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第八章 選択肢


 翌朝、熱は下がっていた。体の節々が痛かったが、凌一は身支度を整え、ややおぼつかない足どりで新阿久山病院に向かった。体がふわふわしていた。


 新阿久山病院に着いた凌一は、三崎医師のもとを訪ねた。

 凌一が三崎医師に言った。物静かで礼儀正しい口調だったが、凌一が三崎医師を見る視線には、苦悩にもがき苦しんだ凌一の恨みが込められていた。

「三崎先生、少し個人的なことをお訊きしてもよろしいでしょうか?」


 三崎医師は微笑みながら問い返した。三崎はもう凌一のことを親しい友人のように感じていた。その言葉には親近感が込められていた。

「何でしょうか?」


 凌一は能面のように無表情に尋ねた。

「先生のご実家は、奈良県北葛城郡沢井町大字112、明神橋から少し上ったところの旧道を入った集落の中にある、あの辺りで三崎家と言えば知らない人はいない旧家ですね」


 三崎がキョトンとした表情で答えた。

「はいそうです。明日野さんがおっしゃるような大した家じゃありませんが……」


 凌一が話を続けた。

「この写真をご覧下さい。これは、先生の同級生の方からお借りした写真です。このマウンテンバイクに乗っているのが先生ですね。白いスニーカーが良くお似合いです」


 三崎がちらっと写真を見て答えた。

「そうです」


 凌一がさらに続けた。

「先生は、高校卒業後、二年浪人された後、大都医科大学に合格された。二回目の合格発表の日、つまり先生の二浪が決まったのは、平成十三年の三月十四日ですね」


 三崎が答えた。

「月日までは覚えていません」


 凌一は少し語気を強めた。

「加害者は覚えていなくても、被害者は覚えているんです。二度目の受験に失敗した浪人が、憂さ晴らしに何の罪もない少女を襲った日です」


 三崎が不審そうに尋ねた。

「明日野さんは何をおっしゃりたいんですか? これでも忙しい身なんで、単刀直入におっしゃっていただきたいんですが……」


 凌一は、視線をわきにそらし、吐き捨てるように答えた。

「いえ、私がお訊きしたかったのはこれだけです」


 三崎が少し不安げに訊いた。

「今のは職務質問ですか?」


 凌一は首を横に振りながら否定した。

「いえ、ただの個人的な質問です。職務質問でも捜査でもありません。私が言いたいことは、先生にはもうお分かりかもしれませんが……」


 三崎が尋ねた。微塵の戸惑いもない落ち着いた様子だった。

「私を逮捕するんですか? 何の容疑ですか?」


 凌一は、恐ろしいほど冷ややかな視線を三崎医師に向けながら答えた。

「逮捕? なぜ私が先生を逮捕しないといけないんですか? 何か身に覚えでもあるんですか? 警察は、市民の安全を守り、犯罪者を適正に処罰し、更生させ、被害者の不幸に報いるためにあるんです。私が先生を逮捕して、誰が更生するんですか? 誰が報いられるんですか? あいにく私は敏腕刑事でも熱血刑事でもありません。被害届の出ていない事件までほじくり返して、犯人を逮捕したいとは思いません」


 三崎が言った。その態度は完全に覚悟を決めた者のものだった。

「それは違います。犯人も苦しんでいるんです。早く逮捕されて楽になりたいんです。自分が、かつて不幸のどん底に陥れた女性を、理不尽に辱めた女性を、愛してしまった男の苦しみがわかりますか? 明日野さん、私を逮捕するんなら、ご自由に。私はその方が楽になります」


 凌一は冷淡に三崎医師を見つめ、物静かに答えた。

「あなたは逮捕されて楽になるかもしれません。でも、彼女はどうするんです。自分を不幸のどん底に陥れ、深い心の傷に八年間も苦しみぬいたあげくに、その加害者を愛してしまった彼女は、それで楽になるんですか? 彼女は八年間も苦しみぬいた末にやっと幸せをつかみかけているんです。その彼女から最愛の男性を奪って、それで彼女が楽になるんですか? 私にはそんなことは出来ません。彼女だけじゃありません。この病院であなたは多くの依存症患者に対して献身的な治療を施していらっしゃる。そして、多くの患者があなたのことを心のよりどころにして、再起を目指している。今後もあなたを頼ってこの病院を訪れる患者は数多く現れるでしょう。依存症の治療に対して十分な知識や熱意を持つ医師が世の中にほとんどいない、この日本で、患者からあなたを奪ったら、それで回復の道を閉ざされる患者が、いったい、何人いると思っているんですか?」


 三崎は沈黙した。凌一が言った。

「私はこれで失礼します」



 凌一が去った後、三崎は自分の診察室に呆然と立ち尽くしていた。回診の時間になった。三崎は看護師にうながされて院内を回診した。可奈子のベッドに近づくにつれて心臓の鼓動が激しくなった。口がカラカラに渇いた。とうとう可奈子のベッドのところまで来た。


 三崎が引きつった笑顔を浮かべて言った。

「どう? 変わりはないかい?」


 可奈子が明るく答えた。

「はい、おかげさまで……」


 可奈子は平静を装っていたが、内心、毎日この瞬間が不安でたまらなかった。自分は、自分の過去のことをあの刑事に打ち明けた。三崎にも話してくれるように頼んだ。あの刑事は、約束を守ったに違いない。だとしたら自分がかつて暴漢に陵辱された女であることを、純潔の女でないことを、三崎はもう知っているだろう。三崎の気持ちはもう離れてしまったんだろうか? いや、そんなことはない。三崎の様子は何も変わっていない。可奈子は自分の不安を自分で打ち消した。


 その日も三崎はいつもと変わらぬ様子を装っていた。しかし、白衣の下の足はガタガタと震えていた。


 強姦魔とその被害者が、互いに愛する者として向き合った瞬間だった。


 しばらく経って、入院患者が中庭に出ることが許される時間になった。最近は、ほとんど毎日のように可奈子のところに三崎が来て、二人で中庭に出ていた。リクリエーションルームで可奈子がピアノを弾いたり、中庭のベンチに腰掛けて談笑したりするのが二人のささやかな幸せの時間だった。


(今日も三崎先生は来てくれるのかしら?)


