星の降る丘で
握りしめていた手がピクリと動き、チドリの瞼がゆっくりと開いた。
飛び込んできたのは、海のように蒼い瞳だ。
「チドリ様!!」
安堵と歓喜で、端整な顔が歪む。
応えようとすると、胸が詰まった。
言葉の代わりに、涙がボロボロ零れていく。
何も言えないチドリを、レアンは優しく抱きしめた。
その背に縋りつき、チドリは必死に呼吸する。
レアンに何か言わなければと思うのに、唇から溢れたのは嗚咽だった。
体を震わせるチドリを、レアンは優しく宥める。
「……無理しなくていいんですよ。泣いていいんです、チドリ様」
張りつめた糸が切れたように、慟哭が迸った。
軋む体を、レアンが温かく抱きしめる。
身を振り絞るように、チドリは泣きじゃくった。
言葉にもならず、形容できない思いを涙に変え、声を上げて泣いた。
レアンは何も言わず、その背を擦っていた。
しばらく経った頃、チドリは湯殿で大きく息をついていた。
思う存分泣いた後、自分が三日余り眠っていたこと、その間まともに湯を浴びていないことに気づき、大慌てでレアンから離れたのだ。そんなこと構わないと言うレアンに真っ赤になりながら、せめてこれだけはと湯浴みに飛んで行ったのだった。侍女達はチドリの心中を察し、レアンを諭してくれた。しかし侍女達もまたチドリが目覚めたことに歓喜し、甲斐甲斐しく湯の世話をしてくれたのだったが。実際、チドリは体力を摩耗しており、自分で動くのも難しかった。今も、湯殿に体を預けながらの体勢だ。
伸びた髪は、侍女が元の長さに切りそろえてくれた。
(なんだか、体の中が空っぽになった気分)
食事をまともにしていないせいもあり、チドリはとてつもない虚無感と倦怠感に襲われていた。
(……でも、ご飯はしっかり食べないと)
腫れた瞼を擦り、そろそろ上がろうかと体を起こした時、脱衣所に繋がる扉が勢いよく開かれた。
驚いて見つめた先に、息を切らせたステラの姿がある。
ステラはチドリを見るなり濃紫の目を涙でいっぱいにした。
「っ……チドリィィ!!」
「うわぁっ!?」
ドレスを着たまま、ステラは裸のチドリに抱きついた。ステラが湯に落ちないように、チドリは何とか踏ん張る。
「ちょ、ス、ステラ!!危ないよ!?」
「わああああん」
チドリの声に耳を貸さず、ステラは大泣きした。苦しいほど抱きしめられ、チドリは「ギブギブ」とステラの肩を叩く。ステラはハッとして、ようやくチドリに回した腕の力を弱めた。
「ご、ごめんなさい。私思わず……」
「ううん、大丈夫……でも、ステラのドレスが濡れちゃってるよ?」
「いいのよそんなこと」
鼻を啜り、ステラはチドリの頬を両手で挟んだ。
「……ひどい顔だわ。それに、やつれてる」
「……ふふ。そうだね」
顔を歪ませ、ステラはもう一度チドリを抱きしめた。肌に触れるドレスがくすぐったくて、チドリは思わず笑ってしまう。
「お帰りなさい、チドリ」
「うん。ただいま」
支度を終えて湯から上がると、廊下でレアンが待っていた。
チドリが出てきたのを見て、駆け寄ってくる。
何となく気恥ずかしくて、チドリはゆったりしたワンピースの裾を掴んだ。柔らかな手触りの一着は、ステラが「着やすいように」と選んでくれたものだ。
「すみません、勝手にお待ちしておりました」
「い、いえ、私こそすみません。その、いろいろと……」
「お気になさらず。さて、それでは……参りましょうか」
「え?どこに……って、うきゃ!?」
首を傾げたチドリを、レアンはさも当然のように抱き上げた。お姫様抱っこで抱えられ、チドリは湯で上気していた頬をさらに赤くする。抵抗しようにも、今のチドリにそれだけの力と体力は備わっていなかった。
「あの、あの、自分で歩きますから」
「何を仰います。こんなにやつれた体で……食事もまともに取っていないのですよ?大人しくしていて下さい」
「う、で、でも」
「お静かに」
耳を軽く噛まれ、チドリは真っ赤になって黙りこくった。
