縹色の海・二
田舎の漁港で、彼は異彩を放っていた。
逞しい体躯と、眉の濃い精悍な顔付きの美青年は、日に焼けて黒い肌をしているが、どこか品のある雰囲気を纏っている。
加工場の隅で、彼は追い網漁に使う網の修繕をしていた。大きな手からは想像できないが、余程手先が器用なのか、作業は滞りなく進んでいるようだ。
その彼の手元に、影が落ちた。彼が緩慢な動作で顔をあげると、そこには弟の姿があった。
「ただいま」
「……千歳」
下手をすれば、波の音でかき消えてしまいそうな声で、彼は弟を迎えた。
「ごめんな、お前だけに仕事させて」
「千歳、子供だから」
男は、抑揚のない声で答えた。しかし、その目は優しく細められている。
千歳が笑いかけると、彼は嬉しそうに笑った。笑った顔は、成る程、千歳とよく似ている。
「学校に、変わった奴がいたんだ」
そう、千歳が言った時だ。
突然、がしゃん、という音が加工場の中に響いた。音のした方を見ると、漁師の一人が、千歳を見つめて震えている。彼の足元には、大きな箱と、大量の針が散らばっている。先程の音は、彼が箱を落とした音なのだろう。
「千歳、おめぇ、それ……エミス様の事か?」
その漁師は、千歳の兄の雇い主だった。
兄弟を自宅の離れに住まわせて、色々と世話を焼いてくれている、人の良い男で、田坂と言う。田坂は、針を拾いながら、千歳を刺すように見つめた。
「エミス様を、港に連れてくるような事はするなよ」
「どうして?」
「時化るんだよ。エミス様が海を見ると時化る。あれは、親も殺したんだ」
田坂は、針を集め終えると、深く息を吐いて、海を見た。
「……障るんだよ、あれは」
そう言い残して、田坂が立ち去ると、千歳は兄の隣に腰掛ける。
「噛み跡があった」
ぴくん、と兄の眉が動く。
「……久しぶりに、食えるかもな」
弟の言葉に、彼は喜びで顔を歪める。
いびつな笑みで、舌舐めずりをする。
*
翌朝、教室は異様な雰囲気に支配されていた。燐は、教室の入口で、一瞬目を泳がせて、黙って自分の席に座る。割れたガラスは、昨日のうちに修理されていた。
「なんで来ちゃうかな」
誰かの呟きが、燐の耳に入る。
いたたまれなくなって、燐は机に突っ伏した。消えてしまいたい。死んでしまいたい。けれど、そんな勇気はない。
そうしていると、誰かに肩を叩かれた。
「天音、どうした?」
千歳だった。
顔を上げると、心配そうに燐を覗き込む彼と目があった。
「千歳くん、天音さんに構わない方がいいよ」
「……なんで?」
千歳が首を傾げると、男子の一人が千歳と燐の間に割って入る。
「なんでって、お前も昨日見ただろ? こいつ、祟るんだよ」
「また、その話か」
千歳は大きく息を吐くと、射るように教室を見渡す。
「天音からも聞いたけど、それ、変だから」
「変って……」
「私の従兄弟、隣町に住んでて、天音さんと小学校一緒だったの。その頃、大きな火傷して、聞いたら天音さんのせいだって言ってたよ」
燐は瞠目する。この学校でも、燐の噂が流れているのは、そういう理由だったのだ。
あの時の子の親戚が、クラスにいた事に、燐は驚いていた。
ばんっ、と千歳が燐の机を叩いた。
「それも含めて、変だって言ってんだよ。だって、全部祟りを含めずに説明できるんだぜ?」
「どういう事?」
千歳の言葉に、クラスメイト達が引き込まれる。
「まず、小学生の時の理科の実験の時。天音は、アルコールランプに火を付ける前、手を洗ってたんだろ? で、ろくに手を拭かずにアルコールランプに火を付けた」
燐は小さく頷いた。
「アルコールランプに入っているのは、エチルアルコール……エタノールだ。エタノールは、水よりも低い温度で気化する。水に手を浸して、次にエタノールに手を浸す。そこに火を付けたら?」
千歳が、近くにいた男子に尋ねた。彼は少し逡巡するが、答えが出ないらしい。
「もちろん、エタノールは燃える。でも、手には水の膜があるから、熱が伝わるのは遅くなるはずだ」
誰かが、はっと息を飲んだ。
「そして、昨日の窓ガラスが割れた事。この校舎、来年改修工事があるんだろ?」
千歳が、今度は別の女の子に聞いた。彼女は頷いた。それから、目を大きく見開いた。
「老朽化しているのと、この土地の地盤沈下が理由らしいけど。窓ガラスが自然に割れても、何もおかしくないだろ。まあ、昨日はタイミング良すぎだったけど」
