オレは出世のためだけに結んだ公爵令嬢との婚約を破棄して何の後ろ盾もない黒髪の娘と添い遂げることにする
「それは誤解です」
若い声が執務室に静かに響いた。
人払いをさせた執務室の中には、この若い声の主――エミリオと、対して豪奢な机に構えている老年の二人しかいない。
老年のほうは名前をオーウェンと言い、エミリオの上司にあたる人物である。
近衛の現隊長であり、昔は騎士団長もしていたという。
にじみ出る存在感に、エミリオは焦りにも似た感情を隠せない。深い皺の刻まれた顔に、眼光だけはやけに鋭く、エミリオは自身が解剖されていくかのように感じられた。
そんな緊張の空間を切り裂いたのは、ひとつの音。
オーウェンの指がトンと軽く机を叩く、その音だった。
「エミリオ、おまえはなんだ?」
抽象的な質問にエミリオは一瞬面喰らう。
しかし、すぐに精神の均衡を整え、オーウェンを真正面から見据えた。
「わたしは騎士です」
「そうだな。しかも結婚を控えている」
エミリオは結婚を控えていた。
正確には婚約の段階であったが、既に根回しは済んでいる。
相手は、三女とはいえ、公爵令嬢である。
対して、エミリオの位は子爵であった。
エミリオの家はもともと伯爵家ではあったのだが、次男であるエミリオは成人すると同時に、分家化されたのである。
そのときに位をたまわり、子爵とされた。
本来であれば、男爵位にとどまり、しかも一代限りというのが世の相場というものであったが、彼の場合、自身の優秀さにより、『家』を興すことを許されたのである。
「本来であれば身分違いと言われても仕方のないところ、万に一つの醜聞も避けねばならぬ」
「もちろんです。ですが――、わたしはなにひとつ疚しいことはしておりませぬ」
エミリオは声に力をこめていった。
彼は騎士である。燃えるような闘志をその身に秘めている。
たとえ、相手が恩人であろうと――騎士としての誇りを傷つけるものは斬り捨てなければならない。
公爵令嬢との縁談を取り持ったのは他ならぬオーウェンであり、エミリオの醜聞はそのままオーウェンの醜聞になりかねない状況であったが、その思考をわずらわしくも感じた。
騎士は誇りに殉じればよい。
それこそが騎士であり、男であるのだから。
「疚しい疚しくないというのは、おまえがどのように考えているかではない。周りから見てどう思われるかだ」
「それは……そうですが」
言い含めるような言い方をするオーウェンに、エミリオはかすかな苛立ちを感じていた。
だいたい、まったく預かり知らぬところの話であった。
――見知らぬ娘が屋敷の敷地内にいる。
そのような知らせが城下から届いたのである。
下男のサリムは、若いエミリオよりもまず、オーウェンに知らせた。
屋敷といっても、人間の身長の五倍程度はある塀で囲われている。それを飛び越えて、いきなり屋敷の敷地内に現れるなど、誰が言っても信じないに違いない。
必然、侵入したか――。
「おまえが囲っているのではないかと思われる」
「それはそうかもしれませぬ。しかし、わたしは娘については何も知らぬのです。騎士の剣に誓ってもいい」
「聞けば、異国の娘らしい。珍しい黒髪に黒目。果てに、お前の名前をつぶやいていたそうではないか」
「知らぬものは知らぬのです」
「おまえの名前はそこそこ有名であろうから、その者が市井から名前を拾っただけなのかもしれぬがな、しかし、そのようなことはどうでもよいのだ。問題となるのは、おまえが公爵令嬢との婚約を控えている身でありながら、異国の娘を屋敷内に囲っているという事実だ」
「ならば――追い出せばよいではないですか」
下男からの連絡が来たのは、今より二時間ほど前のことになる。
城下町内にある屋敷までは馬車を走らせて十五分ほどのところ。
いまから出て行って、さっさと娘を追い出せば、ソレで事は済む。
そのようにエミリオは考えた。
オーウェンも一応の納得はしたらしい。
しかし、ささやくような鋭い声で、一言つけくわえる。
「すぐに下城はするな」
「なぜです?」
「できるだけ悟られぬようにするのだ。おまえが娘のことを知らぬというのであれば知らぬままでいればよい。意味はわかるな?」
「異国の娘など最初からいなかったというわけですね」
「そうするほかあるまい」
