悪夢と記憶の果て(4)
話し合いからしばらくして、シュヴァルとユリシアは他の王族達にテキパキと指示を出して城の中を少しずつ修復し始めた。と言っても、大半は二人の魔法で片付いてしまっていたわけだが。
レアンは、客室にと通された部屋でチドリの寝顔を眺めていた。
いつものほっそりとした頬が、今は幼少期特有の丸くてぷっくりしたものになっている。薄い唇も、思わず触れたくなるほど愛らしくなり、細かった手は、猫の肉球のように柔らかい。横たわるベッドは、チドリには大きすぎた。枕に半分涎を垂らして眠っているチドリを、傍に腰かけて眺める。
髪を梳いた時、部屋のドアがノックも無しに開かれた。
現れたのは、息を切らしたラフティとウィディアである。その後ろから、憤慨した様子のステラが顔を覗かせた。
「ちょっと!お兄様とチドリは今休んでるところだって……」
「ふん。知ったことか」
最早王族としての誇りや体裁もかなぐり捨てたのか、ラフティがそう吐き捨てた。
二人の目は、ベッドで眠るチドリに向けられている。
「……そこにいるのが、貴方が先日お話ししていた方なんですの?」
半ば血走った眼で、ウィディアが訪ねる。レアンは二人の方を一瞥もせずに答えた。
「ええ。いかにもそうですが」
「……貴方は、幼い子どもにしか興味がないとでも言うんですの?」
「そういうわけではありませんが……ただ、俺はこの方がどんな姿であろうとも変わらずお慕いするだけだということですよ」
「何?と言うと、その子どもは本当の姿ではないと?」
ラフティの片眉が上がる。
「そうです。どうやら、魔族との邂逅で子どもに戻ってしまったようですが……詳しいことは、わかっていません」
「ふん。笑わせる」
不遜に腕を組み、ラフティがふんぞり返った。
「聞けばそいつはイリオルスの魔導士だと言うではないか。その魔導士がこの有様か?たかだか魔族一匹に後れを取ったと?ハッ!なんと情けない!まるでイリオルスの面汚し……」
鋭い音を立て、ラフティの足元に何かが突き刺さった。
重厚な絨毯を貫いたそれは、銀色に光る果物用のナイフだった。
蒼白になるラフティとウィディアに、レアンがニッコリ笑いかける。
「随分と回りくどい言い方ですね。死にたいなら最初からそう仰って下さい」
二人の後ろで、ステラが堪えかねたように溜息をついた。
(馬鹿もここまでくると逆に尊敬するわ。ただでさえチドリの休息を邪魔されてお兄様がイライラしてるっていうのに、なんでこの兄妹はわざわざ狼の牙に首を持っていくのかしら?)
心の中で罵られた兄妹は、それでいてすぐに元の威張った態度を取り戻した。
「貴様!!ネフェロディスの王子に対してその命を脅かす行為を取るなど、到底許されたことではないぞ!!」
「そうですわ!!極刑にでもかけられたいんですの!?」
「黙れ」
青い瞳が、剣呑な金色の光をちらつかせた。
「極刑に掛けられるのはどちらだと思っている?いや、刑などなくとも、今ここでお前達の首を掻き切ってやってもいいんだぞ?」
「……お兄様。気持ちはわかるけど汚れるからやめてちょうだい」
兄妹は震えながらレアンを睨み付けた。額には脂汗が浮かんでいる。
「……っ!!こ、の、無礼者めが!!許さんぞ!!まとめて王城の地下牢に幽閉してくれる!!」
「衛兵!!衛兵はおりませんの!?今すぐひっ捕らえて……」
「……ん」
喚く声の中、消え入りそうな声がレアンの耳に届いた。
振り向いて、レアンはそのまま硬直する。
「チドリ……様?」
先ほどまで子どもの姿だったチドリが、元の姿に戻っていた。
いや、正確には元の姿ではない。
身長や顔つきはいつもの姿と変わらないが、長かった髪がさらに伸びていた。腰の辺りまでだったのが、今は足元より長い。前髪も伸び、細い顔を隠していた。
身じろぎし、チドリがゆっくりと体を起こす。
伸びた髪を流して、あの、自信のなさそうな瞳がレアンを映す。
「レアン、さん」
「チドリ様!!元に戻られたのですか!?」
今や、ラフティとウィディアも言葉を失くして目の前の光景を見つめていた。
チドリが力なく笑って、レアンの肩に額を押し付ける。レアンは慌てて、その背を支えた。
「……ごめんなさい。まだ、なんです。これから、私、多分……行かなきゃいけない所が、あって。その前に……レアンさんに、ちゃんと、会いたくて」
「行かなければならない所……?どこなのです?俺も一緒に……」
「ダメなんです。私一人で、行かなきゃ……」
「そんな……っ置いていかないで下さい。俺は、俺は……」
「大丈夫、です。体は、此処に……レアンさんの傍に、あります、から」
レアンは唇を噛み、チドリを抱きしめた。
チドリが腕を回し、そっとステラの方を見る。
ステラは、潤んだ瞳でしっかりチドリを見つめ返した。
「……ごめん、ね。ステラ」
「……ちゃんと帰ってくるんでしょ?帰って、くるわよね?」
レアンと同じく、ステラの胸の中にも冷たい不安が溢れていた。チドリの表情、どこか遠くにいるような瞳、優れない顔色。
もしかしたらもう会えなくなるのではないかとすら思えてしまえて、ステラは恐ろしさに身震いした。
チドリが、微かに涙の浮かんだ目でほほ笑む。
「……うん。きっと、必ず帰ってくるから……レアンさんも、ステラも……私のこと、待ってて」
腕を解き、チドリがそっとレアンに顔を寄せる。
ステラは傍にあったローブを引っ掴み、近くで呆けていた兄妹の顔面に思いっきり叩きつけた。
二人の悲鳴が響いたのと同時に、チドリの唇がレアンの頬に触れる。
目を見開くレアンに、チドリは照れくさそうに笑った。
「ふふ。すみません」
レアンが口を開く前に、チドリの姿は霞のようにぼやけた。
瞬きの間に、その姿は先ほどと同じ子どもに戻る。
そしてまた、眠そうに目を擦りながら体を丸めて横になってしまった。
何かを堪えるような顔で、レアンはそれを見つめた。
ローブを叩きつけられた兄妹は、今度はステラに怒りの矛先を向けている。
「貴様、王族の目を潰すつもりか!?無礼者!!」
「正気ですの!?本当に、信じられませんわ!!顔に傷でもついたらどうしてくれるんですの!!」
「あーうるさい」
両耳を手で塞ぐそぶりをして、ステラは舌打ちした。
小さな唇を、忌々しげに歪める。
「いいからとっとと出ていきなさいよ。これ以上騒ぐようなら、その尻蹴って追い出すわよ」