3. Split S
-エルネスタ・コンツ-
大急ぎでピグミーをバコンバコン走らせて基地に戻ったころには、もうあたりはすっぽりと夕闇に覆われていた。
丘の陰に隠れた太陽の最後の光が、まだすこし西の空に朱を残していて、東からは深い群青色のグラデーションが押し寄せてきている。ピグミーをドライブウェイに滑り込ませると、ちょうど事務所の建屋から人影が出てくるところだった。
飛行服のうえからでも分かる、スラリと手足の長い流麗なシルエット。夕闇の中でもひときわ輝き、ゆるやかなカーブを描く、ライトブロンドの長い髪。
「イングリット!」
ウィルマが声を掛けて、扉を蹴ってピグミーから飛び出す。わたしもイングリットに駆け寄る。
亜音速巡行で真っ直ぐ基地に帰投するスクワルトを、地上をくねくねバコバコとピグミーで走って追いかけてきたのだ。これはもうウサギとカメどころの話ではなく、絶対に追いつけるわけがないのだけど、とうに戻っていたはずのイングリットはなぜか飛行服のままで、まるで今しがたコックピットを出たばかりみたいだった。
「あ、やっぱりエルネスタとウィルムフリーデだったじゃん。ハンザの丘にいたのが見えたよ。グランバザー、どうだった?」
駆け寄るわたしたちの姿を認めて、イングリットが笑顔でそう訊いてくる。上空を猛スピードで通過するスクワルトから、地上の人間を識別できるものなのかな? と、すこし思うけれど、イングリットならそれも可能なのかもしれない。
キャスカルは目がいい。それも、遠くがよく見えるというだけでなく、視界内の情報の並列的な処理能力が高いという意味で。視野が広い、と表現したほうがニュアンスが近いだろうか。イングリットは特に、キャスカルとしての特性がすべてにおいてバランス良く発現している。
「ああ、うん。楽しかったよ。なんていったかな。こんな大きい、アザラシみたいにまるまると太った魚を食べた」
イングリットがあまりにも普通だから、わたしもつられてそんな風に、普通に応対してしまう。ウィルマが「そんなことより」と、話を本筋に持っていく。そういえばそうだった。呑気にグランバザーの話をしている場合じゃなかった。
「兵装がなくなってたよね。戦闘があったの?」
イングリットはやれやれと言うように、ひとつ深いため息をついて、背後へと顔を向ける。視線を追ってそちらに目を向けると、エーコが建屋から出てきた。「あ、エルナにウィルマ。おかえりなさい」と言って、状況を察したのか苦笑いを見せる。
エーコの髪は、夜の闇より深い黒。それとは対照的に、瞳は明るいブルーだ。イングリットもエーコも、表情に若干の疲れの色はあるけれど、それ以外はまったく無事なように見える。ひとまず安心する。
「いま上官に、それはもう散々、根掘り葉掘り、報告を済ませてきたところなのよ。それに、まだこれから別のところにも報告にいかなくちゃいけないみたい。もう、うんざりしちゃって。その話は、また後にしてもらえないかしら?」
飛行が終わったら、普通はまず直属の上官にフライトの報告をする。飛行経路とか、異常の有無などだ。今はひとまず、それが終わったところということだろう。通常なら、その報告だけで解放されるけれど、戦闘があったとなると、そういうわけにもいかないらしい。戦闘というのは、報告すべき異常の最たるものだ。特に、ここ数年は睨み合うだけの膠着状態が続いていて、軽い牽制はあっても、本格的な戦闘なんて起きていなかったから、なおのこと。
「あの人たち、報告が大好きなんだよね。誰も彼も、みんな直接に話を聞きたがるじゃん? 報告する内容は同じだし、質問の内容も同じなんだから、いちど話したら、それを勝手に共有してくれればいいと思うんだけど」
「まるで、アイドル歌手にでもなったような気分よね」
