終わりと始まり(3)
――誰かの呼ぶ声がする。
優しい声だ。少し焦っているようにも聞こえる。
どうしたんだろう。誰を呼んでるんだろう。
闇の中、その声だけが存在していた。
水の匂いがする。土の匂いも。
おかしいな。なんでこんな匂いがするんだろう。ここはこんなに真っ暗闇なのに。
呼び声が大きくなってきた。
耳を澄ませてみると、声は一つではないことがわかった。優しい声の他に、あと二つほど聞こえる。
聞こえる?
ということは、自分には耳があるということだ。尚且つ、自分は生きているということで――
(え、でも、私……)
事故で死んだんじゃ。
閃光のように、体の意識が覚醒した。痛みと、温度と。感覚が戻っていく。開いた目には……視界いっぱいの鱗が映った。
「おお、目を覚まされましたぞ!」
響いた声に、ビクリと体を震わせた。
鱗が離れ、辺りの景色が目に飛び込んで来る。
岩壁が見えた。洞窟のように広がっている。智鳥は、床に転がっていた。ヒンヤリした床が伸びる先には、毛の塊と、一足の靴が見えた。
(靴!?)
勢いよく顔を上げ――ビシリと固まった。
青年だ。それも、とびきりの美形。
一瞬状況を忘れ、その造形美に見惚れた。ほっそりした輪郭。切れ長の深い青色の目。襟足を少し伸ばした、濃い銀色の髪。薄く形の良い唇。白い肌。
神様が手ずからに作った人形のように、完璧な美青年だった。
あまりのことに声が出ない。
そんな智鳥の様子を見てか、青年がその桜唇を開いた。
「あの……大丈夫ですか?」
わあ。なんて綺麗な低音。
低すぎず、高すぎない。先ほどの優しい声の主は、この美青年だったのか。
「あの……?」
「あ、わ、ひゃいっ」
とんでもない声を出しながら、智鳥は跳ね起きた。
途端に、傾いていた世界が正常になり、青年以上にありえないものを見てしまう。
二足歩行のトカゲと、一つ目の毛むくじゃらなナニカ。
智鳥の全身は今度こそ固まった。
トカゲが口を開く。
「いやぁお目覚めになられてようございました!顔色もお悪いようでしたので心配致しましたぞ!」
「…………トカゲが……喋った…」
「トカゲ、違う。エスカマ」
「毛むくじゃらも喋った……!」
いよいよ、智鳥の頭は混乱状態に陥った。
頭から冷水を浴びせられたように、血の気が引く。顔面が引き攣るのがわかった。
おかしい。おかしい。おかしい。
自分が今目にしているのは、極めて異様な光景だ。
「こ、ここ、どこ……!?私、事故で……」
口にしてしまうと、より一層パニックに襲われた。わけもわからず、涙が滲む。不安が怒涛のように押し寄せた。
見かねたのか、青年が歩み寄ってきた。
「落ち着いて下さい。貴方は今、転移を終えられたばかりで……」
「……てんい?」
今や、体が震えだしていた。歯の根も合わなくなってくる。
何が何だかわからなくて、思わず青年から身を引いて後ずさりしてしまう。青年がハッとし、申し訳なさそうに目を伏せた。
「……怯えられるのも無理はありません。ですがどうか落ち着いて下さい。我々は、貴方に危害を加えるつもりなどありませんから」
青年が、智鳥の目を真っ直ぐに見つめてきた。
智鳥は、近くで見る青年の紺碧の目に、吸い込まれるように見入っていた。
懇願するかのような青年の表情からは、悪意は感じられない。後ろに控えるトカゲと毛の塊も、こちらに気遣わしげな目線を送っているのがわかった。
智鳥は震えながら――それでもしっかりと――頷いて見せた。青年の顔に安堵の色が広がる。
「……よかった。それではまず、自己紹介をさせて下さい。俺は、レアン、レアン・クラージュ・イリオルスと申します」
「……………………はい?」
「……レアン・クラージュ・イリオルス、です」
不思議そうに繰り返す青年、もといレアンの顔を凝視して、智鳥は先ほどから感じていた最大の疑問を口にしてみる。
「…………………ここは、日本じゃないんですか?」
「……我々が今いるのは、イリオルス国ですが…」
いりおるす国。
そんなもの、見たことも聞いたこともない。
間違いない。ここは、自分が元いた世界とは別の物だ。
そう理解したと同時に、智鳥は頭を抱えて地面に突っ伏した。
「どうされましたか!?お加減が悪いのですか!?」
「…………いえ……」
絞り出す声が揺れる。
(えー……つまりこれって、あの……小説とかでよくある、異世界トリップってやつ?私飛んじゃったの?異世界に?ホントに?)
グルグル回る取り留めもない思考。だが、レアンの名前や後ろの二人で、それはほぼ確定した事項も同じだった。
つまり自分は、死んだのではなく、この異世界にトリップしてしまったのだと。
「…………本当にあるんだ、こういうこと……」
「大丈夫ですか?」
「わ、え、あ、はい、大丈夫で、す……多分」
レアンに心配され、智鳥はドギマギして答えた。間近で見る美貌は心臓に悪い。
レアンは後ろを振り返り、トカゲに目配せした。トカゲが嬉しそうに一歩踏み出す。
「お初にお目にかかります!レアン様の小間使いをしております、エスカマと申しまする!お会いできて嬉しゅうございますぞ!」
「あ、ええと……よ、よろしくお願いします」
次に、一つ目の毛の塊が進み出た。改めて見ると、目は黒目がちで、何だか可愛らしく見えた。目玉のすぐ下にある小さな口が開く。
「んー。えとね、アジーンっていう。レアン様の、小間使い、してる。よろしく」
「は、はい。よろしくお願いします……」
エスカマが嬉しそうに尾を揺らした。立っていても、二人とも智鳥の座高と同じくらいの大きさしかない。それも可愛らしく思えた。
「……貴方の名前をお聞きしても、よろしいですか?」
レアンが微笑みながら尋ねた。不安を和らげようとしてくれているような、優しい笑みだ。
「わ、私は、た……――」
言いかけて、言葉が喉で詰まった。
どうして。苗字を言うだけなのに。
わかっていても、口は音を紡がない。ハクハクと動くだけだ。
名前。
この世界に来て初めて、音を以って生まれる自分の名前。
自分という存在が、この世界に刻まれる瞬間。
では、刻み付けたい名前は何だろう。
「私の名前は、チドリです」
滑り出た声は、もう震えても掠れてもいなかった。
三人が、一様に笑顔を浮かべる。
「チドリ様、と仰るのですね」
「良い名前でございまする!」
「チドリ様。チドリ様」
復唱され、チドリはふと首をかしげる。
「あ、あの……呼び捨てで結構ですから」
「それは出来ませぬ!」
エスカマが即座に拒む。アジーンも頷く。
「どうしてですか?というかさっきから、三人ともなんでそんなに畏まって……」
「遅いぞレアン!!貴様一体何をしている!!」
チドリの疑問は、新たな人物の登場でかき消された。