 可奈子は、そわそわしながら待っていた。いつもどおりに三崎が現れた。可奈子は思った。これは、三崎の気持ちが変わっていないと言う意思表示なんだと……。


 三崎が微笑みを浮かべながら言った。

「可奈ちゃん、行こうか?」

「はい」


 可奈子はニッコリと微笑んで、ベッドから立ち上がった。二人は閉鎖病棟を出て、中庭のベンチに腰掛けた。

その日は、どんよりとぶ厚い雲が空一面を覆っていた。可奈子はうつむきながら、思い切って三崎に質問した。消え入りそうなか細い声だった。


「三崎先生、私のこと、明日野さんから聞いたんですか?」


 自分の質問に対する三崎の答えに怯える可奈子に、三崎がやや硬直した表情で答えた。

「ああ、聞いたよ」

「先生の気持ちは変わらないんですか?」

「変わらない。僕は可奈ちゃんが好きだ。発作を起こしてこの病院に運ばれた時、君は嘔吐物と血にまみれていた。腐乱死体のような姿だった。でも、看護師さんに綺麗に汚れをふき取ってもらった君の姿を見た時、僕には泥沼の中から宝石が出てきたように思えた。今思えば、僕はもうあの時から君のことが好きだったんだ。僕が最初に見たのは、君の一番醜い姿だった。放火のことも覚せい剤のことも聞いていた。それでも、僕は君のことを好きになった。今更、何を聞いても僕の気持ちは変わらない」


 可奈子は大きな瞳を潤ませながら震える声で、

「うれしい……」


 三崎は辛そうに、

「僕の気持ちは変わらない。でも、前にも言ったけど、君に愛される資格がないのは僕の方なんだ」

「先生に愛される資格がないなんて、そんなことありえない。絶対にありえない。そんな悲しい事、言わないで……」


「……」


 三崎は何も答えなかった。自分を信じ、恋慕うこの愛しい娘に本当のことは言えない。それは自分のためだけではなく、可奈子のためにも、可奈子を再び絶望の底につき落とさないためにも、言えないことだった。


 三崎は苦し紛れに話をそらした。

「可奈ちゃん、僕の気持ちは変わらない。でも、君はまだ、裁判の判決を待つ身だし、この病院での治療も終わっていない。措置入院とはね、重い精神病の患者を県知事の命令で強制的に精神病院に入院させる措置なんだ。君は、まだ、法律的には重症の精神病患者の扱いなんだ。この処分を解くためには、二人の精神保健指定医によって、措置入院の必要がなくなったと診断される必要がある。この病院では、医長と院長の診断が必要なんだ。だから、君は焦らないでゆっくりこの病院で療養するんだ。僕はどこにも行かない。どこにも逃げはしない。二人のことは、ゆっくり考えればいい」


 三崎の言葉を聞いて、可奈子はニッコリと微笑んだ。その微笑を見た三崎は、自分の心臓をかきむしりたいほどの辛さを感じた。


 ポタポタと雨が降り始めた。三崎は可奈子の肩にそっと手をあてて言った。

「雨が降り出したね、今日は、もう戻ろうか」


 その夜、雨はあがっていた。勤務を終えて自宅に戻った三崎は、夜空の星を眺めながら考えていた。


 星より気高い光はなく、その気高さは何者も汚すことは出来ない。しかし、光あるところには必ず影があり、この影を好んで住み着く魔物がいる。


 生き物の営みには必ず幸福と不幸があり、それは時として運命という実在さえ疑わしいものによって定められ、何者とてそれに抗うことは出来ない。


 自分にとって可奈子より愛しいものはなく、花の美しさとてそれには及ばない。美しい花に虫食いがあるのは珍しいことではない。しかし、自分が可奈子に与えたものは、花の虫食いに例えるにはあまりにも痛々しい。


 時よりも正しいものはなく、距離よりも確かなものはない。

 時の流れが途絶えることはなく、距離の長短に感情の関わる余地はない。

 時の流れはあまりにも冷徹であり、自分と可奈子は疑いなく同じ時の流れの中を生きている。

 愛情が距離で隔てられることは、この上ない悲しみであるが、憎悪が距離で隔てられることは、この上ない安心をもたらす。

 肉体を距離で隔てることは出来ても、心を距離で隔てることは出来ない。

 互いに愛し、あるいは憎しむものが見上げる星は、いかなる距離を隔てようとも、耐え難く、苦しいまでに同じ星である。


 今、同じ時の流れの中を生きながら、可奈子と自分との間には、閉鎖病棟の鉄の扉という超えられない壁がある。しかし、窓の鉄格子の隙間から可奈子が見上げているものは、自分と同じ夜空の星ではないのか?


 この余りにも歴然とした当たり前の事実にいったい自分はいつまで耐えられるのか?


