表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
10/14

10. Engage

-デレク・キムラ-


 暗闇の中で目を覚まして、慣れない柔らかなマットレスの感触に一瞬戸惑った。


 そのまましばらくジッと目を開いていたら、暗闇に目が慣れてきて部屋の様子がうっすらと見えてきた。左手を毛布から出し、腕時計で時間を確認する。午前四時。窓の外はまだ暗いけど、夜中というよりは早朝と言ったほうが近い。


 さすがに早起き過ぎるから、もうひと眠りしようかと目を閉じてみたけど、寝具に残った他人の匂いというか、気配のようなものが妙に気になって落ち着かない。いったん気にしはじめると、すっかり目も冴えてしまう。


 僕は二度寝を諦めて毛布をはねのけて起き上がり、ベッドから足を下ろしてブーツに突っ込んだ。


 部屋の天井には立派な電灯がぶら下がってるけど、送電が止められているからスイッチはつかない。でも、庭先に古風な手動ポンプの井戸があって、幸い水に毒を流されているなんてこともなかったし、ガス設備はボンベ式で中身もそのまま残されていたから、そのへんにあったゴムホースを繋いで給水塔にポンプで水を上げてやれば、熱いシャワーを浴びることもできた。


 快適なのは不快なのより喜ばしいことだけど、でもやっぱり、ついさっきまで見知らぬ誰かがここで普通に生活していたのだという、その気配が僕をすこし落ち着かない気分にさせる。


 いま、僕はイルヘルミナの領内にいる。


 海軍と陸軍が合同で揚陸作戦を成功させ、イルヘルミナ領土の南端に上陸した。僕たちも作戦中にバークワース本土から爆撃機と一緒に飛んできて、ちょろっと爆弾を落としたりはしたけど、戦闘機というのは基地から離れてそう長く空に留まれるものじゃない。空にいるあいだは燃料を消費し続けるし、燃料がなくなる前に安全な場所に着陸しなければならない。爆弾を落としたらそのままUターンだ。揚陸作戦で実際に仕事をしたのはほとんどが海軍と陸軍だ。


 空軍は戦争の要ではあるけど、航空戦力だけで戦争を終わらせることはできない。航空格闘戦での数字の交換が終わったら、戦場は地上へと移る。血なまぐさい、本当の戦争らしい戦争がはじまる。


 陸海軍は水際でイルヘルミナ軍の激しい抵抗にあって、揚陸のために多大な犠牲を払うことになったらしいけど、いったん基地に戻って二度目に飛んできたときにはもう付近の制圧は完全に終わっていて、僕たちは悠々と飛んできて兵装も増槽もつけたまま、ハイウェイを滑走路がわりにして着陸しただけだから、いまいち実感がない。


 激しい戦闘があった沿岸部とは違い、このあたりまで来てしまうと、一見、戦闘の痕跡は見受けられない。ついさっきまでの生活の痕跡をそのままに、ただ人だけがスッと消えてしまったかのように見える。なにかの心霊現象みたいだ。


 離着陸できて燃料の補給さえできれば、どこでも即席の航空基地になる。


 頭数の多い陸軍の兵士たちは野営陣地を張っているけれど、僕たち空軍のパイロットには接収した付近の民家があてがわれた。外壁がレンガ造りの、立派な二階建てだ。戦争をしに敵地まで出張ってきて、まともな屋根と壁のあるところで柔らかいマットレスに寝られるなんて重畳ではあるのだけれど、ちゃんと掃除の行き届いた室内の様子や、台所のしっかりと道具が整理されている感じなんかに元の住民の堅実な性格が見てとれて、それが余計に落ち着かない。


 その人たちが今はどこでどうしているのかを、僕は知らない。あまり、ひどいことになっていなければいいなと思うけど、僕がなにを思ったところで、どうなるものでもない。


 僕は思考をシャットダウンして、丁寧にブーツの紐を締める。単純な作業を丁寧に時間をかけてこなしていくと、不思議と心が平らかになっていく感じがする。


 考えても仕方のないことは、考えないのが一番だ。


 サイドボードに置いていた懐中電灯を使って、階段を降り玄関から外に出てみると、もう東の空は白みはじめていて、室内よりはずっと明るかった。玄関を出てすぐのポーチの石段に、イーサンが外を向いて座っていて、僕に気付くと振り返り「よお、僕ちゃん(ブルード)。早いやな」と、挨拶してきた。


