2. The Green Tail
-デレク・キムラ-
高度三万フィートを巡行速度で気持ちよく飛んでいたら、コックピットの後方で爆発音がして、洗濯機に放り込まれたみたいに錐もみ回転をしながら、わけもわからないまま緊急脱出した。
ベイルアウトして墜ちた先は魚屋のトレイみたいに四角く硬いベッドの上で、知らない男が僕の顔をうえから覗き込んでいた。やや遅れて、夢を見ていたのだと気付く。ガレットみたいに毛布にクルクルとくるまって寝ていたところを、片側から勢いよく毛布を引き抜かれたから、ベッドのうえでバレルロールする羽目になってしまったのだ。
「おはようやな」
「おはようございます」
「はじめましてやな。俺はイーサン・リー」
「デレク・キムラです。えっと、今日からこの基地に配属になりました」
「知ってるやな。ブリーフィングやで。支度するやな」
以上のすべてのやりとりが七秒以内に完了して、僕は三秒かけて起き上がり、ベッドから足をおろした。癖で、イーサンと名乗った男の階級章を素早く確認する。上官ではない。つまり、同僚ということになるのだろう。ネームワッペンで綴りも確認する。珍しい名字だ。言葉にすこし、いやかなり、独特の訛りがあるし、顔立ちも極東系だ。ミッドランドだろうか。年齢はよく分からない。僕より年下ということはなさそうだけれど、若そうには見える。
「えっと、いまは何時ですか?」
どういう口調で話すべきか少し悩んで、結局、カジュアルな敬語くらいの水準を採用する。階級的にはそれで問題はないはずだ。
「十六時半やな」と、イーサンが左手首のクロノグラフを確認して答える。
昼もとっくに過ぎている。こんな時間まで眠ったのは久しぶりのことだ。
「ああ、すいません。到着したのが深夜……というか、早朝だったので」
昨夜は夜じゅう延々、悪路をバスで揺られて、結局、基地のゲートをくぐったのは明け方の五時になってからだった。異動といっても、てっきり飛行機でひとっ飛びだと思っていたのに、まさかひたすら地上をゴトゴトと運ばれる羽目になるとは思っていなかった。その前はひたすら海のうえで波に揺られてゲロを吐きまくったし、売られていく牛にでもなったような惨めな気分だった。
飛行機もなしにパイロットだけを送り込むなんて、アルメアはいったい僕をどうするつもりなのだろうか。パイロットは自力で空を飛べるわけじゃない。飛行機がなければただの人か、むしろ、それ以下だ。
おまけに、基地についたらついたで、僕の赴任の話がちゃんと通っていなかったらしく、あやうくゲートのところで不審人物として捕まえられるところだった。身分証やら辞令書やら、その他ありとあらゆる書類やらを提示しても、初老の警備員は「君がパイロット? 本当に?」と、なんども眼鏡の位置をなおしながら、実に疑わしげな顔で僕の顔と書類とを交互に見比べていた。
その後、散々あちこちの窓口をたらい回しにされた挙句、ようやく寝ぼけまなこの人事担当者が出てきたと思ったら、なんの説明もないまま、この部屋に放り込まれた。それが朝の七時半くらい。
部屋には二段ベッドがあって、そのときは上の段ですでに誰かが眠っていた。たぶん、あれがいま目の前にいる、このイーサン・リーだったのだろう。つまり、彼が僕のルームメイトということになるらしい。
ベッドの下の段には毛布だけは用意されていたけれど布団がなかったし、毛布からは洗ってない犬の臭いがした。誰もなにも説明してくれないし、ルームメイトらしき男も気持ち良さそうに寝ているしで、仕方がないから着替えもせずにそのまま毛布にくるまって眠りについたのが、たぶん朝の八時くらい。
それにしたって、たっぷり八時間以上も寝ていた計算になる。起き抜けこそ身体がだるく感じられたけれど、起き上がってしまえば疲れはすっかり抜けていて、身体は快調だ。