「しかし――追い出すにしろ。どこから来たのかぐらいは言いふらすのではないでしょうか。まさか闇に葬れとおっしゃるのですか?」
「物騒なことをいうな。娘がどこの勢力かもわからんのに殺せば、隙を見せることになるだろう。追い出すぐらいにとどめておいたほうがよいだろうな」
「わたしの家から追い出されたと言いふらすのでは?」
「異国の娘が仮にも子爵家の、しかも公爵令嬢との婚約を控えたおまえの家から出てくるといって誰が信じる。物乞いが憐れみを乞うためのホラ話だと思われるだろう。おまえが真にその娘のことを知らぬというのであればな」
視線で退出を命じられ、エミリオは一礼した。
両開きのドアは大きな音を立てて閉まった。
重苦しい空気から解放されはしたものの、気分は優れない。
いったいどういうことなのか。
――黒髪黒目の異国の娘。
見知らぬ娘が屋敷にいて、自身の不貞が疑われるというのは、騎士としての誇りを傷つけられたようで気分のよいものではなかった。
それだけでなく、この件は陰謀めいたにおいもする。
誰かがエミリオの栄達をうらやんだのかもしれない。
分家をした頃から、嫉妬の視線はいくつも感じ、多かれ少なかれ嫌がらせの類は受けてきたものの、このように訳の分からない、得体の知れない不気味さはついぞ経験したことがなかった。
その日、エミリオは仕事の終わりをいまかいまかと待ち望んだ。
いつもは、人よりも優れた頭脳で、何倍もの働きぶりを見せる彼も、そわそわと落ち着きのない様子だった。
――娘はオレを知っているという。
それもまた、エミリオの思考を混乱させた。
異国の娘とのつながりなど持ったことはない。
そんなことをする時間もなく、子爵として自身の家をもりたてていかなければならなかったし、つまりは仕事人間だったのだ。
馬車を心持ち早く走らせ、エミリオは下城する。
待っていたのは子どもの頃から知っている下男である。齢は五十にさしかかっており、初老と呼ばれる年齢である。
名をサリムといった。
サリムは性格に柔和なものがあり、エミリオに対しても、くるんだような言い方をする。そんなサリムの表情にあらわれていたのは、常には見えない焦りの表情であった。
「どうした。サリム。わたしが不義を働く男に思えたか?」
「いえ、坊ちゃまに限ってそんなことはありますまい。しかし――妙なのでございます」
サリムが言うには、娘は突然、庭先に出現したとのことだった。
子爵家の広大な庭には色とりどりの花が咲き誇っており、サリムと、サリムの妻ジョアンナがよく手入れをしてくれている。
人の背丈以上もある草花が咲き乱れている庭園は、エミリオにとってひそかな誇りでもあった。
騎士の趣味とはあわないという理由で、表立っては誰にも告げなかったが。
「庭には死角も多い。門をどうやって抜けたのかは知らぬが、そこさえどうにかできれば、庭先まで侵入するのはたやすいだろう」
「いいえ。いいえ。坊ちゃま。あの方はそのような現われ方ではございませんでした。今朝方、私は妙な胸騒ぎを感じまして、目を覚ましたところ、ふと離れから空が輝いているのを見たのでございます」
「空が輝いて?」
「はい。それはまるで真珠の玉が空に浮かんでいるような光景でございました。その光の玉は、ふわふわと空をただよい、それからお坊ちゃまの大事にしてらっしゃる庭園へと下ったのでございます」
サリムはその場の光景を思い出しているようだった。
サリムは続けた。
「私はその場に行ってみることにしました。すると、そこには見たことのない服を着た美しい娘がいたのでございます」
「サリム。そなたは……、その娘を天女かなにかの化身だと考えておるのだな」
「さようでございます。坊ちゃまに使わされた天の御使いと思いまして、すぐにジョアンナを呼び、その方を保護することにしました。坊ちゃまが難しい時であることは承知しておりますが、まさか冷たい地面にその身を浸しておくことも、ましてや放り出すなんてことができるはずもなく……、坊ちゃまの帰りを待つことにしたのでございます」
「そうか……」
しかし、確かに妙だな。
と、エミリオは思った。
そもそも時期が時期であるということもだが、仮に罠だとして――、
――オレが公爵令嬢と破談するためだけに、そんなとんちきなことをするのか?
