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風のあやかし  作者: 石見千沙
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風を飼う

 東の浜の民は風を飼っている。

 夕暮れの坂道を、イトは大きな凧をかかえて駆けあがっていた。村からずいぶん離れ、周りにはもう人けがない。

 そのあたりでついに涙があふれだした。咳きこむようにすすり泣きながら、イトは坂道の先をめざした。

 荒っぽくならされただけの道を囲う低い柵を乗りこえ、あたりの茂みの一部分をかきわけると、岩だらけの崖が現れる。

 視界いっぱいに海が広がる狭い岩場は、イトの秘密の場所だった。こんな崖っぷちまでやってくる人間は他にいない。ちょっと前に出て、うっかり足を踏みはずしでもしたら、ひとたまりもない。それでも、誰にも見られず、好きなだけ泣いたり落ち込んだりしていられる場所は、ここしかないのだった。

 海に沈んでいく夕陽の赤さを見ていると、少し気持ちが落ち着いてきた。ぬれた頬をぐいっとぬぐって、イトは小脇にかかえていた凧をするすると広げた。

 木製の持ち手をしっかり握り、広げた凧を海に向かって放ると、凧は少し下降してから、海からの風に吹かれてどんどん浮き上がっていく。

 ぱんと張った白い布地に染めつけられた紋様が、赤く光った。

 そこに、その生き物は降りてくる。

 ひときわ鋭い風が吹いて、凧がななめに引っ張られた。風がおさまったとき、凧の上に、白銀の毛並みをした胴の長い獣がとりついて、イトを見おろしていた。

 猫くらいの大きさのその獣は、凧糸をつたって降りてきた。獣が動いても、凧にはなんの影響もない。獣には体重も、少しの硬さもない。

 凧糸から首を伸ばして、獣は、泣いたあとの残るイトの顔をじっと見つめた。どうしたのか、と問いかけているかのようだった。

 イトは微笑んだ。

「なんでもないの。ごめんね、用事はないのだけど、練習をさせてね。弱い風をもっとうまく動かせるようになりたいの」

 そう話しかけると、獣は瞬きして、再び凧糸に胴をまきつけるようにして、上へのぼっていった。

 イトはため息をつき、手を動かしはじめた。

 白銀の獣は、風妖と呼ばれている。凧に染めつけられた紋様は、風妖の力を借りるための古いまじないだ。東の浜の民は一人一枚、風妖を宿す凧を持ち、風の力を借りて暮らしてきた。船の動きを自在に操り、林の木の実を落とし、空気の悪いときは吹き飛ばして清めることもできる。

 イトとその風妖は、何もかもが下手くそだった。イトは今年十五、春から大人の組に入り、村の中での役割を定められていく。しかし、こいつには何もできないだろうと、村じゅうの大人たちや同世代の若者たちが口をそろえて言っているのを、イトはよく知っている。彼らはそれを隠しもしないからだ。

 今日も、小船ひとつ意のままにできなかった。風妖の力で船を沖に出して、海に浮かべた目印をとって帰る、それだけの作業をこなすのに、朝から昼過ぎまでかかった。若者の組の教育をになうムグラは、それが決まりだから待ってくれていたが、ひどく怒っていた。あきらかに怒っていたのに、もう何も言ってくれなかった。

 ついに諦められたのだ、と思った。おまけに、疲れきって砂浜に戻った時、若者の組の男の子たちにひどくはやしたてられた。女の子たちもこちらを見ながら、ひそひそと何かを話していた。

 それで耐えられなくて、家にまっすぐ帰らずここへ来たのだ。

 両親の顔を見るのがつらい。自分は親たちの頭痛の種だ。昨日には父が冗談めかして、村を離れて嫁に行くのもいいさ、などと言いだした。

 それを思い出して、またじわりと涙が出てきた。

 それを乱暴にぬぐって、イトは凧を動かし続けた。こうして修練の時間以外も続けていれば、できるようになるはず、みんなできていることなのだから……祈るようにそう考えながら、イトは風妖に合図を送り続けた。

 夕陽がほとんど沈んで暗くなってきても、イトはそうしていた。

 風妖と風の動きに気をとられていたから、背後の茂みが急にガサガサと音をたてたとき、イトは飛び上がった。

 ぬっと姿を現したのは、同い年のイツキだった。よりによって、若者の組の中で一番苦手な相手だ。同年代の中でも体格が大きく、力が強く、口も達者で、昔から男の子たちの大将格だった。

 イトが後ずさって足を滑らせかけると、イツキはあわてて腕をつかんだ。

「やっぱりここにいたのかよ。ほら、危ないって」

 崖っぷちからずるずるとひき離されたところで、イトは、はっとして腕をふり払った。

「ここにだけは来ないでって、前に言ったじゃない!」

「なんだよ、助けてやったのに……」

 言いかけたイツキは、背を向けたイトが浮かべなおした凧を見上げ、目をみはった。

「風妖がいる……」

「練習してたのよ! お願いだから一人にしてよ。前にも言ったでしょう、今すぐあっちに行ってくれないなら、ここから飛びおりてやるから!」

 イトは本気でそう言った。他の若者たちがここにまでやってきてあれこれ言ってくるなら、もうどこにも居場所はない。以前、イツキに見つかったとき、イトは本当に崖から飛びおりようとしたのだ。さすがのイツキもそれには青ざめて、他の誰にもこの場所のことは言わない、二度と来ないと約束して、それを守っていたのに。

