縹色の海・一
いえね、小さい頃から、不思議な子やなぁとは思ってたんですよ。ほんまに。
あの子は、年頃の子供らしく遊んでた試しがないんですわ。ほら、普通、小さい子供ってそこらへん走り回ったり、何が楽しいんやら、笑い転げてたりするもんでしょ。
あの子は、そういうのがないんですよ。
代わりに、ぼんやりとね、こう、何もない宙を見上げて、薄く笑ってるような子でしたわ。自分の子供ながら、気味が悪くてね。
あの子の世話は、母に……ええ、私の義母です。あの子の婆さんにあたるなぁ。とにかく、任せてるんですわ。
だって、なんだか、障りそうで……
*
朝のバスには、乗客が多い。
天音燐は、バスの一番後ろの席に、大人しく収まっていた。彼女の隣に好んで座ろうとする者は、この街にはいない。
燐は地元ではなく、隣町の中学に通っている。燐の住む町は、鰤の水揚げが盛んな事で有名な港町で、町民同士のコミュニティがとても狭い。そんな環境では、普通に中学生活の三年間を送るのは難しいだろうと、小学校を卒業する年の担任教師から勧められて、彼女は越境を選んだ。
燐は、小学生の時、学校に馴染めない子供だった。学校……というより、人の集まる場所を厭うのだ。
積極的な虐めを受けているだとか、無視をされているというわけではない。寧ろ、誰もが彼女を意識して、気を遣っているのを、嫌になるほど感じていたのだ。だから中学にあがる時、彼女の事を知らない者ばかりの、隣町を選んだ。それでも、学校に馴染めないという事は、変わらなかったのだが。
バスは、海沿いの道を走る。ぼんやりと窓の外を眺めていると、漁から戻ったばかりの漁船が見えた。その中に、見知らぬ青年がいて、燐は首を傾げた。一瞬しか見えなかったが、妙に印象に残る青年だった。精悍な顔立ちの、逞しい美青年だった。町の人間は、大方知っているつもりだ。
外から来たのかしら。燐は振り返ってみたが、バスはとっくに港を通り過ぎていた。
燐が校門を通ると、校舎に続く前庭には、薄いベージュの制服が溢れかえっていた。高校特有の、賑やかしい喧噪の中を、彼女は俯いて通り抜ける。学生用玄関に並ぶ靴箱の前で、ローファから上履きに履き替えて、燐は廊下の端の階段を上がる。
燐の学校は、山側の市街地にある中学校のわりに、一学年が五クラスしかなく、一クラス四十人程の小さな学校だ。セーラー服と詰襟だった制服は、燐が入学する前の年に、お洒落なブレザーに変わった。古びたコンクリートの校舎には、年季の入ったヒビが見られるが、来年には改修工事も予定されている。生徒たちは、この学校に通っている事を誇りに思っているのだろう。誰もが、眩しいばかりの笑顔を浮かべている。
そんな中にいても、燐の表情は暗い。
教室に入ると、騒いでいたのだろう、男子がぶつかってきた。
「あ、わりぃ……」
男子は、にこやかな笑みを浮かべたまま、燐を振り返った。その顔が、みるみる恐慌していく。
「天音……その、ごめん。わざとじゃ、ないんだ」
「うん」
燐は、彼と目を合わせることなく頷いた。
ほっとしたように、彼が息を吐いたのを感じて、燐は窓際の自分の席に急いで座る。
それから、ホームルームが始まるまでの間、頬杖をついて外を眺めていた。
隣町にも、燐の話は伝わっていたらしく、入学してからずっと、彼女は同級生達の好奇の目にさらされてきた。ただ、彼らは決して、燐に危害を加えてきたりはしない。関わろうとはせずに、遠くから見ているだけなのだ。
だが、いつだったか、一人の女生徒が、燐を叩いたことがあった。叩いたと言っても、事故だったのだが。一年生の体育祭での事だ。クラス対抗の騎馬戦で、背が低く、体重の軽い燐は、騎手に選ばれた。対戦相手のクラスの女の子が、燐からハチマキを奪おうとした時、彼女の手が燐の頬に当たった。その後、女生徒は自転車での通学中に、トラックに轢かれて大怪我を負ってしまった。
天音燐を、害してはいけない。それが、この学校の、そして燐の地元町のルールだった。
「ほらほら、座った座った」
チャイムが鳴って、担任教師が日誌を片手に教室に入ってきた。
彼の後ろには、黒い学ラン姿の少年が控えている。
「見ればわかるかな。転入生だ。みんな、仲良くしてくれよ」
「御堂千歳です」
教室中の女子が色めき立った。それ程までに、彼は完璧な容姿だった。
艶のある黒い髪は、男子のわりに長く、首の後ろで軽く纏めている。白い肌に、黒目がちな切れ長の目が印象的な、まさに美少年といったふうだ。
その彼の視線が、ふと燐に寄せられた。ふんわりと、柔らかく微笑む。
クラスメイト達が、不思議そうに燐を見た。普段、注目を集めるような事のない彼女は、恥ずかしさで俯いてしまった。何故、転入生が燐を見たのかはわからないが、たまたま目についたのが彼女だったのだろう。