今すぐにだって、空にあがれる。
「えっと、ブリーフィングですか?」
定例のブリーフィングにしては、時間帯が微妙な気がした。
「緊急やな。イルヘルミナと戦闘があったやな。グレモリーが六機も墜とされたらしいやで」
「へえ、それはそれは」
大損害もいいところだ。一日で戦闘機が六機も墜ちるなんて、普通はそうそうあることじゃない。なにしろ、戦闘機というのはとても高価なのだ。軍の偉い人たちは、敵の戦闘機を墜としてやりたいって思うのと同じくらいに、なるべく手持ちの戦闘機を墜とされたくないって考えている。だから、大抵の場合は戦闘といっても、まるでダンスパーティーでもするみたいにヒラヒラと飛び回って、お互いに牽制するだけ牽制しあって、時間になったらお開きになるというのが、ここのところのバークワースとイルヘルミナの状況だったはずだ。
少なくとも、僕はそのように説明を受けてここにきた。ハッカリで僕の上官だった男は「なんとか生き延びたな」と言って僕を送り出したし、僕もそう考えていた。次は、あまり喫緊の命の危機があるような戦場ではないと。
一日で六機も墜とされるなんて、ハッカリでもそうそう聞くような数字じゃない。大戦でもやっているみたいな景気のいい話だ。
「それで、こっちは何機落としたんです?」と、僕はイーサンに訊ねる。
航空戦というのはチェスと同じで、なるべく少ない手駒の消費で、相手の駒をより多く取り、盤面を制圧していく陣取りゲームだ。まあ、実際に空を飛んでいる人間にとっては、そんな一段上のテーブルゲームなんかどうでもよくて、とにかく目の前の状況に対応し続け、なんとか生き残るだけのことなんだけど。
でも、地上においては航空戦というのは、そういう種類の数字のやりとりなのだ。六機を消耗したということだけでは結果は判断できない。六機をつかって何機の敵を墜としたのか。それが重要だ。
「ひとつもやな」
「え? ひとつも?」
「せやな。ゼロ。ナン。ナッシング。ノットアットオール」
イーサンはおどけるように目をぐるりと回して、肩をすくめる。なんらかのジョークだったのかもしれないけれど、意味が分からなかったので無視する。イーサンは、僕に無視をされてもすこしも気にならないみたいだ。
「おかげで上は蜂の巣をつついたような大騒ぎやな。早速、誰が悪いやの誰の責任やの言うて、犯人探しが始まってるやで」
「ええ……? それはまた、ずいぶんな時にきてしまったなぁ」
司令官というのはいつだって、パイロットの腕が未熟なせいで高価な戦闘機が消耗してしまうと考えているし、パイロットのほうは司令官がアホな指示を出すせいで自分たちが死んでしまうと考えている。実際に、よりどちらの責任といえるのかはケースバイケースだろうけれど、死んでしまったパイロット本人にしてみれば、どっちだったとしても別に大差のない話だろう。なにしろ、もう死んでしまっているのだから。
そんなわけで、死人に口なし。往々にして、戦闘機の消耗はパイロットのせいにされてしまう。けれど、一度に六機ともなると、そうも言っていられないだろう。アホで間抜けなパイロットが六人も一同に会することなんてそうそうあることではないし、仮に六人のパイロット全員がアホで間抜けだったのだとしても、それならそれで、そんなアホで間抜けなパイロットを六人もまとめて飛ばした司令官がアホで間抜けということになる。
「まあ、そのへんもここで曖昧な噂話をしているよりは、ブリーフィングで正式な報告を聞いたほうが早いやな。準備は……だいたいできてそうやな。ほな行くやで」
