ハイウェイ
雲ひとつない晴天だ。真夏の強烈な日差しがアスファルトに反射し、目に刺さって痛い。休日だというのに、高速は空いている。
智はサングラスを忘れてきたことを後悔していた。出かけるときには今にも雨が降りそうな鉛色をした雨雲が空を塞いでいたから、気が回らなかったのだ。
助手席には妻の紗苗が座っている。
さっきまではどこそこのサービスエリアでテレビや雑誌で取り上げられているクロワッサンを食べたいとか、日焼け止めを塗ってくるのを忘れたなどと喋っていたが、静かになったなと思ったら眠っていた。窓側にやや頭を傾け、横顔は頬から顎にかけて陽に照らされている。
眠っている紗苗を見るのは久しぶりだ、と智は思う。
いや、それは正確な表現ではない。智と紗苗はいつも夫婦二人で眠っているからだ。しかしながら、こうして明るい場所で、まじまじと紗苗の寝顔を眺めるのは、本当に久しぶりのように思う。紗苗は昼寝をしない。普段はしているのかもしれないが、休日など智が家にいるときには決して昼寝をしなかった。こんなに長い距離をドライブするのも初めてだ。
思い返してみると、最後に紗苗の寝顔をきちんと見たのは、大学時代が最後だったのかもしれなかった。少なくとも大学を卒業してから、紗苗の寝顔をまじまじと見たことはないように思う。
紗苗とは、大学のゼミで知り合った。
お互いに映画が好きだったこともあって、会うたび話をしているうちに惹かれあって、ほどなく付き合いだした。付き合って1か月ほどして、同棲を始めた。
1LDKの安いアパートを借りた。双方とも同棲していることを親には話していなかったから、親からの仕送りは使わず、それぞれがアルバイトで稼いだお金で生活費を賄った。大した贅沢はできなかったが、不自由はしなかったし、時間だけは捨てるほどあっただけ、考えようによっては今よりも贅沢な暮らしをしていたのではないだろうか。
そのときまでは、よく二人で昼寝をした。智が眠っていると、いつの間にか紗苗が隣で眠っていて、紗苗が眠っていると、智のほうも眠くなってきて隣に寝転がった。そして、夕方ごろどちらともなく目をさまして、ときにはセックスをした。そうするうちにお腹が減ってきて、夕食を食べ、見飽きたテレビを見ながら取り留めのない話をして、また眠った。大学時代は、そんなサイクルの繰り返しで、永遠に開くことのない輪の中に閉じ込められているような気がしていた。
大学を出て、智はある広告会社に就職した。紗苗も飲料メーカーに就職したが、卒業から一年も経たないうちに智から結婚してほしいとプロポーズすると、紗苗はすぐさま会社を辞めてしまった。智としては仕事を続けても構わなかったのだが、早苗は会社に馴染めずにいたからちょうど良かったらしく、こちらが心配になるほどあっさりとした決断だった。
こうして大学時代からの懐かしい記憶が蘇ってくるのは、やはりこれから孝彦たちと会うからだろうか。やや出すぎていた速度を調節しながら、智は思う。
日曜日、孝彦夫婦の家に行くことになったのはまったくの偶然だった。そもそも孝彦は大学時代の友人で、ゼミで知り合った。だから、数少ない早苗と共通の友人だ。互いに結婚をしたこともあって、ここ数年ほとんど連絡もとっていなかった。
一週間前の、バーでのことだ。
その日、智は職場の後輩を連れて飲みに行った。面倒見が良いとはいえない智にしては珍しく、帰りがけに自分から誘った。何となく飲みに行きたかったが、特に誘う相手がいなかったから、という身勝手な理由で。もちろん後輩には、最近よく頑張っているみたいだからご褒美に、とでも言ったと思う。
そんなことだから話が盛り上がるわけもなく、共通の上司の愚痴を言い合って浅い時間に別れた。まだビールを数杯しか飲んでいなかった智は、飲み足りなさを覚えて、前に人から連れて行ってもらったことのあるバーに一人で飲みに行った。