「そうか、天音と同じ町から来てるんだったな。じゃあ、席も天音の隣にするか」
教師の提案に、クラスメイト達が頷いた。燐の隣は、万年空席だ。誰も燐に関わろうとはしないのだから、隣に座りたがる者もいないのだ。
「よろしくな」
「……はい」
千歳が、握手を求めてきたが、燐は頷くだけだった。
その日は、休み時間のたびに、女生徒達が千歳を囲んでいた。
「千歳くんって、前はどこに住んでたの?」
「関西の方」
「兄弟とかいるの?」
「兄貴がいるよ」
「好きな教科は?」
「古典と、歴史が得意」
「どうして、隣町に越して来たの?」
「兄貴の仕事の都合で、かな」
「はい! ずばり、好きなタイプは?」
「うーん、元気のいい人、とか?」
千歳はにこにこと笑いながら、彼女達の質問に答えていた。
放課後までには、千歳はすっかりクラスに溶け込んでいて、一番目立つ男女のグループの中にいた。
「千歳、今日みんなでカラオケ行かねえ?」
男子の一人が、千歳と肩を組んで言うと、彼は困った様に笑ってから、首を振った。
「いや、バスの最終早いし、今日は帰る。兄貴のメシも作らなきゃ」
「そっかー、千歳くん、お兄さんと二人暮らしだもんね」
「じゃあ、今度にすっか?」
グループのメンバーが、仕方なさそうに頷いている。ふと、千歳が燐を見た。
目が合ってから、燐は慌てて荷物を纏め始める。
「天音さん、だっけ? 天音さんも隣町からバスで来てるんだよな。よかったら、一緒に帰ろう」
「……いい」
燐は俯いて、首を振った。千歳が、きょとんと瞬きをした。
「ちょっと、天音。千歳くんが誘ってるんだから、一緒に帰りなさいよ」
千歳を庇うように、女子の一人が、燐に突っかかってきた。燐は、きゅっと唇を噛んだ。イラつきそうな心を抑えるためだ。それを、女生徒は不快に感じたのだろう。燐の肩を、強く掴んできた。
「何? その顔」
「やめとけって」
「でも!」
周りの男子達が、女生徒を諌める。しかし、彼女は燐から手を離さない。
掴まれた肩が痛む。燐は、きつく目を閉じた。暗くなった視界の中で、窓ガラスが割れる音がした。女生徒の悲鳴が聞こえて、燐は目を開けた。
ガラスの破片が、そこら中に散らばっている。燐の後ろのガラスが割れて、女生徒が怪我をしたらしい。しかし、燐の周りにだけは、ガラスが落ちていなかった。
燐は荷物を抱えて、教室から逃げ出した。途中で、騒ぎを聞きつけた教師とすれ違ったが、何があったのかは聞かれなかった。
校舎から出て、バス停までを一気に駆けた。まだバスは来ていない。
荒くなった息を整えるように、燐は大きく深呼吸する。
「天音さん……」
名前を呼ばれて、燐は、はっと後ろを振り返った。そこには、千歳が立っていた。燐を追いかけてきたはずの彼は、息を乱した様子もなく、冷たい目をしてそこにいた。
「……私に関わると、こういう事が起こるのよ。だから、近づかないで」
折角、隣町の中学に入ったのに。燐は悲痛そうに顔を歪めた。
しかし、千歳は立ち去ろうとしない。それどころか、穏やかな笑みを浮かべて、
「話をしようか」
「え、あの……」
「こういう事って言われても、わからない。ちゃんと説明してくれなきゃ、納得できないだろ」
そう言って、千歳は燐の手を取って歩き出した。
一つ向こうのバス停まで歩こう、と千歳は言った。その間、燐から話を聞くつもりなのだろう。燐は観念して、首を縦に振った。
「わかった、から。手、離して」
「ああ、ごめん」
思い出したかのように、千歳は燐から手を離した。
「……私の町には、ある信仰があるの」
燐は、おもむろに話し出した。
*
燐の町では、彼女の姿を見た町民が、必ず道を譲る。そして、決して目を合わせずに、頭を下げるのだ。
物心ついた頃から、それは続けられてきて、これからも終わる事がないのだろうと、燐は思っている。
何故、彼らがそんな反応をするのか。知ったのは、燐が小学校四年生の頃だった。
その日、燐のクラスは、理科室で実験をしていた。実験と言っても、マッチの擦り方と、アルコールランプの使い方という、極めて初歩的な内容だった。
それでも、クラスメイト達は浮き足立った様子で、授業に望んでいた。燐も、例外ではなかった。
班に分かれて、順番にアルコールランプに火をつけていく。燐の番が回ってきた時、燐は友人が使った後のマッチの燃え粕が手についたので、水道に手を浸していた。濡れた手を拭かずに、彼女はマッチに火をつけたのだ。楽しそうなクラスメイト達を見た後だったので、気が急いていた。
青色の小さな火が、アルコールランプに灯る。誰かが、机を揺らした。アルコールランプの火が、一気に燐に襲いかかってきた。
いや、襲いかかってきたかのように見えただけだ。火は、燐の腕を包みはしたが、熱さも、痛みも感じなかった。驚いてよろめくと、隣にいた子にぶつかった。火は、その子にも燃え移り、甲高い悲鳴が聞こえた。その時の、クラスメイト達の顔を、今でも燐は忘れられない。