「やっぱり、僕ちゃんもヨソの家じゃ落ち着かんか」と、イーサンが笑う。僕としては、イーサンにもそんな系統の繊細さが備わっていたことのほうが意外に思える。


「まあね」と返事して、僕もイーサンの隣に腰を下ろす。「マットレスは基地の兵舎よりも快適なぐらいだけど、他人の家に勝手に上がり込んですっかりくつろいでいるんだから、盗賊にでもなったような気分だよ」


「実際、盗賊と変わらんやな。この接収に上の連中がどんな理屈をつけて正当化してるんかは知らんけど。まあ、理屈をつけるんは上手な連中やから、なんとかしてるんやろ」


 もともとはバークワースの防空識別圏を脅かすイルヘルミナを撃退するというのが、この戦争の建前だったはずだ。僕もテレビのインタビューではそう答えた。それが今では、バークワースがイルヘルミナの領土の一部を占拠するまでになっている。


 きっとなにか、新たに耳障りの良い建前が用意されているのだろう。建前がなんだったところで、僕たちのやることがなにか変わるわけじゃない。空にあがって、敵を墜とす。それだけだ。


 損耗のリスクさえ考慮しないなら、航空戦力のカバー範囲というのは実に広大だ。完全に無力化するには、離着陸の基地そのものを奪うしかない。その為には爆撃だけでは不十分で、直接に地上軍を送り込む必要がある。基地がひとつでも残っていれば、イルヘルミナが最後ッ屁でバークワースの首都に爆撃機を飛ばして無差別爆撃するなんてシナリオも考えられる。たとえそうなっても成功の確率は高くはないけど、でもゼロじゃあない。だから、完全に潰し切るまで戦争をすることになる。


 戦線がここまで後退してしまっては、ここからどれだけ頑張ったところで、イルヘルミナが逆転勝利するという目は基本的にはもうない。戦争の結末じたいは、航空格闘戦が終わった時点でもう決している。ここから先は、どこかの誰かが納得するためだけの戦争だ。そして、そういう戦いほど、より多くの人間が死ぬ。たくさん死なない限り諦めがつかないのだ。これまでとは桁違いの数になるだろう。


「さっさと諦めてしまえばいいのに」と僕が呟くと、イーサンが「余裕かましてる場合とちがうやな、僕ちゃん。どっちの国が戦争に勝とうが、そんなのは俺たちの知ったことやないけど、国が勝ったところで自分が死んでもうたら結局は負けやな」と釘を刺してくる。


「最後まで気を抜かんことやな。生き残り続けるのが、一番難しい」

「違いない」と、僕は答える。


 どれだけ多くの敵を墜としてみせたところで、引き換えに自分の命が増えるわけじゃない。誰だってミサイルを一発食らったら、それでさよならだ。死んだあとで昇進したって、死んだ本人には関係のないことだろう。


「イカもまだ最低でも二機は残っているはず。アレを全部落とさん限りは最後の一機になったところで油断はできんやな。ここまで生き残ってきてるんや。アレは、強いやな」


 前の格闘戦で生き残った二機。あれは、僕が一番最初に見たやつだろう。あのときはヘタクソだなと思った。挙動にまだ硬さがあったし、なにより臆病だった。いま一歩の踏み込みが足りない。


 正確な数は把握していないけれど、おそらくまだ残っている二機のイカによる、こちらの被撃墜数は大したことはない。数字だけを見れば、一番弱い二機が最後まで生き残ってしまったということだ。