 同じ頃、可奈子は閉鎖病棟の窓にはめ込まれた鉄格子の隙間から、薄汚れたガラス越しに星空を眺めていた。可奈子は祈った。


(お星様、もしあなたに心があるのなら、どうか三崎先生を明るく、そして優しく照らして下さい。そして、私に生きる希望を与えて下さった三崎先生を安らかで深い眠りにお誘い下さい。三崎先生、お休みなさい。明日の朝、どうかいつものように穏やかな笑顔で私のところに来て下さい。

神様、もしあなたが本当にいらっしゃるのなら、一生に一度だけ私の願いをかなえて下さるのなら、私は誓います。今まで犯した罪を全て悔い改め、清く、潔く生き抜くことを誓います)


 この全身全霊を傾けた切なくも貴い可奈子の祈りは神には届かなかった。




 次の日、三崎は病院を欠勤し、車を走らせていた。三崎の車は国道一六八号線を走り、十津川方面に向かっていた。病院を欠勤することにも、車を走らせることにも、十津川村に向かうことにも、何ら必然性はなかった。簡単に言うと、仕事をズル休みして十津川方面にドライブしているだけだ。


 三崎のマンションから十津川村までは約二時間で着くが、十津川村は日本一大きな村である。十津川村に入ってから、その中心街にたどり着くまでは、さらに二時間近く車を走らせなければならない。奈良から十津川村の中心地である十津川温泉郷まで一六八号線を走るルートは、走ること自体が文字通り『命がけ』であり、ドライビングテクニックに自信のない人には薦められない。それほどに急峻でタイトなワインディングが連続するルートを三崎のマークXは当てもなく走っていた。


 三崎は自宅から新阿久山病院までの通勤にこの車を使っていた。通勤や買い物など、必要な時以外に三崎がハンドルを握ることは少なかった。ドライブ目的で車を走らせたことなどない。三崎は、ただ病院で依存症患者を治療し、自宅に帰って寝るだけの無趣味人間だった。週に三日は当直をこなしていたので、病院で寝ることも多かった。当直や急患時の呼び出しに備えるためには、北葛城郡の生家は遠すぎる。だから三崎は、病院まで車で七~八分程度の賃貸マンションで一人暮らしをしていた。

 実は、生家の蔵には、凌一が持ってきた写真で自分が乗っていたマウンテンバイクがまだ置いてある。凌一が調べている八年前の事件の『物的証拠』である。


(証拠隠滅? 笑わせるな、僕は逃げも隠れもしない)


 三崎はそう思った。精神科医の三崎は凌一の人柄を見通していた。


(来ない、あの刑事は生家の家宅捜索になど絶対に来ない。八年前の事件が立件されないことを誰よりも祈っているのは、あの刑事自身だ)三崎はそう確信していた。その確信は正しかった。


 今、住んでいるのは3LDKのファミリー向けマンションなので、一人暮らしの三崎にはかえって使い勝手が悪かった。

 一人暮らしなら部屋は三つも要らない。それより、広いリビングルームがあるワンルームマンションの方が余程暮らしやすい。しかし、新阿久山病院がある南生駒のような田舎には、単身者向けのワンルームマンションなど見つからなかった。


 もともと神経質できれい好きな性格の三崎は、マンションの室内も病的なほど几帳面に整理整頓していた。仕事以外では一人を好む三崎には部屋を訪れる客人もいない。本当に人が住んでいるのかと疑わせるほど整然とした3LDKのマンションで雑然としていたのは寝室だけだった。

一人での外食に寂しさを感じていた三崎は、食事をほとんどこのマンションで済ませていたが、自炊といってもスーパーの惣菜をチンする程度である。部屋に溜まっていくものは、惣菜の空パックぐらいだった。寝室だけが雑然としていた理由は、三崎の変わった読書癖である。三崎は決して机に向かって本を読まない。リビングのソファで読むこともない。本を読むのは必ずベッドの上だった。仰向けに寝転ばないと読書に集中できない。三崎にはそんな癖があった。


 ベッドで読書していると自然に眠りにつく。目が覚めれば例え夜中でも再び読書を始める。だから、興味のある本のほとんどはベッドの周りに散乱している。寝室の書架にはぎっしりと精神医学関係の図書が並べられていたが、それらは必要な時以外ほとんど読まない。三崎がベッドの周囲にばら撒いたり、平積みにしたりしていたのは、ほとんどが患者やその家族が書いた本だったり、あるいは文集だった。精神障害者団体が発行する機関紙などは、ボロボロになるまで繰り返し読んでいた。依存症患者の治療には、手術はない。処方する薬もごくごく限られている。

依存症の患者を回復させるために最も大切なことは一人一人の患者を良く知り、その患者が依存症になるに至った原因、それは本人の性格の問題だったり、職場だったり、家庭環境だったり、交友関係だったり、それらが複合的に絡み合っていたり様々だが、それを医師が的確に把握し、個々の患者に適切なカウンセリングや教育を行えば、依存症から脱却できる可能性は飛躍的に高まる。三崎はそう考えていた。だからこそ、患者やその家族の立場で書かれたものは、入手できる限りのものを揃えて、それを熟読していた。三崎は医学部の学生時代、勉強量では誰にも負けていなかったが、成績は必ずしも芳しくなかった。医学部では、数学、物理、化学など、圧倒的に理系の科目が多い。実のところ三崎は理系の科目が苦手だったし、好きでもなかった。特に、コンピュータ関係の科目は苦手だった。

ただ、精神医学だけが特殊だった。精神医学はどちらかと言うと文系の分野だった。三崎は精神医学に活路を求め、精神医学にしがみついた。


 ところが近年、精神医学にも脳の働きを科学的に究明し、精神病を理論的に解明した上で治療しようとする考え方が広まり始めた。三崎は再び追い詰められた。ただ、依存症の分野だけが科学的には解明できない、心理学的分野として残されていた。自分の良さを活かせる分野はこれしかない、三崎はそう思った。依存症治療の分野は三崎にとって『最後の砦』であり、三崎は『背水の陣』を布いてそれと向き合った。


