2/売られた男、精霊術と出会う
「白紙の……法典?」
リリィの言葉を反復する。俺の十八年の人生で一度も耳にしたことのない単語だった。ブランクとかコードとか、それぞれの単語はよく聞く機会があったが、ブランクコードと一繋ぎになった言葉には思い当たるところが一切ない。
一旦興奮を静めよう。大きく息を吸い込んで、吐き出す。これで少しは大丈夫だ。
「えっと、リリィ、だっけ……悪いんだけど、色々と訊いてもいいか?」
恥ずかしいことにさっぱり状況がつかめていなかった。
ここがどこなのか。俺は誰に売られてどこへ運ばれていたのか。リリィはどこの誰なのか。どうして俺を助けてくれたのか。あの岩人間は何者なのか。俺の腕から出てきた魔法みたいな代物は何なのか。ブランクコードとはどういう意味なのか。
何もかもが分からない現状、唯一の手がかりは目の前にいるエルフみたいな姿の女の子だけだった。
「それもそうね。ユージはここに来たばかりだもの。でも、こんなところじゃなくて一度場所を変えましょう」
「場所を変えるって……アレはどうするんだよ。岩男は凍ったままだわ、馬車は燃え始めてるわ……放っといていいのか?」
俺は転倒した馬車らしき乗り物と、氷漬けになったままの岩人間を指差した。外に出て初めて確認できたのだが、俺が乗せられていた乗り物はやはり馬車にそっくりな形の乗り物だった。
ただし車を牽いている動物はただの馬ではなく、馬に似た身体に羊かヤギのような角が生えた見たこともない生物だったのだが。
「大丈夫よ。私だって独りでここまで来たわけじゃないもの。後始末は仲間にお願いするから、ユージは心配しなくてもいいわ」
そう言うと、リリィは胸元から小さな木製の笛を取り出した。小指程度の大きさの細長い形をしていて、紐を結んで首から下げられるようにしてあるようだ。
リリィは思いっきり息を吸い、頬を膨らませて笛を吹き鳴らした。
木管楽器の音色をか細くかつ甲高くしたような音が、静かな森に響き渡る。
「これでよし、と」
思いっきり笛を吹いたせいだろうか。リリィの白い頬がほのかに赤らんでいた。
笛の合図から十数秒。異変は唐突に起こった。道の左右に生えた低木がガサガサ鳴ったかと思うと、そこから数人の小柄な人間が姿を現したのだ。そいつらは服装も体の特徴もリリィとそっくりだったが、どことなくリリィよりも年下のように思えた。
「まずはそこのペトラスの身柄を確保。溶けないうちに最寄りの拠点まで運んでおいて。馬車は火の手が激しくなる前に消火解体。馬は可能なら回収お願い。解体した馬車の残骸は拠点まで持ち帰って処分。ここには痕跡を残さないで」
リリィは現れた仲間達にテキパキと指示を飛ばし始めた。
俺はといえば、馬車が解体され、凍った岩人間が運ばれていくのを、突っ立ったまま眺めているだけだった。
「ここはもう大丈夫。後はこの子達に任せて、私達は落ち着いて話せる場所にでも行きましょうか」
その手慣れっぷりに俺は無言で頷くことしかできなかった。
― ― ―
リリィに先導されて森を抜け、少しばかり進んだところに、そこそこ大きな建物が佇んでいた。入り口の上には大きな看板。文字はさっぱり読めないが、看板があるということは少なくとも民家ではないはずだ。
店先にはツノ付きの馬が何頭も繋がれていて、目の前に積まれた干し草をモリモリと食べている。
何となく分かってきた。これは街道沿いの宿場という奴なのだろう。
「宿屋、か」
「酒場と食堂も兼ねてるわよ。一休みするにはちょうどいいと思って」
リリィが入り口の扉を押し開ける。俺もその後に続いたのが、扉を潜るなり濃厚なアルコールの臭いに襲われ、軽く目眩を覚えそうになった。
次に襲い掛かってきたのは、理解不能な言葉の洪水だった。
髭面の男達が喋る岩人間とそっくりの言葉。鱗みたいなものが身体中に付いた大男の方から聞こえる、ゴロゴロ喉を鳴らすような発音。頭から黒い布をすっぽり被った連中が交わす、刺々しいイントネーションの会話。
外国人だらけの街に放り込まれても、これほどの疎外感は覚えないだろう。リリィや岩人間と意思疎通が出来たので油断していた。この二人と話せたことが例外的で、今みたいに何を言っているのかも分からない状態こそが当たり前だったのだ。
