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5. Over Shoot

-エルネスタ・コンツ-


 地上にいるときは「空が曇っている」なんて平気で言うけれど、高い空から地上を見下ろすと、曇っているのは空ではなくて地上なのだということがよく分かる。


 雨を降らせる低層の乱層雲なんかは本当に高度が低くて、ほとんど地面にはりついている。自分の視点を巡行高度に頭がある巨人だと仮定すれば、くるぶしか、せいぜい脛のあたりまでだ。


 空のうえはいつだって快晴で、離陸時に地上がじっとりとした雨模様だったとしても、機首を上げて雲のヴェールを突き破ってしまえば、燦々と輝く太陽の光が出迎えてくれる。


 地上が雨や曇りのときのほうが空のうえはずっと眩しい。雲のほうが大地や海よりも太陽の光をよく反射するからだ。ぺったりとした平板な曇り空を突き抜けて高空に出てしまうと、眼下の輝く雲の色は白さえも超えていて、まるで光の海のようだ。


 空では、すべてが地上とは違っている。


 地上にいるあいだ、人の思考はあらゆる意味で大地に縛られていて、知らず知らずのうちにそれを基準としてしまう。足の裏が大地を踏みしめている間は、それが不動のものであると想定してすべてを考えている。そのようなモデルで、世界を捉えている。そして地上にいると、そのことを自覚もしない。


 あらゆる物事の捉えかたはモデルだ。人はモデルを使って世界を認識している。

 ひとたび機体が地上を離れてしまえば、すべての基準は空になる。


 空気だ。


 地上で空気の存在を意識する人は少ないだろう。存在感のない人を揶揄して、空気のようだと表現したりもする。そんな風に、地上ではずいぶんと影の薄い空気だけれど、ひとたび地上を離れると一転、すべてを支配する暴虐の王として世界に君臨する。


 空では、だれも空気に逆らうことはできない。空気こそが基準になる。


 たとえば速度。


 地上ではあまり深く考えず、移動する物体の速度はすべて「時速nキロメートル」と表現していて、速度といえば「時速nキロメートル」のことだと思っているものだけど、これは地上のある地点から、一時間でどれだけ遠くまで移動するかを表しているもので、飽くまでも、たくさんある速度の計測方法のひとつ。速度というものの、捉えかたのうちのひとつに過ぎない。


 空のうえでは、それは対地速度と呼ばれ、基本的にはあまり考慮されない。


 同じ対地速度で移動していても、風上に向かうのと風下に向かう場合とでは、()()()()()は違っている。流体力学的な速度のことだ。風は西から吹いている。


 この()()()()()を対気速度と言って、航空機の機動にダイレクトに影響するから、空のうえでもっぱら問題になるのはこちらのほうだ。これはマッハにも関わってくる。マッハ1を下回る速度で航行していても、追い風を受ければ対地速度では見かけ上マッハ1を超えていることもある。そもそも、マッハ1じたいが流動的な数値であって、実際には速度を表す()()ではない。


 気温によっても高度によってもマッハの対地速度は違ってくる。でも、空を飛んでいるときに重要なのは、マッハの影響が実際に出はじめる速度のほうだから、マッハのほうを固定してしまう。それが対地速度で時速何キロメートルだったとしても、マッハ1は常に一定の状態だからだ。結果として、空では対地速度のほうが流動的な概念になる。


 たとえば高度。


 航空機は高高度では、基本的に大気圧で高度を計測している。電波を使って計測するシステムもあるけれど、こちらは低高度域、もっぱら離着陸の際に用いられる。


 つまり、高高度域では高度といえば実は大気圧のことであって、これは実際の高度とはかなりの乖離している。大気圧は天候によっても変動するから、地面からの高さに概ね比例するとはいっても、地面からの高さを精確に表しているわけではないのだ。


 ただ、空の上ではそれを仮に高さとして使用する。そういうモデルで物事を捉える。


 高度33,000フィートで巡行しているというのは、標準大気モデルで高度33,000に相当する大気圧の層を航行しているという意味で、地面からの高さが33,000フィートという意味じゃない。でも、巡行高度として理想的なのは、常に標準大気モデルで33,000フィートの大気圧なのだから、そこが標準大気モデルで33,000フィートに相当する大気圧なのであれば、実際の地面からの高さがどれだけなのかはそれほど重要ではない。


