風のあやかし
あきらかに劣勢だ。あたりの風まで弱まった気がする。
そのとき、イツキが叱咤した。
「立っているのでやっとじゃないなら、おまえも凧を動かしてやれ!」
自分がほとんど何もしていなかったことを思い出して、イトはあわてて手を動かした。ゆるみかかっていた凧糸がぴんと張り、影の塊の中で風妖がもがく。しかし、形勢逆転までは至らない。
「どうしよう、できない……! できたことない!」
混乱しきったイトに向かって、イツキはもう一度怒鳴った。
「たぶん、いいんだよ、風を思いどおりにしなくても! 風妖がやりたいようにやれるようにすればいいんだよ!」
「どうしたらいいの!」
「細かいことは気にすんな、ちゃんと凧を風に乗せていてやれ! とにかく強い風を起こさせるんだ、ワザワイなんか吹き飛ばしてやれ! できるだろ、それくらい!」
イトは目を見開いた。
そうだ。イツキは、おまえなんかにはできない、とは言ったことがない。イツキに煽られて、やろうとしてきたことだってあった。
「それくらい」という言葉の、見たことのない一面が見えてきた。
はっとした拍子に、不安が消し飛んで腹がすわった。イトは、風妖とイツキに向かって怒鳴った。
「できるわ! それくらい……!」
背中からイツキの明るい笑い声が聞こえた。イトがめちゃくちゃに凧を動かしているうちに、風妖がやっと影の中から抜け出した。
風がさらに強くなる。結局立っていられなくなって、イトとイツキもゆっくりと膝をついた。イトの襟首をつかんでいたイツキの手が肩に移動して、イトが座りこむのを助けてくれた。
風妖の勝利は見えていた。白銀の獣は小さな牙をむきだしにして、影の塊のあちこちにかみついた。風妖にかみつかれた影の片端から、影がちぎれて風に散っていく。
影が雀ほどの大きさになって弱々しくうごめいたとき、風妖が黒い生き物から身を離した。風妖がどう動きたいのかがわかってきていて、イトは凧を操作し、黒い生き物から距離をとる動きを支えた。
風妖が身を縮める。それから、黒い生き物に、矢のように突っこんでいった。
風妖にひき裂かれて、黒い生き物が砕け散る。すると、今までで一番強い風が一陣、影の塊のなれの果てに向かって吹きつけていった。
黒い破片が吹き散らされて消えていく。最後の一片が消えたとき、ついに風がおさまった。
顔をかばって下を向いていたイツキは、光を感じて顔を上げた。
さっきまで曇っていたのが噓のように、空が晴れわたっていた。
風ももう穏やかだ。真っ青な空に、イトの白い凧がぽっかりと浮かんでいる。風妖がその手元まで降りてきて、誇らしげに鼻をひくつかせていた。後ろから少しだけ見えるイトの顔は微笑んでいて、イトは風妖に何ごとか話しかけてから、凧に合図を送った。
風妖が天へ駆けのぼり、消えた。
「やっつけちまったのか……」
呟いたイツキのほうを振り向き、イトは笑った。
「できたよ。わたしたちにも……」
やっとそれだけを言ったイトの体が、ぐらりと傾いた。
イツキの顔がぐにゃりとゆがむ。視界が暗くなっていく。朦朧としていく意識の中で、全身が湯上がりのように熱くなっているのを感じた。それでいて体の芯がひどく寒い。震えが止まらなかった。
高熱を自覚したのを最後に、イトは意識を失った。
イトが目を覚ましたとき、最初に目に映ったのは、見慣れない家の天井だった。ここはどこなのか、なぜ、いつから自分はこんなところで寝ているのか、イトはぼんやりする頭で思い出そうとした。
「気がついたかね。よかったよかった」
知らない声がして、イトはぎょっとした。体をこわばらせたイトを、知らない老女がのぞきこむ。
「そなたは三日三晩、高熱を出して、生死の境をさまよっていたのだよ」
「わたしが……?」
「そう。ワザワイに近づきすぎたせいだね。障りを受けてしまったのだ」
その言葉を聞いて、イトは、岩場で起きたことをだんだんと思い出しはじめた。
「ワザワイって、黒い鳥のような……」
「そんな姿をしていたそうだね。わたしは見てないがね。わたしは宮廷づきのまじない師だ。ワザワイを祓うためにやってきていたが、そなたが先に全て終わらせてしまったようだね。しかし来ていてよかった、そなたの障りを清める役目は果たしたよ」
「……ありがとうございます」
イトがしわがれ声で礼を言ったとき、隣から今度はよく知っている声が聞こえてきた。
「イト、起きたのか!」
イツキだ。顔を横に向けると衝立があって、向こう側にも布団が敷かれているのが見えた。衝立からイツキが顔半分だけ出している。
イトと目が合うと、イツキはほっとした様子で口元をゆるめた。
「死ぬかもしれんと聞いて、気が気じゃなかったぞ」
「イツキは……どうしてここにいるの?」
「おれも障りを受けたんだよ! 清めてもらわなけりゃ、おれも死んでたかも」
それにはまじない師が苦笑した。
「大げさなんだよ。あんたのほうは、一日寝込んだだけで元気になってたくせに。もう清めは必要ないって言ったのに、まだここで休んでいたいだなんて、どういうわけだか……」
まじない師はぶつぶつ言った。
それから、祈祷のようなものを受けたり、薬湯を飲んだりしているうちに、イトの体にも、やっと上半身を起こせるほどの力が戻ってきた。
まじない師がどこかに出かけてから、イトは、衝立越しにイツキと少しずつ話をした。もはや以前のように、イツキを嫌な奴だと思わなくなっていたから、話し相手がいることがありがたかった。
岩場で、イツキが嫌いだ、と言い放ったことを思い出したイトは、まずそのことを詫びた。
