平均であり普通の何事もない生活 6
汚れたシーツに混ざり、砂埃で汚れたフードが見えた。フードの隙間から覗く首筋に、ナイフがギリギリ触れない位置で止まっている。
背筋から冷や汗が流れる。いつでも止められる勢いで振ったナイフではあるが、丁度そこに首があったなどとは、思いもしなかった。というか、多少は切れても別にいいかと思って振った。
「……女? 亜人の、しかも若い」
小汚いフードを脱がし、危うく命を奪いかけた相手を観察する。
日に焼けた肌と、汚れたシャツの胸元を持ち上げる膨らみ。頭には先が黒いウサギの耳。耳の間には、白髪を掻き分けてコブのような突起が見える。見た目からして、年は俺より少し下だろう。胸も小さいし。亜人は見た目どおりの年齢をしていない奴も多いので、あまり当てにできないが。
「なんて亜人だったけな」
数年前までは宿もなく外の世界で生活していた。しかし、見たことがあるような、ないような……どうにも思い出せない。亜人というのは種族数が多すぎて困るんだ。変な力を持つ亜人もいるので、魔物じゃないからと油断はできない。
そんな亜人の少女をどうしたものかと悩んでいたとき、コンコンとノックが聞こえてくる。背後には開きっぱなしだったドア。そこにはミラ姐さんが立っていた。
「はぁい、レオン。鼠は見つかったかしら。それとも、もう駆除しちゃった?」
「鼠ねぇ。ミラ姐さん、あんた知ってただろ。鼠が“人”だってことを。あっ! まさかそれを確認させるために、俺に倉庫を片づけさせたのか!?」
「言ってなかったかしら?」
「……はぁぁぁぁぁぁ……」
とぼけているつもりなのだろうが、ミラ姐さんの顔は笑っている。別に、本気で隠すつもりもないのだろう。なんとも腹立たしい。俺がナイフをしまうと、ミラ姐さんも倉庫のなかに入ってくる。
「あら、意外と可愛い子じゃない。ウサギの耳に、可愛らしい……小さなシカの角かしらね。この辺りでは見かけないけれど、確か……そうそう、ジャッカロープ!」
「ジャッカロープ? ああ、そうか。思い出した。ここよりもっと西方に住んでる亜人か」
ようやく思い出した。親父たちと一緒に西の方で仕事をしたときに、身軽そうに地面を駆けていたのを見ている。すばしっこくて声真似が得意。特に危険な力なんかは持ってなかったはずだ。
「その亜人ちゃんが、なんでウチの倉庫に潜り込んでいたのかしら」
「わかってたら苦労はしないな。で、どうするつもりなんだ?」
「どうしましょうね?」
「そこまで考えてはなかったわけね。……というか、こんな近くで話してるのに起きないな」
喋っているどころか、倉庫の片づけで結構な騒音がしていたはずだ。だというのに、少女は一向に目を覚ます気配がない。
「もう死んじゃってるんじゃない? もしくはアンデッド系の魔物になっちゃってるとか」
「結局死んでるじゃねーか」
アンデッドとは、不死性を得た魔物の通称で、生き物の死体に魔物の瘴気が入り込み、動く死体として復活したものだ。だが、目の前で寝ている少女の慎ましやかな胸は、僅かにだが上下している。僅かにというか、弱々しく、だろうか。
「もしかして、気を失うくらい衰弱してるんじゃ……」
「そうかもしれないわねー。ぜんぜん起きないわ。あら、意外と伸びるわね」
ミラ姐さんが足の吸盤で、ジャッカロープの少女の頬を引っ張っては放す。娼婦の化粧室で、似たような美容器具を見たことあるな。
「可哀想だろ、やめてやれよ」
「じゃあそんな可哀想な子を、どうすればいいと思う?」
「そりゃ病院に連れて行くとか、看病してやるとか。もしくは自警団に通報?」
不法侵入なわけだし、自警団に連絡すれば勝手に連行してくれるだろう。