 気圧は上空に上がれば上がるほど下がる。低気圧下では、同じ高度33,000フィートでも、晴天時より低い空を飛んでいることになる。低気圧がくると地面のほうが空に向かってせり上がってくる。エビエータは頭の中で、現象をそのように捉えている。


 海上での格闘戦を終えて、帰投するため東に向かって飛ぶハティ隊の四機のスクワルトは、沈みゆく太陽を背負いながら、迫りくる夜に飛び込んでいくことになる。早回しのビデオ映像のようにあっという間に夕焼けになって、真後ろからの太陽の光が眼下の雲海を真っ赤に染める。キャノピーからうえを見上げれば、高空はまだ白い。正面からグングンと迫りくる深い青のグラデーションと、高空の白との境目は鮮やかなピンク色だ。地球の向こう側から、深く暗い群青色の帯がせり上がってくる。地球の影そのものが空気のスクリーンに投影されているのだ。


 ウィルマはこれを、地球の毛布と呼んでいる。地球が眠るために、横たわって夜の毛布を鼻の下まで引き上げようとしている。


 海岸線付近のレーダー基地から「あなたの機影をモニ(ユーアーアイデ)ター上で確認しました(ンティファイド)」という通信が入る。眼下は一面の雲海でなにも見えないけれど、もうレーダー覆域内まで戻ってきているのだ。今日のフライトも、間もなく終わる。空のうえがどれだけ神々しく素晴らしい光に満ちていても、ずっと空に留まり続けることはできない。航空機には燃料が必要だし、わたしだってお腹がすく。シャワーも浴びたい。いずれは地上に降りなければならない。


 低層の雲海の上に、ポコポコとした中層の雲がいい具合でいくつか浮かんでいた。無線からイングリットの「素敵なスラロームじゃん」という声が聞こえる。小隊の先頭を行くイングリットが左舷にロールして、雲を掠めるように右に左にと蛇行する。


「もう、レーダー覆域内なんだから、あんまり遊ぶと怒られるわよ」と、エーコが言うけれど、自分も機体をバンクさせて、イングリットの機動を綺麗になぞるように雲のスラロームを抜けていく。ウィルマとわたしも後ろに続く。


 目には見えないけれど、戦闘機も海を行くモーターボートと同じで、その推力で後ろの空気をかき回し波立たせている。前を行くウィルマの機動を正確になぞると、その見えない足跡に揺すられて、後ろを行く機体はコトコトという空気のわずかな振動を感じることができる。


 スラローム飛行のほぼ終始、機体がコトコトと揺れていた。上出来だ。


 こういうときは、自然と口角が上がってくる。


 旋回飛行をするときも、同一高度で綺麗な真円を描けば自分の軌跡を踏むことになるから、このコトコトがあるかないかでその出来を自分で判断できる。


 ただ真ん丸く旋回するだけのことって思うかもしれないけれど、最初はそれがわりと難しい。操縦桿を倒してバンク角がある値にきたら、あとは操縦桿を元にもどせばそのバンク角を維持してクルリと綺麗に丸く旋回できそうに思うかもしれないけれど、話はそんなに簡単でもない。


 たとえば左に旋回するときは、旋回の内側になる左翼端よりも外側の右翼端のほうが多く大気中を移動することになるから、空気抵抗がより大きくなる。ふたりで手をつないで左に曲がろうとすれば、右側の人のほうが多く歩かないといけなくなるのと同じ理屈だ。この効果で、エレボンを中立に戻しても、バンクをさらに大きくしていこうとする力が自然と働く。このまま放っておくと、旋回急降下(スパイラルダイブ)に入ることになる。


 だから、綺麗に旋回するためには、バンクした後に、この自然とバンク角を深くしようとする効果を打ち消すぶんだけ適切に、操縦桿を逆方向に少しだけ倒してやらないといけない。


