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白銀の猫と創生の魔女  作者: 金林明莉
第二章 師弟
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第8話 橋の村

 旅に出てから、半年が過ぎた。

 春の陽射しは柔らかく、大地を覆っていた雪はすっかり姿を消している。街道の脇には色とりどりの野花が咲き、小鳥たちのさえずりが風に乗って聞こえていた。

 アイリスは両腕いっぱいに薪を抱え、小さな野営地へ戻ってくる。

「師匠、薪を拾ってきました」

 焚き火の前では、ゼノスが鍋をかき混ぜていた。

「おう、ご苦労」

 薪を下ろすと、アイリスは手際よく火を整え、水袋から鍋へ水を注ぐ。乾燥させていた薬草を加え、保存肉を切り分け、最後に香草をひとつまみ落とした。

 鍋から立ち上る湯気を眺めながら、ゼノスが木の匙でひと口すくう。

 ゆっくりと味わい、満足そうに頷いた。

「お、今日は焦げてねぇな」

 アイリスは呆れたように眉をひそめる。

「師匠が余計な香辛料を入れなければ、毎回焦げません」

「まだ言ってるのか」

「旅に出て三日目の夕飯ですよ?」

「あれは実験だ」

「鍋いっぱい真っ赤になりました」

「綺麗だったろ?」

「料理には見えませんでした」

 ゼノスは腹を抱えて笑う。

「細けぇこと気にすんな」

「気にします」

 思わず吹き出しそうになりながら答える。

 旅立ったばかりの頃は、こんなやり取りをする余裕などなかった。

 火を起こすこと。

 野営の準備。

 料理。

 魔法の勉強。

 知らない土地を歩くこと。

 何もかもが初めてで、毎日が必死だった。

 けれど半年という時間は、人を少しずつ変えていく。

 今では料理を作ることも、野営の準備も身体が自然に動く。

 ゼノスとの距離も、いつしか変わっていた。

 最初は雲の上のように感じていた第一賢者。

 今では豪快で少し大雑把な師匠。

 時には父親のように見えることもある。

 沈黙すら心地よく感じられる時間が、少しずつ増えていた。

 食事を終えると、ゼノスは木にもたれて大きく伸びをする。

「さて」

「今日はどちらへ向かうんですか?」

 アイリスが地図を広げる。

 しかしゼノスは空を見上げたまま答えた。

「さあな」

「またですか」

「困ってる奴がいる方だ」

「それ、方角じゃありません」

「細けぇこと気にすんな」

「気になります」

 呆れながらも地図をしまう。

「師匠らしいですね」

「だろ?」

 結局、この日も目的地は決まらないまま歩き始めた。

 街道を吹き抜ける春風がローブを揺らす。

 川のせせらぎ。

 鳥のさえずり。

 穏やかな景色がどこまでも続いていた。

 その景色が変わったのは、昼を少し過ぎた頃だった。

 街道の先に、小さな村が見えてくる。

 しかし近付くにつれ、アイリスは違和感を覚えた。

「……静かですね」

 昼間だというのに子どもたちの笑い声が聞こえない。

 畑で働く人影も少ない。

 村全体がどこか元気を失っているようだった。

 入口まで来て、その理由が分かる。

「橋……」

 川へ架かるはずの橋が、途中から無残に崩れ落ちていた。

 折れた橋桁は流れに飲み込まれ、橋脚だけが川の中へ残されている。

 向こう岸では老人が立ち尽くし、こちら側では荷車を引いた商人が困ったように頭を抱えていた。

 子どもたちは橋のたもとまで来ては立ち止まり、向こう岸に建つ学校を寂しそうに見つめていた。

「豪雨でしょうか……」

 アイリスが小さく呟く。

 ゼノスは橋を一瞥すると、そのまま村へ歩き出した。

 村人たちは見慣れない旅人へ警戒した視線を向ける。

 その中から、一人の初老の男性が近付いてきた。

「旅のお方ですかな」

「この村の村長です」

 ゼノスは軽く手を挙げた。

「第一賢者ゼノスだ」

 その瞬間、村長の顔色が変わる。

「だ……第一賢者様……!」

 周囲もざわめき始めた。

 しかしゼノスは肩をすくめる。

「堅苦しいのはいい」

「何があった?」

 村長は崩れた橋へ目を向けた。

