表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/21

縹色の海・三

 燐はバス通りを歩いていた。行く宛はなかったが、夜が明けるまでには、隣町を越えて、更にその隣の町まで行けるだろう。

 夜風は、思った程寒くはなく、空は明るかった。

 普段バスで通る海沿いの道は、視点が変わると高い堤防に阻まれて、彼女を異国へ誘う未開の道に見えた。


「何してるんだ、こんな時間に」


 ふと、高いところから声が聞こえて、燐は首を巡らせた。


「こっち」


 堤防の上を、燐に並走して歩く、千歳の姿があった。


「千歳……御堂くん」


「千歳でいーよ。それより、何してんの?」


 燐が歩みを止めると、彼も歩くのをやめる。堤防に腰掛けて、かくんと首を傾ける。


「何処かに行こうと思って」


「何処かって?」


「この町以外の何処か」


 はあ、と千歳が深い溜息をついた。


「せっかく、庇ってやったのに」


 千歳の言葉に、燐はきっと顔をあげた。

 なんて、身勝手なんだろう。この子も、結局は、本当の意味で燐の味方ではないのだ。


「あなたは、何も知らないから……」


「ああ、知らない。けど、救えると思ったんだけど?」


「どういう事?」


 千歳が、堤防から飛び降りて、燐の目の前に立つ。ずい、と顔を近づけて、彼はうっとりとする程綺麗な顔で嗤った。


「お前を苦しめる、エミスとやらを、消してやるって言ってんの」


「え……?」


 燐が、困窮する。いつの間にか、千歳の背後に男が立っている。どこか千歳に似た、いつかバスから見た青年だった。


「来たみたいだ」


 それだけ言うと、千歳は青年の更に後ろに視線を送った。


「燐、どこに行くんだい?」


 そこには、祖母が立っていた。寝間着のまま、白くなった髪も纏めずに。トイレに起き出して、燐がいない事に気がついて、慌てて追いかけて来たのだろう。


「おばあちゃん、私……」


 なんて事をしようとしたのだろう。

 そう言いかけた燐の口を、千歳が冷たい手の平で塞いだ。


「燐、何処に行こうというんだい。せっかく……」


 祖母が、悲しげに顔を歪めて、俯いた。彼女の肩が、細かく震えている。泣いているのだろうか。

 否、と燐の中の何かが言った。

 俯く祖母の口元が、大きく開いている。嗤っているのだ。


「おばあちゃん?」


 祖母が、顔をあげた。

 その口元は、大きく裂けて、目が真円に開いている。そして、枯れ枝のようだった身体が、瑞々しく潤っていく。若く美しい、女の姿が、そこにあった。


「せっかく、お前を依り代に、憎悪を集めていたというのに」


 それは、燐の知る、優しい祖母の姿とは余りにもかけ離れている。


「……え?」


「産まれたばかりのお前を噛んで、忌子にして、この町の増悪をお前一人に集めていたのに。もっと熟すまで、待とうと思ったのだがね」


 彼女は、何を言っているのだろう。そもそも、あれは誰だ。まるで、あの姿は……


「ビンゴ。鬼だ、庇牙」


 千歳が、兄を振り仰いだ。

 兄は、歪んだ笑みを浮かべている。


「千歳……?」


「燐、あれが、エミスだ。この町に、海から来た厄災」


 千歳の言葉に、エミスが高らかに嗤った。


「そうだ。その昔、ここがまだ小さな漁村だった頃、私は海からやってきた。そして、この村を他の鬼から護る代わりに、毎年供物として、娘を一人食らった。それが、どうだ。この町の人間は、それを忘れて、私を祀る事を辞めた。ならば……」


 エミスは、醜い笑みを浮かべる。


「私が、厄災になってやろう。産まれたばかりの子に印をつけて、その子が熟すまで、町に呪いをかけてやろう。そう思っても、仕方あるまい」


「だから、鬼は嫌いなんだ」


 千歳が、首を振った。兄に顎で合図すると、彼はエミスに向かって跳躍した。

 たった一歩で、エミスとの距離を詰めて、彼女の肩口に噛み付く。エミスが、庇牙の頭を掴んで、無理矢理引き剥がす。肉片と、血飛沫が舞う。エミスの肩は、真っ赤に染まって、白い骨が見えている。食い千切られたのだ。


「……なんだ、コレは」


「同類だよ」


 千歳の言葉に、エミスが恐慌する。


「馬鹿な。鬼は人を食いはするが、鬼は食わぬ。それに、何故……私の傷が治らない?」


「それは、半鬼(はんき)だ。鬼を食うために生まれた鬼だ。鬼と言えど、そいつに食われたら、傷は治らない。……治ったら、食えないからな」


 千歳が、凄絶な笑みを浮かべた。

 そして、兄が、エミスと言う名の鬼を食い尽くすのを、静観する。

 燐は、目の前で繰り広げられている光景を、ぼんやりと眺めていたが、ふと我に返って、声を絞り出した。


「おばあちゃん……」


「燐、あれは、お前の祖母なんかじゃない。祖母のフリをして、お前の傍に居ただけだ」


 抵抗も出来ずに、食われていく、祖母だったモノから、燐は目を逸らした。余りの光景に、込み上げてくるものを必死に抑える。


「あれが居なくなれば、いずれ、お前が祟るという噂もなくなる。けどな……」


 千歳が、燐の頭を撫ぜた。


「お前がこの町を出て行くのなら、止めはしない」


「え?」


「自分で決めろ。エミスなんて関係のないところで、決めるんだ」


 顔を上げようとした燐だったが、立っていられない程の眠気が襲ってきた。そして、目を閉じて……


 *


「燐、いつまで寝てるの」


 布団の中で、燐は目覚めた。

 彼女の部屋の前に、母親が立っている。


「……お母さん、今」


「ん? ぼんやりしてないで、支度しなさい。学校に遅れるわよ」


 名前を、呼ばなかったか。

 その言葉を飲み込んで、燐は頷いた。

 なんだか、不思議な夢を見ていた気がする。どんな夢だったかは、覚えていないが。

 母親に続いて、部屋を出た時、燐は首を傾げた。


「お母さん、私の隣の部屋、誰か使ってなかった?」


「ああ、義母さんの部屋でしょ。でも、燐が産まれる前に、亡くなってからは、誰も使ってないわよ」


 そうだったかしら、と燐は頷いた。

 なんだか、今日は海鳴りが、心地よく感じる。

 いい朝だ。燐はにっこりと微笑んだ。

縹色の海。終わり。

次幕、青鈍の空。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