 三崎は阿久山院長の本にたどり着いた。それを読んだ三崎は、その本を『聖書』だと思った。その本は、いつも三崎のそばに置かれていた。今でも治療に悩んだ時に読み返す本だった。その本には、依存症治療に対する阿久山院長の経験と知識が集約されていた。それ以上に、阿久山院長の、熱い情熱と温かい人柄がにじみ出ている本だった。精神病院の『強制収容所』的一面を痛烈に批判している部分もあった。


 どうしても阿久山院長の下で働きたい。依存症治療を学びたい。一人でも多くの依存症患者を救いたい。そう思った三崎は、志願して新阿久山病院に飛び込んだ。財政難の新阿久山病院が三崎医師に払える給料は僅かだった。三崎はそんなことを全く気にしなかった。将来ある若者が、新阿久山病院の先の見えない挑戦に合流することについて阿久山院長は懐疑的だった。まだ、それは依存症治療の専門病院などというものが経営的に成り立つかどうか計りかねている時期だった。 

 

「給料なんか要りません。ここで働かせて下さい」


 三崎のその一言に負けた阿久山院長は、三崎を採用した。

 今の三崎は、依存症治療の若手専門医としては間違いなく超一流だった。三崎をこの分野で超一流にしていたものは、疑いなく寝室での奇妙な読書癖だった。


 しかし、結局、前日の夜は、三崎は一度も寝室には入らず、マンションのベランダで今後のことを考えていた。一睡もすることもなく漠然と夜空を眺め、まるで出口のないトンネルのような暗澹たる考えに想いをめぐらせていた。

それでも、翌朝、ハンドルを握る三崎の眼光は鋭く、居眠り運転の心配など微塵も感じさせないものだった。少しでもハンドル操作を誤れば、車は高さ三十メートルはある渓谷の底まで転がり落ちるか、対向車と正面衝突するか、どちらかしかない狭隘なルートをひた走っていた。


(居眠り運転? 望むところだ……)三崎はそう考えていた。しかし、眠気など起きようはずもなく、眠れるはずもなかった。この状況で眠気をもよおす程、三崎の神経は太くない。


 三崎はズタズタになった神経で何かを考え、異様に鋭く血走った目を光らせながらハンドル操作を続けた。

 三崎の車の前を農家の軽トラックが走っていた。その軽トラックは、制限速度四十キロの道路を三十五キロぐらいで走っていた。理由もなく先を急いでいた三崎のイライラは頂点に達した。


 三崎は右カーブを利用して一気にアクセルを踏み込み、その軽トラックを追い越そうとした。反対車線にはみ出した瞬間、対向車線のダンプカーが見えた。ダンプカーは急ブレーキを踏み、三崎は急ハンドルを切った。間一髪で三崎の車は軽トラックの前方にすべり込み、左斜線に戻った。普通なら肝を冷やす瞬間だった。でもその日の三崎には何の感情変化も起こらなかった。ダンプカーと正面衝突したところで、別にどうなるものでもない。三崎はそう思った。


 正午少し前、もう少し正確には十一時四十分頃だろうか? 三崎は、十津川温泉郷の名所のひとつである柳本橋のたもとの側道に車を止めた。橋のはるか下にはエメラルドグリーンの二津野ダム湖がある。ここは世界遺産『熊野古道』の一部、熊野参詣道『小辺路』の入り口でもある。


 三崎は、車を降り、運転席のドアを閉じた。そして、周囲を見渡せる助手席側に回り、車にもたれながらマイルドセブンの封を切り、タバコを一本取り出した。何年もやめていたタバコだった。ライターに火をつけ「スー」と一息タバコを吸った。今度は「ハー」と言いながら煙を吐いた。


 患者の健康を管理する立場の医師がタバコを吸っていたのでは示しがつかない。それがタバコをやめた理由だった。


(もうやめる理由はなくなった。禁煙も終わりだ)


 三崎は柳本橋の欄干のたもとまで歩き、橋の欄干と側道のガードレールの間にある幅三十センチ程の隙間から下を覗き込んだ。そこに階段はなかったが、恐らく橋の維持管理に関わる作業のために人が降りることはあるのだと思わせる獣道が出来ていた。


 三崎は、周りの低木の枝に捕まりながら、橋台のたもとまで急な斜面を降りた。そして、そこからダム湖を見下ろした。高さ三十メートルはある、まるで包丁で切ったような垂直な断崖絶壁だった。普通の人なら、近づくだけで足がすくむだろう。


 三崎はためらうことなく断崖絶壁の目の前まで進み、小さな声でつぶやいた。

「可奈ちゃん、これで勘弁してくれ」


 小一時間そこに立っていただろうか? 三崎は何度も何度もそこからダム湖に向けて落ちていく自分を想像した。でも、結局その想像は実現しなかった。三崎は振り返ってダム湖に背を向け、周りの枝につかまりながら獣道を登り始めた。


「他の方法を考えよう」三崎はそうつぶやいた。


 三崎が『その方法』をやめた理由は、ある映画の1シーンだった。横溝正史の『犬神家の一族』の中で、湖の底に沈んだ男の死体が浮き上がり、両足だけが水面からニョキッと浮かび出るシーンがあった。あんな異様な変死体で発見されたくない。三崎はそう思った。三崎に残された最後のプライドだった。


 三崎の車はその場で転回し、さっき来たルートを逆に戻り始めた。


 その後、約一ヶ月が経過したある日、裁判所の判決が下り、可奈子は放火についても覚せい剤についても執行猶予付きの有罪判決を受けた。これにより、実質的に残されたものは、新阿久山病院での治療だけとなった。

