始まりの日
音楽プレーヤーから次の曲が流れだす。
(うおぉ、三回連続で当たるとかマジかよ……。これはいよいよ予知能力にでも目覚める前触れか?)
人もまばらな電車の中、立上統夜は内心で大いに盛り上がっていた。むろん傍目には過ぎ去る風景を何となく眺めているだけにすぎないが。
およそ争いごととは無縁の温和な顔立ちに、着飾ることのない地味な服装。外見上は世の中に類似した者などいくらでもいるような、普通の大学生だ。
もっともその内面は、普通とは程遠かった。
そう、例えば雑踏に紛れた際に心の中で、
(誰かこの声が聞こえていたら返事をしてくれ)
と念じてみたり、掌から火やら風やら電撃やらその他諸々が出ないかと、自分の部屋で小一時間ほど己の右手とにらめっこしたりする若者はそうはいないだろう。童心を捨てていないと言えば聞こえがいいが、ハッキリ言って痛い奴である。
ちなみに今は、シャッフルした歌の順番を予想する遊びに興じている最中だった。
(そうだな……。次はあれが来る気がする)
統夜が次なる曲名を思い浮かべていると、不意に肩をぽんと叩かれた。
「やあ、統夜」
イヤホンを外して振り向いた先には、人当たりの良い笑顔を浮かべた見知った人物が立っていた。中学の頃から付き合いのある友人、山本伊吹だ。
統夜は音楽プレーヤーの電源を切りながら、目を丸くして言った。
「珍しいじゃないか、お前が時間通りに来るなんて」
驚くのも無理はない。なにしろ遅刻やサボりなど日常茶飯事な伊吹にとっては、定刻通りに行動するなど奇跡に等しいことなのだ。
とはいえ、今日は期末試験の日である。ぐうたらな友人もさすがに今日くらいは時間を気にするか、と統夜が密かに感心していると、
「なに、目が覚めたら丁度この時間だっただけだよ」
しれっとした顔でとんでもないことを言う伊吹。
「ああそう、まあそんな気はしてた……」
普段と何も変わらない伊吹のマイペースさに統夜は脱力した。
車内アナウンスが目的の駅に着くことを告げ、統夜と伊吹は名残惜しげに冷房の効いた電車を降りた。改札を抜け、二人は肩を並べていつもの大通りを大学へと向かう。
季節は、夏。
おまけに見事なまでの青天となれば、彼らの気分など想像するまでもない。コンクリートだらけの街並が蓄えた熱と、ジリジリと肌を焦がすような日差しが相まってついつい足取りも重くなってしまう。
しかしそんな、うだるような暑さでも真昼の街は一足先に夏休みを迎えた若者たちで溢れかえっていた。無駄口を叩かずに黙々と歩いていた二人だったが、やがて統夜が楽しげな顔をした通行人達を横目に嘆息をもらした。
「……はあ、若いっていいよな」
隣を歩いていた伊吹がたまらず吹きだす。
「いやいや、僕たちも充分若いから。まだ法的に酒を飲むことも許されない歳じゃないか」
それが会話の切っ掛けとなったのか、伊吹は続けて疑問を口にした。
「ところでこんな暑い日に、何で長袖なんか着てるんだ。キャラ作りでもしてるの?」
「んな訳ねーだろ。これは別に大した理由じゃないんだが……。お前、冷房に近い席に座ったことあるか?」
伊吹は首を振った。
「言っておくが講義が頭に入ってこねえぐらい寒いんだぜ。とはいえ、上着持ってくるのも面倒だからこれにしたってわけ。外にいるときは腕捲りしてりゃいいしな」
「なるほどね」
そうこうしているうちに、二人は閑散とした小道に差し掛かった。
「今日もこっちから行こうか」
と、伊吹が歩きながら提案する。
大学へ行くのに、この道が最も近いというわけではない。単に日影が多く、気休め程度には涼しいという理由から夏場はよくこのルートを利用しているのだった。
「何でもいいさ。どのみち暑い事に変わりないんだ」
統夜は投げやりに同意にし、二人は車がようやくすれ違えるほどの閑静な道へと入っていった。
今日、何気なく下したその選択が、立上統夜の運命を決めることになるとは知らずに。
あまり人の通らない見慣れたその道は、いつもと違う点が一つあった。行く先に、自販機の下を困ったように覗いている少女がいるのだ。背格好からして小学校低学年ほどだろう。
偶然通りかかったこの状況において、二人の取った行動は対照的だった。
統夜は困り顔の少女がまるで目に入らない、とばかりに見事なスル―っぷりを見せる。それを冷たいとは一概に言えないだろう。近代化の著しい昨今では、見知らぬ者には関心を持たないことが一つの礼儀とさえなっていると言っても過言ではない。下手に声をかければ、面倒なことになる可能性もある。
一方で伊吹はどうしたかというと、こちらも迷う素振りを見せない。少女を怯えさせないように目線の高さを揃え、その柔和な顔で優しく問いかけた。
「こんにちは。何か困ってるようだけど、どうかしたのかな?」
「……ジュース買うおかね、おとしちゃったの」
瞳を潤ませた少女は俯き、今にも泣きだしそうな声で小さく呟いた。