千歳が皮肉そうに笑う。
誰も、何も言えなかった。確かに、考えてみれば、祟りや障りなんて事を絡めずに説明できるのだ。
おずおずと、昨日、燐に掴みかかってきた女の子が前に出てきた。
「……ごめん、天音」
「え、ううん。気にしてない……」
「そうだよな。祟りなんて、あるわけないし」
「誰だよ、天音は祟るなんて言い出したの」
水を打ったように静かだった教室が、にわかに騒がしくなる。それから、いつもの喧騒が戻ったが、やはり燐に近づくクラスメイトはいなかった。
祟らない。と、確信できたわけではないからだろうし、もともと異物だった燐を、急に受け入れる体制は作れないのだろう。
それでも、千歳が庇ってくれたのが嬉しくて、燐はその日、穏やかな気持ちで授業を受けることができた。
*
その日、燐が家に帰ると、玄関に見慣れない男物の革靴があった。
燐の家は古い家で、玄関を上がったところに、ガラス戸がある。ガラス戸の向こうは居間になっていて、居間を抜けないと、家のどこにも行けない作りになっている。
「いえね、小さい頃から、不思議な子やなぁとは思ってたんですよ」
燐がガラス戸に手をかけた時、母親の潜めるような声が聞こえて、思わず手を止めた。
「あの子は、年頃の子供らしく遊んでた試しがないんですわ。ほら、普通、小さい子供ってそこらへん走り回ったり、何が楽しいんやら、笑い転げてたりするもんでしょ。あの子は、そういうのがないんですよ」
「はあ……」
相槌を打つ声は、燐のクラス担任のものだった。
「代わりに、ぼんやりとね、こう、何もない宙を見上げて、薄く笑ってるような子でしたわ。自分の子供ながら、気味が悪くてね。あの子の世話は、母に……」
「お母さん、ですか?」
「ええ、私の義母です。あの子の婆さんにあたるなぁ。とにかく、任せてるんですわ。だって、なんだか、障りそうで……」
担任教師が、何故母と話しているのかなんて、気にならなかった。それよりも、母親の、まるで他人事のように語る声に、燐は悲しくなった。
ここにも、燐の居場所はないのだ。
味方であるはずの家族が、燐にとっては一番の敵だった。
思わず、大きな音を立てて、ガラス戸を開ける。
「あら、帰ってきたの。あなた、昨日学校の窓ガラスを割ったんですって?」
母親は、何気無い動作で燐から目を逸らしながら、しかし苦言を呈する。
燐は何も言わずに居間を抜けて、自室に続く廊下に出る。そして、酷く無感情な目で、母親を見返した。彼女が、怯えたのが見て取れた。そのまま板場の廊下を進んで、部屋に向かう。途中、祖母の部屋の前を通った時、祖母が顔を出した。
「燐、何かあったのかい?」
「ううん。なんでもない」
「そうかい。今日は、燐の好きなエビフライを揚げるからね」
祖母は、目尻に深い皺を作って笑った。釣られて、燐も笑う。祖母だけは、いつでも燐を大切にしてくれる。
「ありがとう、おばあちゃん」
もう、この町には、ここしかない。
祖母だけが、燐の味方だった。
ふと、燐が首を捻る。祖母だけ、だった。けれど、どうだろう。昨日知り合ったばかりの転入生は、何故か燐を擁護してくれる。
「……おばあちゃん、学校に、転入生がきたの」
「へえ」
「私の事、避けないの。守って、くれたの」
「……よかったじゃないか。でもね、燐、燐はエミス様の御子なんだから、他の子と、同じ位置に立つんじゃいけないんだよ」
祖母が、にこりと笑う。
「燐は、この町で、誰よりも偉いんだからね」
その笑顔が、何かを孕んでいるようで、燐の背筋に冷たいものが走った。だが、燐はそんな事はおくびにも出さず、微笑むだけだった。
自室に入り、後ろ手に襖をぴったりと閉じて、畳に座り込む。
祖母は、あんなに恐ろしげに笑うのだったろうか。歪んだ思想だ、と思う。
やはり、ここにも、私の居場所はない。
燐は、そう独白して、瞑目した。
その日。夕食を食べて、風呂に入り、居間で適当にテレビを観てから、燐はいつも通りの時間に部屋に戻った。
それから、寝間着から私服に着替えて、布団に入った。家族が寝静まって、家の中に物音が聞こえなくなってから、彼女は布団から這い出す。小さな旅行鞄を一つ持って、玄関から家を出た。
門の外から、家を振り返る。
なんとなく、一礼をしてから、彼女は駆け出した。目的はなかった。ただ、ここに居たくなかった。逃げ出すのだ。
ここではない、何処かへ。