子爵家の庭先に光を放つというのはできなくはない。
高名な魔法使いに依頼すれば、秘密裏に魔法障壁を破り、庭先に太陽のような輝きを現出させることも可能だろう。
しかし、魔法使いというのはコストが高い。
特に、何かを無から生み出すような創出の魔法は、国家予算に匹敵する。おいそれと頼めるものではないのだ。
それに、エミリオが公爵令嬢と結婚することを阻む組織があったとして、エミリオのことを害したいのであれば、直接そうすればいい。
魔法障壁を打ち破れるほどの者であれば、たとえ騎士が何十人と束になっても叶わない。まさしく戦略級と呼べる人間兵器なのだ。つまり、端的に言ってエミリオを殺せばいい。最も暗殺をなすような高名な魔法使いというものはいない。彼らはあまりに有名すぎて、しかも少数であるから、そのようなことをすればたちまちのうちに知れ渡り、同じ魔法使いによって粛清されるのである。
考えれば考えるほど妙だった。
なぜ――、力もない娘を送り込んできたのか。娘が魔法使いであることも考えられたが、それだと、見つからぬように潜んで、エミリオを暗殺すればよい。
あるいは、本当に気狂いの類なのか。
――くだらないな。
こうやって、権力の臭いというものを嗅ぐと、エミリオの中に生じるのは不快としかいいようがない感情だった。
――オレは、オレだ。
という強い自我と矜持を持つエミリオにとって、権力や組織によって型にはめられることは、我慢がならない。しかし、権力欲がないわけではない。それは他人を支配したいといった類のものではなく、むしろ他人に支配されたくないという気持ちが強いからだ。
公爵令嬢との婚約は、社会と自我との折り合いであったというべきだろう。
「サリム。オレは娘に会うぞ」
陰謀や罠への考えは瑣末なものだと切って捨てた。
異国の娘は当初は離れの寝室に寝かせていたが、いまは応接室にて、ジョアンナが対応しているらしい。
エミリオは毅然とした態度で、ドアをノックした。
「はい」
響いたのは年若い声だった。
前のめりに応接室に入り、エミリオは娘を見た。
異国の娘は、うら若く、年のころは15歳程度に見える。下手するとそれよりも下のように幼げであるが、東方の者はそのような傾向があったなと考える。
オーウェンから聞いていたとおり、黒鳥のような髪は湯浴みをさせられたのか、しっとりと濡れており、黒真珠のような瞳がエミリオに対して向けられている。
着ている服はまるで隠す気がないほど短いスカートを履いており、肌のキメの細かい太ももがすぐに目に入った。ジョアンナが考えてくれたのだろう足を隠していた薄手の毛布はすぐに置き去りにされた。
娘は――、感極まったのか、はしたなくも子どものように立ち上がり、それからはじけるような声を出した。
「エミリオ様ですか」
「そうです。しかし――、わたしはあなたを存じません」
声は硬く、冷然とした口調だった。
「え、えっと、その私は サウザキ・ミサです。あ、違うかな。こっちだと、ミサ・サウザキかな」
「ミサ殿……、あなたは何をしにここへ参られたのかな?」
「あの……実はよく覚えてないんです」
「覚えてないとは?」
「その……、うちでテレビ……じゃなかった、演劇を見てたんです」
「演劇を?」
エミリオが思い描くのは、五年ほど前にできたオペラハウスだ。壇上はきらめくような魔法の光。議席のように段々畑上に広がる観客席は当時画期的だといって絶賛された。
演劇とは、多数人によっておこなわれるものである。
それを家に招くなど、狂気の沙汰どころの話ではない。
見ると、ミサの肌には染みひとつなく、それどころか日焼けをしたことのないように薄白くなめらかだ。
華奢なからだには、力仕事などしたことないようなご令嬢然とした雰囲気であるし、爪先まで綺麗に磨かれている。
もしかすると、王族か、それに匹敵する血筋かもしれない。
言葉が幼げなのは、異国出身であるともいえるし――、これは自分の手には負えないかもしれないなどと、呆然とした頭で考えていた。
ミサは不安げな様子でエミリオを見ていた。
「……失礼。続けてください」
「はい。私が演劇を見ているとですね。そこでエミリオ様が活躍していたんです。時には魔物の軍勢に剣をふるって……、時にはヒロインと恋におちたりして、いつも素敵でした」
「そうですか」
不気味な娘であると思った。
目をキラキラと輝かせて、エミリオのことが好きだというのは痛いほど感じるのだが、年若い令嬢が節操なくこちらに向かってくるのとまったく変わらない。