 でも、まだ生き残っているというのがそのまま、あの二機の強さの証明でもある。


 パイロットに一番必要なのは、生き残る能力だ。どんなに強いパイロットでも一回ミスればそれで失われてしまう。そして、一度失われてしまえば、大抵の場合は二度とは戻ってこない。空戦でのテクニックや嗅覚というのは、一般化したり共有したりするのが難しいパイロット独自の勘に依っているところが大きい。パイロットが失われると、それまで蓄積されてきた、そういうノウハウも全部がパーになる。だから重要なのは勝ち星の数ではなく、失点のなさ、絶対にミスらない堅実さなのだ。


「このあいだの回避機動はすごかったな。びっくりした」

「アレな。俺も近くで見てたけどよく分からんかったやな」


 回収した空飛ぶイカ(フライングスクィド)の機体を解析した研究所の出した対イカ戦術の最適解は「低速低高度域に引きずり込め」「水平旋回戦に持ち込ませるな」「垂直機動戦で対抗しろ」というものだった。飛行隊をふたつに分け、大部分を高度十五メートルの超低空域で突っ込ませながら、上空にイーサンたち四機一小隊を残したのはこのためだ。相手が下に降りてきたところでなるべく振り回して速度を下げさせ、上空からの急降下で四機のイカを個別に狩りとろうという作戦だったのだ。あえて低高度から会敵するのは圧倒的に不利な条件だったけど、イカさえ墜とすことができれば、他の機体は多少不利な位置から始めても応戦できるだろうという読みだった。


 敵の隊長はよっぽど単細胞だったらしく、あっさりと全機の高度を下げさせた。僕なら警戒して何機かは上に残しただろう。パイロットとしての強さがそのまま、隊を指揮する隊長としての強さに繋がるわけじゃない。あの鼻歌女は、パイロットとしてはバケモノのように強かったけれど、隊長としては甚だ経験が不足していた。


 あれで上空の四機がイカを全機仕留めてくれればしめたものだったのだけど、実際に落とせたのは二機だけだった。


 イカは低速域では失速がかなり早く、不安定な挙動になる。でも、僕の攻撃をかわした()()()は、苦手なはずの低速域で、そのうえ斜め宙返り中という飛行能力が刻々と変化し続ける状態でも、失速寸前の一番舵が効く微妙な領域をキープして、妙な機動でミサイルをかわしてみせたのだ。


 あれは本当に、よく分からなかった。真後ろでしっかりと見ていたから、イメージの中でその動きを完全に再生することはできるけれど、なにをどうやっているのか、その意味が分からない。


 挙動としては、横風が強い中で着陸するときのクラブ操作に近いかもしれない。


「いつの間に、あんなに自由になったんだろう」


 今でもあの機体に対して、強いという印象はない。ただ、空にあって、ものすごく自由なやつだなと感じた。あの機動は、単純な強さとは少し種類の違うものな気がする。


 羨ましい、と表現するのが、ひょっとしたら一番近いかもしれない。

 あるいは、妬ましい、だろうか。


 僕は、あいつの機動が空に描くラインの美しさに魅了されている。


 純粋に自由に、美しく飛ぶこと。それに憧れない飛行機乗りなどいない。でも、殺し合いの空で、なにもかもから自由でいられるやつなんていうのも、そうそうはいない。


「僕ちゃんと同じやな。誰だって、場数を踏めば強くなる。最初は硬かったやつだって、柔らかくしなやかな機動になってくる。場数を踏むのが、一番難しいやな」


 そうだ、最初は僕も硬かったはず。たぶん、飛んでいるだけでも必死だっただろう。視野も今よりずっと狭かった気がする。でも、一度できるようになってしまうと、できなかったころの自分を思い出すのも、なかなか難しい。


 今では戦闘機動中でも色んなものが見える。見えたものを理解し、把握して対応していくことができる。目の前のことだけじゃなく、その数瞬先の未来のゴーストさえも、僕には見えている。


