4. Zen
-デレク・キムラ-
西に向かって空を飛ぶと太陽の動きを追うことになるから、束の間のはずの黄昏がずっと続く。西に向かって飛ぶ航空機には、燃料が尽きない限り夜が訪れない。
低い位置にある太陽が海の表面を茜色に染めていて、やがて水平線の向こう側から真っ赤に焼けた陸地がせり出してくる。視線をほんの少し横に動かせば、背後から幻影のように迫りくる夜のグラデーションを見ることができる。その境界のピンク色の帯は、地球に縦向きにかぶせられた巨大な環だ。ちょうど、昼と夜の境界上を飛んでいるのだ。
世界では、過去百年の間に六度の大戦が起こって、そのたびに地図の上に線が引き直されてきた。でも、それは地図の上にだけ存在する線だ。この昼と夜の境界の環みたいに、現に目に見える現象として実在する線じゃない。こうして空の上から地上を見下ろしてみても、そんな境目はぜんぜん分からない。夕陽に赤く染まってしまえば、大地も海もどこも大して変わり映えはしない。
そして、この大して変わり映えしないというのが、実は大きな問題だ。目視で外の景色を見ているだけでは、自分の現在地がよく分からなくなってしまうからだ。
だから多くのパイロットにとって、世界を分割する要素として最も重要なのは、そこがどこのレーダー覆域内であるかということだ。パイロットはレーダーで世界を把握する。
だけど、レーダー覆域から外れている場所もある。むしろ、世界の九割以上は、未だにレーダーの届かない未開のフロンティアだ。そういった場所ではパイロットは自分で現在地を把握しなければならない。
六度の世界大戦は人類の科学技術の水準を飛躍的に押し上げはしたけれど、未だにエーテル分子の欺瞞効果を克服するレーダーは実現してはいない。だから、実際に飛行機を飛ばして、行って見てこいという原始的な哨戒任務が未だに現役というわけ。
レーダー覆域内なら、航空管制官は僕の軌跡をモニター上に見ることができる。レーダーのない場所で自分の居場所を知らせたいのなら、あらかじめ決められた暗号を使って音声で送信するしかない。音声通信のほうがずっと遠くまで飛ぶからだ。でも、それをすると敵にも自分の存在を知らせてしまうことにはなる。暗号の強度なんて、全然信頼できる水準じゃない。
任務を終えて帰投するとき、レーダー覆域内に入った時点で、管制官から「レーダー上で捕捉した」という通信が入る。着陸の前にここで一度、ああ今回も帰ってこられたんだなと思う。空の上で完全に絶たれていた地上との繋がりが、わずかに復活する。もちろん、そのすぐ後には一番ドラマチックな着陸が待っているのだから、まだ気を抜くわけにはいかない。
「こちらヴォルチャー3とヴォルチャー4。着陸を要請する」
わずかに先を行くイーサンが基地管制に通信を入れる。
「了解。ヴォルチャー3、着陸を許可する。ヴォルチャー4、ヴォルチャー3に続け」
速度を落とし、高度を下げる。ランディングギアを下ろす。
高高度では亜音速で航行していても風景はゆっくりのんびりと後ろに流れていくけど、地上が近づくにつれて、キャノピーから見える外の世界は流れる速度を増していく。着陸直前の機体が最も減速した時に最も速くなる。同じ速度でも空の上では失速寸前の低速と言えるものが、地面に近付けば猛スピードとして扱われる。空の速度から、地上の速度へと接続する。
離陸の時に回ったっきり、ずっと腹の下に仕舞われたままだった車輪が、接地した瞬間に猛烈に回転を始める。どんなに丁寧に接地させても、着陸の瞬間の衝撃は驚くほど大きい。ブレーキが、速度を熱に変えて滑走路にまっすぐな爪痕を残していく。風がそれを大気へとさらっていく。
空の上では心細くて、レーダー覆域内に入った時には、ああこれで今回も生きて地上に戻れると安心しているのに、こうして地上の戻ってきてしまうと、とてもガッカリした気分になってしまう。またすぐにでも、空に戻りたくなっている。