そう言って、イングリットとエーコは笑う。
「報告を受けるために、これからわざわざ、本部から長官殿もいらっしゃるらしいの。それが終わるまで、晩ごはんも食べられそうにないわ。悪いけど、コジマおばさんにそう伝えておいてくれない?」
「あと、できればあったか~いお茶が飲みたいなぁ~。ウィルムフリーデ、お茶の準備をしておいて」
「了解しました」「了解です」
ヒラヒラと手を振って中央棟に向かうイングリットとエーコに、わたしとウィルマはシャキッと敬礼をする。イングリットとエーコは、わたしとウィルマよりもすこし年上だし、階級もひとつ高い。わたしたちは四人でハティ隊というひとつの小隊で、イングリットがその隊長。エーコは二番機でその相棒だ。ウィルマが三番手で、わたしは最後尾。
敬礼のポーズを三秒キープ。夕闇に溶けるふたりのうしろ姿を見送って、わたしとウィルマは適当にドライブウェイに寄せたピグミーを駐車場に移動させて寮に戻る。荷物をおろしたりで玄関先でバタバタとしていたら、物音を聞きつけたゴードンが談話室からコーラの瓶を片手に顔を出して「なんだ、お前たちか」と、露骨にガッカリとした表情を見せた。なんだとはなんだ。
「イングリットとエーコなら、まだ当分は戻ってこないよ。これから長官殿に報告だって」
そう言って、ゴードンの脇からヒョイと談話室を覗くと、ギョッとするほどの大人数が談話室に集まっていて、びっくりする。ギュウギュウ詰めだ。たくさんの体格のいい男の人がコーラだのビールだのの瓶を片手に肩を寄せ合ってテレビを囲んでいる。
「わっ、なにこれ? ここでラグビーの試合でもやるつもり?」と、ウィルマが声を上げる。たしかに、ラグビーを始めるときのスクラムにちょっと似ている。どうやら、テレビのニュースでも今日のイングリットとエーコの戦闘のことをやっているらしい。
談話室に集まっている頭数は、どう見てもこの基地に所属しているエビエーター全員よりも多くて、あまり見慣れない顔もいる。たぶん、整備士や事務官なども混じっているのだろう。定例ブリーフィングよりも人が多い。新年祝いのパーティーでもこんなには集まらないだろう。みんなが、イングリットとエーコの話を聞きたがっているのだ。
「長官殿まで出張ってくるのか。まあ、そうなるだろうな。なにしろ数年ぶりの本格的な戦闘だし、しかも6-0って話だしな」
ゴードンがそう言って、ウィルマが「6-0?」と、訊きかえす。
「なんだ、まだ聞いてないのか? イングリットとエーコの二機だけで、バークワースのグレモリーを六機も撃墜したんだとよ。こちらの損耗はゼロだ」
「それはすごい」と、わたしとウィルマの声がシンクロする。
普通、戦闘機同士の格闘戦というのは一機を消費して二機墜とすことができれば勝ちみたいな水準なのだ。お互いがお互いに命を賭けて、全力で相手を撃墜してやろうとしているのだから、機体自体に相当の根本的な性能差でもない限りは、当然そうなる。まして、グレモリーは鳴りもの入りで導入された、アルメアご自慢の最新鋭機で、バークワースが保有する航空戦力としては最強のものだ。それを一機も失うことなく六機撃墜したというのだから、途方もない大勝利だ。歴史的大勝利と言ってもいい。
「すごい」と、わたしはもう一度言う。他にあまり、表現のしようがない。
「ああ、すげぇよ。百年先まで記録に残る伝説になる」と、ゴードンはテレビのニュース映像に目を向けながら、コーラの瓶を煽る。
「お前たちも、これから忙しくなるかもしれないな。これで、実戦でのキャスカルの有用性が客観的に証明されてしまったわけだから」
「ああ、そういうことになるのかな」