先客はいなかった。智はシングル・モルトのウィスキーをロックで頼み、マスターと適当な世間話をしていると、真夏だというのにしっかりスーツを着込んだ男が店に入ってきた。見覚えがある顔だとは思ったが、すぐには記憶と結びつかなかった。向こうは自分のことをすぐに大学時代の友人だと気づいたらしく、表情を和らげて、
「智じゃないか。久しぶりだなぁ、智」
と、砕けた調子で声をかけてきた。ややいかつい顔立ちには似合わぬ高音のハスキーな声で、孝彦だと分かった。記憶の中の孝彦より、やや体が丸くなったような気がした。
「タカジンこそ、元気そうじゃん」
孝彦のことをタカジン、と呼び始めたのは紗苗だった。
同じゼミにいた孝彦を見て、いつも誰かに似ているなと思っていたらしく、それが誰なのかずっと思い当たらず、やきもきしていた。ほら、メガネをかけていて、関西のテレビに出ている人で、なんたら委員会とかいう討論番組みないなのをやっている……。その他にも、紗苗はいくつか思い当たる情報を提供してきたが、智の地元では関西系列の番組はほとんどやっていなかったので、どんなに情報をもらっても分かるはずがないのだった。
数日後、紗苗はネットで探したらしい写真付きの印刷物を興奮気味に手渡してきて、智は初めて「やしきたかじん」なる人物を知った。そして紗苗の言うとおり、孝彦はまさしく「やしきたかじん」にそっくりだった。その話はゼミで盛り上がり、以降、孝彦のあだ名はタカジンになった。孝彦だけはまったく似ていないと言い張っていたが、そう呼ばれたからといって別に気に障ることもないようだった。それがきっかけで智と紗苗は孝彦と親しくなり、何かと三人で行動することが多くなっていった。
昨晩、タカジンがさ、女の子と一緒に歩いているところを見ちゃった。朝一番の講義で眠りかぶっていた智だったが、やや興奮気味に耳打ちしてきた紗苗の言葉に、一瞬で眠気が吹き飛んだ。当時から孝彦は明るく気さくな性格だったのだが、こと女の子が相手となれば極端に口が重くなっていた。智が聞いたところによると、それまで女の子と付き合ったことはおろか、まともに会話をしたのも数えるほどしかなかったらしい。中学、高校と男子校だったのも影響していたのだろう。
その孝彦が、女を連れて歩いていたというのは、にわかには想像しにくい光景ではあったが、友人としては喜ばしいことだった。
それから、なんとなく面白半分でどこまで関係が進んでいるのか確認しようということになった。遊びの誘いを断って講義室から一人で帰ろうとする孝彦を、智と紗苗はこそこそと尾行した。
孝彦が向かったのは図書館だった。
彼はあまり本を読むほうではない。どちらかというと、陸上をやっていたこともあって、本を読むくらいなら体を動かしたい類の人間だ。ということは、おそらく相手のほうが読書好きなのだろう。そう推測した。孝彦は席に着いておもむろにバッグから文庫本を取り出して、パラパラとめくりはじめた。智と紗苗は書架の陰に隠れ、固唾を飲んで見守った。しばらくしてやってきたのは、見た目にも清純そうな、小柄な女の子だった。高校生、と言われれば納得してしまいそうな外見だ。孝彦の向かいの席に座り、何やら一言、二言会話を交わし、孝彦は手に持っていた本をその女の子に渡した。そして、また少しばかり会話を済ますと、孝彦は席を立って帰ってしまった。
今どき珍しい純愛だねぇ、と紗苗がぽつりと漏らしたのを、智はよく覚えている。たしかに、智が知っている恋愛談の中でも、突出して純愛度が高かったからだ。そして、きっと自分にはもうそういう恋愛は訪れないのだろうと思うと、なぜか少し悔しくもあった。
結局、孝彦はその女の子、知美と付き合うまでに一年を要した。
その知美も、来年の二月には母親になるんだ。孝彦は注文したウォッカ・トニックを飲みながら、そう切り出した。
「じゃあ、お前も父親ってわけだな」
智がそう返すと、孝彦はやや困ったような顔をして、
「そうなんだよなぁ、父親になるんだよな、俺」
「嬉しくないのかよ」