 だからこそ、僕にはあいつの機動の美しさが分かる。


 強いとは思わない。戦えばきっと僕が勝つだろう。ただ、ある意味においては、とても敵わないとも思ってしまう。つまり、その機動の美しさにおいては、だ。


 もしも戦争なんか関係なく、殺し合いじゃなく、勝ちも負けもない平和な空を、あいつがあの飛行機で自由に飛び回ることができたら、どんなに素晴らしいことだろうと思う。


 きっと、その機動が描く美しい曲線は多くの人を魅了するだろう。


 仮にそんなことがあれば、戦うために、人を殺すために進化し続けてきた航空機の歴史が、なんらかの新しい領域を切り開くこともあるのではないか。航空機が、人に純粋な希望を見せることもあるのではないだろうか。そんな夢みたいなことまで考えてしまう。


 なんとかして、あいつにもこの戦争を生き延びてもらいたいという想いはある。べつに敵同士だからといって、あえて憎み合わなければいけない道理はないし、僕はあいつに個人的な恨みがあるわけでもない。なるべく人が死なないのに越したことはない。


 でも同時に、つぎに会った時は必ず墜としてやると思っている僕もいる。


 あれだけ自由に飛び回れるやつが相手なのだ。戦闘機乗りなら、撃ち墜としてやりたいと思わないほうがおかしい。


 玄関が西を向いているので直接太陽を見ることはできないけど、いつの間にか陽はすっかり昇っていたらしく、気が付けば空が青くなっている。いい天気だ。


 僕が空を見上げていると、イーサンが「飛行機を飛ばすにはいい日和やな。長い一日になるやで」と呟いた。バークワース軍は今日、この戦争の大勢を決めるつもりだ。地上戦力を一気に推し進めて、多少強引にでも航空基地を制圧するつもりでいるらしい。僕たちとは別の対地攻撃機隊が空から火力支援をする。ヴォルチャー隊は対空装備で敵の対空戦闘機から味方の攻撃機を護衛するのが役目だ。


 ブログラーは最後にバークワースの基地を飛び立ってからまだ戦闘はしていないから、兵装も満載状態のまま、ハイウェイ脇の大きな駐車場に停められている。燃料の補給も済んで、あとは地上軍の侵攻状況に合わせて離陸の指示を待つだけだ。航空機は先に行って待っているのは苦手だから、後から追いかけていくことになる。地上をノロノロと進む地上軍には、あっという間に追いつくだろう。


 明るくなったので、ブログラーの様子を見に駐車場まで歩いた。陸軍の兵士たちが何人か哨戒のために寝ずの番をしていたらしい。赤く充血した目で、あくびを噛み殺しながらライフル片手に立っていた。空にあがれば最強の近代兵器である戦闘機も、地上にいるところを狙われればひとたまりもない。


「やあ、どうだい?」と気安く声を掛けると、兵士のほうも気楽な調子で「大丈夫ッスよ。特に問題ありません」と返事をする。


 今まさに敵の航空基地を制圧するために進軍している兵士たちに比べれば、後方に残って戦闘機の見張りに立っている彼らは勝ち組だ。ほとんど、なんの危険もない仕事ではある。そうは言っても、大事な戦闘機を丸裸にするわけにもいかないから、誰かは立たせておかなければならない。そんな程度の仕事だから、ちょっと気が抜けているのも仕方がない。


 バークワース陸軍の兵士たちは、遠くから見ると身体が大きくて、いかにもタフでマッチョでいかついのだけれど、こうやって言葉を交わしてみると、ごく普通の田舎の青年に兵士の装備を着せているだけなのだと分かる。


 言い方は悪いけど、いかにも農家の次男坊三男坊たちなのだ。あまり知性の匂いはしないし、かといって粗暴なタイプにも見えない。徴兵されたのか、それとも職がなくて兵士になったのか、そのへんのバークワースの制度やら事情やらは知らないけど、良くも悪くも田舎の青年って感じだ。ライフルよりはピッチフォークのほうがよほど似合う。


 陸軍の連中が気を利かせてくれたのか、ブログラーには迷彩ネットが被されていた。戦闘機とはいえ、人間に比べればずっと大きいのだから、被せるのにも一苦労だっただろうけど、緊急発進することになった時には邪魔になるだけなんじゃないかと思う。上空の敵に見つけられるのを警戒しているのかもしれないけれど、どっちみち、真上を飛ばれた時点でもう遅い。そうなる前にこちらも離陸してないといけない。


