風邪
幸福を感じる時とは、甘すぎず、苦すぎず、舌を蕩かすようなチョコレイトを口へ放り込んだ時に似ている。ただし、それはひと時の快楽にも似ており、瞬く間に消え去ってしまう泡沫にも似ている。
かつて、メーテルリンクは幸福を『青い鳥』で抽象的に示した。手にした瞬間に飛び去ってしまうものとして。しかし、幸福とは刹那であるべきだ。かけがえのない時であり、その時は永遠なんてありえないから大切なのである。そう考えると、永遠自体に愛を感じることはないのだと思えてしまう。それには、流れに沿った理由がある。日葡辞書では、〈大切〉という言葉を〈愛〉と訳していた。〈大切〉という言葉は、「大いに迫る」「切迫する」の意味を漢字表記にし、音読みにさせた和製漢語である。次第に、「かけがえのないもの」の意味から、「心から愛する」という意味としても使われるようになった。これが〈愛〉と訳されるようになった所以である。
ゆえに、幸福は大切であるし、刹那でもある。それでは、仮に幸福が永遠だったならば、どうなっていただろうか。きっと、大切という感覚が生まれることはなかったのだろう。常に幸福感を味わっていれば、その味にも飽きてしまう。人間、いつまでも肉料理を食べてはいられないし、野菜料理だけを食べ続けることも困難である。肉を食べれば野菜も食べたくなる。野菜を食べれば肉も食べたくなる。同じものばかりを永遠と貪り続けることは適わない。
一方、不幸を感じる時とは。考え出したら切がないが、逆説的に考えて、それは幸福を損なうことであり、刹那を感じられないことだと。そして、大切に思えないこと、心から愛せないこと、それは不幸だと言える。
そうだとしたら、今の僕は不幸なのだろうか。ベッドで体を横たえて、身動きとれずに悶えていた。体温は平熱よりも高まり、眩暈が頭を締め付けるように襲ってくる。そのくせ、布団にくるまっていても体は寒々としている。加えて、咳は喉を傷つけ散々な目にあっていた。普段が健康であるから、健康の大切さを忘れてしまっていたようだ。
「もう少し、ちゃんと体調管理しておけば良かったよ」
僕は溜息交じりにそう呟いた。
「人間は何かのために死ぬ。それが昔から言われた大義というもの。by三島由紀夫」
「おい、縁起でもないこと言うなよ。というか、三島由紀夫は病気で死ぬことは怖いって言っていただろう。これは大義とは別だよ」
目の前で不謹慎なことを呟いているのは、僕の幼馴染である文絵。いつも眠そうに瞼を閉じかけていて、締りのない顔で微笑んでいる。しかし、人は見かけで判断することなかれ。彼女は大学の定期試験では、常に上位の成績を維持する才女なのだから。本人曰く、敢えて偏差値の低い大学に甘んじているのだから簡単に特待生になれるとのこと。僕の場合、かろうじて合格したというのに。
「とは言え、君が病気で死ぬことに目的を見出していたら、それは大義になるんじゃないかな?」
「待て、死ぬ前提で話を進めるんじゃない。それに、死ぬことに目的を見つけられるほど強い信念なんて持ってないよ」
「もってたらカッコいいのに……」
「僕を何だと思ってるんだよ」
「簡単に風邪を引いて、一人じゃあ何もできない大学生かな」
「なんか癪に障る言い方だな。まあ、分かってるなら、ゆっくり休ませてくれよ」
僕は一際大きな咳をした後、一息深呼吸をして天井を眺めた。
大学生で一人暮らしをしている人は、世の中には多い方なのだろうか。僕は父の計らいのもと、一人暮らしをさせてもらっている。学びを目的として県外の大学に通っているためであるが、風邪を引いてしまった場合、一人暮らしは非常につらい。
そこで体調管理の重要さを思い知る。食生活は人間の基本なのだ。しっかり自炊をして、栄養バランスの良い食生活を心がけなければならない。インスタント食品を食べ、ジャンクフードを食べ、成分のよく分からない清涼飲料を飲む。こんなものばかり口にしていて、病気にならない訳がない。食べたいものばかりを食べ、飲みたいものばかりを飲む。酒池肉林、それ自体を否定するつもりはないが、病気になる以上は、口に毒をいれていることと同義だろう。
加えて、大学生の一人暮らしは不規則な生活が多い。それでは、体の免疫力が下がってもおかしくはない。22:00~2:00には成長ホルモンが分泌されるにもかかわらず、この時間帯に寝ていないのは致命的だろう。しかし、そうは思ったところで、大学生活は思ったよりも忙しい。講義ではレポートの提出を求められ、研究室では論文を書かなければならない。さらに、部活動からアルバイトまで、ゆっくり休む時間を奪う要素は数多く存在している。