可奈子は退院後、三崎と仲良く街をデートする自分を夢見ながら、平穏な入院生活を続けた。

 客観的に見て、薬物やアルコールへの依存症からもほとんど脱却しているように見えた。

 可奈子は、焦る必要はない。完全に治るまでゆっくり療養すればいいという三崎の言葉を信じて疑わなかった。彼女の措置入院が解除され、退院となる日が遠くないことを誰も信じて疑わなかった。


 ところが、ある日、いつものようにリクリエーションルームでピアノを弾いていた可奈子は、自分の指先に異変を感じた。可奈子は看護師を呼んで言った。

「あの…… 指先が震えて力が入らないんですが……」

「体調が悪い日は部屋でゆっくりした方がいいですよ」


 看護師はそう言って、可奈子をみちびき、閉鎖病棟に戻した。


 ベッドに横になっている可奈子の所に看護師から報告を受けた三崎が来た。

「可奈ちゃん、指が震えるんだって?」


 可奈子は、ベッドに横になったまま、不安げに症状を訴えた。

「はい、今朝から体がだるくて、足元もふらついたりしてたんですが……」


 三崎が微笑みを浮かべながら物静かに答えた。

「長期的な離脱症状だね。単純な薬物依存や、アルコール依存と違って、君はいろんな薬物をチャンポンにして摂取していただろ、だから、治療も一直線に良くはならない。良くなったり悪くなったりを繰り返しながら少しずつ治っていくんだよ」

「でも、今までこんなことはなかったんですが……」


 不安げに問う可奈子に、三崎医師は穏やかな口調で答えた。

「気にすることはない。今まで通り療養を続ければいい。焦らずに治療すれば必ず良くなるから心配しないように」

可奈子は、心配いらない。少しずつ良くなるという三崎の言葉を信じた。そして、可奈子の容態は三崎医師の言うとおり、少しずつ改善した。可奈子は再びピアノを弾ける程度にまで回復した。しかし、数日経つと、また可奈子の容態は悪化し、倦怠感やふらつき、指先の震えに悩まされるようになった。同じようなことが数日周期で繰り返された。



 その頃、凌一が捜査していた連続結婚詐欺事件は、被疑者の拘置期限を迎えようとしていた。連続結婚詐欺事件については被疑者の自供もあり、物的証拠も揃っていたので、問題なく起訴に持ち込むことが出来る見通しだったが、交際相手の男性の連続不審死については、混沌とした状況が続いていた。被疑者も容疑を否認しており、なかなか確証を得るには至らなかった。状況から見て、この女が不審死に関与していることは明らかだった。しかし、被疑者が容疑を否認したまま、物的証拠なしで公判を維持することはかなり難しい。


 週刊誌やワイドショーでは、この女が関わった男性がいずれも不審死していることを大きく取り上げていた。常識的に考えて、この女が無関係とは思えない連続不審死を立件できなければ、警察の権威にかかわる問題である。マスコミの報道に先導される形で警察の捜査が進められる事件は近年増加している。林真須美による和歌山毒物カレー事件や畠山鈴香による秋田連続児童殺害事件がその例である。しかし、マスコミの報道に先導される形で被疑者が逮捕・起訴された事件の中には、三浦和義によるロス疑惑のように最終的には無罪判決が下されているものもある。和歌山毒物カレー事件についても、被告の林真須美は依然として容疑を否認している。


 最高裁による林真須美への死刑判決は、被疑者否認、動機不明、物的証拠なしという状況の中で、『彼女が犯人としか考えられない』という極めて異例な理由で下されたものである。


 しかし、被疑者否認、動機不明、物的証拠なしという状況の中、善良な市民をマスコミが先導する形で、『推定有罪』とし、社会的に抹殺しかけた事件が過去にもあった。一九九四年に長野県松本市で起こった『松本サリン事件』である。


 犯人扱いされた河野義行氏が第一通報者であること、自宅から農薬が発見されたことを『証拠』として、長野県警は任意での事情聴取を装いながら事実上彼をマークしていた。もし、オウム真理教が翌年の『地下鉄サリン事件』を起こしていなければ、未だに河野氏の容疑は晴れていなかったかもしれない。それどころか、逮捕・起訴・有罪判決という最悪のシナリオさえありえた。


 そうした意味で、この種の事件の捜査には凌一は適任だった。凌一はいわゆる『熱血刑事』ではない。何が何でも犯人を逮捕してやろうと情熱を燃やすようなタイプではない。凌一は、ただ、淡々と聞き込みを続け、些細な情報を蓄積させていた。それは、『確たる証拠』には、程遠いものばかりだったが、事情聴取で、被疑者を問い詰めるには十分なものだった。その中で、最も有力な情報と凌一が考え、さらに詳細な情報を収集していたのは、連続結婚詐欺事件の被疑者が、よく魚釣りに行く女性だということだった。


 奈良県に海はないが、香芝から西名阪高速道と阪和自動車道を通り、大阪の泉南地方まで行くと、一時間程度で海に出られる。

 泉南地方で釣れるといえば、キスやカレイ、アイナメ、アジ、イワシ、少し大物としては黒鯛程度である。その魚を狙っている時に、頻繁に針にかかる迷惑な魚が『草フグ』というタマゴぐらいの小さなフグである。フグ料理に使われるトラフグと違って、この小さなフグは、煮ても焼いても食えない(実際にはフグ調理師が料理すれば食用にすることは不可能ではないが、あまりにも小さく、ほとんど食べるところがない)。それでも毒性だけは一人前で、強力なフグテトロドトキシンを持っており、卵巣・肝臓・腸は猛毒、皮膚は強毒、筋肉と精巣は弱毒を持っている。


