青鈍の空・一
寒い朝だ。
一太は、悴んだ手に息を吹きかけた。吐く息が白く、いくら吹きかけても、冷たい手を温めることはない。
何度か試してから、一太は諦めて、井戸の水を汲み上げ始めた。冷たい手に、縄のささくれが痛く刺さるが、気にせずに縄を引く。 この井戸での水汲みは、一太の仕事だ。
何人もの奉公を抱える、大きな湯屋の跡取りが、何よりも厳しい仕事を当てられていた。辛いと思ったことはない。この井戸は特別なのだ。茶を淹れる為の、人様の口に入る為の水だ。湯屋に泊まる客人を持てなす仕事に、一太は誇りを持っていた。
たっぷりと冷たい水を汲んで、台所に運び入れると、調理人達を仕切っていた母親が、一太を呼んだ。
「喜助を呼んでおくれ」
母に頼まれたのは、丁稚達の中で最年長の子供を呼んで来ることだった。
一太は一つ頷いて、喜助がいるであろう湯殿に向かった。毎朝早くから、喜助は湯殿の掃除をしている。温泉街のこの湯屋で、湯殿を任されることは名誉なことだ。
「喜助……」
やはり湯殿にいた喜助に声を掛けると、彼はにっこりと笑って手を上げた。
「ちょっと待って」
洗い場をお湯で流して、喜助は首に掛けた手拭いで額の粒汗を拭いながら、一太の傍に寄った。
喜助は、一太より五つも年上で、背も高く、はっきりとした目鼻立ちの少年だ。一太を少し見下ろして、また、にっこりと笑う。
「どうした?」
「母さんが、呼んできてって」
そうか、と言って、喜助は一太の頭を撫でる。姉しかいない一太にとって、喜助は兄のようなものだ。撫でられると、くすぐったそうに、しかし嬉しそうに身を捩った。
「ちょっと行ってくる」
湯殿から出た喜助は、そう言って台所へと向かった。その背中を見て、一太は小さな溜息をついた。
母親が、実子である一太よりも、喜助を気に入っていることは周知の事実だ。喜助を養子にして後を継がせようかと、父親と相談しているのを一太は知っていた。
「薄ぼんやりとして、何を考えているのかわからない子だね」
幼い頃から、母親にそう言われ続けてきた一太だが、生来の気性はそうそう変えられない。喜助のように、はっきりと物の言える、聡い子供に生まれなかった自分を、大いに恥じていた。
まだ十にもならない一太だが、母親の言葉には傷ついて泣いた事もある。そんな時、祖父が決まって慰めてくれていたのだが、その祖父も去年の末に、風邪をこじらせて亡くなってしまった。
(何も考えてないわけじゃないんだけどな……)
考えている事を口にするのが苦手なのだ。
言ってしまえば、周りがどう感じるのかと考えて尻込みしてしまい、なかなか思いを口に出来ない。不器用なのだと、自分でも思う。同じ年頃の子供は、なんでもはっきり言うのにと、悲しくなる。
「一太、そんなところでぼけっとしてないで、お客様にお茶をお出ししなさい」
湯殿の前で立ち尽くしていた一太に、父親が声を掛けてきた。
「うん……」
茶を淹れる為に台所に行こうとした後ろで、父親の声が聞こえた。
「いやぁ、うちの息子なんですが、これがぼんやりとした子でね。丁稚の方がよく働きますよ」
一太は、頬がかっと熱くなるのを感じて、小走りになる。客人に言っているのだろうが、一太には自分に言っているように聞こえた。
台所に入ると、母親が喜助に膳の盛り付けに関してあれこれと指南していた。見ていない、聞こえていないと、一太は泣きそうになりながら茶を淹れる。
盆に二つ、湯呑みを置いて、二階の客室に向かった。
昨日から泊まっている客に、朝茶を出すのだが、各部屋ごとに人数分を出さなければいけない。何度も往復して、朝餉の膳が届くまでに客人全てに配り終えなくてはいけないのだ。
