赤金の華
明かり取りの窓から、薄い夕闇が落ちている。自身のために誂られた部屋で、露里は深く息を吐いた。
近頃、夜が近づくと、ひどく気が滅入る。
彼女は、煙管の雁首に丸めた煙草を詰めて、緩慢な手付きで雁首を炭火に近づけた。火がついたのを見つめて、そっと煙を吸う。ものぐさな彼女は、唇に引いた紅が落ちてしまわないよう、小さく口を窄めて煙草を吸う。
一頻り吸い終わると、これまた緩慢な動作で火皿に灰を落とした。
「露里姐さん」
世話をしている禿が、部屋の襖を開けて入って来た。どうやら時間らしい。
露里は、名残惜しそうに煙管を置いて、立ち上がる。彼女が歩くと、金赤の衣の裾が、ゆったりと波打つ。禿が、ほうっと溜息を漏らした。露里は、それ程までに美しい女だった。
「おお、露里太夫。上客だぞ」
しとしとと、廊下を歩いていると、番頭が声を掛けてきた。
「どなた?」
「一見だが、金は持っとる。頼んだぞ」
何を頼むというのだろう。しかし、露里は小さく頷いた。
了解もなく、一見の客に自分をあてがうという事は、そういう事なのだろう。訳知り顔で、露里は客間へと向かった。せいぜい振り回して、通わせてやろう。露里は、そう心に決めて、客の前に立った。
それは、とても若い男だった。若いどころか、子供だった。ひどく綺麗な顔立ちの、まるで人形の様なその男は、今様色の打掛を肩に掛けた、歌舞いた少年だ。
「あ、来た来た。あんたが、露里太夫?」
彼は、不躾だった。
けれども、嫌味のない笑みと、無邪気な物言いは、露里が厭う程のものではなく、寧ろ好ましいとすら感じてしまう。
「左様で御座います。ええと……」
「千歳だ。覚えなくてもいいよ」
「千歳様、ですね。いけずやわ、覚えなくてもいいやなんて」
子供相手なら、媚びる必要も無いだろうと、露里は素直に頬を膨らませた。
「こーゆーの、苦手なんだ。二度は来ないと思うから。今日は、あんたに聞きたい事があって来たんだ」
「はあ……聞きたい事、ですか」
千歳が、懐から鴇色の飾りのついた簪を取り出した。飾りは珊瑚だろう。見事な簪だ。
「……お借りしても?」
「どうぞ」
簪を受け取って、露里は、明かりに透かしてみるように眺めた。すると、みるみるうちに露里が瞠目する。
「これは……」
「知ってるの?」
それは、露里の簪だった。露里が、初めての給金で購入し、長く愛用した後、初めて世話をした新造に贈った物だ。
それを何故、目の前の子供が持っているのか。
いや、それよりも。
「あの子は、病で里に帰されたと……」
「そんなわけないだろう」
露里の呟きに、千歳が冷たく言い放った。
「それは、浄閑寺で、ある少女に託されたものだ」
遊女が、不祥事を起こして死んだ時、人として葬ってもらう事はできない。畜生道に落とすため、裸で荒菰に包まれて、夜更けに浄閑寺に投げ込まれるのだ。
「では、あの子は、何をしたと言うの?」
「知らない。俺が会った時には虫の息だったから。それを露里姐さんに返せと頼まれただけ」
「そう……」
それじゃあ、返したからね。そう言って、千歳は立ち上がった。
暫くぼんやりと簪を見つめていた露里だったが、上客だと聞かされていた客人を、みすみす帰してしまってはまずいと我に返った時には、彼の姿は無かった。
*
近頃、足抜けする者が多いと、番頭が嘆いていたのは何時だったか。
露里は余り気にしていなかったが、確かに妓楼の遊女が少なくなっている。禿や新造まで、減っているという事に気がついた時には、背中に冷たいものが走った。
まだ幼い彼女らが、見つかればどうなるのかを考えると、いたたまれない。
「露里姐さん! また煙草、消し忘れてるよ!」
その新造は、秋風と言った。
利発で、可愛らしい子だったが、何せ口が立つ。他の花魁が、世話をするのに音を上げて、露里に押し付けられたのだが、これを露里はいたく気に入った。
一等大切にしていた簪を与えた事からも、その溺愛ぶりは周囲によく知られていた。
その秋風が、半月前から姿を消した。
妓主に聞けば、流行り病で倒れたので、里に送り返したと言われた。それを露里は、素直に信じていたのだ。
「秋風……お前……」
簪を抱きしめて、露里は悲しげに眉を潜めた。
「おや、露里。それ、なんだい?」
露里よりも、古くからこの妓楼にいる、明霧が興味深そうな顔をしている。
「嗚呼、ちょっとね」
「そう。素敵な簪じゃない」
明霧の言葉が、いっそう露里を悲しくさせた。
*
「二度は来ないと、言わはったと思うんやけど」
露里は、きょとんと瞬いていた。
目の前には、千歳と、その隣に控える大きな青年がいる。青年の方も、綺麗な顔をしているが、千歳とは違い、ひどく無表情な男だった。
「そう思ったんだけどさー……なんか、気になっちゃって」
きゃらきゃらと、千歳が笑った。
「はあ……」
「ここ、最近、人が減ったりしていないか?」
