銀籠に鳴く鳥(10)
紅焔は山を飛び回り、何か大物がいないかと辺りをキョロキョロしていた。この山は公爵のものであるため、体躯の大きな動物は生息していないのだが、紅焔がそれを知るよしもない。彼女の頭の中は、チドリに食べさせる獲物のことでいっぱいだった。
『あれ~?何にもいないなぁ……栗鼠や野兎なら見かけるんだけど、熊とかいないのかなあ』
小動物を仕留めても腹の足しにはならないと考えていた紅焔は、とにかく大きな動物を探していた。
しばらく探していると、一本の木の上に何かの影を見つけた。今まで見てきた動物よりははるかに大きい。木の葉に紛れていてあまりはっきり見えないが、紅焔は気にしない。
『獲物みーっけ!あ、でも、ここで火を使っちゃダメだよな』
一人呟いた紅焔は、次いで満面の笑みと共に拳を握りしめた。
『じゃあ、素手で仕留めるか!!』
空を踏み、弾丸のような速さで飛び出す。振りかぶった刹那、気づいた影――刺客が、ギョッと目を見開く。
『どぉりゃああぁぁあ!!』
「ヒィッ……!!?」
紙一重の動きでかわした刺客は体勢を崩し、木から真っ逆さまに落ちた。外れた紅焔の拳は勢いを殺さぬまま、木に激突する。
凄まじい音を立て、一斉にサングレの実が枝から落ちた。
それはそのまま、下にいたチドリに降り注ぐ。
「うぎゃぁーーッ!!?」
『チドリ!?』
チドリの悲鳴に、琥珀、藍晶、翠妃の驚きに満ちた声が重なる。紅焔はそれを聞き、ハッと下を見下ろした。
『あ、あれ!?三人ともそこで何やってんだ!?』
『この大馬鹿者!!それはこちらの台詞だ!!貴様一体何のつもりだ!?』
『ちょっとぉ。木から落ちてきたのって人間じゃないのぉ?あ、まさか刺客とか?だったらお手柄ね、紅焔』
『阿呆!!言ってる場合かッ!!』
『チ、チドリ……ッ』
藍晶が吠える中、琥珀はサングレの実が直撃したチドリの下へ駆け寄った。辺りにはむせ返るほど甘い匂いが立ち込めている。チドリは尻餅をついていた。加えて、熟れきったサングレの実を浴びたせいで体中が真っ赤な果肉と果汁に塗れてしまっている。
「う……うぅ~……?」
『だ、大丈夫かチドリ』
「な、なんとか……でも、い、一体何が起こったの……?急にサングレの実が……」
答えかけた琥珀はハッと目を見開き、チドリを抱えて飛び退った。刺客が放った銀色のナイフが、チドリのいた場所に突き刺さる。チドリは息を呑んだ。
「え!?な、なに!?なんで!?」
『ど、どういうことだ……?』
『あららぁ。もう、せっかく何も気にしないでいいようにって、頑張ってたのにぃ』
『フン。いずれ知ることだろう』
『え、なに!?何事!?アタシ何も知らないんだけど!?』
『知らずに殴ろうとしたのか貴様!?』
『だって熊だと思ってさー』
『その短絡さはどうにかならんのか!!貴様の知能はイノシシか!!』
『なんだよー!チドリに美味しい物食べて欲しかっただけだろー!!』
『もう二人ともぉ。喧嘩してる場合じゃないでしょぉ?』
「ゴタゴタうるせえな」
精霊王達の会話を切るように、刺客が低い声を響かせた。三人は口を閉ざし、冷たい目を向ける。チドリは琥珀に抱きかかえられたまま、地面に座り込んでいた。打ちつけたお尻が痛む。
「ど、どういうこと……?琥珀は何か知ってる?藍晶と翠妃さんは知ってるみたいだけど……」
『す、すまない。俺にも何が何だかさっぱり…………』
「お気楽な奴だ。俺はな、お前さんを殺すように指示されてここにいるんだぜ」
「え!?わ、私を!?」
目を見開くチドリに、刺客は僅かに見える口元を笑みの形に歪ませた。
「細けぇことはいい。俺の任務はお前さんを殺すことだけ――」
「チドリ様ッ!!」
澄んだ声が響いたかと思うと、すぐ傍の木の影からレアンが飛び出してきた。青い瞳がチドリを捉え――一瞬で金色に染まる。
怒りに満ちた天狼の瞳は、刺客に向けられた。レアンの体から溢れる殺気に、刺客の喉がヒュッと音を鳴らす。
「貴様……ッ!!」
唸るような声と共に、レアンの姿が掻き消えた。短い悲鳴と鈍い音が聞こえ、男が吹き飛ぶ。瞬きの後には、男は遠くの木の下で気絶していた。
天狼の御業に一同が呆気に取られる中、当のレアンが青ざめた顔でチドリに走り寄った。
「チドリ様ッ!何があったのですか、こんな……!どこかお怪我を!?」
「へ!?あ、え、えっと、こ、これ血じゃないです!わ、私はどこも怪我してないです!はい!」
