結婚直前に捨てられたので、同棲生活を全部精算することにしました
「好きな人ができた」
来月には結婚式だった。
招待状も出した。
新婚旅行も予約した。
両家への挨拶も済ませた。
その状態で、同棲中の婚約者――拓海は言った。
「会社の後輩なんだ。まだ付き合ってはいない。でも、このまま結婚するのは違うと思った」
頭が真っ白になった。
腹が立つより先に、何も考えられなくなった。
左手には婚約指輪。
昨日まで私は、これをつけて席次表を直していた。
「……わかった」
「え?」
「結婚しないってことでいいんだよね」
「ああ」
泣いて縋っても、この人は戻らない。
なら、やることをやるしかない。
「この部屋は?」
「俺は住み続けるつもりだけど」
「そう」
私はスマートフォンを手に取った。
「では、私が買ったものを返してください」
「……何?」
「冷蔵庫。洗濯機。テレビ」
拓海の顔が止まった。
「待って」
「ベッドとソファも私。あとは細かい家具家電を確認して持っていくね」
「いやいやいや、それじゃ生活できないだろ」
「買えば?」
「簡単に言うなよ」
「私は買ったけど」
拓海が黙った。
「ネット回線も私名義だから、名義変更できなければ解約するね」
「ネットまで?」
「私が払ってるから」
「彩乃、ちょっと急すぎないか?」
私は顔を上げた。
「私も今日言われたんだけど」
今度は、拓海が何も言えなくなった。
◇
翌日。
昼休みになって、私は結婚式場へ電話した。
キャンセル料は覚悟していた。
問題は、その説明の途中だった。
「それでは、お預かりしております金額からキャンセル料を充当いたしまして――」
私は手を止めた。
「すみません。今、いくら預けていますか?」
担当者が答えた。
思っていたより多い。
「振込名義、確認できます?」
少し待たされて。
返ってきたのは、私の名前だった。
「あれ?」
確かに払った。
でも。
拓海から半分、もらったっけ?
銀行アプリを開く。
ない。
メッセージを検索する。
すぐ見つかった。
『式場の予約金、今日払っといたよ』
『ありがとう! あとで半分送る』
それで終わっていた。
嫌な予感がした。
前撮り。
『こっちも払っとくね』
『助かる。あとでまとめて払う』
新婚旅行。
私のカード。
結婚指輪の予約金。
私のカード。
私はメモアプリを開いた。
確認する。
足す。
確認する。
また足す。
途中から、笑えてきた。
「嘘でしょ」
家具家電はいい。
それは私が負担すると決めていた。
でも、結婚準備は違う。
二人で半分ずつ出す約束だった。
私は拓海にメッセージを送った。
『結婚式と前撮りと旅行のお金、私まだ半分もらってないよね?』
五分後。
『え?』
さらに少しして。
『式場は払ってなかったっけ?』
『履歴にない』
『ちょっと待って』
十分後。
『ごめん。払ってないかも』
私はその文字を見た。
昨日なら泣いていたかもしれない。
今は違った。
私は拓海と結婚するために、いくら払ったんだろう?
そして拓海は――どれだけ払っていないんだろう?
◇
その日の夜。
私たちはテーブルを挟んで、銀行とカードの履歴を確認した。
結果は明快だった。
「百二十八万円」
拓海が呟いた。
「うん」
結婚準備について、本来拓海が負担するはずだった分。
そして今回のキャンセルによって新たに発生した負担。
差し引き。
百二十八万円。
「一括は無理だ」
「分割でいいよ」
拓海がほっとした顔をした。
「ただし書面にする」
「そこまでやる?」
「やるよ」
「俺たち、結婚するところだったんだぞ」
私は拓海を見た。
「しないって決めたの、拓海だよね?」
また黙った。
私はそのとき、ようやくわかった。
この人は、たぶん悪気がなかった。
私が払う。
あとで返す。
忘れる。
私が何も言わない。
また私が払う。
それを繰り返しているうちに、それが普通になった。
そして。
私自身も普通だと思っていた。
「俺、お前がこんなに出してたって知らなかった」
「私も今日知った」
「……マジで?」
「うん」
私は数字を見た。
家具。
家電。
結婚準備。
日々の細かい支払い。
全部合わせれば、もっと大きい。
「私、結構頑張ってたんだね」
誰に言うでもなく、そう呟いた。
拓海は何も言わなかった。
◇
土曜日。
引っ越し業者がやってきた。
冷蔵庫が運び出された。
洗濯機も。
テレビも。
ベッドもソファも。
あとの家具や家電、私が買った日用品もまとめて運び出してもらった。
一時間ほどで終わった。
拓海の部屋には、パソコンとデスク、ゲーム機、本棚、服と趣味用品が残った。
それだけだった。
「……マジで何もないな」
拓海が呟いた。
「買えばいいよ」