 フグ毒は産地や季節により変わる、また同定が難しいし交雑魚も多く報告されており実際の毒性はわからないことが多い。しかし、推理小説の花形、青酸カリの致死量が約二百ミリグラムであるのに対し、フグ毒のテトロドトキシンの致死量は約二ミリグラム、つまり、フグ毒は青酸カリの約百倍の毒性を持っていることになる。また、青酸カリには強烈な刺激臭と口に含んだ際の猛烈な苦さがあるため、青酸カリを被害者に気づかれずに二百ミリグラムも摂取させることは不可能に近い。しかも青酸カリは厳重な保管が義務付けられているので、入手も難しい。つまり、推理小説の定番、青酸カリを毒殺の道具として使うのはあまりにも難しい。


 一方、犯罪者は、魚釣りに行けば猛毒を持っている草フグを簡単に捕獲できるし、草フグ自体は何の管理もされていない上、フグ毒のテトロドトキシンは無味無臭ときている。つまりフグ毒は、極めて毒殺に適した道具である。凌一は被疑者が魚釣りに行っていたという泉南の海岸沿いで聞き込みを行い、複数の同じような情報を得た。それは、彼女はよく魚釣りに来ていたが、普通の釣り師なら捨ててしまうような草フグを大切そうに持って帰っていたという証言だった。これは、被疑者がフグ毒を使って一人暮らしの男性を殺害していたという有力な状況証拠だった。


 不審死を遂げた一人暮らしの男性は、誰も司法解剖を受けておらず、遺体も既に焼却されているので、被害者の体からテトロドトキシンを検出することは、今からでは不可能だ。

 しかし、頻繁に魚釣りに行って草フグを持ち帰っていたという事実は、被疑者の女性を追及するには十分な状況証拠だった。実際、被疑者の家宅捜索では、大量の釣り道具が確認されている。


(立件できる)


 凌一は確信めいたものを感じていた。

 その日、久しぶりに凌一は、新阿久山病院を訪れ、可奈子に面会した。しかし、可奈子はいつものように面会スペースには出てこなかった。看護師に尋ねると、可奈子は少し気分が悪く、ベッドで塞ぎ込んでいると言う。

 凌一は、看護師の了解を得て、閉鎖病棟に入り、可奈子のベッドに歩み寄った。凌一は、閉鎖病棟の病室内に入るのは初めてだった。さすがに廃院になった精神病院を買い取って作った病院の閉鎖病棟だけあって、病室内は古めかしく、窓に張り巡らされた鉄格子の隙間から漏れ入る太陽の光が、病室内を格子状に照らしていた。


(まるで古い警察署の留置所だな……)


 凌一はそう感じた。普通の病院の大部屋とは違って、患者と患者の間はカーテンで仕切られてはいない。精神病院にプライバシーなどという高尚なものはない。凌一は、病室全体を見回した。他の患者もドロンとした輝きのない視線を凌一の方に向けていた。


 この病院は、廃院となって今の院長に買い取られる以前は、重症患者向けの精神病院だった。廃院となったのも、ろくな医療をせず、患者をまるで囚人のように扱っているという良くない評判が広がったのが原因だった。恐らく、新阿久山病院となる以前は、この病室内でも、患者たちは不幸な入院生活を送っていたのだろう。いったい、この病室は、今までどれだけ多くの患者の不幸を飲み込んで来たのだろう? それを考えた時、凌一は、漠然とした恐怖を感じた。


 可奈子は、毛布を耳元まで被って、凌一に背を向ける形でベッドに横たわっていた。


 凌一が、可奈子の後ろから、優しくささやくような声をかけた。

「可奈ちゃん、こんにちは、気分が悪いんだって?」


 凌一の声を聞いた可奈子は、ベッドの上で寝返りをうち、凌一の顔を見て小さな声で答えた。

「特に気分が悪いわけじゃないんですけど……」


 看護師が面会者用の丸い椅子を持って来てくれた。凌一は、それを可奈子のベッドの脇に置いて腰掛けた。


 凌一が可奈子に尋ねた。

「どんな具合なの? 僕に話してごらん」


 可奈子は不安げにすがるような視線を凌一に向けて、

「体がだるくなったり、一日中眠かったり、指先が震えたりするんです。でも、いつもそんなわけじゃなくて、そんな症状は、数日で治まるんです。でも数日後には、また同じような症状が出て…… 私、いったい、いつになったら治るんでしょうか?」


 凌一が可奈子に尋ねた。

「三崎先生は何て言ってるんだい?」

「長期的な離脱症状だから、良くなったり悪くなったりを繰り返しながら自然に治っていくから、心配しなくてもいいと……」


 凌一は、可奈子の枕元に、白い紙袋に包まれた粉薬があるのを見た。それを見た凌一は少し不審に思った。通常、薬物依存症やアルコール依存症の患者に対しては、治療初期の数日だけは、離脱症状を緩和するためのごくごく軽い精神安定剤や睡眠導入剤が処方されることがあるが、可奈子のような長期入院患者に対して、いつまでも薬が処方されることはない。


 凌一は可奈子に尋ねた。

「可奈ちゃんは、ずっとこの薬をもらっているのかい?」

「いえ、最初の頃は薬はもらっていませんでした。この薬をもらい始めたのは、最後に明日野さんが面会に来てくれた頃からです」

「三崎先生は、これを何の薬だと言ってるんだい?」

「回復を早める薬だと……」

「そう」


 凌一の心の中に、漠然とした不信感が芽生えた。最後に可奈子を見舞った頃、もう可奈子には依存症らしき離脱症状は出ていなかった。そんな時期から処方される薬というのは、凌一には思い当たらなかった。凌一が尋ねた。