「そうしたら――、なんだか急に眠くなってしまって、気づいたらここにいたんです。すぐにエミリオ様のお屋敷だってわかりました! だって演劇で見たままなんですよ!」
「しかしミサ殿。何度も言いますが、わたしはあなたを知らないのです」
「そうですよね……」
最後には消え入りそうにしぼんでいく声に、エミリオは困惑する。
「あなたは誰なのでしょうか?」
「ミサです」
「それは先ほど聞きました。わたしが聞きたいのはあなたがどこの国のどんな地位にあるものなのか。そして、先ほど申し上げましたとおり、なぜここを訪ねてこられたのかです」
「私は……えっと、すごく遠い日本という国に住んでいます。学生で……、年は15歳で、乙女ゲームが好きなただのオタク系女子です。それと、ここへ訪ねてきたというのは、さっき言ったとおり、私にもわかりません。気づいたらここにいたので……」
「そうですか。では結局のところ、わたしはあなたのことを知らず、あなたはここに来た理由を知らないということですね」
よくわからぬ言葉もきっと、異国の娘であると言外に主張しているのだ。道理の通らぬごまかし。子どもだましに等しい詐欺まがい。
――こんなくだらない罠があるだろうか。
かすかにそんなことを考えつつ、ミサという娘の瞳の中にじんわりと涙がたまっていくのを、エミリオはどこか他人事のように見ていた。
「申し訳ないが、あなたのことを、ここに置いておくわけにはいかないのです」
「そうですか……。そうですよね。こんな得体の知れない人間を置いておくわけにはいかないですよね。エミリオ様は、いま、婚約してらっしゃるのですから」
エミリオは眉をひそめた。
ミサはエミリオが婚約していることを知っていた。既に市井の者にも知られていることだとはいえ、彼女が陰謀の片棒をかついでいるのであれば、あまりにも不用意な言葉である。
ある意味で、その無防備さが、不自然さを加速させた。
――やはり、オレを混乱させようとしているのだろうか。
それとも、娘が言ったとおり『演劇』の類なのだろうか。
「行く宛てはあるのですか?」
と、エミリオはあえて聞いてみた。
「いえ……」
か細くなっていくミサの声に、エミリオは罪悪感が生じた。
騎士が年端もいかぬ娘をいじめてどうするのか。
それはオレの目指す生き方なのか?
「では、教会に身を寄せるというのはどうでしょう」
「ここに……いさせてくれませんか」
泣き孕んだ目をしていた。
もしもこれが演技であるというのなら、オペラハウスで主演をはれるだろう。
エミリオは、正直なところ微妙な心持ちだった。
娘が演技しているのか、それとも薄汚い権力の刺客なのか、判別がつかない。
――オレは、オレだ。
そう考えてみるものの、その『オレ』とは結局のところ騎士たるオレなのだ。
つまり、か弱い女を泣かせるような輩は騎士として失格である。
――もしも、オレがそうであるなら。
つまり、騎士の風上にも置けぬクズであるなら。
神よ、わたしを殺したまえ。
そう念じるほどに、エミリオは自身のアイデンティティを清廉な騎士として置いていた。
「ミサ殿。あなたが望むのなら、屋敷の中でいくらでも過ごしていただいてもかまいません。異国の姫を客人として招いていることにしましょう」
「ありがとうございます……」
顔を上げたミサは、まるで神に祈りのささげる乙女のようだった。
おそらく本来は明るい性格であろう娘は、いまは寄る辺のない子どもであり、小さきか弱い存在である。
エミリオは人知れず嘆息し、部屋を出た。
「坊ちゃまよかったので?」
「ああ、あのままミサ殿を見捨てていたら、オレがオレでいられなくなる」
「しかし、危険です」
そうだ、危険だ。
名実ともに娘を屋敷の中に囲うことになる。
公爵令嬢にもしも知られれば、ただではすまい。
不義の男として、歴史に刻まれることになるだろう。
あるいは、歴史の闇に葬られるか。
エミリオは口元を歪ませた。かすかな微笑だった。
それならそれでよいと思ったのだ。
エミリオにとって、社会とは――他人とは『しゃらくさい』ものだった。
そんなものにつきあっていく自分自身の未来に嫌気がさしていたのも事実だ。
名も知れぬ異国の姫を守れるのであれば、それもよかろう――。
もしも、自身が破滅したとしても……保身の中で腐っていくよりはよっぽどマシだ。
そう思ったのである。
☆
「して。おまえは、娘を匿っていると、そう言うのか?」
「はい」
「しかし、おまえは娘を知らぬ。娘もなぜそこにいるのかもわからぬという」
「はい」
――道理が通らぬ。
オーウェンは口を『へ』の字にした。
エミリオも自身の説明が論理的でないことは知っている。
