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善意とは損をすること

作者: 琉慧

 近頃、毎日のように、目に耳に入ってくる、凄惨な交通事故の報道。 私はそうした報道を意識の内へ留める度に、安全運転を心掛けるよう、自身を律している。

 私は通勤に原付スクーターを利用しており、勤務先が市内という事もあって、通勤時間は片道十分と掛からない近距離だ。

 その近距離の中で私は、善意とは何であるかを知りたくなる場面に遭遇してしまった。


 私の勤務先は会社の私有地の中にあり、正門から構内へ進入し、それから二キロほど道なりに進んだ先に、私の勤める事務所がある。 正門には守衛が居て、正門から構内へ進入する際、通行証確認の為、自動車は徐行、単車や自転車は正門前で停止後降車し、単車や自転車を押して三メートルほどの乗車禁止区画を進んだ後、再び乗車する、という流れになっている。


 そして一週間程前から、構内の道路整地の為、正門を抜けた直後から二百メートル程度の範囲が片側通行になっており、対向車が来れば、どこかのタイミングで停止させられる場合があった。

 と言っても、朝の通勤時には入場者が圧倒的に多く、また、通勤の時間帯に構内から構外へ出る車も稀にしかいない事もあって、私は構内の道路整地が開始して以来、片側通行で停止させられた試しは無かった。 その日までは。


 私はその日も普段と変わらぬ時間に家を出発し、スクーターで勤務先へと向かっていた。 自宅から正門へ着くまでに、信号は二つある。 一つ目の信号は、信号を超えるまでに赤になる事が大半だけれど、その日は珍しく青のまま通り過ぎた。 歩行者用青信号は点滅すらしなかった。


 二つ目の信号は一つ目の信号とは真逆で、こちらは赤になる方が珍しく、大抵青を保っている。 こちらも一つ目の信号同様、やはり青だった。 歩行者用信号は青のまま、点滅は見受けられなかった。


 二つ目の信号を左折すれば、それから先は信号とは無縁だ。 精々正門で降車するぐらいである。 恐らくこの時間帯ならば、今日も構内から構外へ出る車に遭遇はしないだろう。 今日は少しばかり早く会社へ到着しそうだとスクーターを走らせていた矢先、私はとある光景を目にして、減速を始めた。


 正門に辿り着く五十メートルほど手前の、緩やかなカーブの最中に、信号の無い横断歩道が一つあり、私と同じく会社構内に勤務する人が、徒歩で通勤する際に決まってこの横断歩道を利用している。

 この横断歩道のある道路は公道ではなく、会社の私道のようなもので、正直、道交法などは無いに等しく、横断歩道を渡ろうとしている人が居るにもかかわらず、碌に減速もせず、歩行者に憚り無く走り去る単車通勤者が多い。 悪質なものになると、歩行者の足を止めてまで、無理矢理進行する輩すら居るぐらいだ。


 私は、そうした現場に直面する度、溜息を一つ付いてしまう。 その意味合いは勿論、落胆である。


 確かに、朝の通勤時間は気が急いでいる事だろう。 予期せぬ渋滞などに巻き込まれた日には、更に気が逸るだろう。 なるべく早く会社に到着して、少しばかり一服でもしたいと思うだろう。 その気持ちは、分からないでもない。 私だってそういう場面に直面した事もあるし、そういう気持ちになった事もある。


 けれども、だからと言って、決められたルールを破っていい理由にはならない。


 信号の無い横断歩道、歩行者が渡ろうとしていれば、停止義務があるのは自動車側だ。 断じて歩行者側などではない。 例えその横断歩道のある場所が私道だろうが何だろうが、横断歩道は横断歩道である。 だから私は停止する。 事故が起きてからでは、遅いのだ。


 そうして、横断歩道より十五メートル手前付近から減速を始めた私は、今まさに横断歩道を渡ろうとしていた通勤者の妨げにならないよう、横断歩道手前の停止線で一旦停止した。 歩行者は私のスクーターが停止した事を確認した後、こちらへ軽い会釈をしてから横断歩道を進み始めた。 それから間もなく、私は目を疑うような光景に出くわした。


