平均であり普通の何事もない生活 1
茹だるような暑さのなか、背筋に冷たい汗が流れる。手に持ったナイフが震える。
「……すぅぅぅぅぅはぁぁぁぁぁぁぁ……」
いくら深く呼吸をしても、手の震えは収まらない。手に持つナイフが、俺の明日を握っている。ほんの数センチだ。俺が少し手を動かすだけで、今後が決まるのだ。
「どうした兄ちゃん。俺がやってやろうか?」
「――っ!? あっ……!?」
後ろからかけられた声に驚き、はずみでナイフが動いてしまった。誰だ脅かしやがった奴は、などと言う余裕もない。やってしまった……いや、どの道やらなければならないことだ。
「ごくり……」
ナイフの切っ先を見る。切っ先に付着した汚れは少量。だが、その少量の汚れの先に、未来がある。
「しゃぁ! …………………………………………はぁぁぁぁぁぁぁ……」
紙に張られた銀色の薄い膜の下に、同じマークが三つ並んでいた。ガッツポーズなんてしてみるが、心の中に高揚感など浮かばない。代わりに浮かんで出たのが安心の汗と溜息だ。
「おおっ! 兄ちゃん凄いな! 三等じゃあないか!」
「ははっ、どーも。つーか、覗いてんじゃねーよ、おっさん」
頭に角を生やしたおっさんを追い払うように手を振りながら、俺は店先にあるカウンターへ、同じマークの並んだ紙を持ってゆく。
「はいこれ、よろしく」
「はいはい。お、三等じゃないか。でもなぁ、また“トントン”か。まるで魔法かなにかだな」
「こんな魔法があってたまるかよ」
そう。店主の言ったとおり、『また』なのだ。
“俺たち”が一年前から住んでいるシェルナという村で、二ヶ月に一度行われる富籤。一等でも当たれば、数ヶ月は遊ぶ金には困らない程度の賞金が出る。俺はこの富籤で、最高でも三等しか当たったことがない。つまり今の富籤が最高記録。富籤を買えば買った分だけ、同じ金額が戻ってくる。それが俺だった。
「次は一等と同じだけ買ってみるかい?」
「ヤダね。またトントンで、本当に魔法じゃないかって疑われちゃ敵わないからな」
今回は一ヶ月分の給料を全て富籤に費やしてみたが、結果はご覧の通りトントン。多少の誤差はあれど、ほぼ同じ金額が返ってくる。一等と同じ金額分の富籤を買えば、きっと一等が当たるんだろう。もし外れたらと考えたら怖くて、絶対にやらないけど。それに遊ぶ金があったら富籤なんて買わずに遊ぶわ。
苦笑する店主から賞金の金貨を受け取ると、帰り道の商店で食い物をいくつか買い込んで、舗装もされていない砂利の道へと入る。
「これが俺の上限なのかね……」
負けもしないし、勝ちもしない。なんともつまらない結果だろうか。
俺は食料品の詰まった紙袋を持ち、安アパートへとたどり着く。築何年たっているかわからないような、このボロアパートが俺のねぐら。床は軋むし建て付けも悪い。いい点は、他に住んでる奴がいないので気兼ねしなくいいところだろうか。
「ただいまー」
「おおっ! 帰ってきたか!」
玄関のドアを開けた俺に、一人の少女が近寄ってくる。
見た目は十歳ほど。ふわふわと柔らかそうな長く赤い髪。身長も相応に低く、身の丈に合っていると言えばいいのか、身体付きも幼い。深く黒い――よく見れば奥に紅い光を宿した目が、俺……ではなく、買ってきた紙袋を見ている。
「のお、買ってきてくれたのであろう? 今日はレオンの給料日じゃからの」
「人の給料日を把握してんじゃねぇよ」
買ってきたモノを求め、少女は紙袋に手を伸ばしてくるが、俺は袋を高く掲げて少女に渡さない。
「ヴェラ、その前に話がある」
「むぅ。話などよいから、はよう渡せ」
少女を無視して、部屋に置いてあるソファーに座る。渋々といった感じで反対側のソファーに座る少女の名は、ヴェラ。正確には、ヴェラルナーラ=ナジャ=ルーダ。古城で出会い、願いを叶えてもらった願望の魔神。俺よりも背が高く見たこともない豪華そうな服を着て、メリハリの利いていた身体が、今では見る影もない。それでも、紛れもなく本人に違いない……はずだ。
「ヴェラ、お前に俺の願いを叶えてもらってから、どれだけたった?」
「会ってからとなると、一年と数ヶ月かの。早いものよ、まるで瞬きの如き早さであった」
「そうだな。もう一年以上の付き合いだ。で、だ……これはどういうことだ?」
テーブルの上に、ポケットから出した紙を叩きつける。