連れて来られたのは、レアンの部屋だった。
困惑するチドリを、レアンはクッションを積み上げたベッドに横たえる。クッションを背もたれにし、チドリは目をパチクリさせた。
「あの……?」
「チドリ様の部屋は、寝台に掛けた結界の後処理やシーツの張り替えなどを行っていますので、しばらくはこちらで我慢して下さい」
「が、我慢なんかじゃないですけど……」
チドリと会話しながら、レアンは手際よく茶や菓子などを準備している。それを近くの机に並べ、ベッドの縁に腰掛けた。
ギシリと音を立て、レアンが身を乗り出す。息を詰めたチドリの額に、優しく唇が落とされた。
恐る恐る目を上げると、微かに潤んだ瞳が見つめ返す。
無言のまま、唇が重なった。
伝わる熱に、何故かチドリの目から涙が零れる。
顔を離し、レアンは優しくそれを拭った。
「……すみません。なんか、涙腺が緩くなってて」
「構いません。何度でも……拭って差し上げますから」
クスリと笑みを零したチドリに、レアンが微笑む。
長い指が首筋をなぞり、天狼の痕を悪戯に撫でた。唇を滑らせ、レアンがその痕に口づける。
「……チドリ様、何か食べられますか」
「へっ?あ、えっと、はい。多分……」
体を離し、レアンが机に並べてあった皿から菓子を手に取った。受け取ろうとしたチドリの手を柔らかく制し、ニッコリ笑う。
そして、そのまま菓子を一口齧った。
「?レアンさ……」
開きかけたチドリの唇をレアンの唇が塞ぐ。
驚愕するチドリの口に、程よく咀嚼された菓子が滑り込んだ。
思わずそのまま飲み込んだチドリに、レアンが悪戯っぽく微笑む。
「これなら、食べられるでしょうか」
「え、い、いや、あの、食べられるっていうか、な、何で!?」
「今は、物を食べるのも億劫かと思いまして。さあ、もう一口どうぞ」
「ま、待って下さい!?わ、私一人で食べられ……っんむぅ!」
菓子の甘さとレアンの口づけに、チドリは頭がクラクラしてきた。それでも、お腹は空いているので口は正直に菓子を受け入れてしまう。
「遠慮しないで下さい。ああ、お茶はいかがですか?」
「ふあ?あ、はい、飲みま……んぐぅ!?」
「ん、はぁ……ふふ。チドリ様が暴れるから零れそうになりました」
「あ、暴れもしますよ!!な、な、なんでお茶までく、く、口移しで」
赤くなって抗議するチドリの唇を、レアンがそっと拭った。
その目にいつものからかうような気配がない事に気づき、チドリは口を噤む。
「……我儘を申し上げるようで心苦しいのですが……貴方に、触れていたくて」
「え……?」
「貴方が意識を失っている間……どこか遠くにいるようで、不安で。もしこのまま目覚めなかったら、と……考えてしまったのです」
「レアンさん……」
「だから少しでも、貴方の体温を感じていたくて。貴方が生きていると、目の前にいるのだと……そう、思いたかっただけなんです」
ふいに、紺碧の双眸から涙が一筋伝った。
初めて見るレアンの涙に、チドリは目を見張る。
「……俺が今、どれだけ安堵しているかわかりますか?俺だけじゃありません。ステラや、母上や、父上や……エーデル、シャイル殿、ライゼ殿、ベスティア殿……貴方に関わる全ての者が、貴方の無事を知って同じように喜んだでしょう」
手を伸ばし、チドリはレアンの頬に触れた。
レアンが頬を摺り寄せ、手を重ねる。
「貴方が、目にしてきた出来事を知っています。その辛さが計り知れないことも、貴方の胸中も……貴方が、どれだけ御二方に焦がれているのかも」
チドリを引き寄せ、レアンはその胸に顔を埋めた。
今、確かに脈打つチドリの鼓動を確かめるように。
「それでも俺は……いえ、だからこそ、俺は……貴方に言いたいんです」
顔を上げ、レアンはそっと額を合わせた。
レアンの蒼い瞳とチドリの黒い瞳が互いを映し合い、溶ける。
「お帰りなさい。そして、帰ってきてくれて、ありがとう」
チドリは震える息を何とか抑え、小さく、だがはっきりと頷いた。