「ほら、早く座りましょ」
「お、おう」
リリィに促されるまま、一番奥のテーブルに腰を下ろす。
近くの客の談笑も意味不明の外国語にしか聞こえない。むしろ、彼らの額から一対の小さな角が生えていることを考えると、外国語とはいえ人間の言葉に聞こえているだけでも喜ぶべきことなのかもしれない。
俺の中で想像が確信に変わりつつあった。
ここは外国なんかじゃない。もっと根本的に『違っている』場所だ。
「あまり長居するつもりはないから、飲み物だけでいい? 氷水とかあるけど。あ、氷水一人一杯まで無料だって」
「うーん……」
壁に掛けられたメニュー表らしきものを見ても、どの商品が食べ物でどの商品が飲み物かの区別すらできなかった。
「……じゃあ、水で」
結局、一番無難なものに落ち着いてしまう。
リリィは店主らしき男を呼び止め、氷水を二つ注文した。
――ふと、そのやりとりに微かな違和感を覚える。
違和感の正体はすぐに分かった。言葉だ。リリィは俺にも理解できる言葉で店員に水を注文していた。しかし、店主からの返事は俺には理解できない言語だった。
「なぁ、リリィ。今、俺に分かる言葉で喋ってたよな」
「え? ああ、精霊式通訳のことね。ちょっと待ってね」
リリィは俺の口元に指先を近付けて、集中するように瞼を閉じた。
「第五元素の一滴たる言の葉の精霊よ。彼我の知性に橋を渡し、険しき不理解の谷を渡らせ給え。彼の者の言葉を万人に伝え給え」
指先から、半透明の燐光がぼうっと浮かび上がり、唇の隙間から俺の体の中に沁み込んでいく。精霊筒とかいう金属筒を使ったときのような激しい変化は起こらなかったが、その効能は即座に体感することができた。
「――でなぁ? そしたらでっかい雪鹿が目の前に飛び出してきたわけよ。そこを必殺の投げ斧をぶち込んでだな」
「ははは、まーたその話かよ。雪鹿に投げ斧が当たるわけねーだろ。角で弾かれて終わりだっての」
「オレ様特製の斧を舐めんなよぉ? 土の精霊特盛りで超絶重い一撃ぶち込んで角ごとへし折るんだよ。オレ様みたいな一流の猟師ともなりゃあなぁ」
「んな重い斧が投げれるか! ぎゃははは」
理解不能の音が飛び交っていた空間が、一瞬のうちにクリアになる。ごちゃごちゃした雑音にしか聞こえなかった喧騒が活気溢れる酒場の騒がしさへ一変した。
隣席の男達が猟師だということが理解できる。
鱗肌の大男が女にフラレてやけ酒に走っていることが理解できる。
黒い布を被った男達が料理の好みについて語っていることが理解できる。
不気味な空間としか感じられなかった酒場の中が、あっという間に身近で親しみの湧く場所へと変わってしまった。
「どう? 今のが精霊術」
悪戯を成功させた子供のような顔で、リリィは笑った。
今の俺は、きっと情けないくらいに呆然としているに違いない。
「精霊式翻訳っていうんだけどね。言葉に宿る精霊に呼びかけて、ユージの話す言葉と、ユージに届く言葉が自動的に翻訳されるようにしてあげたの。ユージには私の声がユージの言語で聞こえてたと思うけど、それは私も私自身に同じ術を掛けてたから」
「そう……だったのか」
原理はさっぱりだが、そういうものだと受け入れてしまえば、色々と納得できる。
馬車で運ばれているとき、途中で急に岩人間と会話が成り立つようになった。ひょっとしたら、あれも岩人間が精霊式翻訳とやらを使ったからなのかもしれない。
店主が俺達のテーブルの横に立ち、陶器製のコップを二つと鳥肉の揚げ物らしき料理が乗った小皿を置いた。
「ほらよ、注文の氷水二杯だ。あとこっちの皿はオマケでくれてやる。もっと腹になるモン食わねぇとでかくなれねぇぞ」
「ど、どうも」
思わず恐縮してしまった。ぶっきらぼうで無愛想な店主だが、強面の外見と違って親切な人なのだろうか。
そんなことを思いながら氷水を一口飲む。
冷たい水が乾ききった喉を滑り落ちる。その感覚がひどく心地良い。身体が水分の摂取を喜んでいるのが分かる。
そういえば水分を摂るのは何時間ぶりなのだろう。