「なんじゃそれは、チリ紙にでもするのか? そんな硬そうなもの、我は使いとうないのう」
「んなわけあるか! この紙はな、村に住み始めてからの俺の“運”を試した結果だ」
テーブルに散らばる大量の紙は、全て富籤のはずれ券。給料一ヶ月分ともなれば、結構な量になる。
「ヴェラに運をくれと願ってから、確かに俺の運は上がった。村で仕事も見つけた。こうして、特に生活に困ることもない。奴隷扱いされてた頃に比べれば、雲泥の差だろうな」
「それはよかったではないか。さすが我じゃ」
「うるせぇ。なにが『さすが我じゃ』だ。魔神の力ってのは富籤で、買った分だけ金が返ってくる程度のもんなのか?」
「程度、のう。買った分でも金が戻ってくるだけ、運がいいのではないのか? 富籤などというものは、普通は外れるものじゃろう。家の前で近所の奥さんが言っておったぞ。あれは金を当てるのではなく、夢を買うものだと」
「夢で腹が膨れるか」
「なんとまぁ、つまらぬことを言いよるのぅ。……ふむ、やはり美味いの。あの店主、相変わらずいい腕をしておる」
ヴェラは勝手に紙袋を漁り、さっき買ってきたイチジクの果肉を甘いシロップで煮付けたモノを、針のように伸ばした爪を器用に使って口に放り込んでいる。この村で見つけたヴェラの好物だが、やはり子供にしか見えない。爪を自由に伸ばしているところ以外は、だが。
「口の端からシロップが垂れてるぞ。それとな、せめてフォークかなんか使え。誰かに見られたらどうする」
「こんなボロアパート、誰も覗いておらんじゃろ。もし覗かれていたとしたら、我が記憶を消してやろうかの」
「他人の記憶を弄れるのに、籤を当てることはできないんだな」
「レオン、今日はいやに突っかかってくるのう。そんなに金に困っておるのか? 先ほどは生活に困っていないと、そう言っておったではないか。そんなに金が欲しいのならば、運ではなく金を望めばよかったものを」
「俺は富籤で一等を当てて、金が欲しいんじゃない。お前が俺に与えた運ってのは、一等も当てられないのかって言いたいんだ。願望の魔神さんよ」
なにが願望だ。名前負けにも程がある。
「最初に言ったではないか。運などという不確かなもの、どうなるかわからんと」
「じゃあこれが魔神の限界か。この程度で終わりか」
「さぁのう。なにせ目に見えんモノじゃからの。考えてもみよ、一等が当たれば、それは本当に運が良かったのか? 本当にそれが“最善”の道だったのか?」
「それは……」
最善かといわれれば、わからない。ちょっとした大金だ、煩わしいことに巻き込まれるかもしれない。魔法だと疑われるかもしれない。そんなこと、考えてしまえばいくらでも思いつく。
「そぅら、わからんであろ? じゃから、こう考えておけ。今の結果が最善なのじゃと。きっと一等が当たっていれば、なにか面倒が起こっていたと、の」
「一番波風が立たないのが、今の結果だってか」
「そういうことじゃ。生きてゆくのに、金が足りんわけでもない。運試し以外に一等を当てねばならぬ理由もない。だから当たらぬのじゃろうよ。今、運がどうとせせこましく考える必要もなかろう。そんな余計なことで頭を使うほうが、よほど不運じゃとは思わんか?」
確かにそれはそうだ。たかが籤、儲からなかったといって落ち込む必要はない。それどころか、買った分は戻ってきている。金が減らなかったと喜んでもいいくらいだろう。十分に幸運だ。十分に不運と遠い。それでも、納得はできない。
「だけどな」
「『だけど』も『しかし』も『でも』もなしじゃ。我に一等を当てろというのか? 我自身が力を使って一等を当てても、それは我が汝に与えた“運”の力ではない。ただの我の力じゃ。汝は汝として結果を出せ。我が直接なにかをすれば、それは汝の結果ではないのじゃからな」
それができていないから、こうやって話しているんだけどな。
「そんなことより、我は腹が減った。夕餉をはよう作れ」
ヴェラはイチジクのシロップ漬けの入った瓶を抱え、俺から完全に視線を外す。もう質問に答える気はないという姿勢。
本当にこの魔神は、願いを叶える魔神なのだろうか。これではただの子供と変わらない。
「そんなことってなぁ……はぁ、わかったよ」
聞く気のない魔神に嘆息し、俺は夕食を作るために台所へ向かった。