「一か月ほど前の豪雨で橋が流されまして……」

「橋一本くらい、と最初は思っていたのです」

 苦笑しながら首を振る。

「ですが、橋がなくなるだけで、村はこんなにも不便になるとは思いませんでした」

 向こう岸には学校がある。

 診療所も向こう側。

 市場へ続く街道も、橋を渡らなければ行けない。

「子どもたちは学校へ通えません」

「病人も診療所へ行けません」

「商人も市場へ行けず、作物は売れないままです」

 村長は静かに俯いた。

「橋が一本なくなっただけで、村の暮らしそのものが止まってしまいました」

 アイリスは崩れた橋を見つめる。

 橋が壊れた。

 たった、それだけ。

 なのに、こんなにも多くの人が困っている。

 ゼノスは弟子の横顔を見つめ、静かに口を開いた。

「……お前ならどうする」

 それだけだった。

 答えは教えない。

 助言もしない。

 アイリスは崩れた橋を見つめたまま、小さく息を吸う。

(私なら……。)

 その答えを探すように、一歩、橋へ向かって歩き出した。

 しばらく橋脚を見つめたあと、小さく首を振る。

(まずは橋を調べよう。)

 ふと、焚き火を囲んだ夜を思い出す。


『魔法は世界を理解した者ほど強くなる。』


 ゼノスの声が胸の奥で蘇る。

 アイリスは橋から離れ、村長へ向き直った。

「村長さん。」

「少し、お話を聞かせていただけませんか。」

 村長は少し驚いたように目を丸くしたが、すぐに穏やかに頷いた。

「もちろんです。」

 ゼノスは何も言わない。

 近くの切り株へ腰を下ろし、腕を組んで弟子を静かに見守っていた。

     ◇

 最初に案内されたのは、村役場代わりになっている小さな集会所だった。

 年季の入った木の机の上へ、一枚の古びた図面が広げられる。

「こちらが橋の設計図です。」

 村長は丁寧に紙を押さえながら説明した。

「三十年ほど前に造られた橋でしてな。」

 アイリスは図面へ身を乗り出す。

 橋の長さ。

 幅。

 橋脚の位置。

 使われている木材。

 石材。

 細かな寸法まで記されている。

「木造なんですね。」

「ええ。橋脚だけは石ですが、橋桁は丈夫な松などを主に使っています。」

「豪雨で流木がぶつかり、耐え切れませんでした。」

 アイリスは静かに頷き、手帳を取り出した。

 さらさらとペンが走る。

 橋の全長。

 橋脚の間隔。

 川幅。

 図面へ書かれている数字を、一つずつ自分の手帳へ写していく。

 しかし、それだけでは終わらなかった。

「一日に、この橋を渡る人はどれくらいですか?」

 村長は少し考える。

「百人ほどでしょうか。」

「荷車は?」

「三十台ほどです。」

「一番重い荷物は?」

「秋なら穀物ですね。」

「牛車も通ります。」

 アイリスはさらに書き込む。

「子どもは何人くらい学校へ通っていますか?」

「十八人です。」

「診療所へ通われる方は?」

「高齢者が多いですな。」

 質問は途切れない。

 村長も驚くほど細かく尋ねている。

 ゼノスは部屋の隅で腕を組み、その様子を眺めていた。

(……橋を見てるんじゃねぇ。)

(村を見始めた。)

 その変化に、小さく口元が緩む。

     ◇

 集会所を出ると、アイリスは橋のたもとへ向かった。

 崩れた橋の向こうには、小さな学校が見える。

 校庭は静まり返り、人影はない。

 橋のこちら側では、数人の子どもたちが土手へ腰掛け、寂しそうに向こう岸の学校を眺めていた。

「あっ!」

 一人の男の子が立ち上がる。

「お姉ちゃん!」

 無邪気な笑顔で駆け寄ってきた。

「橋、直せるの?」

 期待に満ちた瞳だった。

 アイリスはその瞳を見つめ、すぐには答えられなかった。

「……まだ分からない。」

 正直に答える。

「でも。」

 一度、橋へ視線を向ける。

「できる限り考えてみる。」

 男の子は満面の笑みになった。

「じゃあ待ってる!」

「また学校行ける?」

「うん!」

 周りの子どもたちまで笑顔になる。

 その様子を見ながら、アイリスは胸が締め付けられるような思いになった。

(橋って……。)

