上官への殺意(短編)
俺は中尉を殺すべきか悩んでいた。
執務室で机を挟み対峙する彼は、疲労、興奮、そして敵意を隠さない。
窓の外を黒雲が覆い、ストーブを焚いても寒さは堪えるのに、俺は全身からじわりと汗が出るのを感じていた。
危急の折、中尉は一個中隊を率い、ここまで応援に来た。俺は彼の指揮下に入るはずだったが彼の意図が暴露されると、司令に監禁を命令された。
抵抗していた中尉ももう静かにしていたが、非公式の監禁のため武装は解けない。
沈黙の中、俺は威嚇の気持ちを示すように腰の拳銃を取り机に置く。モーゼルC96。ゴツいが信頼できるドイツ製だ。
だが中尉は不敵に笑い、
「少尉、俺も持っているんだ」
そういって机にブローニングを置いた。質素で美しいベルギー製だが、オーストリア皇太子暗殺に使われ先の大戦を起こした銃だ。
その銃から鋭い硝煙臭がした。発砲してあまり経っていないのだ。
(もうすでに誰か殺ってるな)
俺は確信する。殺意を実行すべきだと思うが、ここが神聖な場所である事実がそれを躊躇させた。
再び沈黙する間、俺は思案し、相撃ちをしても構わないとすら考えた。
だが、それを実行するよりも中尉が早かった。
「御免っ!」
彼は立ち上がり拳銃を取ると、威嚇しつつ俺を押し退け部屋から飛び出した。
「ま、待てっ!」
俺も走る。外に出ると雪が降り始めていた。
全力で走っても距離が縮まらないまま、中尉は橋ふもとの門を走り抜けた。俺は取り押さえるよう近くの歩哨に叫ぶが、歩哨は敬礼したまま戸惑うばかりだ。
遅れて門を通ると、大きな橋を走る中尉の後姿が見えた。
俺はモーゼルを構え、引き金に指をかけようとして……結局、下ろした。
「任務を放棄した奴に構うことはないな……」
一人ごちて、俺は殺意から解放された。
橋向こうでは反乱部隊が決起し、帝都は騒然としている。中尉もそこへ向かったのだろう。
俺は宮城へと戻りつつ、昭和11年2月26日の始まりを感じるのだった。