ジャケットも着たまま、ネクタイも締めたままで眠っていたから、まあ全体的に皺くちゃでヨレヨレになってしまってはいるけれど、あとはブーツの紐さえ締めればすぐに出られる。足をブーツに突っ込んで立ち上がる。イーサンがさっさと部屋を出ていってしまったから、慌てて僕もあとを追う。なにしろ、この基地のどこになにがあるのかも、まだ把握していないのだ。イーサンを見失ったら、ブリーフィングの場所にも辿り着けない。
「お前も極東系の顔つきやなけど、ミッドランドとは違うやな。セオルか?」
足早に前を歩きながら、イーサンが振り向きもせずに質問してくる。
「いや、僕はトーワです」と、返事をすると、イーサンは「僕? 僕やて?」と言って振り返り、ようやく笑った。笑うと、わりと愛嬌がある。
「なんやお前、僕ちゃんか?」
イーサンは、僕やて? と、しつこく繰り返しながら、ムッフフと笑う。よっぽど面白かったらしい。なにが面白いのかは、僕にはさっぱり分からない。文化が違うと笑いのツボも異なっているというのは、よくあることだ。
「俺はミッドランドやな」と、笑いを堪えながらイーサンが言う。「あとは、小隊長もミッドランドや。二番機はカドローナ。トーワのやつは、はじめてやな」
僕が所属しているのはアルメアの外国人部隊だ。アルメアはベイルーシュ連邦と世界を二分してあっちこっちの戦争に首を突っ込みまくっている傍迷惑な大国で、イルヘルミナ公国との緊張状態が続いているバークワース連合王国とも同盟関係にある。それで規定数の援軍を出すことになっているのだけど、アルメア国内の世論は厭戦ムードに傾いていて自国民は派遣しづらい。だから外国人を集めて頭数を揃えて、それを諸国に送り込んでいるのだ。
そんなわけで、トーワとかミッドランド出身の極東系の顔をしたパイロットが、アルメア軍の制服を着て、バークワースで戦闘機に乗りイルヘルミナと戦うなんてことになる。
「まあ、トーワはもうありませんしね」
僕は僕自身のことをトーワ人だと自認しているけれど、トーワという国は今ではもうない。前の大戦でアルメアの爆弾で根こそぎ吹っ飛ばされたあとで、いくつかの国に分割統治され、最終的に国土はすべてセオルに吸収された。僕の国籍はセオルになるから、イーサンの見立てはあながち間違いでもない。
でも、だいたいのトーワ人は自分をトーワ人だと思っていて、セオル人と呼ばれることを好まない。そういう細かいことが、いちいち民族紛争の種になる。そうやって、世界はずっと戦争を続けている。
「ここにくる前はどこにいたやな?」
「ハッカリです」
「そりゃあまた」と言って、イーサンはヒューと口笛を吹く。
ハッカリはバークワースからだとアルメアを挟んでまったくの逆方向で、ぐちゃぐちゃの民族紛争をもう百年以上もずっと続けているところだ。アルメアとベイルーシュの代理戦争に巻き込まれて、もう何処と何処がどんな理由で戦っているのか、正確なところは誰も把握していないんじゃないかと思う。戦争をしているから、戦争をし続けている。ただ自分が生き残るために、目の前の敵をぶっ飛ばす。そういう、この世の地獄みたいなところだ。
そこで一年、なんとか生き延びてきた。僕のキャリアは、まだそれだけだ。
「ぐるっと地球を半周やん。ようこそバークワースへ。機体は? なにに乗ってたやな?」
「ブログラーです」
「せやったら同じやな。こっちでも俺ら外国人部隊の主力はまだまだブログラーや」
「それはよかった」
僕はなんでもない風を装ってフラットな調子でそう言ったけれど、実のところ、それはこの基地に到着して以来一番の、口笛を吹きたくなるくらいに最高な良い知らせだった。
「格納庫にお前の機体が準備されているはずやな。あとで見てきたらええやな」
「そうします」