「この薬をもらい始めた頃、可奈ちゃんはどこか具合が悪かったのかい?」

「いえ、そんなことはありませんでした。自分では順調に回復していたつもりでした。この薬も毎日飲んでるわけじゃありません。何日か続けて出された後、何日か出なかったり……」


 それを聞いて凌一は、心の中で首を傾げた。依存症患者に出される薬で、断続的に処方される薬と言えば、ノックビンが思い当たる。しかし、ノックビンは外来患者が誘惑に負けて飲酒することを予防する抗酒剤だ。酒など手に入るはずがない閉鎖病棟に入院している可奈子に処方する意味がわからない。


 凌一が可奈子に訊いた。

「この薬、一包だけもらって帰っていいかな?」


 可奈子が不審そうに問い返した。

「いいですけど、この薬をどうするんですか?」

「いやちょっと…… 深い意味はないんだ。三崎先生が出している薬だから、可奈ちゃんのためにいい薬に決まってるけど、依存症患者に対して、数日おきに処方される薬なら、多分ノックビンだと思うんだ。ノックビンを服用してるんなら、今、可奈ちゃんに出てるような症状が副作用として現れても不思議じゃない。でも、僕の素人知識では、閉鎖病棟に入院してる可奈ちゃんにノックビンを処方する意味がわからない。ひょっとしたら僕が知らない新薬かもしれない。直接、三崎先生に尋ねてみようと思うんだけど、実物があった方が話がし易いだろ」


 それを聞いて、可奈子はむしろ喜んだようだった。

「それなら、ぜひ持って帰って下さい。何の薬か私も気になってるんです」

「わかった。とにかく君は何も心配せず、三崎先生を信じて、ここでゆっくりと療養するんだ」

「はい、そうします」

「それじゃ、近いうちにまた来るから……」


 凌一は、可奈子にそういい残して閉鎖病棟を出た。そして、三崎医師の部屋を訪れた。

「コンコン」と三崎の部屋をノックすると、中から返事があった。三崎医師の声だった。

「はい」

「明日野です。ご無沙汰しておりました。可奈ちゃんを見舞った帰りなんですが、少しよろしいでしょうか?」

「どうぞ、お入り下さい」


 凌一が部屋に入ると三崎医師が穏やかに微笑んで、

「お久しぶりです。どうぞ、おかけ下さい」


 この刑事は八年前の事件のことをこれ以上蒸し返さない。これ以上それを話題にすることはない。三崎はそう確信していた。そのとおりだった。


「ありがとうございます」


 凌一は、三崎医師に一礼して席に着き、話を始めた。

「可奈ちゃんの容態ですが、あまり順調ではないようですね」

「うーん」三崎はそう一言うなって、しばらく考え込んだ。そして、話を始めた。

「依存症の治療では、順調に回復するほうがむしろ珍しいんです。あまり当てになる統計値ではないんですが、依存症の治癒率は約五十パーセントと言われていて、要するに患者の中で、完全に回復するのは二人に一人だと言うことです。成功例の半数もほとんどの患者さんは、治療の段階では何度も挫折を経験します。でも谷口さんの場合は、まだ、閉鎖病棟にいますから、最悪のケース、すなわち『スリップ』はありえません。

それが覚せい剤のような禁止薬物なら『再犯』と呼ぶことになるんでしょうが、麻薬的作用を持つ薬にはアルコールなど合法なものもたくさんあるので、医師は『スリップ』という言葉を使います。

『スリップ』とは、長期間完全に絶っていた薬物やアルコールに再び手を出すことを言います。一旦、『スリップ』した患者は、ほとんどの場合、また、薬漬けの状態に戻ってしまいます。

私は現在の彼女の容態についてはあまり心配していません。心配なのは、やはり退院後です」


「そうですか…… わかりました。ところで先生は可奈ちゃんにノックビンを処方されているようですが、私のような素人には閉鎖病棟に入院している患者にノックビンを処方する意味がわからないんですが……」


 凌一の質問を聞いた三崎医師の肩が一瞬ギクッと震えた。表情も微妙に引きつった。その微妙な変化を凌一の目は見逃すことなく捉えた。


 三崎医師はすぐに平静な表情を取り戻して答えた。

「ああ、あの薬ですか? 確かにノックビンです。抗酒剤にはノックビンとシアナマイドがありますが、ノックビンが粉薬や錠剤で服用しやすく、保存も楽なのに対し、シアナマイドは液剤で、しかも冷蔵保存する必要があります。

今は、液体は飛行機にも持ち込めない時代です。だから、シアナマイドは旅行の時などに不便なんです。でも、実際の医療現場で患者さんに処方されている薬としては圧倒的にシアナマイドの方が多いんです。

私は、彼女が退院後も安全に回復を続けるためには、抗酒剤は必要だと考えています。でも、出来ることなら、飛行機に持ち込めないとか、冷蔵保存する必要があるなどの理由で、服用が途絶えやすいシアナマイドを使いたくないんです。

ただし、長期間同じ薬を服用する場合には、副作用について注意する必要があります。ほとんどの医師がノックビンではなく、シアナマイドを処方している理由が副作用にあるなら、医師としてノックビンは諦めざるをえません。

実際、今、彼女が訴えている諸症状は、ノックビンの副作用かもしれません。でも、抗酒剤の副作用は、次第に体がなじんで症状が出なくなるという報告も多いんです。ですから、私は、もし彼女の体がノックビンに適応できるものなら、入院中になじんでおいて欲しいんです。彼女にノックビンを処方しているのはそのためです」


 凌一は、三崎医師の説明を聞いて、大げさにうなずき、

「なるほど、そう言う理由でしたか…… いや、よくわかりました。先生の深いご配慮には感服しました。ご丁寧な説明、ありがとうございます」


 凌一は席を立ち、深々と一礼して三崎の部屋を出た。凌一は、可奈子から薬を一包預かっていたことは三崎に言わなかった。それは、三崎の説明に何か釈然としないものを感じていたからである。可奈子の今の症状が本当にノックビンの副作用なら、三崎はなぜその理由を可奈子に対して長期的な離脱症状などと言う必要があったのか? さっき、凌一に対して説明したとおりのことを話せばよかったのではないか?