(人が渡るだけじゃない。)

(この子たちの日常なんだ。)

     ◇

 午後になると、今度は荷車を調べ始めた。

「一番大きい荷車を見せてもらえますか?」

「もちろん。」

 商人が一台の荷車を押してくる。

 アイリスは巻尺を取り出し、幅、高さ、車輪の大きさまで測っていく。

「何を測ってるんだい?」

「橋の幅を決めるためです。」

「荷車がすれ違えるようにしたいので。」

 商人は目を丸くした。

「そこまで考えてくれるのか。」

 アイリスは頷くだけで、また手帳へ書き込む。

 ゼノスは遠くから見ながら、小さく笑った。

「細けぇ。」

 思わず漏れた独り言だった。

 以前なら術式だけを書き換えていた。

 今は違う。

 人の暮らしから答えを探している。

     ◇

 次は川だった。

 靴を脱ぎ、裾をまくる。

 冷たい水へ足を踏み入れると、思った以上の流れが身体を押した。

「速い……。」

 橋脚へ手を添える。

 石の表面を指先でなぞる。

「削れてる。」

 三十年。

 豪雨だけではない。

 長い年月を掛け、水流が少しずつ石を削っていた。

 しゃがみ込み、土を掘る。

 土を握る。

 崩れ方を見る。

 少し場所を変えて、また掘る。

 地盤の硬さを確かめる。

 風向きも調べる。

 川幅を測る。

 向こう岸まで歩き、反対側から橋脚を見る。

 気付けば日が傾き始めていた。

 手帳は文字と図で埋め尽くされている。

     ◇

 夕焼けに染まる川辺。

「終わったか。」

 ゼノスが近付いてきた。

「はい。」

 アイリスは頷く。

「橋だけを見ても駄目でした。」

「ほう。」

「橋を使う人。」

「橋を支える川。」

「橋がある村。」

「全部知らないと……橋は創れません。」

 ゼノスは何も言わない。

 ただ黙って続きを待つ。

 アイリスは手帳を見つめながら、小さく呟いた。

「……世界を知らないと。」

 その一言に、ゼノスは満足そうに笑う。

「それでいい。」

 たった一言。

 それだけだった。

 それだけで、自分の考えが間違っていなかったと分かる。

 アイリスは嬉しそうに微笑み、もう一度崩れた橋を見つめた。

 頭の中では、新しい橋の姿が少しずつ形になり始めていた。

     ◇

 翌朝。

 春の柔らかな陽射しが村を照らしていた。

 昨日のうちに描き上げた設計図を抱え、アイリスは橋の跡地へ向かう。

 広場には、昨日より多くの村人が集まっていた。

 誰も急かさない。

 誰も騒がない。

 ただ静かに、その小さな背中を見守っている。

 ゼノスは少し離れた大岩へ腰を下ろした。

「師匠。」

 アイリスが振り返る。

「今日は……最後まで、一人でやらせてください。」

 ゼノスは小さく笑う。

「ああ。」

「今日は何も言わねぇ。」

「全部、お前が決めろ。」

 アイリスは深く頷いた。

 もう教えてもらう段階ではない。

 考えるのは自分。

 決めるのも自分。

 それが、この橋を創るために必要なことだった。

     ◇

 設計図を広げる。

 昨日とは違う。

 橋の寸法だけではない。

 橋を渡る人の数。

 荷車の幅。

 地盤の強さ。

 川の流れ。

 風向き。

 橋脚へ掛かる荷重。

 生活の流れまで細かく書き込まれている。

 アイリスは橋脚の前へ立つと、静かに目を閉じた。

(橋を創るんじゃない。)

 毎朝橋を渡って学校へ通っていた子どもたち。

 診療所へ渡れない老人。

 荷物を運べず困っていた商人。

 橋は木でも石でもない。

 人と人を繋ぐもの。

 暮らしを繋ぐもの。

 その想いが胸へ落ちた瞬間、頭の中で散らばっていた術式が一本の線になった。

「……そうか。」

 思わず声が漏れる。

「橋じゃない。」

「村の暮らしを創るんだ。」

 右手を前へ差し出す。

「――創生。」

 七色の魔法陣が足元から広がった。

 複雑な術式が幾重にも重なり、大地を淡く照らしていく。

 村人たちは息を呑んだ。

「きれい……。」

 誰かが小さく呟く。

 魔力がゆっくりと流れ始める。

 川底から石が押し上げられ、新たな橋脚を形作っていく。

 橋桁が少しずつ組み上がる。

 術式は安定していた。

(いける。)