しかし、幼き娘の涙に道理を求める騎士があろうか。
エミリオとしてはそう言いたかった。
「しかし――、このまま隠し通せるものでもない。それはわかっているな?」
「ええ。それはわかっております」
異国の娘のことは既に城内でも噂になっていた。
人の口に戸は立てられぬ。
エミリオの屋敷の者は皆信頼のおけるものであったが、屋敷内に出入りする人間は多い。例えば、食糧を売るもの、こまごまとした雑貨屋、手紙などの通信をおこなう者。
それらの者たちが異国の娘の姿を見かければ、彼女の容貌は珍しく、たちまちのうちに人口に膾炙するだろう。
「公爵家が確かめようとしているようだ。用心せよ」
それは命令然とした口調であった。
エミリオは小さく礼をすることで答えた。
昼時になって、城内をうろついていると、幾人ものメイドをつれた公爵令嬢に会った。偶然を装っているが、これは必然である。
公爵令嬢は、ただ――、一瞥した。
こちらから声をかけるのすらためらわれるような冷笑の意思。
なにそれとかいう、高貴な鳥の羽でできた扇で口元を覆い、こちらを値踏みするような視線で見ていた。
こいつがオレの妻になるのかと思うと、臓腑が冷えきるような気持ちだった。
「エミリオ様?」
公爵令嬢は言葉を発しない。言伝にメイドに伝えさせるのだ。
「なんでしょうか?」
「異国の娘を飼っていると聞きました」
「それはおかしなことをおっしゃる。人を飼うなど。この国は奴隷を禁じている。公爵令嬢ともあろう方が、よもやお忘れではあるまい」
「もちろん、存じております。しかし、異教徒は別です。異教徒は人であって人でない存在。奴隷のように扱っても神はお許しになられるでしょう」
「神は人を平等に扱っております。異国のものであれ人は人でありましょう」
「でありましても、所詮は文明を持たぬ未開の野蛮人。我々がどう扱おうと、それは啓蒙であり、教育でありましょう」
「未開のやからであるとすれば、それは弱き者でしょう。弱き者であれば、騎士としては守らねばなりますまい」
「騎士は獣も守るというのですか?」
「人としての誇りを持っているのならば、それは獣ではありますまい」
「野蛮人が誇りを持っているとでも」
「誇りとは、他人を思いやれるということです。公爵令嬢」
「野蛮人が人を思いやれるとでも」
「身分を持たぬ市井の親ですら子どものことを思いやれるのです。未開の野蛮人がどうして他人を思いやれぬと思うのです?」
「ではそなたは……、」
怒りで震えた声が聞こえた。
公爵令嬢がこの場で始めて聞こえる声を上げたのである。
「野蛮な娘を選ぶというのですね。この高貴たるわたくしではなく、未開の土豪に過ぎぬ娘を!!」
これにはエミリオは答えようがない。
婚約を結んでいる手前、異国の娘を選ぶといってしまえば、不義そのものであるからだ。
しかし、これではそう言っているも同じだった。
――オレは騎士の剣を返さねばならないかもしれない。
静かに頭をたれ続けるエミリオに業を煮やしたのか、扇子は公爵令嬢の手によって破壊された。
小気味の良い音だとエミリオは思った。
☆
しかし、ミサの行動は正直なところエミリオにとっては多大な負担であるといえた。彼女は籠の中の鳥であることをよしとせず、その目立つ容姿で市井にでようとするのだ。
そして、慣れぬ手つきで、見られぬ料理を作ってはエミリオに食わせようとした。
「ミサ殿。このようなことはなさらぬともよいのです」
エミリオはそう言うのだが、ミサは邪念の一切ない瞳で、なにかできることをしたいというのである。
きっと、エミリオの屋敷から見られぬ異国の女が行き交いしているということは、もはや止められぬであろうが、エミリオはそれでもよかった。
それでもよかったのだ――。
エミリオは預かり知らぬことであったが、公爵令嬢の卑劣な手下は、市井にでている異国の娘に声をかけたのである。
暴力を受けたわけではない。
しかし、心を傷つけられたのだろう。それがどのような方法であるかは、四六時中、ミサを観察しているわけにはいかないエミリオには預かり知らぬところである。
ただ、唯一わかるのは、このごろ、開花する花のように本来の性格をあらわすようになってきた娘が、再び殻に閉じこもるようになったという事実だけだった。
ミサは部屋に引きこもってしまったのである。
「姫様は悩んでおられるようでした」
サリムは苦い表情でいう。最近あの異国の娘は、東方の高貴な血筋のものであると認識され、皆、「姫」と呼称していた。
貴族令嬢のなかでもとりわけ身分の高い者しか、呼称されぬ呼び名である。