どれだけ長いこと気絶していたのか、俺にはもはや知る術もなかったが、この渇き具合からすると一時間や二時間で済んだとは到底思えない。下手をしたら半日――あるいはそれ以上かもしれない。
「よっぽど喉が乾いてたのね。あ、これ全部食べていいよ」
リリィが店主のくれた小皿を俺の方に寄せた。
「あんたは食べないのか」
「んー……油モノは苦手で。美味しいんだけどお腹が受け付けないっていうか」
香ばしい揚げ物の匂いを嗅いだ途端、今の今まで大人しくしていた胃袋が急に動き出した。さっきまで緊張とパニックで押さえ込まれていた空腹感が、堰を切ったように自己主張を開始する。
あんなにも喉が乾くほど放置されていたのだから、空腹だって激しくて当然だ。ここはリリィの好意に甘えることにして、金属のフォークを使って鳥の揚げ物を口に運んだ。
唐揚げに似た味が口いっぱいに広がり、油の風味に唾液が溢れる。
自分自身の体なのに、ここまで腹が減っていたと気付けなかったなんて。
「食べながらでもいいから、まずはユージがここに連れてこられるまでのことを聞かせてくれないかな」
「ん、んん……分かった」
氷水で揚げ物を胃に流し込む。
どこから話すべきか少しだけ迷ったが、やはり詳細に伝えた方がいいだろうと考えて、こちら側の事情を一から説明することにした。固有名詞がちゃんと伝わるかどうかは俺が心配することじゃない。分からないと言われたら、そのときに説明すればいいのだ。
天蓋寺コーポレーションでアルバイトをしていたこと。
そのときに精霊筒と同じ形の金属の筒を見たこと。
直後に、社長の息子の天蓋寺晴彦に気絶させられたこと。
気がついたらあの馬車の中にいて、どこかへ運ばれていたこと。
一連の出来事を話している間、リリィはずっと真剣な表情をしていた。時折、外来語や固有名詞について説明を求められたが、それ以外には話を遮ってくることはなかった。
「……それで、リリィに助けられてここまで来たんだ」
「なるほどね……」
リリィは数秒だけ考え込み、すぐにまた口を開く。
「今度は、私が知る限りのことを伝えるわね」
「頼んだ」
器に浮かんだ氷がカランと鳴る。
「私達はこの世界をエレメンティアと呼んでるわ。正確には大陸の名前なんだけど、エレメンティア以外の大陸は太古の昔に沈んで失くなったと伝えられてるから、大陸の名前が世界そのものを指す名前にもなっているの」
この世界。
まるで他にも世界があるような言い回しだ。
いや、まるで、ではなく――
「ユージがいた世界の呼び名は――テラ・マーテル。もっとも、テラ・マーテルの存在を知っている人は一握りみたいだけど」
「…………」
やや遠回しな言い方だが、つまりはこういうことだ。
ここは俺が暮らしていた世界とは違う。異世界なのだ。
俺は努めて冷静に、リリィの話の続きを待った。ここは異世界だと告げられた驚きは当然ある。嘘だろと叫びたいくらいだ。けれど、無駄に叫ぶよりもリリィの話を聞くほうがずっと大切だ。
「エレメンティアは元素と精霊が世界の法則を支えている。テラ・マーテルに精霊はいないって聞いてるけど、この世界では違うの。万物は四種の元素の配合で出来ていて、現象が起これば精霊が生じ、精霊を操れば現象を起こせる。そのための技術が――」
「――精霊術?」
「そういうこと。例えば火が燃えていればそこには必ず火の精霊がいる。逆に、他所から火の精霊を連れてくれば、火種がない場所でも火を起こせるってわけ」
リリィはそこで一旦言葉を切り、氷水で軽く喉を潤した。
「この氷だって精霊術で作られてるのよ」
「そうなのか?」
「山奥で氷なんて採れるわけないでしょ。水の元素と風の元素を、水の比率を高めに配合すれば氷の精霊を生み出せる。それを使ってるの。ユージがペトラスを凍らせたのと同じ原理ね」
氷が浮かぶコップに視線を落とす。
言われてみればその通りだ。建物の造りや客の服装、使われている道具を見る限り、冷蔵庫のような機械が作られている社会とは思えない。中世か近世のヨーロッパのイメージが一番近いだろう。あの時代に都合よく氷を作れる道具なんてなかったはずだ。
しかし、この世界には精霊術があるという。どこでも火や氷を出せるなら、機械なんかなくても便利に暮らせることだろう。少なくとも、山奥でキンキンに冷えた氷水を味わえる程度には。
