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魔道士なんて聞いてない!  作者: 香月千夜
雲霞を裂く紺燕
124/141

星の降る丘で

握りしめていた手がピクリと動き、チドリの瞼がゆっくりと開いた。

飛び込んできたのは、海のように蒼い瞳だ。


「チドリ様!!」


安堵と歓喜で、端整な顔が歪む。

応えようとすると、胸が詰まった。

言葉の代わりに、涙がボロボロ零れていく。

何も言えないチドリを、レアンは優しく抱きしめた。

その背に縋りつき、チドリは必死に呼吸する。

レアンに何か言わなければと思うのに、唇から溢れたのは嗚咽だった。

体を震わせるチドリを、レアンは優しく宥める。


「……無理しなくていいんですよ。泣いていいんです、チドリ様」


張りつめた糸が切れたように、慟哭が迸った。

軋む体を、レアンが温かく抱きしめる。

身を振り絞るように、チドリは泣きじゃくった。

言葉にもならず、形容できない思いを涙に変え、声を上げて泣いた。

レアンは何も言わず、その背を擦っていた。






しばらく経った頃、チドリは湯殿で大きく息をついていた。

思う存分泣いた後、自分が三日余り眠っていたこと、その間まともに湯を浴びていないことに気づき、大慌てでレアンから離れたのだ。そんなこと構わないと言うレアンに真っ赤になりながら、せめてこれだけはと湯浴みに飛んで行ったのだった。侍女達はチドリの心中を察し、レアンを諭してくれた。しかし侍女達もまたチドリが目覚めたことに歓喜し、甲斐甲斐しく湯の世話をしてくれたのだったが。実際、チドリは体力を摩耗しており、自分で動くのも難しかった。今も、湯殿に体を預けながらの体勢だ。

伸びた髪は、侍女が元の長さに切りそろえてくれた。


(なんだか、体の中が空っぽになった気分)


食事をまともにしていないせいもあり、チドリはとてつもない虚無感と倦怠感に襲われていた。


(……でも、ご飯はしっかり食べないと)


腫れた瞼を擦り、そろそろ上がろうかと体を起こした時、脱衣所に繋がる扉が勢いよく開かれた。

驚いて見つめた先に、息を切らせたステラの姿がある。

ステラはチドリを見るなり濃紫の目を涙でいっぱいにした。


「っ……チドリィィ!!」

「うわぁっ!?」


ドレスを着たまま、ステラは裸のチドリに抱きついた。ステラが湯に落ちないように、チドリは何とか踏ん張る。


「ちょ、ス、ステラ!!危ないよ!?」

「わああああん」


チドリの声に耳を貸さず、ステラは大泣きした。苦しいほど抱きしめられ、チドリは「ギブギブ」とステラの肩を叩く。ステラはハッとして、ようやくチドリに回した腕の力を弱めた。


「ご、ごめんなさい。私思わず……」

「ううん、大丈夫……でも、ステラのドレスが濡れちゃってるよ?」

「いいのよそんなこと」


鼻を啜り、ステラはチドリの頬を両手で挟んだ。


「……ひどい顔だわ。それに、やつれてる」

「……ふふ。そうだね」


顔を歪ませ、ステラはもう一度チドリを抱きしめた。肌に触れるドレスがくすぐったくて、チドリは思わず笑ってしまう。


「お帰りなさい、チドリ」

「うん。ただいま」



支度を終えて湯から上がると、廊下でレアンが待っていた。

チドリが出てきたのを見て、駆け寄ってくる。

何となく気恥ずかしくて、チドリはゆったりしたワンピースの裾を掴んだ。柔らかな手触りの一着は、ステラが「着やすいように」と選んでくれたものだ。


「すみません、勝手にお待ちしておりました」

「い、いえ、私こそすみません。その、いろいろと……」

「お気になさらず。さて、それでは……参りましょうか」

「え?どこに……って、うきゃ!?」


首を傾げたチドリを、レアンはさも当然のように抱き上げた。お姫様抱っこで抱えられ、チドリは湯で上気していた頬をさらに赤くする。抵抗しようにも、今のチドリにそれだけの力と体力は備わっていなかった。