 スクワルトはそういった微妙な操縦桿やペダルからの指示をダイレクトに各操舵系に伝えるのではなくて、一旦保持して、コンピューターが適切なカーブの電気信号に変換して伝達する。戦闘機動に特化した特異な機体形状のせいで本来であればピーキーな特性を持つはずのスクワルトの操作感は、フライトコンピューターの支援を受けて驚くほどに素直だ。離陸と着陸を除けば、まったくの素人でも直感的に飛ぶことができるだろう。


 基地の管制からも、レーダーが機影を捉えたと報告が入る。イングリットが「はい、じゃあみんな並んで~!」と、小学校の引率の先生のように言う。小隊ナンバーの若い順に編隊を組んで、着陸に備える。わたしがしんがりだ。


 雲海のせいで下は見えないけれど、計器の数字を信じて着陸のために高度を落としていく。水に潜る時と同じように、ザブンと波立つ微かな抵抗がある。雲に入ってしまうと視界は完全に閉ざされて、一寸先も見えない無視界状態になる。こういうのを有視界飛行と区別して、計器飛行と言う。エビエータにとっては計器が作動しているということは目で見ているのと同じことだから、雲の中や夜間のまったく無視界状態でも飛ぶことができる。


 曇りの日には、空の上と地上の境目は分かりやすい。雲のしたに出ると、世界はどんよりとした曇天の夕闇に包まれていて、基地の誘導灯が頼りなく明滅しているのが見える。ここは地上からはまだ離れていても、もうすでに地上の理が支配する地上の世界だ。


 まず、高度の基準が気圧から、正確な地面との距離に変わる。測定計器が気圧高度計から電波高度計に切り替わる。低高度でも気圧高度計をあてにしていたら、航空機は低気圧時には地面にめり込むことになってしまう。


 速度の表示も、マッハからノットになる。高速度域ではマッハを超えているか下回っているかというのがとても重要になってくるけれど、それを気にする必要がない低速の世界では、マッハは速度の単位として曖昧すぎる。すべての基準値が地上の単位へと切り替えられていく。


「こちらハティ1からハティ4より基地管制。着陸を要請する」

 小隊を代表して、イングリットが基地管制に通信を送る。

「了解。ハティ1からハティ4。着陸を許可する。ハティ1から順次、一番滑走路へ」


 基地管制がそう返答した後で。「おかえり、天使たち(エンゼルス)」と、付け加えた。思わず笑いそうになる。天使たちって。


 おかえりという言葉を聞いて、わたしは、ああ、また地上に帰ってきてしまったんだなと、少し残念な気持ちになっている。


 一度、基地の上空を通過して、180度旋回する。巡行時には追い風の支援を受ければより速く飛べるけれど、着陸時には向かい風の支援を受けたほうが速度を落とすことができる。着陸後の滑走距離を短く済ませることができる。


 自動着陸モードで滑走路へとアプローチする。ランディングギアを下ろす。電波高度計が、機械的な女性の声で高度のカウントダウンをはじめる。読み上げは「1,000」からはじまり「500」「300」と、地上が近づくにつれて間隔が短くなっていく。そして、250で「決心高度まであと50」という、威厳に満ちた決然とした宣告が入る。着陸の決心をしなさいという警告だ。


 直後に、機械音声が「決心(ディサイド)」と告げる。

 決心高度を過ぎれば、もう着陸をやり直すことはできない。


 わたしは決心をする。

 地上の世界に戻ることを、渋々、了承する。


「50」「30」「20」

 10のカウントを聞けば、その一瞬後にはタッチダウンだ。


 ランディングギアが接地して、猛烈な回転を始める。スクワルトはあらゆるブレーキを動員して、なんとか滑走路内で止まろうとする。摩擦力が車輪のゴムを加熱する。機体が静止する。


 コックピットを出て地上におりると、ランディングギアからじわりとした熱気が伝わってくる。スクワルトが引っかいた滑走路にもまっすぐに熱の爪痕が残り、それが大気へと立ち昇っている。


 飛行機を降りてすぐは、身体がなんだかフワフワとしていて、うまく歩くことができない。


 ふわり、ふわりと、足の裏の感触を確かめるようにしながら、一歩、二歩と歩き出す。三歩目くらいで、ようやく地上での歩き方を思い出す。靴底が確固たる大地を踏みしめていて、それが揺らがないことを薄々と信じだす。