ゴトゴトとタキシングして、機体を格納庫の前まで持っていく。タキシングの時ほど、戦闘機が間抜けに見える場面もない。馬鹿みたいに大きな轟音を響かせながら、ノロノロと耕運機みたいな速度で移動していくのだ。実際に、効率はものすごく悪い。燃料がもったいないから、長い距離を動かす場合は車両で牽引することもある。ヨー軸の位置が全然違うから、自動車とも操作感がまったく異なっていて、案外難しい。もともと空を飛ぶための形をしているのだから当たり前だけれど、地面を走るのは苦手なのだ。地上では、こいつはとても鈍くさい。
エンジンを止める。コックピットに静寂が訪れる。エンジンの止まった機体は、まるで大きな恐竜の死骸のようだ。さっきまで自分の身体の一部だった飛行機が、急に余所余所しく感じられてしまう。ロックを解除してキャノピーを開く。地上の生温い外気が頬をなでる。コックピットを出る。地上ではライナーが待ち構えている。
「調子はどうだ?」
ライナーに右手を差し出されて、僕はヘルメットをむしり取りながら、その手に自分の右手をパチンと合せる。次に、握り拳にして、お互いに軽く打ち合わせる。このあたりの作法は基地によって微妙に違う。
「絶好調だよ。エンジンもいいし、操作感も素直。最高の機体だ。二機落とした」
大規模に修理したらしい下塗り丸出しのままの緑の尾翼も、飛んでいる間はまるで新品みたいで、コックピットに乗ってしまえばなんの違和感も感じない。ライナーの腕が良いのだろう。異動で一番の不安要素だった機体と整備士は上物を引いたようだ。このふたつは自分の力ではどうしようもないから、運が良かった。
逆に、このふたつさえ揃っていれば、世界中のどこに行こうと、空は同じだ。どの空も、同じ物理法則が厳かに支配している。
「そいつは絶好調だな。えっと、通算で五機か。このペースだと、すぐにステッカーを貼る場所がなくなってしまうな」
「たまたまだよ」
初戦で三機を撃墜した後で、下塗りのままじゃ不愛想だと言って、ライナーが尾翼に撃墜マークをつけだした。整備兵にとっても、自分の担当する機体が敵をたくさん墜とすのは誇りなのだろう。パイロットはひとりで戦っているわけじゃない。パイロットと機体と整備士でひとつのチームだ。
まあそれも、地上にいる間だけの価値観なのだけれど。
空にいる時は、そんなことはこれっぽっちも考えない。
空にいるあいだ、パイロットは徹底的にひとりっきりで、孤独だ。
そして、大抵のパイロットは、そのことをとても心地良く感じる。
真の孤独こそが、本当の自由だからだ。
それじゃ後よろしく、とライナーに声を掛けて、少し離れた場所にいたイーサンに駆け足で追いつく。
「おいおい僕ちゃん。二度目の飛行でもうエースパイロットやな」と、イーサンが僕の肩を叩く。アーロンが僕を呼ぶときの「僕ちゃん」が、そのまま僕のTACネームになった。なんとも締まらない。
「イーサンが一機を引き付けてくれたからだよ」と、僕は答える。「最初に僕のほうに来たやつは素人だった。イーサンについてたやつのほうが、いくらか強い」
僕が一機目を落として援護に入るまでイーサンがもう一機を引っ張っていてくれたから、二機目も僕が楽に落とせた。最初のポジションが逆だったら、イーサンが二機を墜としていただろう。イーサンは腕がいい。それも、どんな小さなミスもしない堅実なタイプだ。普段のキャラからは想像もできないだろう。
ただ、戦場での成績には腕だけじゃなくて、運の巡り合わせみたいな要素も多分に影響するし、そして、往々にしてそれはどこか一か所に偏りがちだ。通算成績で僕が五機を撃墜していて、イーサンが一機なのは、別に僕がイーサンの五倍強いというわけじゃない。僕がそういう星回りに乗っただけのことだ。ただ、偉い人は書面の数字だけを見て、そういう誤った判断をしがちではある。