「嬉しいさ、そりゃ。ただ、なんていうか、まだ俺のほうが父親としての準備ができていないというか、こんなやつが父親になっていいのかな、と思って」
「なんだよ、それ」
こっちは子供が欲しいのに上手くいかないんだぞ、という言葉が出そうになり、智はウィスキーで慌てて胃に流し込んだ。
前日、智は紗苗と連れ立ってカウンセリングに行ったばかりだった。自分たちは決して不妊症ではないと思っていた。しかし、もう結婚して七年も試みているのに、まだ結果が出ないということは、やはり何らかの原因があるのではないかという話になり、紗苗の知り合いに紹介された病院へ行ったのだった。
とはいえあくまでカウンセリングなので原因が究明されるわけではなく、今まで成果が出た簡単な方法などをいくつか教えてもらっただけだ。でも教えてもらった程度の知識なら、既に本などで知っていることだった。一方で、もっと医学的な解決手段を望んでいる自分に驚いた。まだ、自分たちが不妊症だとは受け入れられないでいるというのに。
そういう事情もあって、妊娠の話はあまり気乗りがしなかったので、智はやや強引に話題を変えた。
「そういえば、タカジン、何でここにいるんだよ。地元の企業に就職したっていうのに、転勤でもしたのか?」
「出張だよ。不況だし、地元の顧客に胡坐をかいているだけじゃ成り立っていかないからな。今日は泊まって、明日の午後には帰らなきゃならない」
「忙しいんだな」
孝彦はそう答えて、お手拭で顔を拭った。おじさんみたいだから止めたほうがいいと、智と紗苗が忠告していた行動だった。まだ治っていないらしい。
「そういえば、紗苗ちゃんは元気にしているか? 最近会っていないからさ」
そう言われて智は最近の紗苗の様子を思い返してみる。さすがに以前よりは会話も減ってきたし、たまに喧嘩したりもするが、いたって変わらず紗苗は早苗らしく生きている。
「相変わらずだよ」
「そうか。それが一番だな。そうだ、今度俺の家に遊びに来ないか。紗苗ちゃん連れてさ。うちの奥さんも会いたがっていたし。懸賞で神戸牛が当たったんだけど俺たちだけじゃ食べきれないんだ」
「神戸牛、ねぇ」
それから智は孝彦と、近況やら、大学時代の思い出やらの話をして、日付が変わる時間に別れた。
もうさすがに眠っているだろうと思っていたが、智の予想に反して紗苗は起きていた。鏡台とにらめっこしながら化粧水を顔に染み込ませている。アンチエイジング。
「さっき、タカジンに会ったんだよ」
智は冷蔵庫に缶入りのお茶があるのを発見し、それを携えて、ネクタイをはずしながら、ソファーに腰掛けた。外したネクタイを指先で弄びながら、智は犬が首輪を外すときってこんな気分なんだろうな、と思い浮かべる。
「今日は職場の人と飲みに行ったんじゃないの?」
「そうだけど、その後に入った店で偶然出くわしたんだ。出張でこっちに来ているんだって」
一人で飲んでいた、とは言わなかった。前に正直に言ったら、そんなに家に帰ってくるのが嫌なの、と紗苗が不機嫌になってしまったことがあった。同じ轍は踏まない。
「で、今度家に遊びにこないかって。あいつの奥さんも会いたがっているみたい」
「知美さんが? ふぅん、そうなんだ」
紗苗は腑に落ちない様子だったが、その理由は智にもわかった。そもそも、紗苗と智は、孝彦とは親しくても、知美とはそれほど親しくなかった。何度か暇なときに四人で映画に行ったり、ボーリングをしたことはあるが、知美に会うときは必ず隣に孝彦がいて、孝彦を通じて知美と話すような状態だった。だから、知美と直接会話をしたという記憶がほとんどない。
「わたしもタカジンには会いたいなぁ。最後に会ったのって、タカジンの結婚式のときだから、もう5年くらい会っていないし。なんか変わってた?」
紗苗は化粧台から離れ、智の隣に座る。テーブルに置いていたお茶を開け、一口飲んでから、智の口に缶をあてがった。智が口を開けると、お茶が口に流れ込んでくる。よく冷えていた。