宿舎の建物を出て、中央棟らしき大きな建屋へと向かう。滑走路と、その向こうに格納庫らしき大きなアーチ型の屋根が見えた。アルメア本土のものに比べると、基地と呼ぶにはいささか牧歌的な印象ではある。原っぱの表面をちょいとアスファルトで固めましたという感じだ。それでも、設備的にはハッカリよりはいくらかマシだ。
それでも中央棟は頑張っているほうで、それなりに基地っぽい格式ばった雰囲気に仕上がっていた。エントランスから真っ直ぐに廊下が伸びていて、その突き当りがブリーフィングルームだ。イーサンに続いて中に入ると、すでに十人ほどが着席していた。大半はバークワースの軍服を着ているけれど、僕たちと同じアルメアの制服の者も二人いる。ひとりが同僚で、ひとりは隊長だろう。四人いるなら、普通はそういう配置だ。
イーサンがアルメアの制服の男のひとりに僕を紹介する。
「セブ、新入りやで。……えっと、なんて名前やったっけ?」
「デレク・キムラです」
「ああ、そう。トーワの名前は変わってるから、覚えにくいやな」
男が立ち上がり、右手を差し出す。僕はその手を握り返す。上下に二度振る。軍人の挨拶にしてはかなりカジュアルだ。このへんは、気楽な外国人部隊だからだろう。アルメアは傭兵という制度は採用していないことになっているから、僕たちは建前上はアルメアの正規軍ではあるのだけれど、事実上は完全な傭兵なので、このへんの気風も傭兵てきになりやすい。つまり、敵をぶっ飛ばしてくれるのなら、細かいところはどうでもいい、という風にだ。
「セバスチャン・ワンだ。セブと呼んでくれ。このワンは数字じゃなくてファミリーネーム。コールサインはヴォルチャー1。こっちのワンは数字だ。いちおう、私が君が配属されたヴォルチャー隊の隊長ということになっている。よろしくな」
セブがそう言って、僕の肩をポンポンと叩く。もうひとりの男は椅子に座ったまま「ゲドワード・ジョーンズだ。ゲドでいい」と言った。それで自己紹介は終わりのようだった。この四人でヴォルチャー隊という小隊を構成するのだろう。一番新入りの僕が、ヴォルチャー4になるはずだ。
ゲドに、こちらから握手を求めるべきだろうかと考えたけれど、そこで三本線の入った制服を着た太った男が部屋に入ってきて皆が着席したので、僕もそれに倣った。僕たち四人はバークワースにおいては外様なので、一番後ろの一番隅だ。
「どうも、諸君。察しているとは思うが、最初に断っておくと、非情にゆゆしき緊急事態だ」
男の第一声は軍人にしては柔和で、それほど悪い印象は受けなかった。紹介はなかったけれど、この基地の司令官なのだろう。
「それでは、ブリーフィングを始める」
太った男が発言したのはそこまでで、そこから先は別の若い士官が説明を引き継いだ。たぶん、副司令官とかそういう役職だ。切れ長の目をした鋭角な印象の男で、こちらはあまり信用しないほうがいいタイプだなと、僕は直感で決めつける。完全な偏見だけれど、それほど大きく外れるということはない。
「さて、本日イルヘルミナとの境界空域にて、イルヘルミナ籍と思われる不明な機体が領空を侵犯しているとの報告を受け、ラクーン隊の四機が現場に急行した。ラクーン隊からの無線報告では……」
男の説明は諸々の軍事的な専門用語でトッピングされていて、それを適宜、頭の中で一般的な語彙に置き換えながら聞く必要があった。そういった装飾を排して、おそらく客観的な事実であろうと思われる部分を抜き出すと、つまりこういうことらしい。
島国であるバークワースとイルヘルミナ半島を隔てている黒海の沖合で、イルヘルミナ籍の中型貨物船舶が火災を起こし、救助を要請した。現場に最初に到着したのは、たまたま近くにいた船から離陸した貨物輸送用の大型双発ヘリコプターで、これは軍属ではなく民間のものだったようだ。すでに舵を失い潮に流されていた貨物船は、バークワースの主張によればバークワースの領海に侵入してしまっていたらしい。そして、救助に駆け付けた民間のヘリが、バークワースの主張するところの「領空侵犯した不明な機体」だ。