この基地にきてから三度飛行して、二度は戦闘になった。これは、かなり早いペースだ。激戦と言っていい。今日も哨戒任務だったけれど、こちらは二機だから、相手が二機以下であれば迎撃してこいというミッションだった。管制の覆域外に出てしまえば指示を仰ぐ相手もいないので、パイロットは事前に、どういう場合にはどういう対応をするのかを事細かく指示される。
もっとも、実際の格闘戦に突入してしまえば、あとはプランBだ。
プランBの内容はこうだ。
その1、墜とされるな。
その2、できるだけ敵を墜とせ。
つまり、勝手にやれってこと。
だけど、プランBの、この順序が大事なのだ。第一に、落とされるな。次に、できるだけ敵を落とせ。この優先順位を間違えていると、すぐに落ちることになる。思うに、バークワースの正規兵の連中は、ここの順序が曖昧なのではないだろうか。
まず自分の命が一番大切なのは、誰にだって分かる。
それはもう、身体が本能的に知っている。
そして、それで正しい。
その順序を、たとえば正義とか愛国心とか、あるいは虚栄心だとかプライドだとか、そういった余計な要素が乱してしまう。
空で生き残りたければ、あまり余計なものは背負わないほうがいい。
基本的には、軽量なほうが有利だ。
飛行服のまま、まずは副司令官への報告に向かう。例の、鋭角的な印象の男だ。ドアをノックして、中に入る。デスクの前まで行ってイーサンと横に並び、素早く敬礼をする。
「ご苦労だった。そこに」と、副指令官に勧められて、僕とイーサンはこげ茶色の皮張りのソファーに腰を下ろす。副司令官もデスクを回って、対面のソファーにくる。
ふたりの場合は報告はイーサンがする。彼のほうがコールサインのナンバーが若いからだ。哨戒飛行の経路、目標だった艦船の位置(これを確認するのが今回のメインミッションだ)、それから、飛来した二機の敵機。その時の判断。それに、戦闘の結果。
「短距離空対空を二発使って、彼が二機とも落としました。自分は結局、発射していません」
つまり、無駄撃ちはゼロってこと。文句のつけようのない完璧な作戦遂行だ。
意外なことに、報告のときにはイーサンの口調に訛りがなく、イントネーションが普通になる。別に普通に喋ることができないというわけではないらしい。抑揚もなく、冷静で、まるで腹話術かなにかで別人がイーサンを操って喋らせているかのようだ。普段の会話で訛っているのは、彼なりのなんらかのナショナリズムの発露なのだろう。
ヴォルチャー隊の損耗は未だにゼロで、すでに八機を撃墜している。絶好調だ。北部戦線は、局所的にはバークワース陣営が大勝利を重ねていることになる。でも、副司令官の顔は浮かない。全体としてはバークワースが劣勢であるからだ。唯一押し返している部隊が正規のバークワース軍ではなく、アルメアから送り込まれた極東系の外国人部隊であるというのも、副司令官としては忸怩たる思いなのだろう。
「よくやってくれた」と、副司令官が答える。テーブルの上のクリスタルの煙草入れから一本取り出して「吸うかね?」と、こちらにも勧めてくる。僕もイーサンも辞退する。極東系は煙草を吸う習慣のないやつが多い。
両切りの煙草に馬鹿みたいに大きな卓上ライターで火をつけて、ソファーに背を預けて大きく一服した後で、副司令官が言う。
「また、正式な辞令は後ほど出るが、おそらく君たちヴォルチャー隊には、近日中に南に飛んでもらうことになる」
今よりも、さらに激しい戦闘区域に移動することになるということだ。
でも、特に言うべきことはなかったので、僕もイーサンも黙っていた。パイロットには辞令に対する拒否権はない。もちろん、平時であれば勤務地についても、ある程度の希望は通ったりするけど、戦時下においては飛べと言われれば飛ぶだけのことだ。