「今週の日曜って何も予定なかったよね。せっかくだからタカジンの家に行ってみようよ」
「今週? いくらなんでも急すぎないか」
「でもこういうのって、タイミング逃すと延び延びになって、時期を逸したりするじゃない。思い立ったが吉日」
久しぶりに耳にすることわざだな、と思いながら、智は神戸牛の話を思い出す。
懸賞で神戸牛が当たったらしいよ、と告げる。
「じゃあなおさら、鮮度が保たれているうちに行くべきでしょ」
わかった、とりあえず電話してみるよ、といってその話は終わったのだが、内心あまりに急なので断られるのではないかと思っていた。しかし、翌日電話をしてみると、孝彦はぜひ来てほしいと答えた。なぜだか、智は乗り気になれなかった。理由はよくわからない。だが、物事が速やかに進むときには、よく落とし穴があることを、智は経験上知っている。
高速道路を降りてしばらく行くと、孝彦から教えられたマンションが見えてきた。7階建ての、よくあるワイン色の外観だった。まだ建てられてから間もないように見える。
孝彦の部屋は5階の角部屋だった。おそらく家賃は相応にするだろう。地元の企業とはいえ、わりと名の知れた企業ではあるから、やはり給料は良いのだろう。
インターフォンを押すと、孝彦が出てきた。中へ招き入れられたので紗苗と一緒に入ろうとしたのだが、智だけ孝彦に引き留められた。
「今日、車で来たんだろ? 気が回らなくて、ノンアルコールビールを買い忘れたんだ。おまけに俺はもう飲んでしまっている。ちょっと車出してもらえないかな」
「それは構わない。でも、別に気を使ってもらわなくていいよ。水でもなんでも」
と、智は答えたのだが、孝彦は、それじゃ切なすぎるだろ、と言った。あと、ちょっと奥さんから頼まれている食材もあるんだ、と付け加えた。
智は助手席に孝彦を乗せ、近所にあるというスーパーマーケットに向かった。確かに、孝彦からはやや酒の臭いがした。にしても、いくら気のおける友人であるとはいえ、客を迎えるのに先に飲んでしまっているというのはいかがだろうか。そういうちょっとした嫌味を冗談半分で言おうかと思ったのだが、そのとき、孝彦が先に口を開いた。
「今日はすまなかったな」
すまなかったという言葉を、急に来てもらって悪かった、という意味ではないかと智は解釈して、こっちこそ急に来て悪かった、と答えた。
しかし、孝彦は首を小さくかぶりをふって、
「違うんだ、そういうことじゃない」
智は何も答えられなかった。嫌な予感がする。孝彦の次の言葉を待った。
「この間、そっちに行って智とばったり会ったことは、奥さんには言わないでほしいんだ」
「どういうこと?」
「まあ…つまり、あれだ」
続けて、そこを右、と孝彦は指示を出す。智はスピードを落としてハンドルを切る。二車線の道路に出た。前を走るのろのろ運転の軽自動車を追い越す。
「俺、浮気しててさ」
目的のスーパーマーケットが見えてきたので、孝彦の指示を待たずしてその駐車場に車を入れる。遠くに黒く、厚い雲が見えた。朝方に出かけるときに見た雲と似ていた。もうしばらくしたら雨が降り出すのかもしれない。そんなことを考えながら、友人が意を決して重大なことを告白しているというのに、冷静な自分がいるのに気が付いた。
「あの日も、女に会ってた。奥さんにも、あの日は出張だと言ってあったんだ。まさか智に会うとは思っていなかったし」
「でも、それならどうして俺たちを家に誘ったんだ。こういう面倒なことになるのは分かっていたのに」
「いや、それはまったく関係ないことなんだ。うちの奥さんが、智と、紗苗ちゃんに会いたいって言い出した。何の前触れもなく言い出したんだ。別の女と会うようになってしばらくしてから。女の勘ってやつかな。疑われているのかもしれない」
「それで、俺たちには浮気がばれないように協力してほしい、ってことか」
孝彦は何も答えなかった。沈黙が続き、耐えられなくなって車を出た。スーパーに入る。夕食の買い出しに来た主婦たちでにぎわっている。孝彦はノンアルコールビールを2本籠にいれ、孝彦は知美から頼まれたらしいベーコンと卵を持ってきた。