 整備兵に機体を引き渡して、ヘルメットを外す。ヘルメットの中でじっとりと蒸れた髪を、風が凪いでくれる。手ぐしですこし膨らませて、表面積を大きくして風に当てやると気持ちがいい。


 巡行高度では、スクワルトはときに三百ノットを超える高速のジェット気流に乗っているけれど、キャノピーで完全に密閉されたコックピットの内側では、肌でその風を感じることはできない。空のうえでは、わたしたちは計器で風を感じとる。


 地上だな、と思う。

 ここは地上だ。また戻ってきてしまった。


 少し離れたところに固まっていた、他の三人のところに駆け足で合流する。走り出すときも、最初の一歩、二歩は、おそるおそる。三歩目でしっかりと地面を蹴って加速する。


「腕を上げたじゃん、エルネスタ」と言って、イングリットがわたしの首に腕を回してきた。イングリットのほうがずっと身長が高いので、わたしの頭は丁度いい具合にすっぽりとイングリットの脇の下に収まってしまう。その胸元には、エースパイロットのウイングマークが光っている。


「でも、まだ無駄な減速があるから、ヨーヨーでうまく辻褄を合わせていったほうがいいかも。敵の機体を見るんじゃなくて、機動のその先を見ないとじゃんね」

「了解」


 イングリットはぐちゃぐちゃの格闘戦の中でも、僚機の動きを見られるくらいに余裕がある。視野が広いということは、それだけで強さに直結する。初戦で五機を撃墜したあとも戦績を重ね、今ではイルヘルミナ全軍のなかでも並び立つ者のいない無敵のトップエースだ。人類史上においても稀有なトップエースだろう。ハティ隊は未だ一機も損耗することなく、すでに十四機を撃墜しているから、スコアは14-0で、数字のうえではハティ隊だけでもずっと戦争を続けられる計算になってしまう。


 誰にもイングリットを墜とすことはできない。


 単純なスクワルトの機体性能や、キャスカル特有の高G耐性だけではなく、イングリットは戦況を完全に読み切っている。常に敵の一手先を潰していく。傍から見ているぶんには、まるで敵機が自ら望んでイングリットの射程に吸い込まれていっているようにすら見える。


 イングリットとエーコのふたりが、上官への報告のために中央棟へと向かう。四機で出撃したときには、三番機以下のわたしとウィルマは、この業務をふたりに任せて一足先に解放される。


 初戦では五機の撃墜で、報告のため、ふたりはあちこちに引っ張り回されたけど、こうも出撃するたびに撃墜数を重ねていると、もうちょっとやそっとでは特段の報告も求められなくなってくる。今日もいつもどおりに出撃して、いつもどおりにたくさん撃墜してきました。そういうノリになってくる。きっと、食堂の夕食の時間内には戻ってこられるだろう。


 いったん寮に戻り、飛行服を脱いで先にシャワーを浴びる。グランバザーで買ってきたオリーブの石鹸を、仕切り板の下から受け渡してウィルマとシェアする。着古したトレーナーに着替えて、頭にタオルを巻いたまま食堂に行き、コジマおばさんの代わり映えしない芋のフルコースを食べる。空から戻った後はたいてい、異常におなかが空いているので、わたしたちはコジマおばさんが呆れるくらいにたくさん食べる。とてもおいしい。


 報告から戻ったイングリットが飛行服のまま食堂に顔を出して、「明日の午後も四機で飛ぶことになったよ~」と言った。「西南西に偵察飛行だって」

 ブリーフィングは明日の早朝からだとエーコが補足する。「ふたりとも、あんまり夜更かししちゃダメよ」と、まるで大人みたいなことを言う。


 偵察飛行は二機で行うのが普通だから、四機で飛ぶということは単純な偵察任務ではなく、戦闘になる公算がかなり高いのだろう。


 望むところだ。


 イングリットとエーコもシャワーを浴びて、また食堂に顔を出す。長く明るいライトブロンドはまだ湿気を含んでいて、やや暗い落ち着いた色彩になっている。飛行服を脱ぐと、イングリットも無敵のエースパイロットから、わたしよりすこしお姉さんなだけの女の子に戻る。