「もうじきスタンバイだと思うから、このネットは外しておいてもらえるかな」と、さっきの兵士にお願いすると、またくだけた口調で「オッス。了解ッス」と、返事がある。所属じたいが異なるとはいえ、僕のほうが階級は上なのにな、と少しは思う。形ばかりの敬礼はされたけど、根本的にナメられているような気がする。やっぱり僕の見た目の威圧感が足りないのかもしれない。


 まあいいか。


 兵士が周囲を哨戒していた数人を呼び集めて、ネットを外しはじめる。その周囲を、どこから入り込んだのか、十代後半歳ぐらいの少年がひとり、チョロチョロとうろついては兵士に追い払われている。


「あの子は?」と僕が聞くと「近所の子供ですよ」と、さっきの兵士がやれやれといった調子で返事する。


 いかにも安物っぽい、薄っぺらなスタジアムジャンパーを羽織っている。短い髪をツンツンに立てているけど、あまり不良っぽくはなくて、適度に真面目で適度に不真面目そうな、普通の学生って感じだ。


「近所の子供? 避難してたりしないわけ?」

「さあ。そのはずなんですけどね。どこから調達してきたんだか知らないッスけど、ガムだの煙草だのを持ってきて兵士相手に売りつけて小銭を稼いでるんですよ。たくましいもんッスね」と言って肩をすくめる。戦闘機に興味があるのか、またチョロチョロと少年が近づいてきて、兵士がライフルを振って「こら! シッシッ!!」と追い払う。


 なんとも長閑な光景だった。これから戦争をやりに行くとはとても思えない。


「あんたがこの飛行機のエビエータか?」

 いつの間にか、僕のほうに近付いてきていた少年が、そう声を掛けてくる。


「どうやら、そのようだね」と、僕も適当な返事をする。そういえば、イルヘルミナではパイロットのことをエビエータと呼ぶんだったなと思う。「戦闘機に興味があるの?」


「従姉がエビエータだった。でも、こんなに近くで本物の戦闘機を見たのは初めてだ」

 そう言って、少年はブログラーに目を向ける。


「あの戦闘機、垂直尾翼が緑だな。あんたが緑のしっぽの悪魔?」

「なにそれ? 僕は知らないけど」

「緑の垂直尾翼の戦闘機のことを、こっちじゃそう呼んでる。あんた、すごく強いんだろう? ……あんまり、そうは見えないけど」


 こんな少年にまでナメられてしまうらしい。ひょっとしたら、真面目になにか対策を考えるべきなのかもしれない。


「握手してくれよ」

「握手?」

「有名人だから。会った記念に」


 悪魔と呼ばれている敵のパイロットを握手したがるだなんて、その感覚はよく分からない。たぶん、この長閑な雰囲気と陽気にあてられでもしたのだろう。僕は「まあいいけど」と返事をして、右手を少年に差し出した。