もちろん、異国の娘の身分など知りようがない。
しかし、サリムにとっては、いやこの善良な老夫婦だけでなく、屋敷の者は、無邪気で朗らかなあの娘のことを「姫」と呼ぶほどに大事に思っているのだ。
――それは、オレもだ。
エミリオはミサに貸し与えた上等な客室に足を運んだ。
彼女は異国の娘であり、明るく気丈に振舞っているが、この国の常識というものに欠けていた。
最初の頃はいくつもの失敗を重ね、そのたびに自室にこもっては、猫のように小さく丸まっているのである。
そのたびにエミリオは心を砕いて、話を聞いた。
今回も同じことになるだろうと、軽く考えていたのだ。
しかし――、違った。
部屋の中はもぬけの空であり、ミサの姿はどこにもなかった。
☆
エミリオは流星のように駆けた。
子爵の地位を持つエミリオが、手下も連れずに市井を歩くなど、騎士としても貴族としても、ありえないことであったが、そんなものなど『しゃらくさい』と思ったのである。
――オレがオレらしくあれたのは。
あの娘の前だけではなかったか。
ならば、騎士なら騎士らしく、とく駆けよ。
名分も大儀も常識も倫理もいらぬ。
曇天が渦巻いていた。
魔女のとぐろを巻いた髪のような雲。
そこから氷雨とも思えるような冷たい雨が降る。
視界が閉ざされ、身が凍る。
道を行き交う人はエミリオが子爵であることを知っている。声をかければ答えてくれる。
珍しい黒髪黒目の娘。
既に市井の中では有名であり、すぐに居場所は知れた。
町外れの墓地である。
なぜ――とは思うが、おそらくは人のいないほうを選んだのであろう。
この国についぞ受け入れられなかったと、そのように感じたのかもしれない。
それはオレの責任だ。
中央の通りから、細い畦道をかけぬけ墓地のほうに向かう。まさか城壁の外までは出ようとすまいが、薄暗くぬかるんだ道を歩くだけでも、娘にとっては難儀しただろう。
身も心も凍るような寒い雨に降られながら、しかし、エミリオは休むことなく駆けに駆けた。
これほど駆けたのは騎士見習いであったころくらいだ。
墓地は、教会とは別の場所に建てられている。
そこにあるのは墓守の住み家や、小さな野菜を育てる畑、そしていくつかの木組みの小屋である。おそらくは納屋のような使い方をしているのだろう、そこは特に鍵らしい鍵もかけていないらしく、ただ閉め切ってしまうのも怖かったのか、わずかに開け放たれている。
その奥のほうから
「寒い……なぁ……日本だったら、コタツに入ってゲームしてるんだろうけど」
わずかな声が聞こえた気がした。
その声は震えてるように思えたが、いまだしっかりしている。
エミリオは幾分安心して近づいていく。
「お母さん……お父さん……こわいよぉ」
さらに近づく。
激しい雨音にかき消されて、娘の声はほとんど聞こえない。
こちらの近づく音も聞こえないだろう。
しかし――エミリオは、身体強化の魔法によって、超人的ともいえる聴力を発揮していた。
不意に小屋に近づく物影も、はっきりと見えた。
エミリオは音を消すように静かに近づく。いくら超人的だといっても数十メートルの距離を一瞬で潰せるほど早いわけではない。
「どうした?」
と、男の声が聞こえた。
怯えているのか、娘のほうは身じろぐ気配はあっても声は聞こえてこない。
「こんな寒いところで、震えてるじゃないか」
「家出してきたのか? それともいくあてがないのか? うちにくるか? 服をかわかさないと、手足が腐って落ちるぞ。さあいこう」
有無を言わせぬ口調の端々には薄汚れた欲望が見て取れた。
「オレの姫様に触れんじゃねえよ」
ようやく小屋の戸に手をかけて、エミリオは言った。
突然の声に、その男――墓守はぎょっとしたようだった。
「なんだい。おまえさんは。ここはおれの家だぞ」
「わたしはエミリオだ」
「エミリオだと。しらねえな。それに姫だって? 姫さまがこんなところにいるもんか。いいとこ、てめえがこの娘のことをどこかで見かけて、いいようにしようとしたんだろう!」
「わたしの顔を見忘れたのか? 確か――おまえは墓守のジャックだったな」
「あ――」
エミリオが創出の魔法で、ともし火を掲げると、墓守は今度こそ飛び上がるほど驚いた。
子爵閣下が、このような薄汚れた――嫌われ仕事の場所にいる。
そのことに驚いたのもそうだったが、一介の墓守に過ぎないジャックの名前を知っていることに、身体が震えるほど感動したからだった。
ジャックは先ほどまでの薄暗い欲望もすっかり洗い流されたようで、その場で罪に怯える子どものように平伏した。