「知っての通り、北部戦線は我が陣営が優勢だが、南部は壊滅的だ。例の空飛ぶイカを、まだ誰も落とせていない。そちらの援護に回ってもらうことになるだろう」
「了解しました」「了解しました」
話はそれで終わりのようだったので、僕とイーサンは立ち上がり、また敬礼をして部屋を出た。部屋を出るなり、キビキビしていたイーサンがまたいつも通りのヘニャッとした雰囲気に戻って「プライドばっかり高くて実戦経験のない正規軍のおぼっちゃまたちには、戦争は難しいやな」と、極東訛りのイントネーションで言う。
「空飛ぶイカって、例のキャスカルとかいうやつのこと? 新機体なの?」と、僕はイーサンにたずねる。
「なんや、知らんのか。もう、めっちゃ噂になってるやな」と、アーロンが答える。
「空飛ぶイカっちゅうんがイルヘルミナの新機体やな。広義にはエンテ型になるんやろうけど、機首がみょーんと長くてイカみたいな奇妙な形をしてるらしいで、すぐ分かるやな。ほんで、キャスカルってのは機体名やなくて、搭乗してるパイロットを指すコードネームみたいなもんらしいやな」
「パイロットにコードネームがつくの?」
コードネームというのは、だいたいは新しいなにかにつけられるものだ。でも、パイロットなんか、そうそう新開発できるようなものじゃない。ここ百年での航空機の機体の進化はすさまじいけれど、人類が初めて空を飛んだその時から唯一、まったく進化をしていない構成部品がパイロットなのだ。
「せやから、なんや新開発のパイロットらしいで。よく分からんけど、強化人間とか、そういう感じなんとちゃうかな」と、言っているイーサン自身も首をひねる。強化人間という非現実的なフレーズに、つい「ンフッ」と、息を漏らしてしまう。
「笑ってる場合とちゃうやで。実際に、それに何機も落とされてるねんからな。なんか、普通の人間やったらブラックアウトしてまうような無茶苦茶な機動で曲がるらしいやな。見たやつの話やと、蚊みたいな感じらしいわ」
「蚊? 軽量な機体なの?」
「いや、機体じたいはたぶん、かなり大型の部類やな」
「それで蚊みたいに飛ぶの」
「らしいで。よく知らんけど」
兵舎の部屋に戻って、飛行服を脱ぐ。ジャージに着替えて食堂に行く。バークワースの正規軍の連中が何人かまだ夕食を食べていたけれど、彼らが僕たちに喋りかけてくることはあまりない。普通、戦闘で敵機を墜として帰還したときには、同僚のパイロットから戦闘の様子をあれやこれやと聞かれる羽目になるのだけれど、なんらかの縄張り意識か、帰属意識か、そういう類のなにかが邪魔をしているのだろう。はやい話が、ヴォルチャー隊はこの基地では仲間はずれにされているのだ。
もちろん、僕もイーサンも、それでなにか困っていたりはしない。基本的に、放っておいてくれるのは歓迎すべきことだ。少なくとも、過度に干渉されるよりはずっといい。
バークワースの飯はまずい、というのがヴォルチャー隊の隊員たちの一致した意見だ。そのまま食べてもそれなりに旨いものを、手間暇かけてまずく仕上げる腕前はなかなかのものだと思う。いろんな人種の寄せ集めの外国人部隊で、全員が一致して同じ価値観を共有できることというのは珍しい。そのことだけで、このまずいメシにも存在価値がある。
「まあ、アレコレ言うててもしゃーないやな。南部戦線に移動になったら、実際に自分の目で見ることになるやろうし」
パイロットの顎を潰すつもりなのかというほど硬いパンを噛みちぎりながら、イーサンが言う。僕も全力でなんとかパンを引きちぎる。電話帳を破くぐらいの力がいる。
「でも、事前に情報を知っておくのは悪いことじゃない」
「それが、正しい情報やったらやな」
そう。そこが肝要なところだ。間違えた情報を事前に持ってしまうのは、なにも情報を持っていないより、さらに悪い。とくに噂話というのは、極端に盛られる傾向がある。噂話を聞くのも悪くはないけど、それはそれとして、正規の情報とは頭の中でフォルダを分けて管理しておく必要はある。なんでもかんでも混ぜこぜにすると良くない。