「簡単に言うなよ」
「私は買ったけど」
拓海がこちらを見る。
私はもう何も言わなかった。
鍵を返して、部屋を出た。
これで終わり。
――だと思っていた。
◇
三日後。
拓海から電話がかかってきた。
出るか迷った。
でも、百二十八万円の精算も残っている。
私は通話ボタンを押した。
「もしもし」
『彩乃』
声がおかしかった。
「なに?」
『……美咲に振られた』
一瞬。
誰だっけ、と思った。
そして思い出した。
会社の後輩。
私との結婚をやめてまで好きになった女性。
「そう」
『そうって……』
「まだ付き合ってなかったんだよね?」
『そうだけど』
「じゃあ、振られたというより、告白して断られたんじゃない?」
沈黙。
どうやら正解らしい。
『結婚やめたって言ったんだ』
「うん」
『そしたら、なんでそんなことしたんですかって』
私は思わず眉を寄せた。
『俺、美咲も俺のこと好きだと思ってた』
知らない。
『よく相談されてたし、二人で飯も行ったし』
ますます知らない。
『だから、ちゃんと彩乃と別れてから告白したら――』
「断られた?」
『……婚約者を捨てて自分に来るような人とは付き合えないって』
私は黙った。
何か言うべきなのだろうか。
でも。
何も浮かばなかった。
『しかも会社でさ』
拓海が続けた。
『結婚式呼んでた人たちに、中止って言わなきゃならないだろ』
「ああ」
そうだ。
会社関係の招待客もいる。
『理由聞かれて……』
「好きな人ができたから、って言ったの?」
『そんなこと言えるわけないだろ』
「じゃあ何て?」
『事情があってって』
「うん」
『でも、美咲が知ってるから』
私は少し理解した。
「噂になった?」
電話の向こうで、長い沈黙。
『……なった』
なるほど。
結婚式一か月前。
婚約者がいる男性が、会社の後輩を好きになる。
婚約を解消する。
その後輩に告白する。
振られる。
会社に戻る。
なかなかだ。
『上司にも呼ばれた』
「なんで?」
『美咲が気まずいって相談したらしくて。別に処分とかじゃないけど、仕事以外で連絡するなって』
「それは守ったほうがいいね」
『わかってるよ!』
突然、声が大きくなった。
私はスマートフォンを耳から少し離した。
『俺だってこんなことになると思ってなかったんだよ!』
「私も思ってなかったよ」
『家帰ったら何もないし!』
「うん」
『冷蔵庫買って、洗濯機買って、ベッド買って、ネットも契約して……』
「うん」
『その上、百二十八万だぞ!』
「うん」
『結婚式もなくなって、会社じゃ変な目で見られて、美咲にも振られて!』
そこで。
私はようやく気づいた。
拓海は。
何を言っているんだろう。
「それ、全部自分で決めたことだよね?」
電話の向こうが静かになった。
「私、何かした?」
『……』
「家具は私のものを持っていっただけ。お金は拓海が払ってなかった分を精算してるだけ。会社の人には私は何も言ってない。美咲さんには会ったこともない」
『……わかってる』
「じゃあ、私にどうしてほしいの?」
返事はなかった。
長い沈黙のあと。
小さな声が聞こえた。
『……戻れないかな』
私は目を瞬いた。
そして。
笑った。
声を上げて笑ったわけではない。
ただ、自然に笑ってしまった。
一週間前。
この人に捨てられたとき。
頭が真っ白になった。
昨日まで結婚するはずだった人から、突然いらないと言われた。
あのときは、何も考えられなかった。
でも今は。
「無理」
それだけだった。
『彩乃』
「無理だよ」
『でも俺――』
「拓海」
私は遮った。
「百二十八万円、最初の振込は月末だから。忘れないでね」
通話を切った。
胸が痛くない。
泣きたくもない。
むしろ。
ものすごく、すっきりしていた。
◇
一か月後。
給料日前に銀行アプリを開いて、私は首を傾げた。
「……あれ?」
思ったより、お金が残っている。
食費も日用品も減った。
洗濯も料理も、自分の分だけ。
休日も、丸一日自分のものになった。
二人から一人になったのだから、寂しくなると思っていた。
なのに。
お金は増えた。
時間も増えた。
私はソファに寝転がり、スマートフォンを開いた。
ずっと行きたかった場所がある。
拓海には「今じゃなくてもいい。そのうち行こう」と言われて、諦めていた場所。
来週は土日とも予定がない。
残高を見る。
行ける。
私はそのままホテルと交通手段を予約した。
誰かに日程を聞く必要もない。
行き先を相談する必要もない。
画面に「予約完了」と表示された。
結婚できなくなって、人生が狭くなったと思っていた。
どうやら逆だったらしい。
「そのうちって、待たなくてよかったんだ」
来週が楽しみだ。