露里の心の臓が、どきりと大きな音を立てた。
「何故……」
何を言いたいのだ。露里は、射抜く様に千歳を睨んだ。彼は、変わらず明るい笑みを浮かべている。
「だから、気になっているんだと、言っただろ」
この日も、彼らはすぐに帰ってしまった。
一体、何だと言うのだろう。
*
明霧が、消えた。
見世番の一人と、駆け落ちしたらしい。
「探し出すんだ。見つけたら……」
番頭が、他の男衆に指示しているところに出くわして、露里は禿の耳を塞いだ。
あんなに長く、見世を張っていた明霧が、逃げ出すなんて考えもつかなかった。
その日も、千歳が、男を連れて露里を訪ねて来た。早々から、露里は彼に尋ねる。
「何を知ってらっしゃるんですか?」
「誤解しないでくれよ。何も知らない。予想はついているけどな」
「それじゃあ……」
千歳が、にやりと笑った。
「しかし、あんたに教えて良いものか。きっと、価値観変わるぞ」
「……構いやしません」
少し躊躇ってから、露里は気丈に言い放った。千歳が、柔らかく微笑んだ。
「鬼を、知っているか?」
「鬼って、昔話に出てくる?」
「そうだ。でも、鬼は実在する。人の欲の渦巻く処には、鬼が棲み付きやすい」
「はあ……」
露里は首を捻った。
「遊郭は、まさに人の欲の掃き溜めのような場所だ。ここには、鬼がいる」
まさか、と露里は嗤った。期待して、こんな話を聞かされるだけなんて。
「まあ、暇つぶしにでも聞いておけよ。鬼というのには、位があるんだ。小物は、醜い獣のような姿で、知能も低い。だが、力を付けた鬼は、人に化けるし、人を騙す。その上、強い」
「恐いですね」
「そうだな。鬼は、人の欲を糧にするんだ。この遊郭で消えた者は、恐らく鬼に食われたんだろう」
「それは、可笑しいです。秋風……うちの可愛がってた新造は、浄閑寺に葬られたのでしょう?」
「そうだな」
「じゃあ……」
「鬼が人を食うって言うのは、魂を食むって事だ。体はそのまま残る。食われた後に、浄閑寺に投げ込まれても、何も可笑しくないんだよ」
露里は絶句する。この子供の、作り話に引き込まれている自分に驚いているのだ。
「鬼は幻術を使い、人を騙す。番頭達が、食われた者を自決したとして、葬るように仕向けたとしたら」
「……鬼とは、どこにいるのでしょう」
露里が問うと、先程から黙って千歳の後ろに控えていた男が、にやりと笑った。そして、おもむろに立ち上がると、露里を千歳の方へ投げ飛ばした。
人とは思えない膂力に投げ飛ばされて、露里は驚いたが、彼女の身体を、細い腕で抱きとめた千歳に、更に驚いた。
「千歳様、何を」
「ずっと、鬼は俺たちの目の前にいたよ」
千歳が微笑む。そして、露里がいた場所を睨んだ。その視線を追って、露里が首を巡らすと、そこには幼い禿がいた。
そう言えば、と露里は思う。
私は、彼女の名前を知らない。
いつから、自分に付いていたのか、思い出せない。
禿は、一瞬より長く、口を半開きにして、ぼんやりと自分の前に立つ男を見ていたが、すぐに嫌な笑みを浮かべた。その口が、大きく裂けて、長い犬歯が覗く。
「露里さん、目を瞑って、耳を塞いでて」
千歳に言われて、露里は目を閉じた。両手でしっかりと耳を塞ぐ。それでも、微かな唸り声や悲鳴は聞こえて、獣の臭いや、血の臭いが鼻孔をつく。
どのくらいの時間が経ったのか。
露里の両の手首を、掴む者があった。
「……千歳、様」
恐る恐る目を開けると、そこには眩しい笑みを浮かべる美少年の顔があった。
彼の後ろには、大きな血溜まりができている。そこに、座り込んでいる男が振り向いて、露里は小さな悲鳴を上げた。
男の口元が、血でべっとりと汚れている。
「露里さん、鬼の事は、忘れた方がいい」
千歳が悲しげに笑う。
露里は、躊躇いがちに頷いた。それから、珊瑚の飾りの簪を、千歳の髪に差して微笑んだ。
「全て、忘れます。けれど、貴方は、忘れないで。秋風が、貴方にこれを託した事を」
秋風は、きっと、私を救いたくて、簪を千歳に託したのだろう。不思議な雰囲気を纏った、この少年に。
彼らの正体に、露里は気づき始めていた。
「……わかった」
しかし、簪を受け取って頷いた千歳が、露里の額に触れた時、彼女は強い眠気に襲われて、目を閉じてしまった。目覚めた時には、鬼に関する一切の記憶が無くなっているだろう。
「……ふう。どうだ、庇牙。腹は満たせたか?」
千歳が振り返ると、男が舌舐めずりをして、首を横に振った。
「そうか。まだまだ、先は長いな」
揶揄するように嗤って、美貌の少年は、簪を弄ぶように触った。
「まあ、時間は飽きる程あるし。気長に行こう」
*
明かり取りの窓から、薄い夕闇が落ちている。露里が、吸い終わった煙草の灰を火皿に落として、火が消えたのを確認した時、思わず懐かしさから笑みが零れた。
夜が始まる。しかし何故だろう。
気が滅入るような毎日だったはずが、今日は少し、頑張れそうな気がした。