「……そうだ、イツキ。あのときはごめんなさい。助けてくれたのに、ひどいことを言って」
「いや……それは、おれがずっときつい物言いをしていたせいだろ」
イツキが気まずそうに、衝立の影にそろそろと引っ込んで、イトはくすっと笑った。
「うん、そうね。だから、これでおあいこね」
イツキが困ったように笑って、またちょっと顔を出した。
「あのとき言ったことは、噓じゃないぞ。それにあの岩場で、おまえはすごいやつだって、改めてわかったよ」
イトが返す言葉を探して黙っていると、イツキは衝立からさらに身を乗り出した。
「戦ったのは風妖とはいえ、あそこで逃げ出さなかったのはたいしたもんだよ。おれは……あのワザワイってやつが、ものすごく怖かった。おれなら逃げてた。他のやつらでも、きっとそうだ」
イトは首を横に振った。
「ワザワイは怖かったけど、村の一員でいるための、最後の望みだと思っただけよ。いつまでたっても役立たずのままでいることのほうが、もっと怖かった」
「それでもすげえよ。それだけじゃない、おまえの風妖は、ほかのどの風妖にもできなかったことができたんだ。よかったじゃないか。おまえとおまえの風妖にしかできないことが、やっと見つかったんだ」
イツキは心から喜んでくれている様子で、イトも嬉しくなってきた。
それからふと思い出して、そういえば、とイトは口を開いた。
「みんなの風妖は戻ってきたの?」
イツキが頷く。
「ワザワイが消えたその夜には、また凧に宿るようになったみたいだ」
「よかった……」
「まあ、また同じことが起こっても、イトがいれば安泰だな」
そう言ってからちょっと黙って、イツキは、そうだ、とこんなことを言いだした。
「おまえも、成人の儀の後は浜守りに入ったらいいんじゃないか。漁や木の実狩りや、器用さが必要な役目より、村を守るほうが合ってるだろ。そんな力がある風妖と一緒なら」
イツキが口にしたのは、朝夕に村の周辺を見回り、賊や猛獣のような外敵から村を守ったり、村の中で出た罪人を取り締まったりする仕事のことだった。イツキはずいぶん前からそこに入りたいと言っていたし、腕自慢のイツキは適任だろうと誰もが思っている。
だが、イトは首をひねった。
「イツキにはぴったりだろうけど……わたしはどうかな」
「また、ああいった災厄のたぐいがやってきたら大活躍できるぞ」
「そうね。でも、そんなことにならない限りは、やっぱり使い物にならないままだわ」
成人の儀のことを考えると、また気持ちが沈んでくる。イツキは不満そうにうなった。
「もったいないな。イトが不器用なのは確かだけど、せっかくできることが見つかったのにな」
「わたしにできること、ね……」
その言葉で、ふと、イサゴのことを思い出した。冷たい風に頬を撫でられたときにも似た心持ちがして、イトは、ひとつの可能性について考えはじめた。
すっかり元気になってから数日、その日はよく晴れていたので、イトはまた岩場に来ていた。
海を眺め、空を眺めながら凧を揚げたイトは、風妖の起こしたそよ風を顔に受けて、目を細めた。
そうやって、しばらく景色と空気を楽しんでいると、背後の茂みががさがさと音を立てた。もう驚くことなく振り返ると、予想どおり、やってきたのはイツキだった。
「なにか用?」
「聞いてないぞ、イサゴさんの弟子になるなんて」
イツキがいきなり話を切り出してきて、イトは笑った。
「そうなの。イサゴさんも喜んでくれて、村長にも話をつけてくれた」
「浜守り、やらないのかよ」
「向いてないってば」
顔をしかめてそう返してから、イトは自分の風妖を見上げた。
「……風妖の力を、もっと引き出せないかと思って。わたしの風妖が他の風妖と違っているなら、その違いを比べてみるのは面白いかもしれないって、イサゴさんも言ってたの」
イツキは、へえ、と声を上げたが、たいして興味を引かれない様子ではあった。イトはかまわず、自分の考えたことを続けて話した。
「風妖のことがもっとわかれば、この先、わたしとわたしの風妖みたいに不器用な人が現れても、できることを見つけてあげられるかもしれない」
イツキがちょっと目を見開いた。イトは微笑んだ。
「結局、他のみんなとは違うお役目になってしまうけど……村長もイサゴさんも認めてくれるなら、わたしは、これでいいと思ってるの」
「……なるほどな。うん、いいんじゃないか」
ついにイツキも納得した様子でうんうん頷いた。
「よかったなあ。おまえたちの良さを生かせることが見つかって」
「ありがとう。……今までも、ぜんぜん気づかなかったけど、ことあるごとに助けてくれていたのよね」
「助けたってほどのことはしてないけど」
イトの礼に照れくさそうに苦笑してから、そうだ、とイツキは話題を変えた。
「おれ、たまにはここに来てもいいよな? もうあっち行けなんて言わないでくれよ」
イトはくすくす笑った。
「うん、もうそんなこと言わない。イツキなら来てもいいよ」
イトがそう言うと、イツキの顔に笑みが広がった。
「ここ、気に入ったんだ。海と空が見渡せて、気持ちいいな」
「いいでしょう。わたしもそこが好きなの」
イトは眼前の風景を見つめた。
「つらいこと、たくさんあったけど、わたしはここで生きていきたいの」
しゃべっているうちにイトの手もとが少し狂って、凧が揺れた。風妖が凧の上で身じろぎして、冷たく鋭い風が吹いた。
風妖の白銀の毛並みが風に流れて、陽光をはじいてきらめいた。
今日は一日、天気がよさそうだ。この場所でずっと風に吹かれながら、澄みわたった海と空を眺めていたかった。