アミデア神殿
かつて、ミッダ神教の聖地であったアミデア神殿は、風化した練り煉瓦の外観と一部崩落したレリーフのせいで、世間からは遺跡扱いされている。
しかし現王政権に存続が認められ、ミッダ神教のシンボル的神殿として今も機能している。
毎朝毎夕、神職が祈祷を欠かすことはないし、少ないながらも訪れる巡礼者のために、神殿の隅々まで掃除と修繕にも余念がない。
乾燥した砂色の外観とは異なり、神殿内部は白色の漆喰が塗られ、夜間の祭事に灯される灯火台に煤汚れもない。
信仰の対象であるア・ミッダが安置されている最奥の礼拝堂は、黒基調の漆喰が塗られており、吹き抜けの三角屋根から射し込む陽光が、ミッダ神像と七つの宝具『ア・ミッダ』に荘厳さと厳粛さ・神々しさ・聖櫃さを演出している。
「パラ・ダミア コクォーロ デ・イ スクゥーウ」
礼拝堂に設えられた巡礼者用の椅子と祭壇を拭き清め、供え物をして片膝をつき、祈りの手を天に伸ばした少年がア・ミッダを讃える一節を唱えた。
少年の名はパッシュ。
アミデア神殿を守護管理するミッダ神教神職の一族の最年少で、次の雨季には十六になる。
質素なシャツとズボンに神職の証である白い腰巻きを皮帯でとめ、ミッダ信奉者の証である虎皮の首巻きをしている。
浅黒い肌は血筋と日焼けのせいだが、毎日の祈祷や神職以外の肉体労働で筋肉もそれなりにあり、肌艶よく張りがある。
日に焼けた黒髪は赤茶けて巻いているが、端正な顔立ちをより凛々しく神秘的に見せている。
と、朝の祈祷を終え、次の仕事に取り掛かろうとしたパッシュは、ふとした違和感から動きを止め、その正体を探す。
「――大変だ!」
手にしていた道具を取り落とし、声にならない驚きを押し込め、『この一大事を司教である祖父に伝えねば』と、一つ喚いて足をもつれさせながら神殿から駆け出た。
アミデア神殿から谷伝いの参道を走れば半時間ほどでアミデア村に着く。
古くから砂漠地帯の村周辺は田畑が少なく、牧畜や、練り煉瓦や鋳型の工房・卑金属の細工などで生計を立てる家が多く、パッシュが朝の祈祷から取って返しても村人とは会わなかった。
なので、走り詰めで帰宅したパッシュは、呼吸も整わないまま、祖父に異変を伝える羽目になった。
「じ、じいちゃん! た、大変だ!」
「バカモノ! 白衣をまとっているときは司教と呼べと――!? パッシュ……何事だ?」
玄関を開け放って倒れ込むように四つんばいになった孫を叱ったライル司教も、孫の様子にただ事ではない非常を感じたようだ。
この騒ぎにパッシュの母ミリアも玄関に現れる。
「何かあったの?」
ミリアはすぐにパッシュに歩み寄って問いながら、呼吸を整えさせようと背中をさする。ライルも歩み寄りはしたが、威厳を保ち動揺を隠すために泰然と立ち、パッシュの介抱をミリアに任せる。
ようやく話せるようになったパッシュは、顔を上げて祖父を見、唾を飲んで慎重に告げる。
「ア・ミッダが……。ミッダ様の宝具が、失くなってる……」
パッシュの言葉にライルは絶句し、真偽を問いただそうと孫に掴みかかる途中の態勢になり、明らかな動揺を見せた。
ミリアも事の重大さに驚愕したのか、パッシュとライルを交互に見やりながら、口元に手をあて冷静になろうとしているよう。
「ミリア。急いで村長と領主様にこの事を伝えなさい。私は、神殿に向かいこの目で確かめる」
司教という経験からだろう。ライルはミリアに明確な指示を出して、パッシュに同行するように無言で肩に触れて神殿に向かうよう促した。
※
神殿に舞い戻ったパッシュの目には、やはり宝具を失ったミッダ神像があった。
遥か昔、巨大で獰猛な七種の害獣が暴れ回り、ありとあらゆるものが喰われ、その牙と爪と糞は自然さえ脅かし、広大な砂漠を生んだという。
この七頭の獣を、七種の宝具で退治し、平安をもたらした者こそ『ミッダ神』で、ミッダ神教は七種の宝具も含めて奉り、七種の宝具を身に着けたミッダ神を『ア・ミッダ』と呼ぶ。
アミデア神殿をミッダ神教の聖地たらしめているのは、この神殿のミッダ神像が身に付けている宝具が、伝承に登場する実物であるからだ。
しかしこの事実は、パッシュやライルら神職に携わる一族と、一部の統治者にしか明かされておらず、世間的には半信半疑の箔付けと思われている。
故にこれまで盗まれることなどなかったのだ。
「なんということだ……」
「昨日までは、確かにあったのに……」
目の前の現実を受け入れられないのか、ライルは床にへたり込んで弱々しく呟き、パッシュは言わずもがなの言葉をかけた。
パッシュはこんな事態が起こることさえ予想したことはなく、このあと何が起こるのか、これから何をすればいいのかすら分からない。
放心したライルはへたりこんだまま。
と、所存なげに視線を彷徨わせていたパッシュの視界に、ミッダ神像の首もとの輝きを見つける。
「じいちゃん! あれ!」
「……お、おおっ」
パッシュの叫び声にハッとしたライルは神像を見やり、その首から胸へと巻かれた金色の宝具を捕らえ、声をあげた。
七種の宝具のうちの一つ『鎮静の鎖輪』だ。
伝承では獰猛な巨獣たちの巨躯に巻き付け、荒ぶる悪心を封じ込めた宝具とされている。
ライルは祈りの姿勢に座り直し、ミッダ様への感謝を述べてから、パッシュに命じる。
「かの宝具が盗まれずに留められたことは、まさに神のご加護。不埒な輩どもも、かの宝具の効果ゆえ手出しできなかったのであろう。
しかし、悪党どもが盗んだ宝具で悪用を企てたり、かの宝具を再び盗みに来るとも限らぬ。
お前にかの宝具、『鎮静の鎖輪』を託す。その身にたまわってお守りし、盗まれた宝具を取り戻すまで肌身から放さずにおれ。よいな?」
パッシュにはライルの危惧が具体的に分からなかった。しかし、ミッダ神教の最高位にある司教の祖父が厳命するのだ。その命令を疑う余地はない。
パッシュは「かしこまりました」と答え、ミッダ様へ恭しく頭を垂れた。宝具の一つを護衛する重大な使命と、宝具を肌身に着けるというこの身に過ぎた光栄を詫びるためだ。
ライルはミッダ神像へ触れることを詫び、大人二人分の高さにある『鎮静の鎖輪』を台を使って取り外し、奪われた宝具を取り返すことを誓ってパッシュに振り向いた。
パッシュは虎皮の首巻きを解き瞑目して待った。
すぐにライルが歩み寄る足音がし、パッシュの知らない祈りの言葉を口にしながら首に鎖輪をかけられる。
しかし鎖輪は人間の首にかけるには長く、パッシュの膝まで垂れてしまう。ライルはまたミッダ様に詫びながら、二重三重と鎖輪をパッシュの首に巻き付け、シャツと首巻きで隠すように命じた。
「一度、村に戻ろう。今後の方策を検討せねばならん」
「はい」
重々しいライルの言葉に、パッシュは返事することしかできなかった。