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虹色の稚魚と、夜明け前のボストンバッグ

作者: さこ丸
掲載日:2026/03/15

深夜、ひっそり現れる小さな食堂――水槽食堂。

壁一面の水槽には、あなたの心の色を映す魚たちが泳いでいます。

トラ猫のマスターがそっと差し出す一杯と、静かな光が、今日のあなたに寄り添います。

どうぞ、肩の力を抜いて、一皿だけ、心を休めてください。

 深夜零時。

 日付が変わった瞬間に、大きなボストンバッグを持った青年が店に入ってきました。

 彼は春から新しい街へ行くことになっているのですが、期待よりも不安で押し潰されそうになっていたのです。


「にゃあ(いらっしゃい)」


 トラ猫のマスターが迎えてくれましたが、青年はうつむいたまま、カウンターの端に小さくなって座りました。


「……僕、逃げ出したいんです」


 青年は震える声で言いました。

 新しい環境、知らない人たち。自分なんかに務まるはずがない。失敗したらどうしよう。そんな恐怖が、夜になるたびに膨れ上がっていたのです。


 水槽の中を覗くと、そこには魚の姿が見当たりません。

 いいえ、よく見ると、水の色と同化してしまいそうなほど透明で、ひ弱な魚たちが、岩陰に隠れてじっとしているのが見えました。


『あれは、不安の魚だね。透明なのは、自信がないからだ』


 マスターの声に、青年は唇を噛みました。

 そう、自分は空っぽだ。何の実績もない、ただの臆病者だ。

 コト、と置かれたのは、鮮やかなオレンジ色の温かい飲み物でした。


 『ホット・サンライズ・オレンジティー』


 一口飲むと、甘酸っぱい柑橘の香りが鼻腔をくすぐり、体の芯からポッと明かりが灯るような感覚がしました。


『逃げるのは、悪いことじゃない。でも、君はここに来た。その重い荷物を持ってね』


 マスターは、青年の足元のボストンバッグを見つめました。


『本当に逃げ出したいなら、荷物なんて捨てていただろう? 君がそれを握りしめているのは、向こうに行きたいという願いがあるからだ』


 青年はハッとしました。

 怖い。でも、新しい世界を見てみたい。その気持ちだけは、確かにこのバッグの中に詰まっている。


 その時です。

 透明な魚たちが隠れている岩陰から、ピカッ、と小さな光が生まれました。

 それは小指の先ほどの、本当に小さな稚魚でした。

 けれど、その体は七色に輝いています。赤、黄、緑、紫……まるで小さな虹が泳いでいるようです。


『おや。虹色の稚魚だね』


「……虹色?」


『それは「好奇心」だよ。不安という岩陰の奥には、必ず希望の稚魚が隠れているんだ』


 虹色の稚魚は、小さく尾びれを振って、スイスイと広い水槽の中央へ泳ぎ出しました。

 すると、岩陰にいた透明な魚たちも、恐る恐る、その後ろをついていき始めました。

 先頭を行く小さな光が、臆病な心たちを導いているのです。


『今はまだ小さくても、その虹色は君の道標になる』


 青年は、カップに残った温かいオレンジティーを飲み干しました。

 酸味の奥にある確かな甘さが、背中を押してくれている気がしました。


「……行ってみます。とりあえず、行くだけ行って、ダメならまたここに来ます」


 青年が立ち上がると、マスターはニッと笑って、親指(のような爪)を立てて見せました。


「ニャア(いってらっしゃい)」


 店を出た青年の足取りは、来た時よりも少しだけ大きく、力強くなっていました。

 バッグの中の重みは、これからの希望の重さでもあるのです。

久しぶりのトラ猫シリーズです。新生活を始める方々への応援の気持ちを込めて。

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