 イングリットとエーコが食べ終わるタイミングに合わせて、ウィルマがお茶を用意する。グランバザーで買ってきた白桃茶の、満を持して登場だ。キッチンの奥で茶葉を蒸らしている段階から、白桃の甘い香りが食堂全体に淡く漂う。


「これだけ甘い匂いがしているのに、お茶じたいは甘くないから、ストレートだとなんだか辻褄が合わないじゃんね」と、白桃茶を一口啜って、イングリットは首を傾げる。シュガーポットからザバザバと砂糖を投入する。飽和爆撃だ。


「お嬢さんがた、これもいかがかねぇ」と、カウンターの奥からコジマおばさんが、パンの耳を油で揚げて砂糖とシナモンをまぶしただけの素朴な揚げ菓子を出してくれる。


「うっわ。百万キロカロリーって感じだよね」

「デブまっしぐらね。兵装を積めなくなっちゃいそう」

 なんて文句を言いながらも、結局ウィルマもエーコもモリモリと食べて、存分に油を吸いまくったボール一杯ぶんのパンの耳がすっかり空になる。


 食後のお茶も済ませ「コジマおばさん、ありがとう! ごちそうさま!」と声を掛け、空になったボールを返すと「あれ、全部食べちゃったの」と、またコジマおばさんが呆れたような声を出す。エビエーターというのはどういうわけか、いつもお腹を空かせている。


 エーコに言われた通り、部屋に戻ったら歯を磨いて、すぐに二段ベッドの上に潜り込んだ。待ってましたとばかりに睡魔がすぐに襲ってきて、わたしは抵抗する間もなく眠りに呑まれた。


 起きたら朝の六時で、窓の外から朝の白い光が射し込んでいた。わたしもウィルマも、部屋の窓にカーテンを引く習慣がない。朝は太陽の光で目覚めるのを好む。ベッドを降りて窓の外に目を向けると、昨日とはうって変わって雲ひとつない晴天だった。きっと、今日も気持ちよく飛べるだろう。ウィルマは下のベッドで、複雑なポーズをしてまだ眠っていた。空を飛ぶ夢を見ているのかもしれない。うつ伏せ状態で右手が上がって、左手が下がっているから、右にバンクしているところだろう。


 ウィルマの毛布をひっぺがして叩き起こし、飛行服に着替えてブリーフィングルームに顔を出す。飛行の前には必ず、なにかの書類にサインをする。内容を確認したことはないから、なんの書類なのかは知らない。


 今日はバークワースの艦船の場所を確認しに行くミッションだ。


 飛行経路と、予測される天候、会敵が予想される地点、持って行く兵装なんかの説明を受ける。スクワルトにはすでに、増槽も兵装も山積みにされている。地上の人間はとにかく、飛び立つ前の飛行機に荷物を積みたがる。増槽とか兵装とか、あと期待とか、大儀とか、そういったものだ。離陸するときのスクワルトは嫌になるほど重たくて可哀想だ。


 逆に、エビエーターは積まれた荷物をとにかく捨てたがる。増槽もさっさと捨ててしまいたいし、兵装もなるべくはやく敵にブチ込みたい。レーダー覆域から出てしまえば、期待や大儀も早々に捨て去ってしまう。身軽になって自由に飛び回りたいのだ。行きの飛行よりも帰りの飛行のほうが楽しく感じるのは、きっと機体が軽いからだろう。


 スクワルトはすでに格納庫から出され、キャノピーを開いてエビエーターの搭乗を待ち構えている。わたしはコックピットに身体を押し込む。ここに収まると、いつもしっくりと身体に馴染む感じがする。


 ああ、またここに戻ってこられたなと思う。


 わたしはすこしのあいだ、操縦桿の感触を楽しむ。なにをどう動かせば、どこがどう作動するのか、わたしは完全に把握している。


 スクワルトはわたしの身体の一部で、スクワルトの中に納まることで、はじめてわたしの身体は完全な状態になる。


 地上のわたしは、どこかが不完全で、いつもなにかが不自由で、常にすごい違和感を覚えている。なにかを間違えているような気がしてしまう。


 きっと、本来は翼を持った種族だったのだろう。


 本当は翼を持って生まれてくるべきだったのに、なにかの間違いで、翼がないままこの世に生れ落ちてしまったのだ。本当は自由に空が飛べるのに、必要な機能を欠損したままで生まれてきてしまったのだ。