エミリオは、ジャックを一瞥すると、部屋の奥で小刻みに震えて、自分の身体をかき抱くミサを見つめた。
震えているのは寒さのせいだけではないだろう。
「遅れた。すまない……」
「なんで……なんでぇ?」
ぽろぽろと泣き始めたミサに、エミリオは困惑する。
先ほどの威厳に満ちた様子も形無しである。
「すまなかった……」
「違うの……そうじゃなくて」
「ああ」
「私がいたら迷惑で」
「迷惑ではない」
「エミリオ様は、本当はもっとかわいくて美人でなんでもできて優しい人と結婚するんだよ」
「誰のことを言っている。公爵令嬢のことか」
「違う……。プリア・エッセフェルト。今はこの国でパン屋やってる子だよ」
「そのような者は知らぬ。わたしが知っているのはそなたのことだけだ」
「さっきは――オレって言ってた」
娘は泣きはらした目で抗議していた。
「確かにな……」
裸身をさらさねば、この娘の心は開かれまい。
鎧をまとっているだけの臆病者など、騎士ではない。
「オレといっしょに帰ってくれ。ミサ」
☆
「それがおぬしの選択だというのだな」
オーウェンは苦虫を噛み潰したような顔をしている。
いつものクセである、机を指で叩く動作も早い。
しかし、常ならば、恐縮していただろう威圧も今のエミリオには凪のように思えた。
「公爵家へはどう申し開きをするつもりだ」
「とくに申し開きをするつもりはございません。婚約とは家と家どうしの約束事ではありますが、その前にひとりの人間どうしの約束事でもありましょう。ひとりの男が、他に好きな女ができた。ただそれだけのことです」
「ただそれだけのことだと。この婚約にいったいどれだけの人間が動いていると思っているのだ。おぬしはただひとりの我侭でそれを不意にしようというのか」
「あの娘は、わたし以外に頼るものがおらず、それでもわたしに迷惑をかけたくないという理由から、離れようとしたのです。そのような者を見捨てるのが騎士であろうはずがない!」
「ならば不義はいかんとする。事情を知らぬ者が外側から眺めてみれば、いままで育んできた公爵家とのご縁を投げ捨て、身元不明の怪しい娘にうつつをぬかした大馬鹿者だぞ」
「それでかまいません」
「お主には将来、私のあとを継いでもらいたいと思っていた。破談にするだけではすまぬかもしれん……」
思わぬところでつぶやかれた言葉に、エミリオは一瞬、身体が揺れた。
婚約はあくまで結婚の約束であり、婚前に貴族以外の市井の者に手をかけたとしても、犯罪となるわけではない。
異国の娘は、身分的には市井の者と変わりがないから、たとえ結ばれたとしても、非難されることはあれ、決定的に罪となるわけではないのだ。
ただ――、公爵家にとってみれば。
あのプライドの高い公爵令嬢にとってみれば、その顔に泥を塗られたも同じだろう。あのご令嬢の内心がどうであれ、騎士としては確かに正しいおこないではない。
――騎士としてのオレは終わるかもしれない。
それどころか出世という意味でもはずされるだろう。もっと悪ければ、子爵家が取り潰されるかもしれない。さすがに犯罪そのものを犯したわけではないので、そこまではないと思うが。
――だが。
オレは選んだんだ。そこに後悔はない。
☆
城内での生活は苛烈なものになると思われたが、予想に反して静かな生活を送れている。唯一違っているのは、やはり公爵家との関係だ。
つまり、公爵家からお呼びがかからなくなったことと、公爵令嬢が城内ですれ違っても、一瞥すらせずに、エミリオをまったくいないものとして扱っていることだった。
身分的には下位にあたるエミリオは頭を下げて、公爵令嬢が静々と通り過ぎるのをただ待つしかない。
そう、それは――空虚な、徹底的に空虚な、まるで価値のない者を見る目だった。私はおまえなんかに貶められていない。
そう宣言するかのような透徹のまなざしに、エミリオは騎士として矜持に傷がつくのを感じた。
周りのものは、エミリオがまるで公開処刑されているように見えただろう。公衆の面前で、ただ頭を垂れ、それに対して、存在を無視される。
公爵家のおこなった『報復』は、エミリオに罪悪感という至上の瑕をつけたのだった。
しかし――、
いかに愛してなかろうと。
政略的な結婚であろうと。
公爵令嬢が冷徹な人柄に見えようと。
ひとりの女のプライドを傷つけたという事実に間違いはないのだ。
エミリオは謝罪するほかない。
騎士として、男として。それが筋だと思ったのである。
エミリオが許されるのは、このときから十年ほども後になってからである。
☆
「そろそろよいか……」
オーウェンに呼び出されたのは、ミサが屋敷に現れてからちょうど一年が経過した頃であった。