「失礼、します」
一つ目の部屋の襖を開いた時、部屋の中から風が吹いてきた。その風に、花の香りが乗っていたので、驚いた。
部屋の中には、少年がいた。
窓枠に腰掛けて、外を眺めていた少年が、一太に気がついて振り返った。長い濡れ羽色の髪が、風に靡く。
(お人形みたい……)
美しい造形の人形のような、神秘的な容姿の少年が、ふわりと微笑んだ。
少年が動く度に、開いたばかりのような花の香りが部屋に溢れる。
美人で通る一太の姉達も逃げ出すであろう美貌の少年が、首を傾げる。
「なに?」
「え、あ、お茶をお持ちしました」
ああ、と少年が笑った。
「ありがと。その辺に置いといて」
へえ、と一太は頷く。変な声を出してしまったと、赤くなった顔を、俯いて隠す。
少年は気にした様子もなく、再び外に顔を向けてしまった。
「……何を見てらっしゃるんですか?」
湯呑みの乗った盆を卓に置きながら、一太が尋ねた。
「ん……人が多いな、って」
はあ、と一太は不思議そうに少年を見た。
ここは街道沿いにある温泉街だ。特にこの時期は、伊勢参りの為にこの町を通る人や、療養のために温泉に入りに来る人で溢れかえっている。一太にとって、人が多いのは当たり前の事だった。
「こんなに人がいて、みんなどこで寝るのかと思ってさ」
「抜け参りの人達です。みんな、お客様のように、宿で寝るのでしょう」
不思議な客だと思った。町を行き交う人の、寝場所の心配をするなんて。
「そうだな。……お前、小さいのに賢いんだな」
「いえ……お客様は、不思議な人ですね」
そうかな、と少年が笑う。
「千歳、だ」
「はい?」
「名前。お前は?」
「……一太です」
不思議な事をいう客は、名前まで凡庸ではないらしい。一太は、自分の平凡な名前まで恥ずかしく感じてしまう。
そうか、と千歳はまた笑って、それきり口を開かなくなった。
「……失礼しました」
一太が部屋を出る時も、彼は窓の外を見つめていた。
他の客にも朝茶を配り終えて、一太は漸く息をついた。
「なんだよ、そんなところで……」
家人用の階段に座り込んでいた一太は、頭上から降ってきた声に顔を上げた。喜助が、不思議そうな顔をしている。
「うん……」
「なんかあったか?」
「うん。不思議な人がいた……」
「お前が言うかー」
喜助が明るく笑うので、一太も釣られて笑ってしまう。
「で、どの部屋だ?」
喜助に聞かれて、千歳の話をする。
話し終えるまでに、喜助は何度も頷いていた。
「やっぱりな。あの客人、昨日からずっと話題になってるよ。男の格好をしているけど、実は何処かのお姫様じゃないかとか。狐が化けてるんじゃないかとか」
「そうなの?」
丁稚奉公に来ている子供達は、大部屋をあてがわれているが、一太には一人部屋があるので、なかなか他の子供と話す機会がない。
「そうなの。連れも、これが不思議でな。口元を布で隠しているが、これまた妙に色っぽい男前なんだ。姉さん達が浮き足立ってたよ」
益々不思議な客人だと、一太は首を捻る。
「あんまり、客人の事を詮索しちゃいけないんだがな。あれは、するなって方が無理だよな」
喜助が困ったように笑うと、一太は大きく頷いた。
*
「読売が来てるってー」
夕刻、御使いに出ていた丁稚の一人が、そう言って戻ってきた。
ここ最近、変わった話をすると評判の読売が現れては、子供を集めて御伽噺を披露しているのだ。
奉公先での仕事中とは言っても、まだ幼い子供たちは、皆うずうずと落ち着かない様子だ。仕方ないなと、一太の父親が笑った。
「喜助、子供たちを連れて行きなさい」
「いいんですか?」