 スクワルトは、本来のわたしから欠けている機能を補完してくれるもの。

 言ってみれば、義手とか義足とか、そういう類のものだ。


 無線のスイッチを入れて、後方で待機している整備兵のブルーノおじさんのインカムに繋ぐ。

「後方確認」

 エレボンとラダーを動かす。その様子を後方から整備兵が確認する。

「異常なし」と、ブルーノおじさんからの通信が入る。

「了解。エンジン始動します」


 鋭い音をあげ、エンジンが始動する。ブレーキを解除して、僚機に続いてアプローチから滑走路へとタキシングする。待機位置について、再びランディングギアをロックする。


「ハティ1からハティ4より管制。全機異常なし。離陸を要請します」

「了解。ハティ1からハティ4。離陸を許可する。健闘を祈る(ゴッドスピード)


 イングリットの機体のエンジンが回転数を上げ、ブレーキを解除した。最初にすこしガコンと前後に揺れて、あとはスムーズに加速していく。一番機の離陸を待たずに、次いで二番機、三番機とブレーキを解除して加速をはじめる。わたしも続く。翼が風を捉える。


 航空機はある瞬間に突然飛びあがるのではなく、速度を増すごとに揚力を蓄え、地上を走っているうちから徐々に飛びあがりだしている。飛行機から、だんだん重さが失われていく。理屈上の機体重量がマイナスになったところで、機首を引き上げる。


 離陸直後に右にバンクして、旋回しながら上昇していく一番機の後を追う。上空に到達したところで、菱型の隊列を組む。一番機のイングリットを先頭に、エーコが左、ウィルマが右。四番機のわたしは一番後ろだ。すぐに、まっすぐ西南西へと進路を取る。ほどなく海上に出る。


 上空から見ると、大海原は艶やかに光り輝く青いサテン生地のようだ。波のひだひだは一定の形状を維持したまま等速で移動をしていて、陸地にぶつかるまでは延々、砕けることがない。これは、陸地から海を眺めているとなかなか気づかないことだろう。


「クジラがいるじゃん」と、無線でイングリットが言った。

「え? どこ?」と、ウィルマが答える。

「あ、本当だ。すごいわね。あんな大きな生き物が存在しているなんて」と、エーコも応じる。「スクワルドよりもずっと大きいわ」


「え? だからどこ? 全然分かんないよね」と、ウィルマが腑に落ちなさそうな声を上げる。わたしはもう見つけたけれど、よく見ないと波に紛れて分かりにくいかもしれない。

「左舷135度」


 イングリットはそう言って、直進のまま機体を少しバンクさせる。翼の先でクジラの方向を指差す。

「あ、ほんとだ。見えた見えた」と、ウィルマもようやくクジラの姿を補足する。よく見るために、背面に入れる。しばらく維持して、満足したのか正立に戻す。


 予測された通りのポイントで、バークワースの艦船らしきものを水平線上に見つけた。今回も、一番最初に発見したのはイングリットだ。イングリットが一番、目がいい。


 そして、予測された会敵ポイントよりもやや早く、敵影が見えた。概ねは予測通りだ。まるで、約束して待ち合わせでもしていたみたいだ。わたしたちが知らないだけで、ひょっとしたら、軍の上のほうではお互いに予定を合わせて約束をしているのかもしれない。


 晴天の大海原の上空だ。逃げも隠れもできない、小細工の通用しない正面からの殴り合いになる。


 敵は四機。こちらも四機。


 偵察のために高度を落としていたわたしたちハティ隊のほうが、やや低い。けれど、速度は充分なのでこれくらいの高度差はどうってことはない。


「ブログラーね。旧式だわ」と、エーコが言う。ブログラーはイングリットが墜としまくったグレモリーより、一世代前の機体だ。片っ端から墜とされるせいで、とうとう、旧式まで引っ張り出してくる羽目になったのだろう。