軍の研究所が、イルヘルミナ北部の女児に特有の風土病としてむかしからあったキャスカルの特性、というか病症が、戦闘機のエビエータに向くということに気付いたのが前の大戦末期のこと。病気の子供を戦闘機に乗せて操縦させようだなんて、最初は質の悪い冗談だと誰もが思っただろう。
たぶん、誰も本気で成果を期待していたわけではなく、すべてが行き詰って、なんでもいいから状況を打開できる斬新なアイデアを捻り出せ! みたいな状況だったのだ。窮鼠が猫を噛むとか、溺れる者が藁に縋るとか、そういう類の出来事だ。
その冗談みたいな発案になにかの間違いで予算がつき、実際にキャスカルを招集して訓練し、テストでキャスカルのエビエータとしての適性が認められるまでで十年。そこからさらに、高い耐G能力を持つキャスカルの搭乗を前提とした専用の機体が検討され、研究が開始され、スクワルトの設計開発が終了するまでに、さらに十年。
その間、誰もキャスカルが実戦で役立つことになるなどとは、本当のところは思ってもいなかっただろう。キャスカルがエビエータとして登用されるようになったのは、たんに複数の利己的な利害が奇妙に合致した結果の、稀有な玉突き事故のようなものだ。
これまでにも通常の戦闘機に乗るキャスカルは存在してはいたけれど、キャスカル専用機に乗るキャスカル、つまり、理論上のフルスペックを発揮しうるキャスカルというのは、イングリットたちが最初の世代だ。
過去のキャスカルたちもテストでは優秀な成績を残してはいたけれど、そういった理論上の数字を偉い人たちはなかなか信用しない。所詮はテストに過ぎないと、根拠もなく侮っているのだ。どんな驚異的な数字を出したところで、それがテストである限りは、女ののお遊びの曲芸飛行くらいにしか思わない。訓練用のテキストにまで、実戦においては最後の最後には闘争心の有無が勝敗を分けるのだ、なんていう非科学的な精神論が未だに書かれていたりする。空を飛ばない偉いおじさんたちは、そんな話を今でも大真面目に信じている。
実際に空にあがってみれば、どんな馬鹿でも、嫌でも思い知らされる。
空に人間の気持ちは通じない。
そこにあるのは自然現象と、物理法則だけだ。
世界を支配しているのが普遍的な物理法則である以上は、テストでそのような結果が出るのであれば、実戦でも同様の結果になるのは、当たり前の話だ。
「今日が、キャスカルが実戦に投入された初の戦闘だったことになる。そして、初の実戦で6-0という驚異的なスコアを叩き出したってわけだ。これで、キャスカルをただのイロモノ集団という目で見ていた軍の上層部も、その認識を改めざるを得なくなるのだろう」と、ゴードンが言う。飲んでいるのはコーラなのに、目元が酔っているみたいに熱っぽい。「そうなれば、お前たちだって実戦に出ることになるだろうな」
「ゴードンも、今でこそこうして普通な感じだけどさ。最初のころはわたしたちのことをそういう目で見てたよね」と、ゴードンの脇腹を突く。
「そういう目って?」
「イロモノを見るような、胡散臭いものを見るような、疑り深い目だよね。なにか隙があったら徹底的にあげつらってやろうって思ってそうな、悪意に満ちた目」
「そんなことはないだろ。いや、たしかにそんな感じだったかもしれないな」
ゴードンが妙にしおらしく、素直に「悪かったな」とか謝るものだから、わたしとウィルマは逆に慌ててしまって「いや、今となっては全然気にしてないから、大丈夫だよ」と、フォローをいれる。
別にゴードンが特別に意地悪だったというわけじゃなくて、だいたいみんなそんなものだ。キャスカルでないエビエータはキャスカルに対して、最初はあからさまに邪険にするか、ややセクシャルなちょっかいをかけてくるかの、どちらかの対応になりがちだ。
基地というのはどうしても、男の人が中心の社会だから、そこに若い女がヒョイと入ってくるだけで、どうやっても異質ではあるのだ。異質なものに対しては誰でも、多かれ少なかれ困惑する。