「少なくとも、撃墜数だけは信用できるやな。こっちは最新鋭のグレモリーを、もう十機以上も墜とされていて、向こうのイカはひとつも墜ちてへん。これは、ナンボおぼっちゃんたちが無能や言うても、それだけで説明できるもんではないやろ。油断はせんこっちゃやな」
イーサンはバークワースの正規軍を悪しざまに言うときも、声をひそめることすらしない。そういう部分で、いろいろな軋轢が生まれてくるのだろうとも思う。仲間はずれは別に困らないけど、過度に敵対的なのも、できることなら避けたい事態だ。
「そういうわけやから、眉ツバのただの噂話やけどやな。女らしいで?」
「女?」
「せや。その噂のキャスカルいうのな。それも子供らしいわ。少女やな」
「ふーん」
女性のパイロットは、まあ珍しくはあるけれど、あり得ないということはない。僕もこれまでに数人は実際に会ったことがあるし、肩を並べて飛んだこともある。絶対数が少ないぶん、平均すれば女性パイロットのほうが成績は優秀であるとも言える。たぶん女性のほうが、よっぽど飛びぬけて優秀でもない限りはパイロットになりにくいからだろう。
「格闘戦のあいだ、ずっと無線を解放しっぱなしやから、お喋りがめっちゃ聞こえてくるらしいわ。天使のピーチクパーチクって言われてるんやと。南部戦線のほうやと、それが死の宣告みたいに、不吉の象徴になってるらしいやな」
戦闘機同士で音声通信するための短波の無線は、原理的に同じ空域にいれば敵だろうと味方だろうと関係なしに拾えてしまう。だから、格闘戦の最中は敵に通信を聞かれないよう無線で喋らないか、敵に聞かれていようが気にせずに喋り続けるか、どちらかしかできない。普通は、敵影を確認した時点で通信をやめて、あとは事前に決めておいた通りに個々で動く。事前に決めておいた通りというのは、つまりプランBのことで、勝手にやれってこと。
格闘戦に入ってしまえば、無線なんてあってもなくても、結局どっちでもいい。
開けっ放しにするか、閉じるかは、それぞれの好みぐらいの問題でしかない。
だからまあ、無線に相手のパイロット同士の会話が混入してくるというのは、ありそうな話ではあるけれど。
「わざと聞かせているのかも。それも、なにかの攪乱作戦なんじゃないかな?」
「攪乱?」
「つまり、操縦しているのが女の子だと思わせたほうが、油断させられる、みたいな」
僕はそう言って、なんとかちぎりとったパンを口の中に放り込む。
「かもやな」
でもまあ、そんなことで油断するようなヤツは、どっちみちすぐに落ちるやな、とイーサンは言う。いや、実際には「ほっひひひふふほひふはほ」みたいな感じだったので、たぶん、そういったようなことを言ったのではないかと僕が思っただけだけど。バークワースのパンは異常に硬いので、一度口の中に入れるとなかなか飲みこめない。
その日の夜には、南部戦線への移動の辞令が正式に来た。二十二時に辞令が来て、翌朝の五時には出発だ。ヴォルチャー隊は四機とも、南に飛ぶことになる。
朝霧が立ち込める滑走路をぐるりと回り込んで格納庫に顔を出すと、ライナーが大あくびを噛み殺しながら煙草に火をつけているところだった。
「おはよう」
僕が挨拶をすると、ライナーも軽く手をあげて応じた。動きが緩慢だし、目が真っ赤に充血していて、顔もなんだか青白い。安っぽいゾンビ映画みたいだ。
「徹夜だったの?」
「ああ。アンタらの機体を触るのはこれで最後になっちまうからな。万が一にもなにかあっちゃいけないんで、念入りに見ておいた。もうバッチリだよ。信用して飛んでくれ」
「もうとっくに信用してる」
パイロットは機体と整備士のことは信用するほかない。仮に、なにか文句を言いたくなったとしても、たぶん、その時にはもう墜ちている。信頼に足る機体と整備士に出会えるかどうかは、完全に運だ。