「揉んでやろうじゃん。最初だけA1でいく。あとはB2で」と、イングリットが気安く指示を出す。A1というのは隊列で、菱型の隊形から斜め一列に変更。B2というのは、指示なしということ。あとは自由行動という意味だ。


「インディ、交戦開始(エンゲイジ)


 イングリットが翼を立てて、左に降りていく。増槽はまだ抱えたままだ。重力加速を使って速度を稼ぎ、相手の後方で一気に高度に変換するつもりだろう。インメルマンターンだ。僚機のエーコもそれに続く。


「ウィルマ、交戦開始!」


 ウィルマはうえに上がった。僚機のわたしもウィルマに続く。

 相手の四機も二手に分かれてバンクに入った。隊列の先頭の一機がイングリットのほうへと向かう。あれが向こうの一番機だろう。こちらには後列の二機が上がってくる。


 安全装置を解除。


 一機がスムーズな挙動でわたしの後ろに回り込む。

 腕が良さそうだ。

 でも、スクワルトのハイG旋回にはついてこられないだろう。


 増槽を捨てて、わたしは左へと急旋回する。

 グワンッ!! と、世界が一気に揺らぐ感覚。


 常人なら血流が偏って気絶してしまうような高Gも、キャスカルなら耐えられる。そして、キャスカルの搭乗を前提としたスクワルトも、当然、ハイG旋回に耐える機体強度を備えている。ブログラーが同じ軌道で旋回すれば、パイロットも耐えられないし、なにより機体が空中分解してしまう。


 一気にまるまる一周して、後ろについていたはずのブログラーの後ろに、今度はわたしがくっつく。


 機体の挙動だけで、ブログラーのパイロットが驚愕しているのが分かる。はじめてこれを目にしたパイロットは誰だって、そういう反応をする。


 そもそも、やっているゲームのルールが異なるのだ。サッカーの試合をやっているところに野球のバットを持って乗り込むようなもので、要するに反則だ。


 でも戦いに反則もなにもない。なにをしてでも、敵を墜としたほうの勝ちだ。


 敵の機体がよく見える。修理を終えてそのまま出てきたのか、垂直尾翼が緑の下塗りのままだ。

 ロックオンして、ミサイルを発射する。


「エルナ、FOX2!!」

 スクワルトの翼下から、短距離空対空ミサイルが飛び出す。


 仕留めたはずだった。


 直撃する寸前、緑のしっぽ(グリーンテイル)の機体が急激なバレルロールでミサイルを回避した。そのまま大きく高度を落として、わたしから距離を取る。逃げられた。偶然か?


「インディ、FOX2」

 無線から、イングリットの声が聞こえる。続いてエーコが「インディ、一機撃墜」と、戦況を知らせてくる。


 ミサイルアラート。


「エルナ!! ロックされている。ブレイクブレイク!!」と、ウィルマから声がかかる。わたしは反射的に左へダイブする。いつの間にか、離脱したはずの緑しっぽが再びわたしの後ろに回っている。


 ワープでもしたのか?


「エルナ、援護する」と、イングリットの声が聞こえる。後ろについたイングリットを嫌って、緑しっぽがわたしの背後を離れ、降下に入れる。


 わたしは上昇に入れて、ループの頂点で背面のまま、海面を見下ろす。


 あっという間に、イングリットが緑しっぽの背後を取っている。


「ターゲットロック」と、イングリットの声が、

 聞こえて。


 緑しっぽのエアブレーキが全開になっている。


 いや、すでに全開になっていた。


 緑しっぽの機体は急制動している。


 ミサイルを発射する前に、イングリットのスクワルトは緑しっぽの機体を追い抜いて(オーヴァーシュート)しまっている。


 直後に、発火。


 そのコンマ数秒後には、イングリットのスクワルトが火を噴いている。


 ほとんど密着するような距離から緑しっぽが発射したミサイルに、片翼を吹き飛ばされたイングリットのスクワルトは、クルクルと回転しながら、風に吹かれる枯れ葉のような軽やかさで海に落ちていった。渦を巻く煙が精確に、イングリットの軌跡を空中に記録していた。



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