そんなとこだろうと思っていた伊吹は、既に財布を取り出している。
「あらら、落としちゃったか。仕方ない、それじゃお兄さんが代わりに買ってあげるよ」
頭を撫でながらそう言うと、少女の顔に明るい笑みが広がった。
「じゃあね、今度はお金を落とさないように気を付けるんだぞ」
「うん! おにいちゃんありがと!」
弾むような足取りで駆けていく少女を、伊吹は手を振りながら見送る。やがて統夜に目を向けると非難するように言った。
「まったく、相変わらずの事なかれ主義なんだから。まさか無視するつもりだったのかい?」
一連の出来事を手近な壁に寄りかかって静観していた統夜は肩をすくめた。
「当然だろ。俺はね、お前みたいなロリコンとは違うの。誰かに通報でもされたらシャレにならんし」
「ちょっと待てぇ!」
友人からのあらぬ嫌疑に、反論せずにはいられない伊吹である。
「いいかい、僕は女の子が困ってたら見過ごせない紳士なだけであって、決してやましい思いがあるわけでは……」
その熱弁をもちろん統夜は信じない。いかにも胡散臭い詐欺師を見るような目つきで言う。
「誰が紳士なんだか。仮に今のが男の子だったらどうせ助けなかったくせに」
「……………………えー、そんなことないし。嫌だなもう」
伊吹の顔から暑さのせいだけとは思えない量の汗が流れ落ちる。思いきり目を逸らしたうえに棒読みでの回答には、信じられる要素がまるで無い。
「お前な、そこはせめて嘘でも即答し――えっ?」
統夜は言葉を中途で切り、驚きの表情で立ち尽くした。
その現象は何の前触れもなく起こった。
伊吹のすぐ後ろのブロック塀に、穴のようなものが空いたのだ。といっても壁面が物理的に穴が空いているわけではない。向こう側は全く見通せず、黒いもやのようなものが渦巻いていた。大きさは、人の身の丈ほど。
呆然とする統夜を訝しんで、伊吹は自分の背後へと視線を送った。ところが、何事もなかったようにすぐに振り向く。
「どうかした?」
不思議そうな顔をして聞く伊吹の反応に、統夜は戸惑った。
(見えてない、のか?)
もしや自分が寝ぼけているのかと思い、目をこすってみるが黒い渦は依然としてそこに在る。
「早く行かないと遅刻するよ」
「え? ああ……。ちょっと、先に行っててくれ」
友人からの催促にうわの空で返事をする。その様子に伊吹は何を思ったか、遅れないようにね、とだけ言ってさっさと歩いて行ってしまった。
改めて渦を観察すると、それはだんだん縮んでいるようだった。統夜はゆっくりと近付き、ためらいがちに手を突き出してみる。伝わってきたのは、やはり固い石の手触りではない。ずぶり、と水面に手を差し込んだかのように突き抜けてしまう。
自身の直感が告げていた。おそらくこれは、どこかに繋がっているはずだ。飛び込めば最後、簡単には戻ってこられないだろうと。
ただ、今ならばまだ見なかったことにするという選択肢もある。このまま何事も無かったかのように通り過ぎれば、帰ってくるころにはきっといつもの風景に戻っているに違いない。
統夜は目を閉じ、素早く思考を巡らせた。
別に現実から逃げたいだとか、ありふれた日常に嫌気がさしたとか、現状の生活に不満があるわけではない。家族とは仲が良いし、受験に失敗してもいないし、友人にもそれなりに恵まれていると思う。
この先に本当に異世界なるものがあったとして、どんな物騒なところかは分からない。行った先でどうするのか、自分の身を守りながら一人で生きていけるのか等々、少し考えただけでもいくつもの不安要素が思い浮かぶ。
しかし、それでも。
「ははっ」
目を開けた統夜は思わず笑っていた。その瞳を少年のように輝かせながら。
こんな未知の現象を目の当たりにしておきながら、見て見ぬふりが出来るほど年を食ったつもりはない。まさにこれこそ幼い頃から自分が求め続けてきたもの。夢にまで見た異世界へとたどり着ける、最初で最後のチャンスかもしれないのだから。
統夜は大きく足を踏み出そうとし、寸前でしばし思い止まる。
(……さすがに何も言わないのもまずいかな)
大急ぎでポケットから携帯電話を取り出し、母親に向けてメールを打つ。何も告げずに失踪となれば両親が探そうとするのは目に見えている。無駄に心配をかけるのは忍びなかった。
(ごめん、旅してくる。探さないで、と)
もっとも、黒い渦がいつ閉じてしまうかも分からない状況で内容を推敲する余裕は無い。説明にすらなってない簡潔な文を手早く打ち、ボタンを押した。すぐさま送信完了のメッセージが表示される。
これで準備は整った。
再び黒い渦を見据え、今度は躊躇なく中へと足を踏み入れる。自らの意識と共に、統夜の身体は闇の中へと吸い込まれていった。
「やっぱり行くか。さーて、どうなることやら」
伊吹は一人歩きながら、後ろを振り返ることもなく呟く。人気の無い通り道、その呟きを聞くものは誰もいなかった。