 そう思った、その時だった。

 橋脚へ流していた魔力を橋桁へ接続した瞬間、わずかな違和感が走る。

(……違う。)

 橋脚は川底の魔力脈と共鳴している。

 しかし橋桁は独立した術式として組み上げてしまっていた。

 二つの流れが噛み合わない。

 ほんのわずかな誤差。

 それだけで巨大な橋全体の均衡が崩れていく。

「しまっ……!」

 急いで術式を書き換えようとする。

 しかし、遅かった。

 橋脚から細かな亀裂が走る。

 次の瞬間。

 轟音とともに橋全体が崩れ落ちた。

 石が砕ける。

 木材が川へ飲み込まれる。

 激しい水しぶきが舞い上がり、辺りへ降り注いだ。

 ――静寂。

 誰も何も言わない。

 さっきまでの期待が、一瞬で止まった。

 アイリスはその場から動けなかった。

 拳を握る。

(失敗した。)

 村も調べた。

 橋も調べた。

 それでも届かなかった。

 俯いたまま、小さく声を絞り出す。

「……ごめんなさい。」

 風だけが吹き抜ける。

 その沈黙を破ったのは、村長だった。

「ありがとうございます。」

 穏やかな声だった。

 アイリスはゆっくり顔を上げる。

「橋は完成しませんでした。」

「ですが、あなたは私たちの暮らしを、本気で考えてくださいました。」

 村長は静かに笑う。

「橋を見たのではなく、私たちを見てくださった。」

「それだけで十分ありがたいのです。」

 その言葉に、周囲の村人たちも次々と頷いた。

「ありがとう。」

「頑張ってくれて。」

「残念だったな……。でも、ありがとう。」

「また考えてくれたら嬉しい。」

 責める人は一人もいなかった。

 子どもたちが駆け寄る。

「お姉ちゃん!」

「次はできるよ!」

「待ってる!」

 その笑顔を見た瞬間、胸が熱くなる。

 失敗した。

 迷惑も掛けた。

 それなのに、誰も怒らない。

 誰も責めない。

 こんなにも優しい世界があることを、アイリスは初めて知った。

 隣へ足音が止まる。

 ゼノスだった。

 崩れた橋を眺めたまま、静かに口を開く。

「失敗は悪くねぇ。」

 アイリスは黙って聞く。

「悪いのは。」

 一拍置く。


「考えるのをやめることだ。」

 その言葉が胸へ深く染み込む。


 アイリスは崩れた橋を見つめた。

 まだ終わっていない。

 終わらせたくない。

 もう一度。

 今度こそ。

「……はい。」

 小さく頷く。

 その瞳には、昨日までなかった強い光が宿っていた。

     ◇

 夜。

 村の空き家を借りると、アイリスはすぐに机へ向かった。

 紙を広げる。

 橋脚。

 橋桁。

 魔力循環。

 川底の魔力脈。

 失敗した理由を一つずつ書き出していく。

「橋脚と橋桁を別々の術式として考えていた……。」

「橋全体を一つの術式として考えないと。」

 鉛筆は止まらない。

 一枚。

 また一枚。

 紙が積み重なっていく。

 夢中になっていると、不意に肩へ柔らかな温もりが掛かった。

 毛布だった。

 振り返ると、半分眠そうなゼノスが立っている。

「風邪ひくぞ。」

 それだけ言うと、大きく欠伸をしながら部屋を出ていく。

「……ありがとうございます。」

 自然と笑みがこぼれた。

 もう一度、設計図へ向き直る。

 その時。

 右手が、ほんのわずかに震えた。

「あれ……?」

 一瞬だけだった。

 何度か手を握ると震えは収まる。

「考えすぎですね。」

 小さく笑い、自分へ言い聞かせる。

 そして再び鉛筆を走らせた。

 窓の外では、東の空が少しずつ白み始めていた。

 机の上には、新しい設計図が少しずつ形になっていく。

 アイリスは静かに頷いた。


「……今度こそ。」


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