虹色の稚魚と、夜明け前のボストンバッグ
深夜、ひっそり現れる小さな食堂――水槽食堂。
壁一面の水槽には、あなたの心の色を映す魚たちが泳いでいます。
トラ猫のマスターがそっと差し出す一杯と、静かな光が、今日のあなたに寄り添います。
どうぞ、肩の力を抜いて、一皿だけ、心を休めてください。
深夜零時。
日付が変わった瞬間に、大きなボストンバッグを持った青年が店に入ってきました。
彼は春から新しい街へ行くことになっているのですが、期待よりも不安で押し潰されそうになっていたのです。
「にゃあ(いらっしゃい)」
トラ猫のマスターが迎えてくれましたが、青年はうつむいたまま、カウンターの端に小さくなって座りました。
「……僕、逃げ出したいんです」
青年は震える声で言いました。
新しい環境、知らない人たち。自分なんかに務まるはずがない。失敗したらどうしよう。そんな恐怖が、夜になるたびに膨れ上がっていたのです。
水槽の中を覗くと、そこには魚の姿が見当たりません。
いいえ、よく見ると、水の色と同化してしまいそうなほど透明で、ひ弱な魚たちが、岩陰に隠れてじっとしているのが見えました。
『あれは、不安の魚だね。透明なのは、自信がないからだ』
マスターの声に、青年は唇を噛みました。
そう、自分は空っぽだ。何の実績もない、ただの臆病者だ。
コト、と置かれたのは、鮮やかなオレンジ色の温かい飲み物でした。
『ホット・サンライズ・オレンジティー』
一口飲むと、甘酸っぱい柑橘の香りが鼻腔をくすぐり、体の芯からポッと明かりが灯るような感覚がしました。
『逃げるのは、悪いことじゃない。でも、君はここに来た。その重い荷物を持ってね』
マスターは、青年の足元のボストンバッグを見つめました。
『本当に逃げ出したいなら、荷物なんて捨てていただろう? 君がそれを握りしめているのは、向こうに行きたいという願いがあるからだ』
青年はハッとしました。
怖い。でも、新しい世界を見てみたい。その気持ちだけは、確かにこのバッグの中に詰まっている。
その時です。
透明な魚たちが隠れている岩陰から、ピカッ、と小さな光が生まれました。
それは小指の先ほどの、本当に小さな稚魚でした。
けれど、その体は七色に輝いています。赤、黄、緑、紫……まるで小さな虹が泳いでいるようです。
『おや。虹色の稚魚だね』
「……虹色?」
『それは「好奇心」だよ。不安という岩陰の奥には、必ず希望の稚魚が隠れているんだ』
虹色の稚魚は、小さく尾びれを振って、スイスイと広い水槽の中央へ泳ぎ出しました。
すると、岩陰にいた透明な魚たちも、恐る恐る、その後ろをついていき始めました。
先頭を行く小さな光が、臆病な心たちを導いているのです。
『今はまだ小さくても、その虹色は君の道標になる』
青年は、カップに残った温かいオレンジティーを飲み干しました。
酸味の奥にある確かな甘さが、背中を押してくれている気がしました。
「……行ってみます。とりあえず、行くだけ行って、ダメならまたここに来ます」
青年が立ち上がると、マスターはニッと笑って、親指(のような爪)を立てて見せました。
「ニャア(いってらっしゃい)」
店を出た青年の足取りは、来た時よりも少しだけ大きく、力強くなっていました。
バッグの中の重みは、これからの希望の重さでもあるのです。
久しぶりのトラ猫シリーズです。新生活を始める方々への応援の気持ちを込めて。