熟れたサングレの実の真紅のせいで、今のチドリは血みどろに見えるらしかった。香りとチドリの表情からそれを確認したのか、レアンの顔に安堵が広がる。
「よかった……すみません、駆けつけるのが遅くなってしまって……」
「い、いえ、あの……あの人は何だったんですか?なんで私の命なんか……」
「それは後でご説明します。今はとりあえず、他の者と合流しましょう。その体も綺麗にしなくてはなりませんし」
「は、はい」
チドリが頷くと、レアンは微笑と共にチドリを抱き上げた。声を上げる間もなく、お姫様抱っこの形になる。
「さて、では行きましょうか」
「え!?あ、あの、私歩けます!怪我してないですし!」
「…………チドリ様?」
目を合わせて浮かべられたレアンの笑顔は、蕩けるように美しいものだった。が、チドリの背にはどこか寒気のようなものが走る。
「ス、スミマセン」
「いえ。ああ、精霊王の皆様も集まって頂けますか。とりあえず、最初に解散した場所へ。俺はチドリ様のお世話をしてから向かいますので」
『う、うむ。そうしよう』
『刺客もちゃんと連れて行くから、安心してねぇ』
『なあなあ!何があったんだ?アタシだけ知らないんだけどー!』
『こ、紅焔。知らないのはお前だけじゃない…………だから、その、今はとにかく口を開くな』
『えー!?なん……むぐぅ』
『いいから黙って言うとおりにしろ』
藍晶に口を塞がれ、紅焔は引き摺られていった。苦笑いしながら刺客を連れた翠妃と、青ざめた顔の琥珀も続く。紅焔以外の三人は、レアンの表情を見て若干戦慄を覚えていた。
(まさか、小娘絡みであんな顔をするとはな……)
(我慢も過ぎればただの猛毒よねぇ)
(こ、怖かった…………)
四人と別れたレアンは黙ったまま足を進め、川に辿り着いた。チドリを抱え直し、そのまま川の中へ入っていく。
「レ、レアンさ……ッ!?」
驚くチドリに構わず、ザブザブと歩く。胸の下辺りにまで水が来るようになってようやく、レアンは傍の大きな石にチドリを座らせた。二人とも服は既にびしょ濡れで、冷たい水が肌を冷やしていく。
レアンは無言で水をすくい、サングレの赤がついた箇所に水をかけていく。その表情は厳しく、瞳の色は金のままだ。
(レアンさん、怒ってる……?)
自分の前では見せたことのないレアンの表情に、チドリは心臓が大きく鳴るのを感じた。レアンの顔に浮かんでいるのは、紛れもなく苛立ちだ。
チドリの頭が、怯えでいっぱいになる。
(なんで?私、何かした?何か迷惑かけちゃった?あの人に気づかなかったから?呑気に散策してたから?)
思いつく度、それは棘のようにチドリの胸を刺した。水の冷たさも相まってか、体が小刻みに震える。反対に、瞼は熱を帯び始めた。
息苦しくなってきたころ、レアンがつと顔を上げた。涙が張ったチドリの目を見て、ハッと息を呑む。
「ッ……申し訳ありません……!」
水に濡れた腕が回され、きつく抱きしめられる。チドリは震える手で、レアンの服の裾を掴んだ。
「レ、レアンさん、何か、お、怒ってます、か?」
「いえ、いいえ……!決してそのようなことは……!!」
「で、でも私、何も知らずに……」
「チドリ様が気にされることはありません。俺は、自分で自分に腹が立っていたというか……いえ、他にも腹は立っていたのですが……ああ、でも……」
掠れたレアンの声には余裕がなく、瞳は懇願するようにチドリを見上げていた。
「…………すみません、もう、限界です」
言葉の意味を問おうとした唇は、レアンに塞がれた。息さえ食べられそうに感じ、チドリは体を震わせた。レアンの腕が力強く引き寄せてくる。空いたほうの手が項をまさぐり、掻き抱くように唇を重ねられた。息継ぎの合間に零れるレアンの吐息が熱く、その熱と水の冷たさの両方を感じ、頭が麻痺してしまう。
ようやく解放された時、チドリは肩で息をしていた。レアンが腕の力を緩め、優しく抱きしめてくる。
「……すみません。理由も説明せずに、こんな……」
「い、いえ」
「……服、沁みになってしまっては大変ですね」
呟いたレアンが、袖口に広がっていた赤色に口を寄せた。音を立て、そこに吸い付く。薄い布越しに与えられる唇の感触は、刺激が強すぎた。チドリの顔が真っ赤になる。
「あ、あの、あの……」
「説明もなしに口づけたこと、どうかお許し下さい」
「へ!?あ、い、いや、あの……ゆ、許すなんて……」
「我慢、できませんでした。ずっと、顔も見れないままでしたから……」
熱に浮かされたように、レアンが次の赤へと顔を移す。