「あの、あの、自分で歩きますから」

「何を仰います。こんなにやつれた体で……食事もまともに取っていないのですよ?大人しくしていて下さい」

「う、で、でも」

「お静かに」


耳を軽く噛まれ、チドリは真っ赤になって黙りこくった。



連れて来られたのは、レアンの部屋だった。

困惑するチドリを、レアンはクッションを積み上げたベッドに横たえる。クッションを背もたれにし、チドリは目をパチクリさせた。


「あの……?」

「チドリ様の部屋は、寝台に掛けた結界の後処理やシーツの張り替えなどを行っていますので、しばらくはこちらで我慢して下さい」

「が、我慢なんかじゃないですけど……」


チドリと会話しながら、レアンは手際よく茶や菓子などを準備している。それを近くの机に並べ、ベッドの縁に腰掛けた。

ギシリと音を立て、レアンが身を乗り出す。息を詰めたチドリの額に、優しく唇が落とされた。

恐る恐る目を上げると、微かに潤んだ瞳が見つめ返す。

無言のまま、唇が重なった。

伝わる熱に、何故かチドリの目から涙が零れる。

顔を離し、レアンは優しくそれを拭った。


「……すみません。なんか、涙腺が緩くなってて」

「構いません。何度でも……拭って差し上げますから」


クスリと笑みを零したチドリに、レアンが微笑む。

長い指が首筋をなぞり、天狼の痕を悪戯に撫でた。唇を滑らせ、レアンがその痕に口づける。


「……チドリ様、何か食べられますか」

「へっ?あ、えっと、はい。多分……」


体を離し、レアンが机に並べてあった皿から菓子を手に取った。受け取ろうとしたチドリの手を柔らかく制し、ニッコリ笑う。

そして、そのまま菓子を一口齧った。


「?レアンさ……」


開きかけたチドリの唇をレアンの唇が塞ぐ。

驚愕するチドリの口に、程よく咀嚼された菓子が滑り込んだ。

思わずそのまま飲み込んだチドリに、レアンが悪戯っぽく微笑む。


「これなら、食べられるでしょうか」

「え、い、いや、あの、食べられるっていうか、な、何で!?」

「今は、物を食べるのも億劫かと思いまして。さあ、もう一口どうぞ」

「ま、待って下さい!?わ、私一人で食べられ……っんむぅ!」


菓子の甘さとレアンの口づけに、チドリは頭がクラクラしてきた。それでも、お腹は空いているので口は正直に菓子を受け入れてしまう。


「遠慮しないで下さい。ああ、お茶はいかがですか?」

「ふあ?あ、はい、飲みま……んぐぅ!?」

「ん、はぁ……ふふ。チドリ様が暴れるから零れそうになりました」

「あ、暴れもしますよ!!な、な、なんでお茶までく、く、口移しで」


赤くなって抗議するチドリの唇を、レアンがそっと拭った。

その目にいつものからかうような気配がない事に気づき、チドリは口を噤む。


「……我儘を申し上げるようで心苦しいのですが……貴方に、触れていたくて」

「え……?」

「貴方が意識を失っている間……どこか遠くにいるようで、不安で。もしこのまま目覚めなかったら、と……考えてしまったのです」

「レアンさん……」

「だから少しでも、貴方の体温を感じていたくて。貴方が生きていると、目の前にいるのだと……そう、思いたかっただけなんです」


ふいに、紺碧の双眸から涙が一筋伝った。

初めて見るレアンの涙に、チドリは目を見張る。


「……俺が今、どれだけ安堵しているかわかりますか?俺だけじゃありません。ステラや、母上や、父上や……エーデル、シャイル殿、ライゼ殿、ベスティア殿……貴方に関わる全ての者が、貴方の無事を知って同じように喜んだでしょう」


手を伸ばし、チドリはレアンの頬に触れた。

レアンが頬を摺り寄せ、手を重ねる。


「貴方が、目にしてきた出来事を知っています。その辛さが計り知れないことも、貴方の胸中も……貴方が、どれだけ御二方に焦がれているのかも」


チドリを引き寄せ、レアンはその胸に顔を埋めた。

今、確かに脈打つチドリの鼓動を確かめるように。


「それでも俺は……いえ、だからこそ、俺は……貴方に言いたいんです」


顔を上げ、レアンはそっと額を合わせた。

レアンの蒼い瞳とチドリの黒い瞳が互いを映し合い、溶ける。


「お帰りなさい。そして、帰ってきてくれて、ありがとう」


チドリは震える息を何とか抑え、小さく、だがはっきりと頷いた。


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