「とりあえず、今日は久々に時間が取れたんだから、ゆっくり休んでね」
文絵は優しく微笑み、僕の頭を撫でてくる。女性に触れられるという行為自体に慣れていない僕は、彼女の目を見ることができなかった。見たら、それこそ死んでしまいそうだ。高校生活ではまったくと言っていいほど、女性とは関係を持たなかったのである。周囲には交際している者たちもいたが、僕はそれを見ているだけであり、思春期ならではの羞恥心が訪れたのが高校時代だった。おかげで、文絵とも高校時代はあまり話していない。しかし、進学先が同じであったため、改めて友人としての交流が芽生えた。おかげで、こうして僕の看病をしてもらっている。これを不幸中の幸いと受け取るべきなのか。
人生、何があるか分からないものだ。
「そういえば、お腹空かない?」
「ん、まあ……」
「もうお昼だし、何か作るよ」
「何が作れるんだ?」
「まあ、定番のお粥……って言いたいところだけど、お粥あんまり好きじゃないよね?」
「まあ、食べれないことはないけどな」
「じゃあ、雑炊とかにしたらいいかな?」
「お願いしてもいい?」
「任せて!」
「ありがとう」
文絵は僕のもとを離れ、台所へと足を運んだ。早速、冷蔵庫の中身を物色する。僕は冷蔵庫に何が保管されているかを把握していない。中には鶏卵、豚肉、日本酒が置いてあったと記憶している。冷蔵庫の中身が少ないことは、自炊を苦手と言っているようなもの。だが、雑炊を作るくらいなら問題ないだろう。
「ああ、やっぱり冷蔵庫の中身あんまり入ってないね。駄目だよ、ちゃんと自炊しなきゃ」
「そりゃ分かってるけどさ……」
面倒だ。それだけの理由であるが、自炊したくない。何が面倒なのかと言えば、食後の洗い物が面倒。作るための下準備が面倒。つまり、僕はずぼらな性格だということなのだろう。本当は、この面倒臭がる性格は直さなければならない。もっとも、いまさら直せたらとうの昔に直していただろうけど。
きっと、食事よりも他のことを優先してしまうことも原因なのだろう。白米を食べている時間があれば、本を読んでいたい。パンを食べている時間があれば、絵を見ていたい。吉原幸子は『パンの話』で肉体的な空腹よりも、精神的な空腹を満たそうと詠った。おそらく、飢餓感は魂からも現れることを主張したくて。もっとも、そんな崇高な言葉を僕が吐けるようになるには、人生経験があまりにも浅すぎる。捻くれたことを考えないで、素直に食生活は整えよう。
「まあ、仕方ないよね。そんなことだとは思っていたよ」
文絵は哀れむような眼差しで僕を見下ろす。それだけで、物凄く惨めな気持ちになれる。しかも、申し訳ない気持ちにもなれる。僕は、「ごめんなさい」という言葉が喉まで出かかった。文絵に迷惑をかけていないのに、どうして謝らなければならないのだ。僕の母親でもあるまい。
「まあ、こんなこともあろうかと、材料はしっかり用意してきたけどね」
「はあ?」
無意識に間抜けな声が漏れた。さすがに、彼女がここまで用意周到であることは、予想外な展開であり、僕の頭は話の流れに付いていけなかった。
文絵は持参した大きなリュックの中から、きゅうり・茄子・ピーマンなどの果菜類から、白菜・小松菜・にんにくなどの葉菜類や、大根や株などの根菜類までが取り出された。いったい、中にはどれだけ物が入るのだろうか。漫画じゃああるまいし、あまりに多くの量が入りすぎではないだろうか。もっとも、出てきた野菜たちの多くはきつく詰められていたためなのか、どれもいびつな形をしている。
「よくそんなに持ってきたな」
「そりゃあ、君の冷蔵庫の中身が空っぽなのはお見通しだからね。私がしっかりしなきゃいけないでしょう?」
「お前は僕のお母さんか……」
「似たようなもんでしょうよ」
「せいぜい姉が限度だろ」
「そんなのはどうだっていいの。私が君の世話を焼くことに変わりはないんだから。病人は大人しく寝てなさい」
そういって、文絵はエプロンを取り出し、食事の準備に取り掛かる。長い髪が邪魔にならないように、後ろで一つに束ねた様は凛々しく様になっている。それは普段から料理をしているということを想像させてくれた。そして、雑炊作りに必要な材料を次々と選んでいく。料理が苦手な僕から見れば、どの食材が雑炊に合うのかがさっぱり分からない。