 私が横断歩道手前で停止し、既に歩行者が横断歩道内を進み始めているにもかかわらず、私の少しばかり後方を走行していたであろう一台の単車が、歩行者などお構いなしに、私の傍を猛スピードで通り過ぎて、横断歩道を突っ切ったのである。


 私は目を丸くした。 横断歩道を渡っていた歩行者も、突っ切った単車とは距離が離れていたので大事には至らなかったけれど、まさかそのタイミングで単車が走行してくるとは夢にも思わなかったのだろう。 進めていたはずの歩は、完全に停止していた。


 それから歩行者は私の方を見た。 その顔付きは何やら雲行きが怪しい。


「お前も、あの単車のように歩行者を無視して突っ切るつもりじゃないだろうな」

私は予め停止していた筈なのに、そう、訴えられているような気さえした。 けれど私は待機し続けた。 そうして、歩行者は今一度左右を見渡した後、再び歩を再開し、歩行者が横断歩道を渡り切ったのを確認した私もまた、進行を再開した。


 正門手前で、先程歩行者を無視し、横断歩道を突っ切った単車を発見した。 運転していた人物は、私の通勤時間帯に良く見かける、五十代後半の男性だった。 男性は既に乗車禁止区画を徒歩で通り抜け、単車に跨り走行する直前である。 私はその後姿を目で追いながら、乗車禁止区画を歩いていた。


 私が乗車禁止区画を抜け、スクーターに跨ろうとしている最中に、男性の運転する単車は、片側通行区画をそのまま通り抜けた。 私も同様、特に意識もせずに片側通行区画を通り抜けようとした直後、私が目にしたのは、交通誘導者の手に握られる、赤い旗。 即ち「停止せよ」の合図である。 道路整備が始まってから一度も出くわさなかった対向車に、奇しくもこのタイミングで遭遇してしまったらしい。


 間もなく対向からタクシーが三台ほどやって来た。 それから三台全てが通り過ぎた後、間もなく赤い旗が下げられ、白い旗で進めと誘導される。 私はスクーターのアクセルを回した。 せいぜい一分にも満たない停止時間だったろう。 例の男性の乗る単車は、もう見えない。


 会社までの構内道路を走行中、私は、先に遭遇した二つの出来事を、胸の内でずっと反芻し続けていた。 そうして、善意とは何であるかを、くうに問うた。


 恐らく、私が横断歩道で停止しなければ、正門直後の片側通行で一旦停止させられる事は無かっただろう。 現に例の男性は、歩行者を顧みず横断歩道を突っ切った結果、片側通行での停止を逃れていたのだから。


 果たして、私は正しかったのだろうか。 その日一日、私はその事ばかり考えさせられた。


 ルールを守った私が時間的に損をして、ルールを破ったあの男性が時間的に得をする。 私はものの見事に「正直者が馬鹿を見る」を体言してしまった訳である。

 そして私は一種の悟りを得たと同時に、空に問うた問いの答えに辿り着いた。


 善意とは、損をすることである。


 それが極端な答えだとは承知しているし、善意イコール損と扱ってしまうのも、おこがましさ極まりなく気が咎める一方ではあるけれども、それでもあのような場面に遭遇してしまっては、そう思わざるを得ず、私はこれからも、善意には損が付き纏うと思い続けるだろう。


 けれど私は決して、損をする事を厭っている訳じゃない。 それだけは、断りを入れておきたい。

 これからも私は、その横断歩道を渡ろうとしている人が居れば、迷わず停止するつもりでいる。


 何故なら、私は私の批判する人達のようになるつもりは毛頭無いから。 散々その人達を批判しておいて、私がその人達のようになってしまってはまるで筋が通らない。 滑稽も甚だしい。

 事故が起きてからでは何もかもが手遅れなのだ。 だから私はルールを遵守する。


 あの時「停止しておけば良かった」と後悔しない為に。

 何より、自分自身に笑われない為に。

 そうして私は今日も自ら損を取る。

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