「向こうにも、ライナーぐらい腕のいいやつがいればいいんだけどな」
「大丈夫だろ。ブログラーなら、大抵の整備士はもう知り尽くしている」
ブログラーは、もう二十年以上も前線で活躍している機体だ。少し古いけれど、そのぶん整備士も、どんな問題が起こる可能性があって、それにどんな風に対処すればいいのかを把握している。こういうのは、比較のための書類の数字にはなかなか出てこない機体の性能だ。
「エースパイロットに昇格したんだろ? お前になら、最新鋭のグレモリーも回ってくるかもしれないな」
「いや、いいんだ。この機体がいい。ブログラーは最高の飛行機だよ」と、僕は答える。
「違いない」と、ライナーも同意する。
バークワースの正規軍ではメインの戦闘機を順次グレモリーに置き換えていっている。カタログ性能で見比べれば、グレモリーはブログラーの完全上位互換ということになる。乗ってみたい気持ちも少しはなくもないけれど。
どうせ命を賭けるなら、自分が納得できる機体に乗りたい。
自分が墜ちる時に、飛行機のせいにしてしまうようなダサい真似はしたくないから。
もし、コイツに乗っていて僕が墜ちるようなことがあるとすれば、それはすべて、僕のミスが原因で、僕自身の責任だろう。
もちろん、ただの仮定の話だ。
僕がこのブログラーに乗る限り、誰も僕を墜とすことなどできはしない。
飛行の前には、必ず外観点検をする。下からブログラーを見上げると、毎回、思っていたよりもずっと大きい。これがさまざまな機能や装備の層で成り立った、もはやひとりの人間がその全体を完全に把握することなど不可能な、巨大な複合機械であることを改めて思い知らされる。なにを今さら、みたいな話だけれど、飛んでいる間はそういったことをすっかり忘れてしまう。人間だって、元気に生きている間は、自分の身体の内側で常に起こっている神秘の業のことなんか、気にもしないだろう。
エンジンの排気ノズルは、停止中は最大限に開かれた状態になっていて、覗き込めば、中の機構を見ることができる。巨大なタービンブレードはその重厚そうな印象とは裏腹に、少し指でつついただけでもクルクルと抵抗なく軽く回る。フラッペロンもラダーも、停止状態では、ちょっと風に吹かれたパタパタと軽やかに揺れる。
尾翼に貼られた小さな撃墜マークが五つに増えていた。
脚立みたいに華奢なタラップにのぼり、キャノピーを開く。閉まってしまわないようにロックをかける。コックピットに身体を押し込んで、まずはバッテリーに直結した機能を目覚めさせる。これは、戦闘機のなかで最初に起動するシステムで、最後まで作動し続ける。モニターが一度パッと光り、すぐに暗転する。つぎに、今度はじわっと明るくなる。
この瞬間はいつも、自分が宇宙の果てで、打ち捨てられた宇宙船を見つけて起動させているといったような、変な想像をしてしまう。すこし楽しい。
システムが立ち上がると、慣性航法装置の調整が自動で始まる。慣性航法装置はとても繊細だから、飛行する前に必ず数分間、調整のために完全な静止状態を維持する必要がある。わずかなそよ風や身じろぎすらも拾ってしまうから、外に出してしまってからでは正確な調整ができない。必ず、静寂の格納庫の中で、静かに集中して大地を感じ取らなければならない。慣性航法装置が集中しているあいだは、僕もコックピットの中で一緒になって瞑想する。まるで、禅のように。
慣性航法装置はかすかな変化を大量に感知して処理する。たとえば、高度があがるとごくわずかに減少する重力ですら掴まえる。理論上、アライメントさえ終わってしまえば、外部の情報を一切参照することなく、自力で現在地を把握することができる。完全な目隠し状態でも飛べるということだ。
