ACTion 60 『温かな匂い』
一人きり、振り返る。
気配などではない。それは確信だった。
靴音は聞こえている。
うるさすぎる部屋は苦手だと言ったはずなのに、いつまでたっても分かってはもらえない。だからここへ逃げ込んだのだ。
案の定、ドアのスモークは解かれていた。寄りかかりのぞき込む顔は、いつもにも増してしかめっ面だ。しかしながらどんな表情だろうとその通りと、大正解。とらえてネオンは口を開く。
「……みつかっちゃった」
諭されても、叱られた記憶はなかった。それは入れ替わり立ち替わり、通り過ぎてゆく様々な顔ぶれの中でも目覚め、眠るときには必ず傍らにある顔だった。安堵すら覚えてネオンはアンプの上で座りなおす。今回も連れ出されるだけだと、ただ微笑んでお馴染みの展開を待ちうけた。
と、窓から不意にその姿は消える。
期待を削がれたようで、ぶらぶら遊ばせていた両足の動きも止まっていた。
なら影は舞い戻りドアは押し開けられる。
なんだ、と思うまますまして背筋を伸び上げる。ままに立ち上がりかけたその時、足元へと屈み込まれて目を瞬かせた。
その手には見慣れないモノがある。そろえて床へ置くなりネオンのエアソールシューズを脱がしていった。
「たとえベッドルームでも自由行動の度が過ぎる」
「あたしのクツ」
追いやられて、酷い仕打ちだと口をすぼめる。代わりに足へと、見慣れないそれはあてがわれていた。
「今日からはコイツでも履いてろ。これでちょうどいい」
それはエアソールシューズとまるで正反対と、ひどく窮屈な履き心地だ。履いてまもなくつま先は痛み始め、歩くなどもってのほかとなる。どうにか立ち上がって試してよろけ、ネオンは再びアンプへ尻もちをついた。
「いやだよ」
早々に渋って返す。なにしろやたらかかとが高いのだ。しかも不条理なまでに細く、それは爪先立ちよりたちが悪い。しかし奪われたエアソールシューズは自由もろとも、もう返してもらえそうにない。睨みつけ、先ほどドア越し見た渋面以上のしかめっ面を作って返した。
「元に戻してよ、セフ」
「おとなしくてしたらそのうち返してやるよ。アルト」
醒めるほどに白い上着からは、鼻について止まない薬品の匂いがしている。嫌なことはそれだけだ。それ以外、セフは嘘さえついたことがない。だからネオンは飲み込むことにする。けれど一人では動けそうにない。甘えるように両手を突きだした。応じてセフはその手を取る。立ち上がろうとするネオンを引き寄せ、両足をすくい上げた。抱え上げられたネオンの胸から楽器は滑り落ちそうになり、押さえてネオンは白い上着の襟へしがみつく。薬品の匂いに混じってほんの少し、違う匂いがネオンの鼻をかすめていた。
温かな匂いだ。
吸い込んでそう思う。
ポッドは窮屈でたまらない。そして時にネオンを不快な迷路へ陥れる檻でしかなかった。冷たく固いその中で、いつからかネオンは疲れ果ててうんざりしている。
早く帰りたい。
願いは確かなものになっていた。
けれどそれがどこなのか、分からない。
ただこの匂いに手がかりを感じ取る。格別に温かいそこなら帰りたいと、くるまるままに身を沈めた。
前に、泉は今日も広がる。
深く澄み切った水面は波ひとつ立てておらず、眺めて吸い寄せられるようにネオンは縁へ腰を下ろす。鏡のような水面をのぞけば、漂う静けさが疲れも恐れも、後に訪れるだろう不快さえもを消し去ってくれていた。覚える安堵に、記憶に残る眠りの気配は過る。拒む理由などどこにもない。応じてネオンは柔らかく自らをほどいていった。ほどきながらいつしか泉の中へと、己が身もまた深く深く沈めていった。
経てゆっくり、まぶたを開く。
あの静けさと匂いはまだ耳に指先に新しかった。
それどころかまるで地続きかと疑うほど、目覚めは穏やかだ。
「セフ……」
ここではそう呼び合っていた、ひどく曖昧で断片的な記憶。思えば、押しのけ逃げなかった不思議な信頼感の正体を今さらのように思い知る。
そんな視界の端に、あの冴え渡る白はあった。思わず白衣かと目を凝らし、自分にかけられたシーツだと気づいてネオンは息を吐く。