 もちろん、そんなことをするべきではなかった。


 いまは戦争中で、ここは敵地なのだから。絶対に気を抜くべきじゃない。

 のんびりしている場合なんかじゃなかったのだ。


 少年は右手を差し出して。

 左手は薄いジャンパーのポケットの中に。


 僕の右手を握ると、それを力一杯に引いて。

 身体は細いくせに、意外なほど力が強い。不意をつかれた僕は、まんまとバランスを崩してたたらを踏む。


 少年の左手がポケットから。


 出て。


 その手には、白く光を反射する、小さな。

 果物ナイフが。


「離れろ、僕ちゃん」

 イーサンの声と同時に銃声がした。向き合った少年の右のこめかみから、赤色が爆ぜる。


 僕の右手を握ったまま、少年の身体がグラリと揺れて、倒れる。

 手が、離れた。


 イーサンは拳銃を構えたままさらに近づくと、地面に倒れた少年の頭に、さらに一発ブチ込んだ。少年の身体が感電したように一瞬震えて、動かなくなった。


 少年の頭から血が流れ出て、アスファルトに大きな赤黒い丸をつくる。

 もう動かない。死んだ。確実に。


 イーサンが仕留めた。お手本通りに。


「おい、お前らなんのために哨戒に立ってるやな! 今のでうちのパイロットが死んでてみろ! お前らも生きてはおられへんかったやぞ!!」

 イーサンの怒声に、呆気にとられていた兵士たちが一気に直立の姿勢を取る。


「はい! 申し訳ありません、サー!!」

「いいか、飛行機にもパイロットにも、二度と誰一人近づけさせるな。相手が女だろうと子供だろうと本気を出せば人間ひとりぐらいは殺せるやな」

「サー、イエスサー!!」


 イーサンが「ほな、後は片付けといてな」と言い残して、僕の腕を引っ張る。兵士たちが再び「サー、イエスサー!!」と返事をして、少年の死体を抱えてどこかへと運んでいく。


「おい、しっかりせえよ僕ちゃん(ブルード)。うちの最強の航空戦力も、地上にいるあいだは、あんなガキのナイフ一本でだって殺せるんや。相手がそれを狙ってくるのは当たり前やろ。ボーッとしてる場合とちがうやな」

「ああ……ああ、うん。そうだ。ありがとうイーサン。助かったよ」


 おもちゃみたいな果物ナイフだった。

 あんなので刺されたところで、たぶん死にはしなかったと思う。


 でも、間違いなく今日の作戦には参加できなくなっていた。

 そして、そのへんの少年の命ひとつでその結果が得られるのなら、収支は安いものなのだ。作戦としては大成功だ。生身のパイロットは驚くほど無防備だということに改めて気が付いて、そのことに慄く。


 こんな不完全な状態で、なにを油断していたんだ。


 きっと、誰の差し金でもないだろう。

 たぶん、あの少年が自分で考えて、自分で実行したことだ。


 兵士にガムや煙草を売りつけるふりをして、油断させて隙に付け込んで、自力で目当てのパイロットの目前にまで迫ってみせた。


 英雄的だ。

 真に英雄的な少年だった。僕なんかよりも、よっぽど。


 この戦争において真に英雄的だった少年は簡単に死んで、誰にもその栄誉を知られることなく、気の良い田舎の青年じみた兵士たちにどこかに運ばれていく。


「おい、なんや僕ちゃん? まさかショックでも受けてんのか? 今さらこんなところまできて、ガキがひとり死んだくらいのことがなんなんや」

「いや、大丈夫だ。ちょっと気が緩みすぎていた。逆に、戦闘前にしっかりと気合いが入った。あの少年に感謝したいくらいだよ」


 そうだ、こんなところでこんな終わりかたなんて、冗談じゃない。


 これから僕は空にあがって、あいつと戦わないといけないのだ。こんなところで、あんなどこの誰とも知れない少年に刺し殺されてはいけない。そんな意味の分からないエンディングを迎えるわけにはいかない。


 忘れるな。これは戦争だ。


 そのあとは食事を済ませて、早々にブログラーのコックピットに収まって準備万端で離陸の指示を待った。


 コックピットに入ってしまうと落ち着く。触り慣れた操縦桿のツルツルとした感触が、僕を安心させる。大丈夫だ。こいつに乗っていればどんなやつがきても、絶対に負けはしない。