もちろん、それは机上の空論。実際にはどれだけ慎重に調整しても、飛行時間と距離が伸びれば伸びるほど、わずかな誤差が雪だるま式に膨らんで大きなズレを生じさせる。パイロットはレーダーや目視などの外部の情報と整合させながら、なるべく正確な現在地を把握しようとする。グロブラーにはみっつのそれぞれ独立した慣性航法装置が備わっていて、モニターにはそれぞれが算出した現在地がみっつ同時に表示される。それらみっつが一致していることはまずない。みっつあってようやく、だいたいそのへんにいるということが分かるだけだ。
完璧な慣性航法装置が完成すれば、エーテル分子の欺瞞効果に左右されない長距離ミサイルが可能になると言われている。でも、今のところは、人間が一緒に飛んでいって、細かな修正をしてやるしかない。
調整が終わり、ライナーの運転する車両に牽引されて格納庫を出る。滑走路は朝露に濡れている。
エンジンを始動させるやり方は、クランクスタートのオートバイクと変わらない。送り込まれた空気の圧力が巨大なファンを回転させて、しだいに回転数を上げ、さらに加速して、最後に圧縮された空気に燃料と火花が投げ込まれる。爆発音と共にエンジンが目覚める。けたたましい始動サイクルが終わると、エンジンはアイドル状態になって、音が少し落ち着く。滑らかで安定した響きに変わる。
他のヴォルチャー隊の機体も、つぎつぎとエンジンを始動させる。狼の群れが遠吠えをあげているみたいだ。まずヴォルチャー1がタキシングして離陸位置につき、管制に離陸許可を求める通信を入れる。離陸許可が下りて、エンジンを唸らせる。ブレーキを解除して、ヴォルチャー1の機体がゆっくりと動き出す。
排気ノズルから吹き出された大風が、濡れた滑走路に波紋を広げる。離陸最大出力に達すると、スコーンと抜けるように、またエンジンの音が変わる。車輪が滑走路を離れ、すぐさま機体に格納される。鋭く機首を上に向け、一気に上昇していく。翼が大気を切り裂き、空に向かって真新しい細い雲が伸びていく。
続いて、ヴォルチャー2、ヴォルチャー3と離陸して、最後が僕の番だ。
何度経験しても、離陸の時は緊張する。
それに、今から空にあがるのだと思うと、胸が高鳴る。
映画スターを迎え入れるレッドカーペットのように、僕の前に真っ直ぐなランウェイが伸びている。管制官からの離陸許可の通信を受けて、スロットルを上げる。車輪が前に転がりはじめる。しばらく真っ直ぐに地上を走って速度を上げ、主翼に揚力を蓄える。二基のジェットエンジンが吼え、約二十五万ポンドの推力で後方に空気を押し出していく。
一定の速度に達すると、まだ車輪が転がる音はしているものの、実質的にもう接地していないことが感覚で分かる。これで次に着陸するときまで、もう車輪の出る幕はない。
離陸決定速度を超えてしまったら、後はもう、なにがあっても飛び立つほかない。V1を超えて二秒で機首を上げた。ドライブウェイから車を出すみたいに気軽に右へと旋回する。機体がバンクして、キャノピーの右側にどんどん離れていく基地が見える。
上昇するにしたがって、外の風景が地上の眺めから空の眺めに変わる。それは継ぎ目なく繋がっているけれども、明確に異なっている。地上と空の境界を超える。
ここが空だ。
これが自由だ。
離陸時からほぼ180度旋回して、上空で待機していた他のヴォルチャー隊の三機と合流し、ひし形の編隊を組む。
「ヴォルチャー1からヴォルチャー4。全機、離陸完了」
小隊長のセブが、管制官へと連絡する。
「了解。ヴォルチャー隊各機、|良いフライトを。幸運を祈る《グッドフライト・グッドラック》」
管制官の言葉は、まるで休暇で旅行に行く同僚を送り出すみたいな調子で、激戦の南部戦線にパイロットを送り込むにしては気楽すぎるような気もしたけれど。
それ以上に、僕の心はこれからピクニックに出掛けるみたいに、軽やかに弾んでいた。