畏怖するような、気味悪がるような。母親が、燐を見る時と、同じ顔だった。
その日は早退する事になって、先生に連れられて、家に帰った。服も、髪も、燐の物は何も燃えていなかった。しかし、確実に火は燐を包んだのだ。
「お世話様でした」
担任教師から事情を聞いた燐の祖母は、それだけ言って、彼を帰してしまった。燐の頭を、枯れ木のような手で撫でてくれたが、燐はこの手が苦手だった。生気のない体が、恐ろしかった。
「燐は、エミス様の御子様なんだよ」
祖母が、そう言った。だから、燐は、自分はエミス様の御子なんだと。だから、みんなが頭を下げるのだと。だから、母親は自分を愛さないのだと。そう、納得することにした。
エミスは、この町が昔、漁村だった頃からの守神だ。いわゆる戦国時代、織田が勢力を伸ばしていた頃、この地にはエミス信仰が根付いていた。供物を捧げる代わりに、エミスが海から来る厄災を追い返して、漁師を護ってくれていたのだという。しかし、信仰は徐々に薄れていき、怒ったエミスは、ある時、村を飲み込む程の大津波を起こしたという。
それからだ。村には、エミスの御子が産まれるようになった。その子供は、どんな厄災からも自らの身を護る事ができる。代わりに、他の村人が、その厄災を引き受けなければいけない。村人達は、エミスの御子を丁寧に扱った。御子に厄災が降りかからないように。
しかし、エミスの怒りは収まっていないのだろう。どんなに御子を手厚く保護しても、必ず厄災が御子に降りかかる。歴代の御子の中には、座敷牢に入れられた者もいるというが、その牢自体が火事になるという事もあった。
「燐が気にする事はないんだよ」
祖母は、そう言って燐の頭を撫ぜてくれた。
燐の母親は、関西の出で、若い頃にこの町に嫁いできたのだったが、産まれてきた娘が、エミスの御子だと知って、彼女の育児を放棄した。父親は、燐が幼い頃、遠泳漁に出て、大時化に遭い、船と共に海に沈んだという。もしかすると、それも、エミスの厄災だったのかもしれない。
とにかく、燐はいつも一人だった。
*
話をしている間、千歳は聞き役に徹してくれた。ちょうどいい間で、相槌を打ってくれるお陰で、燐は随分話しやすく感じていた。バス停一つ分では、話は終わらず、人気のないバス停のベンチに並んで座って、燐は話し続けた。
「気味悪い、よね」
バスを二本見逃して、漸く話終えた時、燐は恐る恐る千歳の方を見た。彼は、険しい顔をして、目を閉じている。
やはり、気味が悪いのだろう。そう、燐が落ち込みそうになった時、千歳が口を開いた。
「エミスって、夷子の事なんだろうな」
「え?」
「恵比寿……古くは、夷子って言ったんだけど、海から来た外来神を指すんだ。神社や寺の中には、流木とか、石とか、海から流れてきたモノをご神体として祀るところもある。あの町のエミス信仰は、昔外界から隔てられた環境で、漂着物とかを祀った事から始まるんだろうな」
「はあ……」
要領を得ない言葉に、燐は首を傾げた。
「別に、珍しい信仰ではないはずだけど。それで、どうして天音がエミスの御子だって事になって、みんなから避けられなければいけないんだ?」
「それは、さっきも言ったように、私に関わると、私に降りかかるはずだった厄災が、他の人に……」
「それ、お前のせいなの? こうは考えられないか? 天音は、他人の厄災に出くわす事が多い。その上、その厄災は天音には降りかかってはこない。それはそうだろう。もともと厄災は、天音以外の誰かが受けるものだからだ」
燐は瞠目する。そんな事を言ったのは、千歳が初めてだったからだ。
けれど、それが燐にとって、慰めにもならない事は、彼女自身がよく知っていた。
「……エミスの御子を害すると、祟ると言われているの。さっきの、窓ガラスが割れたのだって、きっと……」
燐は、膝の上に乗せた手を、ぎゅっと握り締めた。
不意に、千歳が燐の頭に手を乗せた。
「気にしすぎ、なんじゃねーの?」
「……御堂くん。もう一つ、あるの」
エミスは、御子に印をつける。額の、髪の生え際当たりに、噛み跡のような印を。
燐はそう言って、前髪をかきあげて見せた。千歳は、その印を見て、それからにっこりと笑った。
「……天音は、汗かきなんだな」
確かに、ニキビの跡のようにも見えなくはないが、産まれた時からあるのだから、そんなはずはないのだ。
「そう、かもね」
けれど、燐は顔を綻ばせて、頷いた。
少なくとも、千歳は、燐がエミスの御子だという理由で、彼女を崇めるつもりも、ましてや避けるつもりもないのだろう。それだけで十分だと、燐は思った。
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