「そうね。レオン、あなたが世話をしなさい」
「はぁ………………はぁっ!? 世話って、ちょ、俺が!?」
「他に誰がいるのかしら。私の前にはレオンしかいないわよ? あ、自警団に連絡するのはダメよ。あそこのリーダーさん、ウチの店キライだから」
あ、やばい。ミラ姐さん、本気の目だ。笑ってはいるが、その目をしたときは、有無を言わさず押し付けられる。そういやミラ姐さんは、こういった亜人の女がいると、世話を焼かずにはいられない性質だったな。だからといって俺も、易々と面倒になりそうなモノを身近に置くつもりはない。
「誰か今日休みの子に任せるか、医者をここまで呼べばいいだろ!?」
「イヤよ。もうすぐウチの子全員でショーをする、半年に一度の謝肉祭なのよ?」
謝肉祭。別名も射肉祭。店の娼婦総出でショーをし男を楽しませ、男は肉――というか肉体に感謝し、ナニかを女の子に発射する。だから、謝肉祭で射肉祭。捻っているのかストレートなのか。下品なことには違いない酷いネーミングだ。
「その子が目を覚まして、お店のなかで暴れて怪我でもさせてみなさいな。どっちの子も不幸になるわよ?」
「俺なら怪我をしてもいいってか」
ミラ姐さんの言っている意味はわかる。娼婦が怪我を、それも顔や身体に一生残るような傷が付いてしまえば、商品としての価値が下がる。つまり給料が減る。この店に居続けるならそこらの融通も利くかもしれないが、働き続けられる保障も、この店が永久に続くという保障もない。熱心な固定客がいないなら、身請けも厳しくなるだろう。
そして、怪我を負わせた奴も相応の捌きが下る。一生下働きにされるか、売られるか。ヘタすりゃ殺される。その点、雑用係の俺ならば、どこをどう怪我しようが関係ない。たとえ、死んでしまっても。
「たぶん大丈夫じゃないかしら」
「たぶんって……理由は?」
「女の勘よ。きっと、レオンなら悪いことにはならないわ。そう思うのよ。やってくれるわよね?」
ウィンクをしてくるミラ姐さんに、溜息しか返せない。なんて怖い女なのだろう。まったく、女の勘というのは恐ろしい。
「わかった。病院に連れていく。看病も俺の家でしよう。これでいいか?」
「ありがと、レオン。私を指名してくれたら、安くしてあげるわよ」
「半額でも払えねぇよ」
「そこまで安売りするつもりはないわ」
「じゃあ一生ムリだな」
寝ているジャッカロープの少女の、背中と膝の裏に手を入れる。持ち上げてみると、予想よりずっと軽く少女の身体は持ち上がった。少女を抱きかかえた俺に、ミラ姐さんは金貨を一枚渡して寄越した。
「これは?」
「病院代と看病代。目が覚めたら、栄養のあるものでも食べさせてあげて。余ったら、服でも買っておあげなさい。その子の服、どこかの兵隊さんみたいに野暮ったいんだもの。ついでに、ヴェラちゃんのも一緒にね」
「あいつに服ねぇ。……似合うのがあったらな。倉庫の片づけは任せてもいいのか? 出した布団くらい、戻しておいてもらえれば助かる」
「みんなの目が覚めたらやっておくわ。じゃあ、その子のことよろしくね。目が覚めてお金に困っているようなら、ウチの店で働かないか誘ってみて」
「それは自分でやってくれ」
手を振るミラ姐さんに見送られ、表ではなく裏口から店を出る。倒れた少女を運んでいるところを娼館を嫌っている住民にでも見られて、変な病気かなにかかと疑われては堪らない。こういうときは、考えすぎと思うくらいで行動したほうがいい。世間というのはそんなに優しくはないのだ。
「全員が全員とは言わんがね……しょ、と」
俺は裏口のドアを閉めると少女を抱え直し、近くにある病院へと向かった。