騎士としての仕事は除されるどころか、むしろそれで名をあげるように求められ、既に隊長格へと成り上がっているが、このところは魔物退治も一段落して、騎士団への要請はない。
何事かと身構えても無理からぬことだろう。
「なんのことでしょうか」と、エミリオは身を硬くして聞いた。
「おぬしの姫君のことだ」
異国の娘は、いまやすっかりと姫様呼びが定着していた。
それにはこの一年でおこなわれた数々の進言――いや、予言ともいってもよい精度の言葉、そして不思議な知識の数々、それと幼げながらもしっかりと男を立てようとする姿に、誰もが惹かれたからである。
彼女自身は、はにかみながらも言うには、『ヤマトナデシコ』なるものを目指しているらしかったが、エミリオにはなんのことかはわからない。
「ミサのことがどうかしましたか?」
「おぬしとの婚儀のことよ」
「しかし――、ミサはこの国のものではありませんが」
「わかっておるわ」
姫と呼ばれてはいるが、ミサは市井の者である。
対して、エミリオは子爵だ。
身分違いの恋などという言葉は、もはやエミリオの中では一笑に付すものであったが、周りとしてはそうはいかないものらしい。
「子爵といえども、所詮は分家、内実は一代限りの男爵も同然でしょう。城内のご老公たちは、わたしのような末席の者の婚儀にさえ、わざわざ口を出すというのですか」
「そう言うでない。おぬしは昔、婚約とは人と人との約束だと言ったことがあったな」
「ええ。今もそう思っております」
「しかし、私はやはり家と家との約束ごとだとも思うのだ」
「それは――」
考え方の違いであろうと思ったが、オーウェンは片手をあげて制した。
「例えば、お主は自身の父親にミサ姫をお会いさせただろう」
「それはそうですが……」
「ただ籠の鳥を愛するだけならば、不要なことではないか」
「そうかもしれません。しかし、ご存知のとおりミサは籠の中の鳥で納まるような娘ではございません。なにしろ、共もつれず、市井の中にでかけていき、自ら大きなカボチャを両手で持って帰ってくるようなやつです。姫などと呼ばれていますが、その……かなりのお転婆ですよ」
「よいではないか。それに貴族らしからぬといっても、あのような挙措やその場の雰囲気でガラリと空気を換えるところは並の胆力ではない」
「周りに認められるように必死なのでしょう」
「そう。必死なのだ。であれば、お墨つきを与えるべきではないか?」
「お墨つきが、つまり婚約だと?」
「婚約でも結婚でもかまわんよ。あまりにもミサ姫が不憫ではないか」
どこをどうしたらというレベルで、ミサはオーウェンに気に入られているらしかった。エミリオとしても、ミサのことが認められるのはうれしかったが、しかし、いまさら婚約ということに実感が湧かない。
「よい。根回しはもうすんでおる」
「はぁ……どのようにでしょうか」
「まずは、ミサ姫を私の養子にする」
「マジですか……」
「マジに決まっておる」
確かにオーウェンは侯爵家の血筋。いまは息子に侯爵家は任して、政治の世界から半ば引退しているらしいが、侯爵家のご令嬢となれば、子爵と結婚しても十分につりあう。
「よいな」
「ミサはどう思っているのです」
「そんなことか。既に許諾は得ているに決まっておろう」
「いつのまに……」
「おぬしが、ぐだぐだと何もせずに過ごしてきた間にだ」
「一応、災害クラスの魔獣とか倒してきてたんですがね」
「そんなことは知らん。ともかくそういうことだ。よもやこの縁談を破棄するつもりはないな?」
有無を言わせぬ迫力に、エミリオはうなずくほかなかった。
しかし、悪い話ではない。
ミサはただ純粋に喜んだのだろう。
もともと、何の後ろ盾もない彼女と添い遂げるつもりだったのだ。
いまさら後ろ盾ができたところで、多少騒がしくなるだけだ。
そう思うと、心が軽やかになるのを感じた。
エミリオは思う。
――いままでどおり、オレらしく彼女を愛すればいい。
オレがほしいのは公爵令嬢でも侯爵令嬢でもなく、ましてや異国の姫君でもない。
君なのだから。
オレが帰ると、ただ咲き誇るように笑ってくれる君なのだから。
男性視点で、かつ歴史小説風味のちょっと硬い書き方って、ダメ……かな。
このジャンルをいくつか見るかぎり、わりと視点切り替えをするタイプもあるから、たぶん大丈夫だと思いたいですが、圧倒的にふわっとシュガーな感じの書き方が多いので、こういうタイプはたぶん珍しいというか、あまり求められてないかもしれないなぁ。うーむ。
タイトルは適当すぎた。考えつかないよ。