「まあでも、一度肩を並べて飛んでみれば、お前たちにしょーもない難癖をつけるやつなんか誰もいねぇよ」と、ゴードンは断言する。「空の上じゃ、性別も年齢も国籍も性癖も属性も、なにもかも関係がない。カテゴリー分けは、役に立つか、役立たずか、それだけだ。お前たちは決して、役立たずじゃない」
「あはは。まあそうだね。地面の上であれこれ言い争うより、空にあがっちゃったほうが話は早いよね」と、ウィルマが笑う。
一緒に飛んでみれば、わたしたちにも分かる。こんな風にいちいち言葉にしてくれなくても、同じ空を飛ぶ仲間として認められたということが。
地上の偉いおじさんたちよりは、エビエータのほうがそのへんのモノの見方は素直だから楽だ。空のうえにはシンプルな人間しか残らない。目の前の現実をあるがままに認められない人間は、すぐに墜ちるから。
「報復してくるかな」と、わたしが呟くと、ゴードンが「そりゃあ、してくるだろう」と、返事をした。
「先制してこっちの民間のヘリを撃墜したのはバークワースだ。こっちからすれば当然の報復攻撃だが、向こうも向こうで先に領空を侵犯したのはこっちのほうだと主張している。飽くまで境界水域上のことで領空には侵入していないというのがイルヘルミナの見解だし、仮にそうだったんだとしても、救助活動中の非武装のヘリをミサイルで撃墜するなんて狂気の沙汰だ。どちらも主張を譲らない。だから、最後には武力で白黒をつけることになる」
テレビのニュースでは繰り返し、そのあたりのイルヘルミナの主張が流れている。たくさんのバッヂを胸につけた年配のおじいさんが、怒りをあらわにしてバークワースを非難している。もちろん、これはイルヘルミナの番組だからイルヘルミナの主張に添うように報道されているけれど、バークワースでは同一の出来事が、また違った風に報道されていたりもするのだろう。
「すごく馬鹿みたいだね」
救助ヘリが領空を侵犯したとかしないとか、そんなのはすれ違いざまに肩が当たったとかと同じような話だろう。いい歳をした大人が国まで背負って、やっていることが路地裏の悪ガキたちとなにも変わらない。相手の顔を見て、すこし微笑んで「あら、ごめんなさい」とでも言ってやれば、それで済む話だ。
つまらないことにいちいち目くじらを立てて、腹を立てて、それで多くの助かったかもしれない民間人が死に、大事な戦闘機を六機も潰してしまったりするのだ。もちろん、大事なエビエータも。
怒っている人や目くじらを立ててヤイヤイと言っている人たちが死ぬわけじゃない。
死ぬのはいつも、無関係な人間だ。
「向こうは戦闘機を六機失ったが、死んだ数はこっちの民間人のほうがはるかに多い。おかげで、国内の世論は徹底報復のほうにかなり傾いている。イングリットの大勝利も、これをかなり後押しするだろう。戦争に……なるんだろうな」
ゴードンは憂鬱そうにそう言って、大きなため息をついた。戦争になるのが嫌なのだろう。
そりゃあ、積極的に戦争を望む人なんかそうはいない。人間は根源的に、そこまで野蛮な生き物ではない。味方はもちろんのこと、たとえ敵であろうとも、死なずに済むのであれば、なるべくなら人はあまり死なないほうがいい。
でも、わたしの心の奥のほうには、少なからずワクワクする気持ちもある。
戦争になれば、きっと今よりもっとたくさん空にあがれるだろう。
戦いの間だけは、自由に空を飛ぶことができる。
戦闘機を空に飛ばすというのは、とてもお金のかかることだ。やるからには、なにか目的がなければいけない。戦闘機を空に飛ばすという、そのこと自体は目的にはならないのだ。偉いおじさんたちは、戦闘機を飛ばさなくてはならない理由があるから、戦闘機を飛ばしている。