現場に急行したラクーン隊は、規定に従い双発ヘリに領空侵犯を通告し、退去の警告をした。しかし、双発ヘリはこれを拒否して救助を続行。じきにイルヘルミナからも戦闘機が二機駆けつけ、船舶火災を挟んでバークワースの四機とイルヘルミナの二機が境界空域上で睨み合うこととなった。
双発ヘリは再三のラクーン隊の警告を無視して(バークワースが主張するところの)領空を侵犯し続けた(つまり、船舶火災の救助活動を続けた)ので、ラクーン隊はこれもまた規定に従い、ミサイルでこれを撃墜した。
相手は民間の非武装のヘリであり、船舶火災の救助活動中であることが見て明らかだったのだから、正直、それもどうかとは思うけれど、すべては正式な手順に則った妥当な対応だったというのがバークワース側の主張だ。
それに対し、イルヘルミナの二機は即座に応戦。この二機によって、ラクーン隊が二機、それもかなりの短時間で撃墜される。さらにバークワース側からは付近を飛行中だったハンマー隊の二機も応援に駆けつけたが、この二機も含め、最終的には六機の戦闘機すべてが撃墜された。
とはいえ、現場にいたバークワースの人間は全滅してしまったから詳細は不明。墜ちる前のパイロットの音声通信の記録から、こういうことが起こったのではないかと推測される、ということだ。
「イルヘルミナのこの機体は、不明な新型機と思われる。憶測の域を出ないが、例の……キャスカルが搭乗していた可能性もある」
キャスカルという語を言うとき、男はなんとも言えない微妙な表情を見せた。嘲笑、と表現するのが近しいかもしれない。まあ、自分も真に受けているわけではないけどね。馬鹿げた冗談だ。そういう感じの顔だ。
それは知らない語だったけれど、とくに説明もなかったから、別に知る必要のない情報ということなのだろう。僕はそれを、脳内のコルクボードにいちおうピン留めしておく。
「現在、バークワースはイルヘルミナへの非難声明を出している。この先の状況はまだ不明瞭だが、これまでになく非常に高い緊張状態であることは間違いがない。近日中に、大規模な作戦が展開される可能性もある。その可能性は高いと思っておいてくれ」
以上、なにか質問は? と、男が言って、視線を巡らせた。誰かがキャスカルについて質問してくれないかなと、すこし期待したけれど、誰も挙手はせず、これでブリーフィングはお開きになった。
みんな疑問がないわけじゃない。きっと疑問だらけだっただろうけれど、この場で質問しても、必要な回答は得られないと分かっているのだ。つまり、僕たちにとって、現実に意味のある回答は得られないという意味だ。
建屋を出たところで、またセブが僕に声を掛けてきた。
「赴任早々、慌ただしくてすまないな。なにか困っていることはないか?」
つい反射的に「いえ、別に」と、言ってしまったけれど、とても重要なことを思い出して、僕は慌てて付け加える。とても困っていたのだ。
「あの、自分のベッドに布団がありません」
「布団?」と、セブは眉尻を下げる。布団なんて言葉は生まれてこのかた聞いたことがない、みたいな顔だった。なにか間違えただろうか。
「はい、ベッドに毛布はありましたけど、敷布団? マットレスがありません。あと、毛布もなんだか、洗ってない犬みたいな臭いがします。昨夜……というか、今朝かな。今朝は質問できそうな人が誰もいなかったので、とりあえずそれにくるまって寝たのですが」
僕がそう説明を続けると、横でイーサンが「ああ、それは俺の毛布やな」と、言った。