「まあ、たまにはいいだろう」
騒がしく喜ぶ子供たちを見て、父親は破顔する。喜助に駄賃を持たせて、子供たちを送り出したが、ついて行こうとした一太を呼び止めた。
「お前は、いけない」
「どうして?」
「お前は、あの子たちとは違うだろうに。さあ、仕事に戻りなさい」
父親の冷たい物言いに、しゅんと項垂れて、しかし一太は仕事に戻った。
羨ましい、と思った。
丁稚奉公に出て来て、実の子よりも可愛がられる彼らが、妬ましくも思う。
「さあさ、膳を運んでしまうよ!」
母親が、残った大人たちに指示するのが、遠くに聴こえた。
一太は膳を二つ重ねて、階段を登る。重ねた膳は、一太の小さな体が隠してしまう。階段を登り切った時、人とぶつかった。
「あっ……」
落としてしまう、と思った時、大きな手が伸びて来て、膳を受け取ってくれた。
「すみません」
顔を上げたが、見えたのは男の広い胸だった。更に、見上げるように首を反らすと、漸く男の顔が見れた。
黒い布で口元を隠した青年だった。
「あ、あの……」
青年は声を出さずに、首を傾げた。
「それ、お客さんの部屋のなんです」
青年が頷いて、膳を持ったまま歩き出したので、一太は慌てて後を追う。
「いけません、お客様に運ばすなんて……」
一太が止めるのも厭わず、青年は廊下を歩いて行く。一太が少し駆け足になっても、なかなか追いつけない。
そのうち、青年の泊まる部屋の前に着いてしまった。青年は器用に膳を片手で持って、戸を開けた。
「庇牙……お前、何してるの?」
中から、涼やかな声がする。
千歳だ、と一太は緊張してしまう。
「ダメだろ、一太の仕事取っちゃ。ごめんな、一太」
一太が部屋を覗くと、千歳が畳に転がって本を読んでいるのが見えた。綺麗な黒髪が、畳に散っている。
「いえ……あの、すいません」
「いいのいいの、謝んなくて。こいつが悪い」
千歳は起き上がって、庇牙と呼んだ青年を睨み付けた。庇牙は肩を竦めて、膳を床に置く。
「こいつ、俺の兄貴。庇牙っていうの」
「お兄さん、ですか?」
「うん。似てないだろ」
そう言って屈託無く笑う千歳に、一太は眩しさを感じる。思った事を思ったままに言える子なんだろう。
羨ましい。何にでも妬みを感じる自分がいる事に気がついて、一太は恥じ入ったように目を逸らした。
「どうかしたのか?」
「いえ……」
「……俺、何か嫌な事言った?」
「違います」
「思った事は口に出さなきゃ、伝わらないんだぜ」
見透かしたように千歳は言って、膳を引き寄せる。
「いただきます」
手を合わせて、夕餉を掻き込む姿は、美しい容貌とは裏腹に、年頃の少年と言った感じだ。千歳が米を食むのを見つめて、庇牙が笑った気がした。
あれ、と一太は首を傾げる。
「お兄さんは、食べないんですか?」
庇牙は一向に膳に手をつけない。ただ、千歳を見つめているだけだ。
「庇牙は、人前でメシ食わねーの」
「あ……じゃあ、僕はこれで……」
慌てて下がろうとする一太に、千歳が手を突き出した。
「待って。もう食べ終わるから」
確かに、千歳の食事はもうすぐ終わりそうだ。きちんと噛んでいるのだろうかと思うくらいに早い。
「よし、ごちそーさま。……さ、行こうか」
「え?」
「子供たちが外に出て行くのが見えた。大方、何か面白い見世物でも来てるんだろ?」
「はい……読売が……」
「一太も、行きたいんだろ?」
「でも、仕事が……」
「行こうぜ」
千歳が眩しい笑顔を見せる。一太は素直に頷いた。一太は、ただの一度だって、店の仕事をさぼった事はなかった。
けれど。
一度くらい、自分の思っている通りにしてみたい。そう、思ったのだった。