青鈍の空・二
千歳は、細い体のどこにそんな力があるのか、一太を抱えたまま部屋の窓枠に足をかけて、跳躍する。店前の道に降り立って、一太を降ろすと、彼はにっこりとわらった。
「すごい……」
一太は、先程まで自分達がいた部屋を見上げて呟いた。
「だろー。んじゃ、行きますか」
一太の手を引いて、千歳が人の波を歩き出した。一太の手を握る手のひらは、一太のものよりも随分大きく感じる。喜助よりも、千歳は更に年上のようだ。
「しかし、読売が珍しいか?」
「うん……異国の、不思議な話をするんだって」
「それ、読売って言えるかー?」
千歳が、きゃらきゃらと笑った。
なんと眩しい笑い方をする人だろう。一太は、千歳を見上げるように見つめる。
綺麗で、不思議で、まるで、御伽噺に出てくる天女のようだ。そう言うと、千歳は目を丸くして、それからまた笑った。
「一太は、本を書けばいい」
「本?」
「そう。大きくなったら、本を書くんだ」
「……源氏物語みたいな、長いお話?」
「よく知ってるな。そうだな、御伽噺だ。きっと、上手くできるよ」
そうかしら。一太は微笑んだ。
湯屋の跡取り以外の、何か他の事を考えるのは、なんだか楽しい事のように感じて、一太は嬉しくなった。もし、喜助が養子になったら、自分は本を書こう。なんとなく、そう思った。
河川に架かる橋の袂で、読売が子供を集めて話をしていた。一太たちは、そうっと一番後ろの列に入った。
読売は、若い男で、綺麗な鶯色の目をしていた。
読売の話は、大陸の御伽噺だった。大陸の向こうに、砂だけでできた場所がある。そこに、荒神という者がいた。そう、読売が話し出した。
話が終わると、一太は千歳を連れて、すぐに列を抜けた。他の子供に見つかるのは、いけないと思ったのだった。
「確かに、変な読売だった」
千歳は、読売の話が大変気に入ったらしく、何度も反芻している。
「兄貴に教えてやるんだ」
彼は、そう笑っていた。
*
店に戻ると、大変な騒ぎになっていた。
一太が、一部屋目の配膳から戻って来ない。訝しんだ母親が、客間に行くと、二人いるはずの客人は、一人しかいない。残った一人に事情を聞いても、何も答えない。
まさか、攫われたのかと思ったが、それならば、何故客人は一人残っているのか。
そこに、一太が戻ってきた。
何をしていたのだと問い詰められて、一太が萎縮していると、千歳が母親に頭を下げた。
「一太から、読売の話を聞いて、私が頼んだのです。私どもは、旅の芸人です。面白い読売がいると聞いて、居ても立ってもいられず、一太を連れ出しました」
申し訳ない、と頭を下げた千歳に、母親は困窮した。まさか客人を怒鳴るわけにはいかないし、そもそも、謝られる程怒っているわけではないのだ。
「いえね、お客さん。一太が何も言わなかったのがいけないんですから、どうか顔わ上げてくださいませ」
一太には、何のお咎めもなかった。
しかし、その夜は姉たちに散々、千歳の事を聞かれて、一太はわからないを繰り返さなければいけなくなった。終いには、母親が、千歳を姉の誰かの婿に出来ないかと言い出した。
「あれだけしっかりとした方だもの。ねえ、どうにか婿様に来てもらえないものかね」
一太は、ようやっと気がついた。
母は、不安なのだ。ぼんやりとした一太が跡を継ぐことで、家族が食っていけなくなるのが怖いのだ。だから、頼もしく、しっかりとした跡取りが欲しいのだ。
喜助を一等気に入っているだとか、一太を疎んでいるわけではなく、ただただ不安なのだろう。
それが解っても、一太にはどうする事もできない。生まれ持った性格は、変格しない。一太は、そう思い込んでいるのだから。
*
その日は、風が大きく唸る夜だった。
雨戸を閉めなければ、窓の障子が破れてしまいそうなくらい、強い風が吹いていた。
一太は暗い部屋で布団に包まって怯えていた。丁稚の子供達は、みんなで身を寄せ合っているのだろうが、一太の部屋には彼しかいない。両親や、姉の部屋には行けそうにないし、行ったところで追い返されるだろう。
風が怖いなんて、と。
一太は、ぎゅっと目を瞑って、風の音を意識から遠ざけようとする。しかし、聞かないでおこうとすればする程、余計に音ははっきりと聞こえてくるものだ。
千歳は、こんな風にも怯えないのだろうか。
ぼんやりと考えていると、一太は微睡んで、小さな寝息を立て始めた。
夢の中で、一太は不思議な客人に手を引かれて、空のない草原を歩いていた。どうして、空がないのだろう。そうして、見上げてみると、薄く墨をひいたような、雲が見えた。