「え、えっと、じゃあ……怒ってたように見えたのは……?」
「チドリ様に会えなくていい加減苛々していたので。令嬢達の前で愛想笑いするのも疲れましたし……刺客のこともありましたから」
「し、しか、く」
「令嬢達がそれぞれ雇っていたようですよ。焦っていたのでしょうが……全く、小賢しい限りです」
「そ、そう、だったんですか」
「…………チドリ様は、平気だったのですか?」
「え?」
顔を離し、レアンがチドリの目を見つめた。どこか拗ねたような、子どものような目である。
「俺は……貴方が行ってしまってから、どうしても楽しい気分になれませんでした。ずっと、貴方のことばかり考えて……貴方がいたら、と思わずにはいられなかった」
息を詰まらせたチドリの両手首を、レアンの手が取った。熱い頬が首筋に寄せられ、吐息が肌に触れる。
「でも、貴方は……楽しげに先に行ってしまいました。いえ、それが悪い事ではないのですが……俺と一緒でなくてもいいのかなと、考えてしまいまして」
「それ、は……」
「俺が他の女性と一緒にいても、平気なのでしょうか?俺は、精霊王にすら嫉妬を覚えると言うのに……」
「え?」
「琥珀殿とずっと一緒にいたのでしょう?彼が地の精霊王であることは知っていますし、散策に助力して下さったのも知っています。ですが……それでも、と、思ってしまうのです」
レアンの顔が僅かに動き、唇が喉に当たった。
獲物を捕らえる、狼のように。
「チドリ様が楽しいならそれが一番です。嫉妬して欲しいなんて、高慢な願いであることはわかっています。けれど……俺一人が不安を感じているようで。チドリ様の大切な精霊王にすら嫉妬を感じる自分が情けなくて。嫉妬して欲しいと思った自分が不甲斐なくて……会った瞬間、貴方を独り占めしたくて堪りませんでした」
毒だ、と、チドリは思った。
レアンの言葉が、熱い毒のように全身を回る。どこまでも甘く、熱く、狂おしい毒だ。
その毒に、チドリは自分の胸がどうしようもない歓喜で打ち震えるのを感じた。その毒に、自分が侵食されることを望んでいるのを感じた。
レアンの舌が首筋を伝う。赤を辿り、唇が肌を食む。
溶けそうな頭を必死に奮い立たせ、チドリは口を開いた。
「……わ、たし」
「……はい」
「ほ、本当は……皆が綺麗にしてる意味、わかってました」
顔を離し、レアンが青くなった瞳で見つめてくる。チドリは火照った顔を伏せ、視線から逃れた。
「山に行くのに、動きにくい恰好してる意味……私みたいに、ご飯のこと考えてたんじゃなくて……散策なんてする気なくて、最初から、レアンさんに見てもらうためだったんだ、って」
「チドリ、様」
「……私、鈍感なフリ、してました。皆がレアンさんの所に行くたびに、気になって……でも、気づいてないように振舞ってました。いちいち反応してたら、レアンさんに鬱陶しく思われるかなって思って……き、今日だって……ホントは、一緒に行きたかったです。でも、お仕事だって言ってたし、我儘言うのは忍びなくて……そりゃ、たくさん色んなもの採って楽しかったです、けど……レアンさんのこと考えないように、必死でした」
「俺の、事を?」
「考えたら、会いに行きたいって思っちゃいます。令嬢の皆さんに、レアンさんは、わ、わた、私のなんだから、諦めろって、バーカって言っちゃいます。だから……」
突然、チドリの瞳から大粒の涙が零れた。ギョッとするレアンの肩に顔を埋め、チドリが「うー」と唸る。
「平気なわけ、ないじゃないですか。嫉妬してないわけ、ないじゃないですかぁ……!じ、自分だけなんて、そんなの、そんなの……!」
「チ、チドリ様……!」
「さ、さっきだって……レアンさんが、お、おこ、怒ってるのかなって、思っ……私、こ、怖かったんですからぁ……!」
「す、すみません……!」
「き、嫌われたらどうしようって、呆れられたらどうしようって、思っちゃうんです……こ、怖いんです……嫉妬してる自分を見て、レアンさんが、レアンさんがぁ……うう~……!」
「な、泣かないで下さい。すみません、俺が……」
「ううぅ……!うぇ……」
泣きじゃくる子どものように、チドリはレアンに縋ってイヤイヤと首を振った。レアンの手が、チドリの背を優しく撫でていく。
涙とともに、チドリの唇からポロリと言葉が零れた。
「お願いですから……嫌いに、ならないで……」
その言葉の奥底に漂うチドリの孤独を感じた気がして、レアンは胸を詰まらせた。
長くなってしまってすみません(-_-;)