次第に台所からは、包丁で材料を切るリズミカルな音が聞こえてくる。さて、料理ができあがる時間まで退屈だ。
僕は何気なく周囲を見渡してみる。すると、枕元の右側にティッシュ箱が置いてあることに気が付いた。これは本来あまりよくないのだろうか。男から見れば少し生々しいような気がする。すでに文絵が来ているため、遅すぎたのかもしれないが、念のために枕元から離して床に置こう。そして、代わりに本棚から小説を取り出して、枕元に何冊か置いた。
「大丈夫、だよな……」
つい呟いてしまい、「何か言った?」と、文絵は声だけで反応をする。
「いや、何でもないよ。少し時間がかかりそうだから、本でも読んで待ってるよ」
「ごめんね。できるだけ早く作るから」
「美味しく作ってくれることを期待してる」
「任せなさい!」
それ切り、文絵は再び調理に集中し始めた。少しばかり冷や汗が流れ出たが、僕はほっと一息つくと、先ほどの小説群から無造作に手にとって読み始めた。
手に取った本は夏目漱石の『こころ』である。日本人ならば誰しもが知っている名作。恋愛と友情を天秤に乗せ、どちらを選択するのかを綴った物語。僕はこの小説のある台詞がとても身に染みている。
精神的に向上心のないものは馬鹿だ。
学業をほったらかして、恋愛に現を抜かしているKが放った言葉でもあるし、先生に言われた言葉でもある。僕も勉強に身が入らない時は、よくこの言葉を思い出していた。
そして、僕はふと思った。
僕と文絵は友達の関係でありたいのか、恋人の関係でありたいのか。幼馴染という枠に収まっている限り、友達という関係なのか。今まで考えなかったわけではないが、僕は文絵のことが好きなのか。決して嫌いではないことは分かる。どちらかといえば好きなことも分かる。
それでは、仮に好きだと告げてしまえば、友達の関係は崩れ、恋人の関係になれるのか。もしくは、友達の関係が崩れ、そのまま疎遠となってしまうのか。また、何も言わなければずっと友達の関係を続けられるのか。
しかし、青臭い考えではあるけれど、臆病な僕は何も言わないのだろう。今の関係が心地よいものだから。いずれ、文絵も好きな人を見つけて結婚してしまうのだとしても。これもまた、恋愛と友情を天秤に乗せた結果だ。
僕はぐずついた鼻をかむために、床に置いたティッシュ箱へと手を伸ばした。すると、平積みにしていた本に触れてしまい、何冊か床にばら撒いてしまった。内心、おかしなことを考えたせいで動揺しているのだろうか。僕は本を拾うよりも先にティッシュ箱へと手を伸ばした。
その時、台所からは食欲をそそる、甘く、染み渡るような香りが漂ってきた。そろそろ出来上がる時間なのだろう。今は、おかしなことを考えないで、食欲に意識を向けよう。こんな時に、恋愛と友情を天秤に乗せた物語を考えるべきじゃあない。心身ともに、余計に疲れてしまう。
そして、ちょうど雑炊ができあがったのか、文絵が土鍋を手にして、こちらまで歩いて来た。マッドを下敷きにして、こたつの上に土鍋を乗せる。一人分にしてはやけに量が多すぎるような気がする。
「私も食べるんだから、大丈夫だよ」
「病人と一緒のものを食べるもんじゃない。お前も風邪引きたいのか?」
「別々の器に盛れば大丈夫でしょう?」
「まあ、それなら……」
僕は布団を剥がし、ベッドから起き上がる。一瞬、背筋に嫌な寒気が駆け抜けた。熱がある証拠なのだろう。雑炊で力を付けて、風邪薬を飲んで早く治そう。
文絵はエプロンを脱ぎ、僕よりも先にこたつの中へと入り込んでいた。続いて、僕も対面するようにこたつへ入り込む。
「うわあ、あったかい。料理してる時って手足が冷たくなるんだよね。こたつはそんな私をすぐに温めてくれる」
「スイッチ一つですぐに暖めてくれるんだから、電気こたつは近代で最高の発明品だな」
「人間を堕落させる魔力を秘めた悪魔の発明品だね」
「いちいち発言が文学的だな」
「まあ、それはそれ、これはこれとして、早く雑炊食べようか」
「そうだな」
文絵は土鍋の蓋を布巾越しに掴み、湯気とともに持ち上げた。すると、中からは黄色い光を放つ雑炊が現れた。具材には卵やほうれん草、しめじなどが入れられている。そして、コンソメの香りが食欲を刺激した。
