縹色の海・三
燐はバス通りを歩いていた。行く宛はなかったが、夜が明けるまでには、隣町を越えて、更にその隣の町まで行けるだろう。
夜風は、思った程寒くはなく、空は明るかった。
普段バスで通る海沿いの道は、視点が変わると高い堤防に阻まれて、彼女を異国へ誘う未開の道に見えた。
「何してるんだ、こんな時間に」
ふと、高いところから声が聞こえて、燐は首を巡らせた。
「こっち」
堤防の上を、燐に並走して歩く、千歳の姿があった。
「千歳……御堂くん」
「千歳でいーよ。それより、何してんの?」
燐が歩みを止めると、彼も歩くのをやめる。堤防に腰掛けて、かくんと首を傾ける。
「何処かに行こうと思って」
「何処かって?」
「この町以外の何処か」
はあ、と千歳が深い溜息をついた。
「せっかく、庇ってやったのに」
千歳の言葉に、燐はきっと顔をあげた。
なんて、身勝手なんだろう。この子も、結局は、本当の意味で燐の味方ではないのだ。
「あなたは、何も知らないから……」
「ああ、知らない。けど、救えると思ったんだけど?」
「どういう事?」
千歳が、堤防から飛び降りて、燐の目の前に立つ。ずい、と顔を近づけて、彼はうっとりとする程綺麗な顔で嗤った。
「お前を苦しめる、エミスとやらを、消してやるって言ってんの」
「え……?」
燐が、困窮する。いつの間にか、千歳の背後に男が立っている。どこか千歳に似た、いつかバスから見た青年だった。
「来たみたいだ」
それだけ言うと、千歳は青年の更に後ろに視線を送った。
「燐、どこに行くんだい?」
そこには、祖母が立っていた。寝間着のまま、白くなった髪も纏めずに。トイレに起き出して、燐がいない事に気がついて、慌てて追いかけて来たのだろう。
「おばあちゃん、私……」
なんて事をしようとしたのだろう。
そう言いかけた燐の口を、千歳が冷たい手の平で塞いだ。
「燐、何処に行こうというんだい。せっかく……」
祖母が、悲しげに顔を歪めて、俯いた。彼女の肩が、細かく震えている。泣いているのだろうか。
否、と燐の中の何かが言った。
俯く祖母の口元が、大きく開いている。嗤っているのだ。
「おばあちゃん?」
祖母が、顔をあげた。
その口元は、大きく裂けて、目が真円に開いている。そして、枯れ枝のようだった身体が、瑞々しく潤っていく。若く美しい、女の姿が、そこにあった。
「せっかく、お前を依り代に、憎悪を集めていたというのに」
それは、燐の知る、優しい祖母の姿とは余りにもかけ離れている。
「……え?」
「産まれたばかりのお前を噛んで、忌子にして、この町の増悪をお前一人に集めていたのに。もっと熟すまで、待とうと思ったのだがね」
彼女は、何を言っているのだろう。そもそも、あれは誰だ。まるで、あの姿は……
「ビンゴ。鬼だ、庇牙」
千歳が、兄を振り仰いだ。
兄は、歪んだ笑みを浮かべている。
「千歳……?」
「燐、あれが、エミスだ。この町に、海から来た厄災」
千歳の言葉に、エミスが高らかに嗤った。
「そうだ。その昔、ここがまだ小さな漁村だった頃、私は海からやってきた。そして、この村を他の鬼から護る代わりに、毎年供物として、娘を一人食らった。それが、どうだ。この町の人間は、それを忘れて、私を祀る事を辞めた。ならば……」
エミスは、醜い笑みを浮かべる。
「私が、厄災になってやろう。産まれたばかりの子に印をつけて、その子が熟すまで、町に呪いをかけてやろう。そう思っても、仕方あるまい」
「だから、鬼は嫌いなんだ」
千歳が、首を振った。兄に顎で合図すると、彼はエミスに向かって跳躍した。
たった一歩で、エミスとの距離を詰めて、彼女の肩口に噛み付く。エミスが、庇牙の頭を掴んで、無理矢理引き剥がす。肉片と、血飛沫が舞う。エミスの肩は、真っ赤に染まって、白い骨が見えている。食い千切られたのだ。
「……なんだ、コレは」
「同類だよ」
千歳の言葉に、エミスが恐慌する。
「馬鹿な。鬼は人を食いはするが、鬼は食わぬ。それに、何故……私の傷が治らない?」
「それは、半鬼だ。鬼を食うために生まれた鬼だ。鬼と言えど、そいつに食われたら、傷は治らない。……治ったら、食えないからな」
千歳が、凄絶な笑みを浮かべた。
そして、兄が、エミスと言う名の鬼を食い尽くすのを、静観する。
燐は、目の前で繰り広げられている光景を、ぼんやりと眺めていたが、ふと我に返って、声を絞り出した。
「おばあちゃん……」
「燐、あれは、お前の祖母なんかじゃない。祖母のフリをして、お前の傍に居ただけだ」
抵抗も出来ずに、食われていく、祖母だったモノから、燐は目を逸らした。余りの光景に、込み上げてくるものを必死に抑える。
「あれが居なくなれば、いずれ、お前が祟るという噂もなくなる。けどな……」
千歳が、燐の頭を撫ぜた。
「お前がこの町を出て行くのなら、止めはしない」
「え?」
「自分で決めろ。エミスなんて関係のないところで、決めるんだ」
顔を上げようとした燐だったが、立っていられない程の眠気が襲ってきた。そして、目を閉じて……
*
「燐、いつまで寝てるの」
布団の中で、燐は目覚めた。
彼女の部屋の前に、母親が立っている。
「……お母さん、今」
「ん? ぼんやりしてないで、支度しなさい。学校に遅れるわよ」
名前を、呼ばなかったか。
その言葉を飲み込んで、燐は頷いた。
なんだか、不思議な夢を見ていた気がする。どんな夢だったかは、覚えていないが。
母親に続いて、部屋を出た時、燐は首を傾げた。
「お母さん、私の隣の部屋、誰か使ってなかった?」
「ああ、義母さんの部屋でしょ。でも、燐が産まれる前に、亡くなってからは、誰も使ってないわよ」
そうだったかしら、と燐は頷いた。
なんだか、今日は海鳴りが、心地よく感じる。
いい朝だ。燐はにっこりと微笑んだ。
縹色の海。終わり。
次幕、青鈍の空。