雲は、海のように波打っている。
綺麗な空だ、と一太は思った。
不思議な客人は、そんな一太に笑いかけて、あれは雲海だと教えてくれた。
雲海の上には、仙が住む世界がある。
そこでは、歳を取る事を忘れた仙たちが、毎日下界を観察しているのだと。
そこで、一太は目を覚ました。
雨戸を閉めているので、部屋は暗く、朝なのか夜なのか解らない。布団から這い出して、一太は雨戸を開けた。風は止んでいた。
まだ外は薄暗く、空は、ほのかに柔らかい色をしている。
「……そうだ」
一太は、寝間着のまま文机の前に座って、さっき見た夢を、紙に書き出してみた。忘れないうちに、書き留めておこうと思ったのだ。
出来上がった書面を見て、一太は綻んだ。
なんとも不思議な話ではないか。
朝茶を出す時に、千歳に話してみよう。
そう思うと、一太は嬉しくなって、仕事着に着替えて、部屋を出た。まだ誰も起き出していないうちに、井戸で水を汲んだ。
厨房に運び終えた頃に、母親が姿を現した。一太が、朝の仕事を終えている事に驚いていたが、彼女は満足そうに微笑んだだけで、何も言わなかった。
そうか、と一太は独白する。
みんなが、これをしなさいと言う前に、望む事を終わらせておけば良いのだ。それだけで、家族は安堵するのだ。
それから、一太は自分がいつも課せられている仕事を早々に終えて、母親に尋ねてみた。家人はみんな起き出して、客間に運ぶ朝餉の支度をしている。
「お母さん、何かできる事はない?」
「一太の仕事は、終わってるのかい?」
「うん……」
「そうかい……じゃあ、厨房の事でも教えてやろうかな」
母親は少し考えてから、一太を厨房に招き入れて、あれこれと仕事を教えてくれた。
一太は、疎まれているわけではない。
ただ、彼はいつでも仕事に追われていて、こうして新しい事を教え込む時間がなかっただけなのだ。それを知って、一太は嬉しそうに笑った。
朝茶を出す時分になって、一太は千歳の部屋にいた。
夢の話を聞かせると、千歳は楽しそうに頷いていた。
「ほら、一太は向いてるんだよ」
「向いてる?」
「不思議なものを見つけるのに、向いてるんだ。物を例えるのも上手い。だから、本を書けばいいんだと言ったんだ」
千歳は微笑んだ。
そうかしら。一太は嬉しくなった。
何かに向いているなんて褒められたのは始めてだ。ずっと、跡取りとして向いていないと言われてきたようなものだから。
「しかし、風が強いな」
開け放した窓から、風が入ってくる。千歳が持ち込んだ本が、ぱらぱらと捲れていく。
「……何も起きなきゃいいけどな」
「え?」
千歳が呟いたのが、よく聞こえなくて、一太は聞き返したが、返って来たのは、柔らかい笑みだけだった。
*
男は酔っていた。伊勢参りで賑わう町は、なかなか灯りが落ちないので、いつもよりも酒を飲みすぎたらしい。
覚束ない足で、家に向かっていると、蕎麦屋の屋台が出ていた。丁度小腹も空いていたので、男は屋台の暖簾を潜った。
「親父、かけ一つ」
「いやですね、親父、だなんて」
店主は、若い娘だった。
父親の代わりにでも、店を出しているのだろうか。まだ幼さの残る顔立ちの、可愛らしい娘だ。
「いや、驚いた。すまねぇな」
男は詫びて、まじまじと娘を見つめた。
こんな夜半に、若い娘が屋台を引くなんて、危ないだろうに。現に、こうして下心を持つ男が、暖簾を潜っているのだから。
男は、娘が出してくれた熱い蕎麦を啜った。味は、まずまずの、普通の蕎麦だ。汁まで飲み干して、男は勘定のために懐を探った。
「お代は結構です」
「いや、しかし……」
娘が、薄く笑った。扇情的な笑みに、男はぞくりとする。娘がおもむろに、男の手を取った。それから、親指を軽く食む。
男は、くすぐったそうに身をよじったが、突然、ちくりと親指が痛んで驚いた。娘が、噛み付いてきたのだ。
「何を……」
振り解こうとしたが、娘が信じられない程の力で、腕を掴んできた。見れば、娘の口が大きく裂け、鋭い歯が見えた。可愛らしかったはずの顔は、鼻がなくなり、二つの穴がぽかりと空いている。真円の目が、男を見ていた。
「ひいっ!」
男は、どうにか娘を振り解き、屋台から転がるように逃げ出した。追いかけてくる様子はなかったが、男は必死に走った。
ふと、掴まれていた方の腕が酷く痛む事に気がついて、男は腕を挙げた。そこにあるはずのものがなかった。
手首から先が、なくなっている。溢れ出した血で、着物が赤く染まっている。男はその時初めて、大きな悲鳴をあげた。