 再び崖っぷちに近づきかけたイトに、待て待て、とあわてた声をかけて、イツキは早口に話しはじめた。

「大変なことが起きて、村人が集められてる。おまえがここにいそうなことはおれしか知らねえから、呼びに来たんだよ」

「大変なこと?」

 イトが眉をひそめると、イツキは唾をのみこみ、こう言った。

「風妖たちが消えた。誰が凧を上げても姿を見せないんだ」


 イツキと共に砂浜に向かうと、もう村人全員が集合していた。凧をかかえたイトがおずおず顔を出すと、誰かが「グズが来た」と呟いた。

 先に立っていたイツキが、村の重役たちが固まっているあたりへずんずん歩いていく。

「村長! 聞いてくださいよ、風妖が一匹だけ残ってたんだ」

 イトが止める間もなかった。周囲がどよめいて、村長が立ち上がった。

「本当かね。誰のだ」

「イトです」

 村人たちの視線がいっせいにイトに集まった。それから、失望したようなため息があちこちから漏れた。

「一人でも風妖を動かせるなら、と思ったがな」

「あのイトじゃあね」

 イトは足を震わせた。凧を抱きしめ、白い砂ばかりをじっと見つめて、この地獄のような時間が過ぎることを祈った。

 村長は深くため息をついた。

「誰もいないよりはましだろう。今、我々やイサゴが原因を調べている。イト、しばらくおまえに片端から仕事をしてもらうしかない」

「わたしにできることはなんでもやります」

 イトは強く頷いた。ここで頑張れば、周りが自分を見る目も少しは変わるかもしれないと思ったからだ。すると、近くにいた同年代の少年が鼻で笑った。

「できることなんて、たいしてないくせに」

 失笑がさざなみのようにわき立って、イトは黙って肩を落とした。イツキが後ろから、あきれた声を投げかけてきた。

「なんだよ、ちょっとからかわれたくらいでやる気なくしちまうのか」

「なくしてない……」

「でも、しょげてやんの」

 イトが無言でにらみつけると、イツキは、おおこわ、と小馬鹿にしたような声を残して、男の子たちの輪に入っていってしまった。


 次の日、イトは漁に駆りだされたが、やはりたいした助けにはなれなかった。風妖の力をもってしてよく動くようにつくられている村の船は、まともに風を動かせなければ使い物にならない。

 その次の日は、木の実狩りに連れ出された。木の実を落とすことができたが、落としすぎたうえに枝葉も大量に折ってしまって、一緒に行ったムグラに、大事な樹をいためる気かと、こっぴどく叱られた。

 三日目、今日は一日修練しろ、と言われて、イトは砂浜に出ていた。

 黙々と凧を動かしていると、若者の組の連中が見物にやってきた。その中にはイツキの姿もあった。

「よう、イト。うまくいってるか」

 一人が声をかけてきて、イトは背を向けたまま、黙って首を横に振った。別の少年が、だろうな、と言って、笑い声が上がった。

「おまえ、この機会にどうにかしろよな。おまえがなんにもできなかったら、風妖が戻ってくるまでに何人か飢え死にしちまう」

「やめなさいよ。できないものはできないんだから」

「そうだよな。無理言っちゃだめだよな」

 また笑い声が上がった。みじめな気持ちに胸がつぶれそうだった。秘密の岩場に逃げ込みたかったが、ムグラにここでやれと命じられている。砂浜を離れることはできない。

 イトの手が震えて、また風の加減がおかしくなった。一定の強さを保っていた風の流れが不安定になって、凧がくるくるとまぬけな動き方をした。それまで黙っていたイツキが口を開いた。

「なんで風の強さが安定しないんだ? それくらい、風妖に任せてるだけでどうにかできるだろ」

 イトの頬がかっと熱くなった。こういう言い方をするから、イツキのことは苦手だった。「それくらい」という言葉が一番嫌いだ。自分にできないことは、他の若者たちにとってはたいしたことではないのだと、あらためて突きつけられるようで苦しくなる。

 若者たちはまだ何か言っていたが、イトは唇をかみしめ、聞こえないふりを決めこんだ。集中すると、凧の上で、風妖の動きも落ち着いた。

 少しだけ安堵して、息をついたとき、誰かの声が耳を打った。

「おまえがみんなの凧に何かしたんじゃないだろうな」

 それは、予想だにしなかった言葉だった。

 また、おかしな風が吹きはじめた。凧にとりついたイトの風妖が、あわてたようにちょろちょろと動き回っている。

「自分だけみんなと同じようにできないからって、何かしたなんてこと、ないよな」

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