たとえば、敵の動きをいち早く察知するために。
あるいは、領空の制空権を維持するために。
けれど、多くのエビエータにとっては、空を飛ぶこと、それこそが目的なのだ。偉いおじさんたちの思惑など、空を飛ぶための口実に過ぎない。空にあがれるのなら、そんな地上の些事など、どうでもいい。
とりわけ、格闘戦ともなれば、すべてが自分の判断に委ねられるのだ。
どうせ、管制からの指示や事前の作戦に従っていられるのなんて、パーティーのはじまりを知らせる天使のファンファーレが鳴り響くまでのこと。格闘戦では、すべてはコンマ秒以下の速度域での判断になる。他人の指示なんて待ってはいられない。自分の直感を信じて、操縦桿を操作する。操縦桿を介して、思い描いた軌道を空間に、三次元的な曲線として表現する。ただ敵を撃ち墜とす、そのためだけに。
もちろん、人と人が争うなんてくだらないし、戦争なんてないに越したことはない。
実戦になれば、わたしが引いたトリガーが誰かを殺すことになるのだということも分かっている。
けれど目的がなんであれ、空にあがるのはいつだって最高の体験だ。
わたしもはやく、空を飛びたい。そう思う。
談話室をあとにして、食堂に顔を出す。もう夕食のピークの時間は過ぎていて、カウンターの奥でコジマおばさんが相変わらず芋の皮を無限に剥き続けているほかには、誰もいない。棚にはラップをかけた夕食のプレートがまだいくつか残っている。そのうちふたつはイングリットとエーコのもののはずだけど、他にもまだ食べてないのが何人かいるようだ。談話室でビールを飲んでいるうちに、夕食がどうでもよくなってしまったのかもしれない。
「コジマおばさん、ただいま!」
「ああ、おかえり。グランバザーは楽しかったかい?」
「うん、とっても」
イングリットとエーコはまだしばらく掛かりそうだと伝えると、コジマおばさんは「あらまぁ。それじゃあ、また帰ってきてから作りなおしてやろうかね」と、ふたりぶんの夕食のトレイを棚から下げてしまおうとする。
「あ、片付けるなら、それわたしがもらってもいい?」
出がけに夕食はいらないと言ってしまったけれど、上空を通過するスクワルトを見て飛んで帰ってきたから、結局、お昼以降はガレットしか食べていないのだ。なんだか慌ただしくてすっかり忘れていたけれど、食べものを目の前にすると急にお腹が空いてくる。
「ああ、もちろんいいよ。すこし温めてやろうね」
夕飯は揚げた芋と鶏、茹でて潰した芋、芋と豆のスープと、今日も芋づくしだった。これが毎日だとさすがにうんざりしてくるけど、コジマおばさんの味つけはやさしくて、基本的にはとてもおいしい。昼間に嫌になるほどお腹いっぱいに焼き魚を食べたから、味覚がリセットされて、食べ飽きたはずの芋のフルコースもまたおいしく感じられた。
「ああ、結局ぜんぶ食べちゃった。なんだか今日は食べてばっかりだなぁ」
「グランバザーで買ったのも、ほとんど食べ物ばっかりになったしね」
「まあね。だってなにを買ったところで、空のうえには持ってあがれないもの」
空のうえに持っていけるのなんて、この身体と、身体の内側に溜めたエネルギーと、あとは階級バッヂぐらいのものだ。空のうえには、想い出さえ持ってはいけない。空にいるあいだは、地上のことなんてなにも思い出さない。
「あ、そうだ。忘れてた」
わたしは鞄の中から、グランバザーで買ってきたドット柄の布を取りだす。
「コジマおばさん。これ、おみやげ」
カウンター越しに声を掛けると、コジマおばさんは眼鏡の位置をなおしながら「おやおや」と言って、包丁を置いて手を洗ってから、まだ湿った手でそっと布を受け取った。
「三角巾にどうかなと思って」
「まあ、ずいぶんとハイカラな柄だねぇ。おばさんにはちょっと派手かもしれない」