「俺は冬以外は毛布を使わんやから、下に置いてたやな」
「ああ、それは」
えっと、謝ったほうがいいのだろうか? 洗ってない犬みたいな臭いと表現したことについて。でも、イーサンはその点に関しては気にしているようにも見えないので、別にいいのかもしれない。まあ、身体から洗ってない犬みたいな臭いがするのなんか、軍人ならそれほど珍しいことでもない。
「ああ、布団!」と、セブがようやく合点がいったという顔をする。「情報を整理すると、つまり、君の寝具一式がなにもないということだな。それは悪かった。あとで持っていかせよう」と、苦笑いしながら言って、また僕の肩をポンポンと叩く。
このセブのポンポンがどういう意志表示なのかはよく分からないけれど、僕が他人の微妙な仕草から意味や意図を拾えないのはいつものことだから、あまり気にしないことにする。最近では、僕はそういうのはすっかり諦めてしまっているし、外国人部隊においては往々にして上官たちも、兵士のそういう部分に関してはあまりなにも言わない。
どこのどんなヤツだろうと、空にあがって敵を撃ち墜とせるのなら、細かいことはどうでもいい。外国人部隊のそういうざっくりとした気質は、僕に合っている。
セブは、僕の直感的な印象としては、悪い人ではなさそうだった。
なんとなく、どこか懐かしい気がして、親近感がわく。
誰かに似ているのかもしれない。誰だっただろうか。
「俺らもイントネーション違うやけど、僕ちゃんは僕ちゃんでまたちょっと違うやから、ときどき難しいやな」
セブが立ち去ったあとで、イーサンが僕にそう言った。
「ああ、布団の発音が違う?」
「布団やな」
「うん、布団だね」
「ちゃうちゃう。せやから、布団やて」
僕の言う布団とイーサンの言う布団の、どこがどう違うのかは結局よく分からなかったけれど、これからは布団のことはマットレス、あるいは寝具と呼ぶようにしようと、僕は強く決意した。
「えっと、僕の機体はどこにあるの?」
「あっちの格納庫やな。一番端の、七番や」
「ありがとう。ちょっと機体を見てくるよ」
軽く手を挙げて、イーサンと別れる。格納庫は滑走路を横断してしまえばわりと近い。あたりはシンと静まり返っていて、車両や機体が往来しそうにはない。けれど、僕は規則通りにぐるっと基地の外周を回るようにして格納庫へと向かう。
非常にゆゆしき緊急事態だとは思えない、穏やかな陽気だった。風にはまだすこし冷たさが残っているけれど、太陽の光に直接炙られると、そこだけはジリジリと暑い。どこで、誰と誰がどんな理由で戦争していようとも、世界のほうはそんなことはこれっぽっちも気にせず、長閑なものだ。
七番の格納庫は一番端なぶん、外周を回っていくと一番近くになる。格納庫の入り口の脇で、青い作業着の男が木箱に腰掛けて煙草を吹かしていた。距離は200くらい。150まで近づいたところで、右手を挙げて挨拶する。ヴォルチャー4、交戦開始。
「こんにちは」
「ええ、なにか?」
近づいてみると、男はまだずいぶんと若そうに見えた。整備兵で若いのは珍しい。特に、なんていうか、こういう玄人じみた雰囲気を醸し出しているやつは。
男が煙草を靴底で揉み消して立ち上がる。上からいくのか、下からいくのかを考えているようだ。つまり、僕に対しての自分の相対的なポジションをどこに置くかを探っているという感じ。一般的には、整備兵はパイロットに対しては下からいくのが定石のようだけど、僕の場合、見た目の問題で彼らのそのへんの判断を混乱させてしまうらしい。
要するに、小柄であまり偉そうには見えないということ。ナメられやすいということだ。
