ隊のふたりとも顔を合わせた。
「ベーグルです。あなたの三番機を務めます」と、元ワーウルフ隊の一番機、つまり、この基地のパイロットの中でトップに立っていた男が言った。がっしりとした体格の、とても大きな男だった。ちゃんとコックピットの中に納まるのか心配になるぐらいだ。
ベーグルというのは名前にしてはさすがに変だから、たぶん本名じゃなくてTACネームを名乗ったのだろうと判断して、すこし悩んだけど、僕もTACネームで「僕ちゃんです。よろしくお願いします」と、挨拶を返した。
「よろしくお願いします、僕ちゃん殿。あなたと共に飛べることを、我々はとても誇りに思います」
ベーグルが右手を差し出して、僕たちは握手を交わした。フリスビーみたいに大きな手だった。
その翌々日の午後に、大規模な作戦が展開された。
大きな爆撃機で向こうの基地に直接爆弾を落としてやろうという作戦だ。爆撃機は戦闘機に捕まってしまえばひとたまりもないから、複数の戦闘機で護衛をしていくことになる。燃料と兵装の兼ね合いで、同じ戦闘機が始めから終わりまでずっと護衛するのは無理だから、それぞれの基地から飛行大隊が順次飛んで入れ替わり立ち代わり護衛しながら、海を渡ってイルヘルミナの領土まで爆撃機を運んでいくのだ。
滑走路の端で管制からの離陸許可を待つ僕のブログラーの後ろに、この基地のすべての戦闘機が集まっていた。僕のすぐうしろで待機しているのは二番機のイーサンだ。
「ジェントルマンがこんなに集まると、さすがに壮観やな」と、無線からイーサンの声がする。「さあジェントルメン、エンジンを始動しろ」
十二機の戦闘機の二十四機のジェットエンジンが、一斉に咆哮をあげる。その熱気で、周囲の気温が劇的に上昇する。即席の蜃気楼が立ちのぼり、景色が揺らめく。
「ワーウルフ1からワーウルフ4、離陸準備完了」「ヘリング1からヘリング4、離陸準備完了」と、それぞれの小隊の一番機から通信が入る。
「了解。ヴォルチャー1からヴォルチャー4、離陸準備完了。全機、スタンバイ」と、隊長の僕が確認をする。「管制へ、全機離陸許可を要請する」
「管制から全機へ。離陸を許可する。すべての航空機はヴォルチャー1に続け」
無線から口々に「ウィルコ」「ラジャー」と返信が来る。これだけ多いと、もうどれが誰だかぜんぜん分からない。
離陸のときはいつもしんがりを行くことが多かったから、こうして一番最初に飛び立つのはなんだかすこし恥ずかしいような、むず痒いような、変な感じがする。
あとに続くこれだけの数の戦闘機を、いまは僕が指揮しているのだ。
こんなのは、完全になにかの間違いだろうと思う。たぶん、司令官はなにか重大な思い違いか、勘違いをしているのだ。
でも、まあいい。
僕はスロットルを開き、ブレーキを解除する。
それもこれも、今だけの、ほんのわずかな時間だけのこと。
何機引き連れていたところで、空にあがって敵と格闘戦になってしまえば、どうせ各々、勝手にやるしかなくなるのだから。