「大丈夫ダイジョーブ、これくらいでもぜんぜん似合うよね」
「そうそう。それに、せっかくなら明るい色のほうがいいよ」
わたしとウィルマが左右からステレオサウンドで口々にそう言うと、コジマおばさんは「そうかねぇ」と、はにかみながら、細かい花柄の三角巾をとって、ドット柄の布を頭に巻いた。
「あ、いいじゃん。似合ってるよね」
「うん、やっぱそれぐらいの色合いのほうが華やかだよ」
コジマおばさんは「そうかねぇ?」と、まだ納得してなさそうな声を出しながらも「ありがとう。大事にするよ」と言って、また芋の皮を剥く作業に戻った。うん、実のところ、さすがにちょっと派手だったかもしれないなあという疑念がなくもないわけでもない。でもまあ、許容範囲内だろう。なにごとにおいても、多少の誤差は受け入れなければならない。
食べ終わった食器を片付けて、カウンターの内側に回って洗ってしまう。下げ台に置いておくだけでいいことになっているけど、コジマおばさんはもう他の洗い物は済ませてしまったみたいだし、自分でやってしまったほうがはやい。
わたしがふたりぶんの食器を洗っているあいだに、ウィルマがコジマおばさんに「ポット借りるよ~」と声を掛けて、お茶の準備をはじめる。ケトルに水を張って、電熱コンロにかける。
「お茶も何種類か買ってきたの。ミッドランドの半発酵茶とか、あと変わり種だと白桃茶とか」
ウィルマが包み紙からブリキ缶を取りだして、蓋を開けてコジマおばさんに匂いを嗅がせる。コジマおばさんは白桃茶の匂いには露骨に顔をしかめていた。わたしもあれはどうなのだろうかと思ったけれど、ウィルマは気に入ったらしい。
そうこうしているうちに、玄関のほうがガヤガヤと騒がしくなった。ピュイーッ! という、甲高い口笛まで聴こえてくる。イングリットとエーコが帰ってきたのだろう。談話室で屈強な男たちに、ラグビーボールみたいに取り囲まれているに違いない。
あの調子だと、こっちに来るにはまだしばらく掛かるかなと思ったけれど、なんとか振り切ったのか、ふたりはすぐに食堂に顔を見せた。
「ああ~、もうつっかれた~~。コジマおばさん、まだ晩ごはん大丈夫~?」
入ってくるなり、イングリットはそう声をあげて、席についてテーブルにびろーんと伸びる。疲れているわりには、高級な猫みたいなしなやかな動きだ。
「ああ、もちろんだよ。いまから揚げてやるから、五分ばかし待っておくれね」と答えて、コジマおばさんは手をかざして油の温度をみる。電熱コンロのダイヤルをすこし回す。
「あれ? コジマおばさん、ずいぶんとオシャレな頭巾をしているのね」と、エーコがさっそく気付く。
「グランバザーで買ってきたの。わたしとウィルマで選んだんだよ」と、わたしが説明する。コジマおばさんはやっぱり確信が持てないのか「ちょっと派手じゃないかねぇ?」と、首を傾げる。
「え? いいじゃん。似合ってるよ」と、イングリットが笑って、エーコが「そうね。十歳は若返って見えるわ」と、褒める。
わたしとウィルマも「そうだよ」と、口を揃えるけれど、実際のところ、コジマおばさんが何歳なのかを知らないので、何歳に見えていれば十歳若返っていることになるかは不明だ。十年前からコジマおばさんはコジマおばさんをやっていそうだし、十年後でもコジマおばさんのままって気がする。
コジマおばさんが鶏肉を揚げてお皿に盛って、わたしはそれをウェイトレスみたいにテーブルまで運ぶ。フルサービスだ。
「あら、致せり尽くせりね。お姫様になったみたい」と、エーコが言う。
「まあ、今夜はね。パーティーの主役だもの」と、わたしは答える。