でもまあ、少しナメられているくらいのポジションのほうが、わりと居心地がよかったりもする。なにごとにも、それぞれに適した高度というのがある。闇雲に高度を稼ぎにいけばいいというものでもない。それにどっちみち、そんなのはすべて地面のうえだけでの話だ。地上のことは、おしなべてどうでもいい。
空のうえでは誰も僕をナメてかかってきたりはしない。ナメてかかってくるやつはすぐに墜ちるから、もう空のうえにはいない。
「今日からこちらに配属になったんです。僕の機体があるはずなんですが」
僕がそう言うと、男は「ああ」と手を叩いて「それならこっちだ」と、親指で奥を指し示す。どうやら、上でも下でもなく中くらいでいくことにしたらしい。僕としては、別にどのような判断をしてもらっても構わない。
「ライナー・ケルナーだ。アンタたちの機体の整備を担当する」
「デレク・キムラです。よろしくお願いします」
ライナーの先導で、中途半端に引き上げられた格納庫のシャッターを、頭をさげてくぐる。
格納庫の中には白い水銀灯のあかりに照らされたブログラーが四機、機首を寄せ合うようにして駐機されていた。まるで、おおきなカラスが秘密の相談をしているところみたいだ。
「バークワースの正規軍のお坊ちゃんたちは、最新のグレモリーに乗ってるが、アンタたち傭兵さんは残念ながら使い古しのブログラーだ」
そう言って唇を曲げるライナーに「とんでもない」と、僕は応じる。「なにが残念なものか。ブログラーは最高の飛行機だよ」
ブログラーは前の大戦の終末期に驚異的な活躍をみせた機体で、当時は世界最強と言われていた。とにかく、全体としての完成度が高い。そして、航空機というのはなによりも、この完成度というのが重要なのだ。
「たしかに設計としては一世代前のものになるけれど、そのぶん改良が重ねられているから安定性が高い。つまり、信頼できるってこと」
僕が言うと、ライナーは「その通り」と、指をパチンと鳴らす。
「こいつはなにしろ運用歴が長いからな。なにをやるとどこが壊れるのか。どこに異常が出ていたら、ついでにどんなことに気をつければいいのか。そういうデータの蓄積が豊富だ。こいつのことは、もうなにもかも分かっている」
「最終型のEGだね」
「お、分かるか?」
「うん。テールコーン横のアンテナの形状が違う。それに、あっちの一機はEGMか」
「へえ、詳しいな。あれは一番機。セブの機体だ。基本は変わらないが、アビオニクス系が改善されている」
美しい光景だった。
僕はゆっくりと機体に歩み寄りながら、思わず感嘆の声を漏らす。
ブログラーは完璧に完成された、実に美しい飛行機だ。
どこにも挑戦的な要素のない、いかにも戦闘機という感じのオーソドックスなデザイン。しかし、細部の形状は徹底的に煮詰められている。胴体から主翼までの曲線は滑らかに繋がっていて、前縁は真上から見ると後方に向かって緩やかなS字を描いている。後縁には幅の広いフラッペロン。翼下にはハードポイントが増設されていて、増槽も兵装もたんまりと抱えられる。水平尾翼は全遊動式だ。これは左右を差動させることもできるから、ピッチングだけじゃなくローリングにも使える。主脚の収納扉は前後に開くようになっていて、あまり知られていないけど、これはいざという時には追加のエアブレーキとして使うこともできる。
完全に完成されたフォルムだ。少なくとも、この方向性ではこの機体形状を超えるものは、もう出てこないだろう。近年、アルメア及びその同盟軍では完全新型の後継機、グレモリーに主力を移しているようだけれど、空を飛ぶ性能を信頼性や整備性までを含めた総合点で比較してみれば、まだまだブログラーのほうが優れているのではないかと思う。
僕がそう思うのは、きっとブログラーのほうがグレモリーよりも見た目が美しいからだ。