「ということは、あの精霊筒とかいう道具は精霊を持ち運ぶための……?」
「正解」
ピンポーン、とは言わなかった。こちらにはそういう定番の効果音はないようだ。
「だけど、精霊が宿るのは物質や現象だけじゃない。生き物だって元素の配合で出来ているわけだから、当然固有の精霊が宿る。私だってそう」
「え、リリィにも精霊が憑いてるのか?」
うっかり不吉な漢字を思い浮かべながら口走ってしまった。憑いている、と表現したら悪霊や亡霊の類になってしまう。
「私達は『森羅の民シルヴァ』と分類されている種族なんだけど、シルヴァの場合は火風水土の四元素のうち、主に風と水と土の三種類の元素で構成されていて、植物の精霊に限りなく近い精霊が宿ってるわ」
「それじゃあ、あの岩人間も……」
「ペトラスは『岩塊の民』で元素は土だけの単元素種族ね」
思わず感嘆の息を漏らしてしまう。
高校時代、物理や化学の授業で色々な現象を学び、世界が巧く出来ていることに感心したのを思い出す。それと同様に、異世界には異世界なりの仕組みやルールがあり、それに従って巧みに組み上げられているのだ。
……あの男に売り飛ばされてここにいるという事実さえなければ、素直に好奇心で目を輝かせられたのだが。
「どの種族も最低一つ最大でも三つの元素に立脚していて、それぞれの精霊の力を帯びている……。それが精霊術師にとっては有利にも不利にも働くの」
リリィは親指大の金属筒――精霊筒を指で弄びながら話し続けた。
「自分達の種族精霊に近い性質の精霊を操るのは得意だけど、かけ離れた性質の精霊は苦手だったり、全く操れなかったりするのよ。私みたいなシルヴァの場合は、植物の精霊は得意分野で水や風、土の精霊もそこそこ扱えるけど、火の精霊だけは本当にダメ。全然制御できないし、最悪の場合は暴発して命が危ないくらい」
俺はリリィの話を静かに聞いていた。とても興味深い話だが、俺が今すぐ知りたいことから遠退いている気がする。
ブランクコードとは何なのか。どうして俺を助けたのか。
その二つがまだ分からないままだ。
「で、ここまでが前提の話」
俺の内心の焦りに気付いたのか、リリィは話の起動に修正をかけてきた。
「いきなりだけど質問ね。ユージにはどんな精霊が宿ってる?」
「は? 精霊なんて……そんなの無いんじゃないのか」
「大正解」
リリィは俺の胸をビシッと指差した。
「テラ・マーテルの人間は元素も精霊も無関係に存在している。つまり精霊の空白地帯ということよ。大抵は、どんな精霊でも広く浅く受け入れる体質か、どんな精霊も殆ど受け入れない体質の持ち主だと言われているんだけど、物事には必ず例外がある」
その澄んだ瞳は、まっすぐ俺を見据えている。
「ありとあらゆる精霊をその身に受け入れて、あらゆる精霊の力を最大限行使する特別な体質。あるいはその能力の持ち主。それが――ブランクコード。空っぽだからこそ全てを取り込める器――」
「ブランク、コード……俺が……?」
いきなり言われたって自覚なんか出来るわけがない。
しかし、リリィが告げたような現象を自分の体で実際に起こしてきたばかりだ。ほかならぬ俺自信が目撃者なのだから否定のしようもない。ただ、心情的にハイそうですかと受け入れられるわけでもない、というだけのこと。
右の手のひらに目を向ける。この腕から強靭な植物が生え、岩人間――ペトラスを氷に閉じ込めたのは、揺るがぬ現実。受け入れるしかないと頭では理解している。けれど、受け入れてしまったらもう戻れない気がして――
「それで、あなたを助けた理由はね……!」
リリィが勢いよく席を立ち、俺の横へ駆け寄ってくる。
勢い余って蹴倒された椅子が、床とぶつかって大きな音をさせた。そのせいで酒場中の客の注意がこちらに集まってしまう。
注がれる無数の視線に怯んだ俺のことなど構わず、リリィは目を輝かせて俺の手を強く握った。
「あなたが欲しいの! ユージ!」
酒場がどよめき、盛大な歓声が店を揺らす。
俺は一瞬で状況を理解した。リリィがぶちかました一言は、酔っ払い達の思考回路を経て歪曲され、まるで男女の一世一代の見せ場のように誤解されていると――!