ふたりの食事が終わるのを待って、ウィルマが無難に烏龍茶を淹れる。お茶は取っ手のない透明の小さなグラスで飲むのが南部流だ。お湯もガンガンに沸かすから、グラスは最初、手で持てないくらいに熱い。わたしの出身の北部のほうでは、お茶には陶器製の取っ手がついたカップを使うし、お茶もそこまでチンチンに温めない。
不合理だなとは思うけど、グラスで飲む熱いお茶は、見た目には色合いがとても綺麗だ。底のほうで、お茶の葉のくずがくるくると泳いでいる。
わたしは烏龍茶はストレートで飲むけれど、イングリットは紅茶だろうと烏龍茶だろうと、とにかく砂糖をたっぷり入れて甘くする。きっと、お湯しかなくても砂糖を入れて飲むだろう。エーコはマーマレードやはちみつを足して飲むのも好むから、コジマおばさんには不評だった白桃茶も喜ぶかもしれない。どういうわけか、男女問わず、優れたエビエータには甘党が多い。
準備をすっかり済ませてから、わたしとウィルマも席につく。ついに、待ちに待った本題だ。
「このあと、談話室にもまた顔を出すことになってるから、手短にね」
「夕食がまだだからって言って、振り切ってきたのよ」
イングリットの言うことに、エーコが補足をつける。このふたりが話すときは、だいたいいつもこういう役割分担になる。イングリットがリードして、取りこぼしをエーコが潰す。この分担は、空にいるときも同じだ。
「スクワルトの最大積載状態での機動試験のために、増槽と兵装を満載してアナトリア高原上空と飛んでいたの。そこで例の海難事故の件で緊急要請が入って、燃料も兵装もたんまりと積んでいたから、わたしたちはそのまま境界水域に急行した。水平線のうえに敵機を視認した時点で、目算でこちらは高度で2000、速度では600くらい優勢だった。敵は海難事故の様子を見るために高度も速度もすでに落としていたのね。無線で地上管制に敵影視認の連絡を入れて、次の指示を待つあいだも速度と高度は維持し続けた」
戦闘機による格闘戦というのは、絶えず高度と速度を相互に変換しながら、うまく相手の背後をとるゲームだから、高度と速度を足したポイント、つまりポテンシャルがより高いほうが絶対的に強い。敵より高い位置にいれば、その位置エネルギーを重力加速で速度に変換できるし、速度で勝っていれば一気に高度を稼ぐこともできる。より高く、より速度のあるほうが、取れる戦術の幅がひろがる。だから、なるべく無意味な減速や降下はしたくない。
「レーダーが敵機を捕捉したのと同時くらいに、敵がミサイルを発射。イルヘルミナの救助ヘリを撃墜した」
一般に信じられているほどには、レーダーの性能は高くない。可視光線よりもずっと波長の長いレーダーの電波は理論上はかなり遠くまで届くはずだけれど、実際には大気中のエーテル分子に大部分が欺瞞されてしまうからだ。見通しがよければ、キャスカルの目のほうが敵影を見つけるのはずっとはやい。
エーテルの欺瞞効果さえ克服できれば、そもそも戦闘機を飛ばす必要すらなく、地上からミサイルを誘導するだけで済むようになると主張する軍事学者もいるけれど、実用化の目途も立たないのだから、たらればの話をしても仕方がない。
「地上管制に迎撃するか、指示を仰いだ。そのあいだも速度は維持していたから、八秒以内の会敵が予想された。わたしは高度を上げて、管制からの返答を待った」
高度をあげれば、ポテンシャルを維持したまま会敵のタイミングを遅らせられる。でも、飛行機は無限に高度を上げることはできない。上がれば上がるほど、空気が薄くなるからだ。
「会敵の二秒前に、管制から返答。迎撃の許可が出た。増槽を捨てて背面に入れ、敵機をかなり下に見ながら水平にすれ違ったあとで、速度を維持したままピッチアップして、高度150くらいで敵のおしりにくっついた。こちらの速度が圧倒的に速かったから追い抜いてしまうところだったけれど、そのまま追い抜きざまにミサイルを発射して一機を撃墜」
