聖夜の空騒ぎ(4)
「っは、何……」
娘は確かに美しかった。肩より少し伸びた艶やかな黒髪。白い雪のような肌。切れ長の紅玉の瞳。濡れ羽色のドレスも相まって、真っ赤に染まった瞳と唇が何とも目に鮮やかだった。娘は申し訳なさそうな顔をチドリに向け、唇を開く。
「あ、あの……」
なんて綺麗な声だろう。そう思うよりも先に、チドリの脳は容量オーバーを起こした。
ソファーを倒しそうな勢いで立ち上がる。
「帰ります」
「え?」
「もう帰ります。お邪魔しました」
娘はサッと顔を青くして踵を返そうとしたチドリに縋りついた。細い腕に抱きとめられ、チドリは必死でもがく。
「ま、待って下さい!せめて話を……」
「っ……離し、て!聞きたく、ないっ」
とうとう、両目から涙が零れた。冷たい頬を溶かすように、ボロボロと溢れ出す。
話すと言ったのに。どうしてこの人が出てきたの。
今一番会いたくない人なのに。どうして。どうして。
抑えていた気持ちが濁流のようになって、嗚咽と涙になって溢れた。
娘は尚もチドリを離さない。
「お願いです!どうか、落ち着いて話を聞いて下さい!貴方に、言わなければならないことが……」
「知らない!もう聞きたくない!帰る!帰るってばぁ!」
子どものように、チドリは首を振って泣きじゃくった。
「離してよ!なんで、なんで私……っ!!っふ、ぅ、え……」
「っ……泣かないで、下さい。どうか、話を……」
「やだもん……っ!こ、子どもじみててもバカみたいでも、い、いけど、やだもん。聞きたく、ないもん、嘘、つきぃ……!嘘つき……っ!」
とうとう、チドリは床に座り込んでしまった。声を上げ、迷子のように大泣きする。悲しくて悲しくて、自分でも制御できなかった。想いと言葉に奔流され、頭が上手く回らない。
「っ他に、好きな人が出来る、のは、仕方ないかも、しれない、けど……嘘、ついて、欲しくないっ、わ、私は、レアンさんが、いちばん好きで、大事で、だから、だからぁっ……!」
「っ……!あ、の」
「っだから、嘘は、いやなのっ……嘘は、いや、だけど……っん、ぅう……ふぶぇえ……!」
ここで、一段とチドリの声が大きくなった。
「やっぱり、やだぁ……!私以外に好きなひと、で、でき、できるの、やだよぉ……!」
「チ、チド……」
「嘘だもん……っ平気じゃ、ないもん……!レアンさんが、ほ、他の人のこと、なんて、や……やだぁ……考えるだけ、で、やだ……ごめ、なさいぃ……っ」
もう自分が何を言っているのか、チドリはわからなかった。
ただ胸が張り裂けそうで、痛くて、悲しかった。
何の事情があっても、嘘でも、命令でも、レアンが自分以外を想う事を考えるだけで死んでしまいそうだった。
チドリが顔を滅茶苦茶に拭おうとした時、娘の手がスッと伸びてチドリの頬を攫った。
そのまま、赤い唇がチドリの頬に口づけを落とす。
チドリは赤ん坊のようにヒクッと喉を引き攣らせ、目を瞬かせた。あまりの驚きに涙が引っ込む。
「っ……ふあ、ん、ぇ?」
「……驚かせて申し訳ありません。ですが、何卒……何卒、お許しを」
娘は苦しげに呟き、徐に懐から小瓶を取り出した。中で揺れる青い液体をチドリに見せ、蓋を開けて一気に呷る。
チドリがポカンとする目の前で、娘が僅かに顔を顰めた。
ふいに、その髪色が揺らめく。
それは、見る見る間に見知った銀色に転じた。続いて、赤かった瞳が紺碧のそれに。唇の色も落ち、一瞬の間に目の前にいた娘の顔はレアンのものになっていた。
理解が追い付かず、チドリは瞬きと呼吸しかできない。
そこにいたのは、濡れ羽色のドレスを着たレアンだった。
「………………レア、ン、さん……?」
「……はい、チドリ様。俺です」
「え…………でも、だって……さっき……」
「申し訳ありません。貴方が見た者とは、俺の事なんです」
「…………?」
レアンは罪悪感でいっぱいの顔で、もう一つの小瓶を取り出した。そちらには、赤い液体が揺れている。レアンがそれを先ほどと同じように飲み干すと、今度は黒髪紅眼の美少女に変貌した。
「おわかり頂けましたか?」
鈴を転がすような声で少女が問いかける。チドリは少しずつ頭が動き始めたのを感じた。
「え、と。つまり……レアンさん、が、女の人になってたってこと、ですか?」
「はい」
「じゃ、じゃあ、侍女さんが夜中に見たって言ってた女の人って、レアンさん……?」
「あぁ……やはりバレていましたか……その通りです。毎晩部屋から出てきていたのは、魔法薬で女の身に変じていた俺です」
「……じゃあ……そ、その、う、うわきとかじゃ、ない……?」
「誓ってそのようなことは有り得ません」
チドリの目に、悲しさとは違う涙が浮かんだ。レアンから後ずさるようにして、顔を覆う。
「わ、わた、私、か、か、かんちがい、して」
「いえ、今回の事は全て俺が悪いです。チドリ様をこんなに、傷つけてしまうなんて」
美少女のまま、レアンがチドリの眼前に迫った。チドリはまたポロポロと泣きながら、目線を彷徨わせる。
「ち、ちが、わ、わたしは……あ、そ、あの、でもどうして、女の人の恰好を……?」
「……話せば長くなります。とりあえず、座りましょうか」
手を引かれ、チドリはそっとレアンの隣に腰掛けた。レアンはチドリの頭をそっと手で引き寄せ、自分の肩にもたれ掛けさせる。チドリは視界に入る黒髪を、不思議な思いで見つめていた。
「……今日は聖夜ですよね」
「え?は、はい」
「この日は、伝統に基づいて赤い服を身に着け、大切な人に贈り物をする日……もちろん、俺も周りの人には配り終えたのですが、ただ一人、送れない方がいまして」
「?……誰、ですか?」
「貴方ですよ」
細い手が、チドリの小さな手を握った。指の腹で慈しむように撫でられ、チドリは頬を熱くする。
「……考えはしたんです。貴方に何を送れば喜んでくれるのか。貴方にとって何が一番嬉しいのか。残る物でいいのか、消える物でいいのか……でも、答えが出なくて。悩んで悩んで……気づけば玄の月になってしまっていました」
自嘲するような笑いが聞こえた。それから、小さな溜息も。
「……初めてだったんです。こんな聖夜を迎えたのは……今までの俺は、誰かの事を考える余裕などありませんでしたから。初めて、大切な人が出来て、初めて、贈り物で悩んで……こんな行動に出てしまったというわけです」