悪夢と記憶の果て(8)
チドリが眠りについて、三日が経とうとしていた。
ベッドの上で、チドリは一度も目覚めることなく昏々と眠り続けている。その間食事を取っていないことが、レアンにとって一番気がかりだった。
エーデルやシュヴァルの計らいで、チドリの周りには結界が施してある。結界内にいる者を衰弱させないように体力面で支えることと、外部からの呪いや魔力から守ることが主な力だ。結界内には、二人が許可した者しか入れないようになっている。レアンとステラ、そして他の魔道士とイリオルス国王夫妻、そしてエーデル、シュヴァル、ユリシアだ。もっとも、頻繁に会いに行っているのはレアンとステラの二人だったが。
結界の力があるにも関わらず、日に日にチドリは弱っていくようだった。
夜になると、よく魘されているのだという。侍女達が涙目になって、心配そうに話しているのを聞いた。風呂に入れなくては可哀想だから、と、体を拭いてあげている侍女も、少し痩せた気がすると顔を曇らせていた。
レアンも、周りの目を盗んでコッソリと会いに行ったことがある。先のネフェロディスのこともあって公務が立て込んでいるため、どうしても真夜中になってしまうのが心苦しいところだった。
チドリは、時折ひどく苦しそうに涙を流した。
譫言のように何かを呟き、何かを探すように指先を彷徨わせる。
手を握ってやるとそれは治まるが、涙は睫毛と頬を伝い続けた。
愛しい者が苦しみ、自分は何もできずに手を握っているだけしかできない。
断腸の思いとはこのことだった。
今夜は月が蒼かった。
窓から差し込んだ月魄が、チドリの顔色をさらに青くする。
レアンは膝をつき、細い手を優しく握りしめた。チドリの手は、だんだん冷たくなっていっているように思える。
「……チドリ様」
答えはないとわかっていても、一縷の願いに縋らずにはいられない。
「……もう、四日が経とうとしています。貴方も、だんだんやつれてきて、お辛いでしょうに……何もできない俺を、どうか許して下さい。いえ、許してくれなくても……早く、その目を開けて下さい。貴方の声も、久しく聞いていませんよ……?ですから、どうか、チドリ様……」
握りしめる手に力を込めても、チドリは死んだように眠り続けているだけだ。
堪えきれず、レアンは目の前がぼやけた。
息も上手くできず、ただチドリの肩に顔を埋める。
ふいに、結界内の空気が揺らいだ。
弾かれたように顔を上げ、目の前に浮かぶ姿を視認する。
「貴方は……」
『ごめんね、夜分遅くに……会うのは初めまして、かな。チドリちゃんから何か聞いてない?』
「もしや……貴方が、件のサクノスケ殿ですか」
『ああ、うん。ごめんね、今頃になって……僕も、魔族の呪いの余波をまともに受けちゃったものだからさ』
「呪いを……?」
『うん。チドリちゃんは完全に呑まれちゃってるんだ。彼女の傷……彼女自身が忘れようとして記憶の果てに置き去りにしていた古い記憶を、魔族に無理矢理呼び起こされてる』
「な……っ!?」
『胸糞悪い話だけどね、その記憶っていうのが……彼女の両親が亡くなった瞬間なんだよ』
レアンは絶句した。
窓の外の風の音も、自分の心臓の音も聞こえなくなる。
目の前で歪む朔之助の表情が、チドリの身に起こっていることの凄惨さを物語っていた。
『……チドリちゃんは、見ていたんだ。幼い頃、一緒にいた両親が亡くなるところを……まだ、本当に幼かったから、相当なショックだっただろうね。忘れることで、自分を守ろうとしてたんだろう。だから彼女は、両親がどこか、自分の知らない所で事故に遭って亡くなったんだと思い込んでたんだ。自分がそんな現場に居合わせたなんて……どんなに辛いか、僕には計り知れないよ』
浅く、レアンは呼吸を繰り返した。
自分の大切な者が亡くなる瞬間を、延々と繰り返し見せられているということか。
足元から震えが襲い、吐き気が込み上げた。
耐えられない。そんなの。
自分だったら既に忘我しているだろう。気でも狂った方がマシかもしれない。
当然だ。夢の中でさえ、チドリを失うことに怯えているのだから。
『外部からの力じゃ彼女を救えない。何か、内側からきっかけでもあげられたら、切り抜けられるかもしれないんだけど……』
「内側……」
呟いたレアンは、ハッとチドリを振り返った。
月に照らされた首筋に、いつか自分が刻んだ天狼の証が見える。
それに触れ、レアンは瞳を光らせた。
『レアン君?』
「内側からなら、と言いましたよね。ここから俺の魔力を届けることが出来れば、恐らく……!!」
『そうか!うん、確かに試す価値はある……お願いだレアン君!何とかチドリちゃんを呪いの渦中から救って!!』
悲痛な朔之助の声を受け、レアンは指先から魔力を迸らせた。