「あんまり見たことなかったけど、意外と料理上手いんだな」
「こう見えて、家庭的な女の子を目指しているからね。ほら、私がふうふうして、食べさせてあげるから」
「いや、恥ずかしいから」
「そう遠慮せずに」
文絵は、器によそった熱い雑炊を蓮華ですくうと、ふうふうと冷まし始める。
「ほら、あーん」
その振る舞いは、まるで親鳥が雛に餌を分け与える行動そのものである。
「いや、自分で食べれるよ」
「何を恥ずかしがってんの? 誰も見てないんだから、そんなこと気にしない」
そして、そのまま蓮華は僕の口の中へ無理やり運ばれた。すると、口の中にはコンソメの味わいと卵のほのかな甘さと食感がいっぱいに広がった。劇的に美味しいわけではないけれど、十分に美味しい。少なくとも、僕が作る謎の料理よりは……。
美味しいということは、幸福だ。一瞬だけ感じさせてくれる味が、たまらなく幸せにしてくれる。僕と文絵は、一緒に幸福の味を口に入れ続けた。おかげで、たいして時間も経たず完食してしまった。
「ごちそうさまでした」
「お粗末さまでした。けっこう美味しかったでしょう?」
「ああ、普通に美味しかった。まあ、お袋の味とまではいかないけどな」
「そりゃあ、君のお母さんには勝てないよ。だって、一番食べなれた味なんだから、それが一番美味しいに決まってるよ」
「美味しいことと食べなれていることは違うだろうけど、食べなれたものが一番口に合うことは確かだな」
「じゃあ、私の料理を食べれば食べるほど、その味から抜け出せなくなるかもね」
「なんか、急に怖くなったな。それだと、中毒みたいじゃないか」
「実は、このきのこに中毒性があってね……」
「おい、しめじに中毒性があってたまるか」
僕と文絵はそういった当たり障りのない会話を続け、いつも通りに笑い合った。絶対に、「好きな人はいるの?」という疑問を投げかけることはなく。
しかし、しばらく会話を続けていると、文絵は僕の期待を簡単に裏切ってくれた。いや、期待に応えてくれたのかもしれない。
「君は誰か好きな人はいるの?」
直後、心臓が口から飛び出しそうなほど高鳴った。すぐに頭の中は真っ白に染まり、何と言えばよいのか分からなくなる。
「あ、えっと……」
文絵はまっすぐ僕を見つめてくる。そこには、普段の悪ふざけで覆われながら、瞳の奥には真実が潜んでいるような気がした。
「まあ、難しいよね。人を好きになるなんて」
文絵は僕の言葉を聞きたくなかったのか分からないが、そう切り出すことで僕の答えを保留にしてくれた。僕はばれないように、ほっと胸を撫で下ろした。
「ただね、私の場合は少し他の人と感覚が違うかもしれないね」
「それは、どういうことだ?」
「私はね、恋人も友達もあまり関係ないと思っているんだよ」
「恋人も友達もたいして変わらないと?」
「そうじゃないよ。ただ、どちらも『かけがえのない時』というだけだよ。難しく考える必要はなくて、どちらも大切なんだ。だから、恋人だの友達だのは肩書きに過ぎないと思っている。私にとっては、その人が好きな人であること、それさえ分かればいい。好きな人との一瞬を大切にできたら、それだけでいい。そこに男女の隔たりはないんだよ。こんな考えを持つ私は、少し甘いかな?」
僕はその文絵の言葉を聞いて、押し黙ってしまった。心に言葉が染み渡る。
「そうか。じゃあ、文絵は僕のことを好きだと解釈してもいいのかな?」
直後、文絵は予想外だったのか盛大に噴き出した。そして、風邪を引いている僕よりも咽続け、過呼吸気味になって苦しそうに笑い転げている。割と真剣に聞いたつもりだが、なんて扱いだろうと我ながら苦笑する。
「私を笑い殺しにする気? ああ、でも、そうだね。私の理論で言えば君のことは好きだよ。それに、嫌いだったら、わざわざ看病に来るはずないじゃないか」
「まあ、それもそうだな」
きっと、このようなやりとりがこれからも続くのだろう。僕は臆病者だが、後悔はしていない。天秤という観点で見れば、僕は友情を選択したのだろう。これも一つの幸福の形なのだと思えば、ありがたいことだ。
これは、他の人に真似できることではない。文絵と僕だからこそできることなのだ。この刹那には愛を感じられる。男女の垣根を飛び越えて、大切な絆を感じられる。もしかしたら、こういうのは一種のプラトニック・ラブなのかもしれない。
何はともあれ、言える事は唯一つ。
幸福はかけがえのない刹那である。