スプリットSという機動だ。速度を上げるとループ半径が大きくなってしまって、下手をするとそのまま地面にキスをしてしまう。だから普通はループの最中は速度を落とす。でも、絶対的に高度は失うわけだから、速度まで落としてしまうと、その次の機動が限られてしまう。
だからといって、フルスピードで海面に突っ込んでいくのなんか、常人の神経では耐えられるものじゃない。高度150というのは、体感的には墜落寸前の海面スレスレだ。敵のエビエータからすれば、いきなり背後にイングリットの機体がワープしてきたかのように感じられただろう。
「45度にバンクして、上昇しながらレーダーを確認。この距離になればレーダーも信用できる。背面に入れて次の敵を目視。残りは三機。エーコが一機の後ろにはりついていたけれど、こいつは腕が良さそうだった。たぶん、あれが一番機だね。動きが違った。他の二機はまるで素人。大きく旋回していたところに真っ直ぐ降下していってミサイルを撃っただけ。二機目を撃墜。エーコはまだ手こずっていた」
イングリットがエーコにも話を振るけれど、エーコは「わたしの話はなにも面白くないわ。みんなイングリットの話を聞きたがってるの」と、先を促す。
「スライドして、残りの一機に機首を向けた。これは完全に勘だったんだけど、意外といい位置に出たから、そのままパワーで近づいた。相手がバンクを戻していたら難しかったけど、逃げるほうに切ったからいい感じに餌食になった。まだ飛んでたけど、無力化はできたようだったから、それ以上は深追いしなかった。たぶん、家までは帰れなかったんじゃないかな」
イングリットが右手と左手をそれぞれ自機と敵機に見立てて、位置関係と機動を説明してくれるけれど、三次元的に自由に飛び回る飛行機を表現するには、手首の可動域はぜんぜん足りない。だんだんと極東の仏像めいた奇妙なポーズになってくる。
「で、さらに二機増援が来たけど、それもいい感じに撃墜して終わり」
腕がこんがらがってきて面倒になったのか、後半は露骨に雑にまとめて、イングリットは話を終える。
「えっと、じゃあ五機?」と、ウィルマが指折り数える。
「そう。わたしが一機を相手しているあいだに、イングリットがひとりで五機も墜としちゃったの」と、エーコが肩をすくめる。「しかも、五発で五機」
それぞれの戦闘機には積める兵装の限界があって、スクワルトはかなり大型の機体だから、単距離空対空ミサイルなら最大で十発抱えられる。一撃必中なら、一度の出撃で敵を十機墜とせるということだ。でも、それは飽くまで理屈のうえでの最大値。
「あ、ふたりで六機って、五機と一機だったんだ?」
「そういうこと」
もちろん、エーコの無傷で一機撃墜も十分な戦果なのだけど、それ以上に、イングリットの戦績は異常だ。空を飛ぶ航空機というものが実用化されてから、およそ百年。飛行機を使って戦争ばかりしてきたこの世界においても、初戦で五機撃墜は人類史上初の快挙なのではないか。
「え? ひとりで五機ってことは、イングリットは初戦にしてエースパイロットの資格を得たってことだよね?」と、ウィルマが言う。むかしはエースパイロットというのは「強いやつ」っていう意味の曖昧な称号でしかなかったけれど、今では軍規で規定された正式な称号になっている。撃墜数五が、その条件だ。
「どうやら、そういうことらしいね」と、イングリットは特になんの感慨もなさそうに笑って、冷めてきたお茶にようやく手をつけた。
「え~、すごいな~。わたしもはやく実戦で飛びたい」と言って、わたしも笑った。
結果的に言えば、わたしのこの希望はすぐに叶えられることになった。
この翌日には、バークワース連合王国がイルヘルミナ公国に対して宣戦布告をしてきたのだ。