いつしか体はベッドの上だ。
なら蘇るのは数え切れないほど並べられた己の姿で、あった浮遊感もとたんに失せる。
貴様の量産体制に入る。
二度と目覚めることはない。
言い放った『バナール』の言葉もまた追い打ちをかけた。そうして撃ち込まれるのは恐怖以外の何ものでもなく、セフなら何とかしてくれるはずだ、姿を部屋で咄嗟に探す。そうした見たのはセフでなく、現実の残像としてこの部屋を歩き回るかつての自身だった。
眺めてネオンはどちらが現実なのか、いやどちらが失いつつある現実感なのか、区別がつかなくなってゆく。
そう、『バナール』が自分をアルトと選んだことは間違っていなかった。ここでは自身がアルトと呼ばれ、そのアルトはここでうんざりするほど時間と時間の狭間を行き来している。楽器を演奏するよう仕込まれ、大事にされたが相手にはされず、疲れ果てて心の底までを痺れ切らせていた。
それが失い、探していた記憶。
帰ろうとしていた場所の正体だ。
ようやく得たというのに醒めた感覚は一切ない。トラの元でドサ周りを続けていた時に願っていたような充足感は、これぽっちもわいてこなかった。ただ悲しくもわびしさばかりが募り、触れたネオンを追いかけるグロテスクな亡霊へとなりかわる。なって不安に不快に、恐怖と不満ばかりをネオンへ押しつけようとした。
『F7』の扉をくぐったとき感じた嫌悪が、ネオンの中へ舞い戻る。
帰りたい。
憑りつかれたように起き上がって、腕に違和感を覚え振り返った。針はそこに固定されると、いつからか宙に吊られた透明の薬剤から液体をネオンの中へ流し込んでいる。得体の知れなさが恐怖をあおった。ネオンは針へ手を掛け引き抜く。だが皮膚が突っ張るばかりで針は抜けず、もう痛みなど問題ではなくなっていた。力任せだ。むしり取らんばかり繰り返す。赤く血が滲んで腕へとアザを作ろうとしていた。
さなかだ。
部屋の扉は開け放たれる。
慌ただしい足音がネオンへ駆け寄り、ネオンは肩を掴まれていた。
「何してるッ」
「触らないでっ。はずすに決まってるでしょっ」
「落ち着けッ」
針へ掛けていた手を取られていた。
「ただの電解質だ」
言うが信用できる道理こそない。
「離してっ」
いや、記憶がそう訴える。拒み暴れたなら吊られた薬剤が今にも土台ごと倒れそうに揺れ、たしなめようとしていた相手はそこでネオンをベッドへと押し倒した。
「何すんのよっ」
「動くな。それ以上引っ張れば静脈に傷がつく」
「離してっ」
自由な方の手でネオンは相手を滅多打つ。
「いやだっ!」
もろともせず片手で薬剤の落下を止めた相手は、針の根元に突き出ていた細いアンプルを親指で折った。破片を足元のダストボックスへ落とし、枕元の小箱からアルコール臭漂う綿花をつまんでそこへあてがう。下から、静かに針はを抜き取っていった。痕を消し去るように綿花で拭う。終われば無理に引っ張りできたアザだけが、ネオンの暴挙ぶりを示して腕に残った。
「バイオゲージは剥離剤がなければ……」
などと講釈こそ感情にそぐわない。
ネオンは手を振り上げる。
口上垂れるその頬めがけ叩き付けた。
鋭くも乾いた音は空気を裂き、言葉も尻切れトンボとアルトがあらぬ方向を向いたままで目を細める。
いや、これはセフか?
素材は違うが、白い上着が夢と同じだ。
記憶が記憶を食らってゆく。
もう、どちらだってかまわなかった。
「あたしに触らないでっ! あたしは、あなたたちが好きに出来るモノじゃないっ!」
顔へネオンは吐きつける。
自分でもいやというほど甲高い声を食らったアルトが自らを落ち着けるべく、大きく息を吐き出していた。
やがてゆっくりとだ。その顔をネオンへと向けなおしてゆく。
「分かってる。お前はネオンなんだろ?」
そう、叱られた記憶はない。アルトは何より混乱していた事実をネオンへ言い聞かせる。
見据えたネオンの唇は、とたんミシリと音を立て歪んでいた。
取り繕うなどもうできない。
悲鳴にも似た声を上げて思い切りネオンは泣いた。