「私達、森羅の民シルヴァには、一人でも多くのブランクコードの力が必要なの! お願い、ユージの力を貸して!」
「待て待て待て! まず周りを見ろ! 凄いことなってるから!」
テンションの上がった酔っ払い達には、リリィの発言の後半は全く届いていなかった。隣席の猟師はいい笑顔で酒入りのコップを押し付けてきて、失恋を嘆いていたカウンター席の鱗男はコップを握り潰して肩を震わせている。
リリィもリリィで周囲の暴走を全く認識せず、俺の手を握り締めてひたすらに熱弁を振るっていた。大変申し訳無いが、今の俺にはそれを聞いていられる精神的余裕がない。
嗚呼、誰かが指笛を吹いている。世界は違っても冷やかし方は同じなんだなと、頭の片隅で思ってしまう。
「――ええい、こうなったら!」
とにかくこの場を脱出しなければ。その一念が俺の背中を押した。普段なら絶対にできないし、やろうとも思わないことだが、ここから逃げ出すためなら仕方がない。
リリィの細い胴体に腕を回し、抱え込むようにして駆け出す。
「ちょ、ちょっとユージ!?」
「すまん、後で謝る!」
扉を体当たりで開け、はやし立てる声を背中に受けながら、ひたすら走り続ける。
できる限り遠くまで逃げるつもりだったが、流石に人間一人を引きずったままでは体力の限界も早く、結局店から百メートルほど離れた辺りで力尽きた。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
「どうしたのよ、いきなりあんなことして」
「あ、後でじっくり、教えて……やるから……今は、休ませて……くれ……」
街道沿いに生えた大樹の陰で膝を突き、脇腹を押さえてうずくまる。食べた直後にダッシュして脇腹が痛くなったなんて、情けないことこの上ない。
一瞬、ひょっとして食い逃げしまったのではという不安が脳裏を過ったが、氷水は一人一杯まで無料で鳥の揚げ物は店主のサービスなので、よくよく考えたら代金を支払う必要はなかった。
しかし、それはそれで良心が痛むのだが。
「ふぅ……だいぶ落ち着いてきた……」
呼吸を整えて立ち上がる。
「事情はよく分からないけどさ。リリィ達はその、ブランクコードが必要なんだな」
「あれ? さっき事情を説明したはずなのに……」
「一回だけ怒っていいか? 手短に済ませるから」
とんでもない騒動に巻き込まれてしまったが、そのお陰というか、そのせいというか、逆に張り詰めた心がほぐれてきた気がした。
さっきまでは分からないことばかりで、目に映るもの、耳に入るもの全てに警戒していた。けれど、リリィからこの世界のことを教えられ、他の人達の言葉を理解できるようにしてもらったことで、気を張り詰めなくても良くなってきたのだ。
「……まぁ、私の事情を伝えるなら、実際にアレを見てもらったほうが早いしね。一休みしたら、ついて来てほしい場所があるんだけど、いいかな」
「むしろこっちからお願いしたいくらいだよ。この世界のことは全然知らないんだから」
二人でそんな会話を交わしていると、横合いから知らない女の声が投げかけられた。
「そこのお二人さん。ちょいと尋ねたいことがあるんだけど、ボスコ林道はこっちの方向であってるのかな?」
振り返ると、健康的な褐色肌の女がこちらに笑顔を振りまいていた。スタイルのいい体に胸元の空いた服を着て、セミロングの銀髪を後頭部の辺りで括っている。大きな荷物袋を背負い、腰にポーチ状の小袋を幾つかぶら下げている格好からすると、きっと旅人なんだろうと思った。
だが、リリィの表情には明らかな警戒の色が浮かんでいた。
「リリィ……?」
何事かと思い声をかける。するとリリィは、俺の耳にそっと口を寄せて小さな声で耳打ちをした。
「気を付けて。こいつは『太陽のヴェルメリオ』――この辺りじゃ知られた盗賊よ」