 正午前には、離陸の指示が出た。


 敵地のハイウェイを利用した即席の基地だ。海軍の艦艇や陸軍の簡易的なレーダーの支援もあるとはいえ、本土の基地みたいにしっかりとした管制があるわけじゃない。


 ハイウェイ脇に立った要員が目視で安全を確認して、それを無線で伝えてくる。離陸の許可を出すのは隊長の僕の役目だ。


「こちらヴォルチャー1。各員、状況を知らせろ」

「こちらヴォルチャー2、スタンバイ」

「ヴォルチャー3からヴォルチャー4、スタンバイ」

「ワーウルフ隊四機、オールスタンバイ」「ゴート隊およびジラーフ隊、オールスタンバイ」

「オーケイ。ヴォルチャー、ワーウルフ、ゴート、ジラーフの順だ。コールサインの若いやつから順次離陸を」


 各員から了解の通信が返ってくる。僕が先陣を切って離陸する。間を置かず、対空戦闘機十一機と地上攻撃機四機が次々と続く。上空で編隊を組み、高度を上げて北を目指す。


 レーダーの支援がほぼ無いも同然だから、慣性航行装置の情報だけが頼りだ。肝心なときに、まるで違う方向に飛んでいってしまったのでは話にならない。


 雲もなく見通しが良かったから、高高度に上がってしばらく北に進路を取ると、遠くで立ち昇る煙のおかげで前線の場所がすぐに分かった。地上では、もう戦闘が始まっているのだ。


 上空にもいくつか機影が見え始める。この距離からでは、目視では敵の機体か味方の機体かすら分からない。他の場所からも何機かバークワースの機体があがってきているはずだ。


「機影確認。各員、戦闘準備。間もなく会敵する。同士討ちに気を付けろ」

 無線で指示を出して、高度と速度を維持したまま戦場に近付いていく。無線の識別信号で、地上の味方の場所が分かる。


「ジラーフ隊は地上部隊の掩護に回れ。攻撃目標の判断は各自に任せる。対空砲に気を付けろ。ゴート隊はジラーフ隊の警護に回れ」

 地上攻撃機が四機、増槽を切り離して編隊を離れ、それに続いて対空戦闘機四機も降下していく。ヴォルチャー隊とワーウルフ隊は敵の対空戦闘機を警戒してまだ高度を維持する。


 機影が四つ上がってくる。IFFの質問波への返答はない。敵だ。


「会敵するぞ。全機散開」

 左にロールして旋回に入る。まだ増槽は抱いたままだ。敵も散開する。二機、こちらにきた。普通の形だ。イカじゃない。あいつじゃない。


「ヴォルチャー1、戦闘開始」

 増槽を切り離す。旋回しながら後方を確認。二機がそのまま僕に食らいついてきた。まだ距離がある。逆方向に切り返す。一機が、まだ飛んでいるけど煙を吹いていた。あれではもう、戦闘機動はできないはずだ。緊急脱出までの時間があるだけラッキーだと思うしかないだろう。兵装が勿体ないから深追いする必要はない。


「ヴォルチャー2、一発命中」無線から、イーサンの声がする。

 対称の機動で散開していたイーサンが交差するタイミングで敵にミサイルを当てたのだ。簡単な基本戦術だけど、敵はあっさりと引っかかってくれた。まるで素人だ。経験の浅い新兵だったのだろう。


「敵は緑しっぽを目の敵にしている。丁度いいから、僕の後ろに食らいついてきたやつをどんどん墜としてやれ。適当に振り回す」


 イルヘルミナも消耗しているのだ。形ばかり機体を補充して空に飛ばしてみたところで、パイロットの経験まではそう簡単に補充できない。


 速度と高度を維持して旋回しながらかわし続けているだけで、僚機が次々と敵を墜としていってくれる。拍子抜けするほどに簡単な戦場だった。簡単で困ることも別にないのだけど。


 どこかでガッカリしている自分がいる。


 旋回しながら、視線を遠くまで走らせてイカの特徴的な機影を探している。目視できる範囲にはいない。


 この規模の戦闘だ。必ずあがってくるだろう。

 それとも、もう墜ちたのか?


 無線に、ノイズが混じる。敵機の通信が混線する。


「こちらヴィッケ3。B7で被弾した。離脱する。敵は緑しっぽだ。増援を頼む」


 煙を噴いていた機体のキャノピーが吹き飛んで、パイロットが射出されるところまでしっかり見えた。そのままクルクルと落ちていって、かなり下のほうでポンとパラシュートがひらく。


「こちらハティ4、了解。ヴィッケ隊、援護に回る」


 声が聞こえた。

 前にも聞いたことがある、女の子の声。


 ()()()だ。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