「いつか、ばれるんだろうとは思っているんだ。間違ったことなんだってことも分かっている。怯えながら毎日生きているのが辛い」
孝彦はそう呟いた。
「じゃあ、女との浮気相手との関係を断てばいいだろう」
「だよな」
智はレジへと進む。ひどく混雑していて、一番空いている列に並ぶ。
「でも、そう簡単にはいかないんだろう。よくわかんないけどさ。でも、お前がどんな人間かってことをよく知っているから。だから、うまく想像できないんだ」
「そうだよな。こういうことって、相談しにくくてさ……智と話していると、あの頃に戻ったような気がするよ」
そのとき、ふと孝彦が自分たちを家に呼んだ訳がわかったような気がした。智たちと会いたかったのは知美ではなく、孝彦のほうだったのではないだろうか。智と紗苗を通して、過去の自分を思い出そうとしたのではないか、と。
孝彦のマンションに戻ると、豪勢な料理が出来上がっていた。キッチンでは紗苗も料理を手伝っているようで、智たちが買ってきた卵とベーコンを使って最後の一品にとりかかる。
来年に生まれてくる孝彦たちの子供の話などをしながら食事をした。食べ終わって片づけを済ますと、紗苗が棚に置いてあった人生ゲームを見つけた。久しぶりだからちょっとだけやろうという流れになり、四人で順番にルーレットを回し、駒を進めていく。孝彦以外の三人は順調に先へ進んでいくのに、孝彦だけが二度も振り出しに戻された。二度目に振り出しに戻されたときに、場は笑いに包まれた。
ふと気になって知美のほうを見ると、知美も笑っていた。笑ってはいたのだが、その刹那、泣き出してしまう知美の姿が思い浮かんで、はっとした。笑うことと泣くことは、対極にあるように見えて、実は背中合わせで紙一重の存在なのではないか。そう思った。
その日、知美はよく笑った。知美が笑えば笑うほど、智は内側から締めつけられるような心地がした。きっと孝彦は、もっとひどい痛みを味わっていたのではないだろうか。そうであることを、智は願った。
ちょうど孝彦の家から出ようとしたときに、雨が降り出した。まだ空は明るくて、さっと降ってすぐに上がるのではないかと思ったが、さっき買い物に出たときに見た厚い雨雲が空を覆って、高速に乗る頃には本格的な雨が降り出した。智はワイパーの速度を一気に最高まで上げる。
「振り出しに戻るなんて、そんな都合のいい話ないよね」
それまで疲れのせいか口数が少なかった紗苗が急に口を開いた。
「人生ゲームのこと?」
不意を突かれたせいで、不用意な返答をしてしまった。言った瞬間に後悔したが、紗苗は智の返答に含まれた違和感に気づかなかったようだった。もしくは、気づかぬふりをしたのかもしれない。
「智はさ、もし戻ることができるなら、いつまで戻りたい?」
いつまで戻りたいか……智は考え込んでしまう。仕事をせずただ怠惰な毎日を過ごせる学生時代に戻りたいかな、と考えた。しかし、仮に戻れたとしても、自分は同じように、就職し、紗苗と結婚して、今に至るのだろうと思った。結局、自分が自分という人間である以上、過去のある時点まで戻ったところで、今とは違う自分がいることは想像できないのだった。
そんなことを考えて答えられずにいると、
「そんな深く考え込むことじゃないのに。でも、わたしは今のままでいいかなぁ」
と言って、大きな欠伸をした。あまりの油断っぷりに、智はつい笑ってしまった。
高速道路は、やはり空いていた。
雨が強いので速度を出すことはできない。たった半日だけのことだったのに、ひどく疲れていた。眠気覚ましにガムを噛む。ミントの香りが鼻から抜けて、少し目が覚める。
いくつかサービスエリアを通り過ぎたあとに、紗苗がクロワッサンを買うと意気込んでいたことを思い出した。クロワッサン……と言いかけて隣を振り返ると、こちら側に頭を傾けて小さく寝息を立てている紗苗の姿があった。