見た目の美しさが性能に直結するというのが、飛行機の良いところだ。形状が美しい飛行機は、それだけで既にもう優れている。そのあたりがすこし、人間とは違う。
「前もブログラーに乗ってたのか?」と、ライナーが訊いてくる。
「うん。これよりも、もっとずっとペコンペコンだったけどね。こっちの機体のほうが、見るからに状態がいい」と、僕は返事をする。手を伸ばし、そっとブログラーの冷たい機体に触れる。
「最高だよ、ライナー。今からもう、ワクワクする」
フンッと、ライナーが鼻を鳴らした。笑ったのかもしれない。
「パイロットってのはどいつもこいつも、どうしてそうなんだか」
そんな呟きが聞こえた気がしたけれど、僕に話しかけているのか独り言なのかが微妙だった。仮に僕に言っていたのだとしても、なにが「そう」なのかはよく分からない。だから僕は、ただ黙ってブログラーを見上げる。
「そっちの奥のやつが四番機、アンタの機体だ」
「ありがとう。コックピットを見てみてもいい?」
「ああ、もちろん。それはもう、アンタのだ」
ライナーが梯子をかけて、キャノピーにかけられていた保護カバーを外してくれる。滑らかな球形のキャノピーは後ろヒンジで、中ほどからパカッと大きく開く。ブログラーのタイトなコックピットは、小柄な僕のためにわざわざあつらえてくれたみたいに、ぴったりと身体にフィットする。
僕よりもずっと身体の大きいイーサンやセブなんかは、どうやってこの空間に収まるのかなと、すこし考える。操縦している間じゅう、艦載機みたいに手足を畳んでいるのだろうか。
操縦桿は右手側のサイド。これはブログラー以降の戦闘機の特徴で、足の間に操縦桿がある旧式設計に慣れたパイロットは、最初は苦労するらしい。僕は練習機をのぞけば、初めて乗ったのがブログラーだったから、とくになんとも思わなかった。黒い樹脂のグリップの手前側が、擦り切れてツルツルに光っている。それ以外は、どこもまるで新品みたいに綺麗だった。
前に乗っていた機体には、どこかの頭のイカれた哲学者の「神は死んだ」みたいな格言が刻まれていた。落書きくらい別にどうでもいいけれど、空戦の間、ずっと眺めていたいほど気の利いた言葉だとは思わない。尖ったもので引っ掻いて書いたみたいで、消すこともできなかった。たぶん、ちょっと頭のおかしいやつが前に乗っていたのだ。
始動してもいないのに、操縦桿を軽く握っただけで、心が躍った。
はやく飛びたい。そう思った。
身体をここに置き去りにして、僕の心だけが一足早く、空のうえに昇っていってしまったみたいだった。
「前任者が尾翼に被弾したんだ」
下からライナーの声がして、離陸しかかっていた僕の心が寸前のところで身体に戻ってきた。僕はコックピットから頭だけを出して、尾翼を目視確認した。
「綺麗なように見えるけど?」
「ああ、もうすっかり直っている。なんの問題もなく、今すぐにでも飛べるさ。ただ、塗料の手配が間に合わなかったんで、まだ下塗りのままで尻尾だけ緑だけどな」
「ちゃんと飛べるなら、外側の色なんか別にどうだっていいよ。どうせ、コックピットに入っちゃえば自分ではあんまり見えないし」
「違いないね」
ライナーはしばらくの間、細々としたことで僕に話しかけてきていたけれど、いつまで経っても僕がコックピットから出てこないから、しばらく放っておくことにしてくれたみたいで、いつの間にか気配がなくなっていた。
ブログラーと僕の、ふたりだけの穏やかで静かな時間が流れた。
これが水銀灯に白く照らされた格納庫の中じゃなく、空のうえだったらもっと素敵だっただろう。
でも、もうすぐだ。
もうすぐで、また空を飛べる。
僕がこのブログラーに乗る限り、相手がどんなやつだろうと、必ず撃ち墜としてみせる。