霖雨の国(4)
連れて行かれた先は、階段をいくつも上った場所だった。
紅霖楼の最上階と思われる部屋まで来てから、シャイルはその大きな襖をゆっくり開いた。
溢れだした風と香りに、チドリは目を見開く。
目の前には、陽光を浴びる桜の大木があった。
室内にも関わらずそこは庭のようになっていて、地面には可愛らしい色の花々が咲き乱れていた。一番奥に鎮座する桜の木は枝振りも見事で、部屋いっぱいに桜の花びらを吹雪かせんばかりだった。天井はなく、空から直に日の光が降り注いでいる。
「これが、そなたに見せたかったものじゃ」
「この……桜の木、ですか?」
「そうじゃ。この桜は珠桜と言うての。このリウビア国一古く、美しい桜じゃと言われておる。これをそなたにと思うてな」
「どうしてですか?」
「……懐かしいと、思わんかえ」
優しく細められたシャイルの瞳に、チドリの胸が震えた。
「そなたの記憶や感情を覗く度、いつもこの花が見える。そなたを守るように、愛するように舞う様が見えるのじゃ……そなたも、この花をよく知っておるのであろう?」
「……はい」
桜の木に誘われるように、チドリは一歩ずつ近づいた。
陽光に溶けそうな薄紅の木が揺れる。手招きされているようだった。
郷愁が込み上げた。
帰りたい場所などないはずなのに、どこかに帰りたいと強く思う。桜を見ているといつもそうだ。涙が滲みそうなほど、無性に懐かしくてたまらない。日本人はきっと誰しもそうなのではないかと、常々思っていた。
幹に触れる。温かく、少しザラついていた。
と、胸元から光が零れ、琥珀が隣に現れた。驚くチドリに向けられた目は、ひどく優しい。
『…………木は、大地の眷属だ。珠桜がチドリと話したがっているようだから、力を貸してやりたくて』
「私と……?」
『ああ』
琥珀の手が幹に触れる。すると、珠桜が枝を震わせた。
『……おお、王よ。感謝する』
『いや……』
「珠桜……?」
頭に響いた荘厳な声。微かに笑った気配がして、チドリの方に枝が伸びてきた。胴を優しく支え持ち上げられたかと思うと、一番大きな枝の上に座らされる。
『……愛し子よ。懐かしいのう』
「わ、私の事知ってるんですか……?」
『知っておる……というのは少し間違いだの。そなたの魂は常に我らと共にあるゆえ』
「魂……」
『そうじゃ。そなたも心のどこかで懐かしさを感じておろう?我らは魂で繋がっておる。心の奥底に、生まれた時から消えぬ記憶があるのじゃよ』
「消えない記憶……ですか」
『我がそなたを愛おしく思うのも、そなたが我を懐かしく思うのも……全て、この身に流れる記憶ゆえじゃ。色も形も無いが、確かに在る』
チドリは、大きな枝の上で体を横たえてみた。別の枝が伸び、花が柔らかくチドリを覆う。視界が薄紅に染まり、体中を桜の清香が満たした。
『ああ……吾子、吾子や……』
響く声が、古びた記憶を呼び起こす。
今は遠い母と父との思い出だと思った。桜の並木道を、二人と手を繋いで歩いている。霞みがかっていて、顔も声も思い出せない。でも、自分の胸に蘇る嬉しさが、瞼を熱くした。
「……天狼の。見惚れておるのかえ?」
シャイルの声で、レアンはハッと我に返った。樹上のチドリから目を移し、楽しげなシャイルを見る。
「呆けた顔をしおって。面白いのう」
「……余計なお世話です」
もう一度、チドリに視線を戻す。
桜に包まれた彼女は、美しかった。
枝や花にかかる髪が柔らかな光に溶け、頬に薄紅の色が差す。濡れ羽色の睫毛に涙が光った気がして、少し息が苦しくなった。
もっと眺めていたいと思ったとき、チドリがゆっくり身を起こした。
レアンは夢から覚めたような気分で、桜に近づいた。
佇んでいた琥珀がこちらに向けて僅かに微笑み、光に消える。枝に支えられて、チドリが降りてきた。
「……よかったのう。チドリ」
シャイルの言葉に、チドリがはにかむ。
「ありがとうございます、シャイルさん」
「いやいや。礼には及ばぬ……この珠桜を見せたのはな、もう一つ理由があるのじゃ」
「何ですか?」
「そなた、自分の杖が必要なのではないか?」
「杖……?」
キョトンとするチドリに、シャイルは微笑む。
「そなたが望むなら、この珠桜の枝をと思うたのじゃが……」
「珠桜の枝をですか!?」
チドリが目を剥く。珠桜は嬉しそうに枝を揺らした。
「で、でも、こんな立派な桜を使うなんて……!!」
そう言ったチドリの足元に、そっと何かが置かれた。珠桜が自らで折った枝だった。
絶句するチドリを見て、シャイルが笑い声を上げる。
「珠桜の心は決まっておるようじゃのう!して、チドリはこれでも使わぬと言うのかえ?」
「……あ、ありがたく使わせて頂きます……」
「うむ。それがよかろうなぁ」
チドリが枝を抱えると、シャイルはチドリとレアンに座るよう言った。地面に腰を下ろした二人に、シャイルも続く。
「エーデルもそうじゃが……杖というのは魔力を行使するうえで重要なものじゃ。体内に流れる魔力を外に放出するときの媒体となる。魔力を纏め上げる道具としても、大事であろうな」
「杖は、この枝で作れるんですか?」
「そうじゃのう……杖とは、魔力を通す木材と、魔力を纏め放出する鉱石や宝石などで構成される。木が桜と決まったなら、次は鉱石か宝石かのう」
「鉱石……それも、この国で手に入るんですか?」
「いや。それらを探し求めるならば、リウビア国ではなくトゥオーノ国に行くのがよかろう。あそこは良質な鉱石や宝石の産出国であるからの」
「トゥオーノ国……」
「せっかくじゃ。トゥオーノ国の魔道士にも会うといい」
暖かな日差しの中、チドリは小さく手を握りしめた。