 新阿久山病院を出た凌一は、その足で、中井姉妹の父、真治の医院を訪ねた。ちょうど、午後の休診時間中だった真治は、凌一を自分の部屋に招き入れた。


 凌一は、可奈子から預かった粉薬の包みを真治に見せながら言った。

「お父さん。この粉薬なんですが、何という薬か調べていただくことは可能でしょうか?」

「何の薬か調べる?」真治が不思議そうに言った。

「そうです」

「この薬は誰が誰に処方したものなんだい?」


 真治の質問に凌一が答えた。

「薬物依存患者に対して精神病院で処方されたものです」

「何かの事件に使用された薬かい?」

「いえ、事件に使用された薬なら警察の科捜研で分析しますが、今のところ事件性はないので……」

「事件性がないのに、どうして刑事の君が薬の分析なんかするんだい?」


 その質問に凌一は一旦沈黙し、言葉を選びながら答えた。

「この薬を処方されている患者さんが少し体調を崩しています。主治医はノックビンという薬の副作用だから心配ないと言っています。私はその患者さんの症状が本当にノックビンの副作用かどうか知りたいんです」

「ノックビン? 聞いたことないな…… 君とその患者さんはどういう関係なんだい?」

「放火の容疑で私が逮捕しました。逮捕後に覚せい剤やアルコールなど、あらゆる薬物の依存症になっていることも発覚しました。その患者は、今、薬物依存治療の専門病院に入院しています」

「わかった。薬の成分分析をしてくれる試験機関は知っているから、そこに頼んでみよう」

「ぜひ、お願いします」


 凌一は、そう言って一礼し、真治の医院を出た。


 その日の夜、凌一は、久しぶりにフリーライターの榎本真由美と約束していた。以前、凌一に連れられて行った四位堂駅前の洋風居酒屋を気に入った真由美が凌一を誘うのはいつもその店だった。真由美は、週刊誌に連続結婚詐欺の容疑で逮捕された女に関わった一人暮らしの高齢者が何人も不審死している問題について連載記事を載せていた。


 カルピスサワーを片手に、真由美が人懐っこい笑顔を浮かべて、

「凌ちゃん、今日は私の奢りだからとことん行こうね」


 凌一が皮肉っぽい笑顔を浮かべた。

「奢ってもらうわけにはいきませんが、真由美さん、羽振りがよさそうですね。連続不審死の連載記事、えらく売れてるそうじゃないですか」

「確かにあの連載記事のおかげで羽振りがいいのは事実よ。でも、凌ちゃん、私の性格知ってるでしょ? 私は、ただ、読者の興味を引けばいい、記事が売れればいい、それだけの目的で事件を追ってるわけじゃないわ。私が追ってるのは社会正義よ」


 凌一はビール片手に穏やかな笑顔を浮かべて言った。繊細な優しさがにじみ出ている凌一の端正な笑顔を真由美はじっと見つめていた。

「わかってますよ。真由美さんがただ読者の興味をそそるだけの低俗な記事を書くライターだったら、僕が、ここにいるわけがないでしょう」


 真由美が鋭い視線を凌一に向けた。

「私の信念を理解してくれてありがとう。そこでお願い。凌ちゃん、教えて、あなた何か掴んだでしょう」

「ええ、掴みましたよ。あの女については殺人容疑で近々逮捕状を請求するつもりです」


 真由美が両手をスリスリしながら凌一にせっついた。

「お願い、何を掴んだの? 教えて、凌ちゃんが逮捕状を請求すると言うことは、公判を維持するのに十分なものを掴んだってことでしょ? 教えて、お願い! それがわかれば大スクープだわ」


 凌一が穏やかな微笑を浮かべながら、

「僕はしらけた『サラリーマン刑事』ですよ。僕が掴んだ情報なんか当てになりません。真由美さん、とんでもないガセネタを掴まされても知りませんよ。それに、僕は世論を味方につけるために捜査情報をマスコミにリークするつもりはありません」


 それを聞いた真由美は、顔を紅潮させながら心外な表情で言った。

「マスコミ? 凌ちゃん、ひどいことを言うのね。以前、葛城南高校の事件の時、二人で命がけで戦ったことを忘れたの? 凌ちゃんにとって、私は共に命をかけて戦った戦友よ。大勢いるマスコミのうちの一人じゃないはずよ!」


 凌一は、大げさに右手を左右に振りながら慌てて否定した。

「とんでもない。僕にとって真由美さんは戦友であり恩人です。マスコミの中の一人なんて、そんなふうには考えてません」


 二人は、結局、その店で夜遅くまでと議論をしていたが、その日、その店は満席の賑わいだったので、二人の話はそれ以上聞き取れなかった。


 ついに真由美のスクープ記事が週刊誌に掲載された。タイトルは『釣り好きの女』だった。その情報が凌一のリークによるものかどうかは最後までわからなかった。


 それから数日後、連続結婚詐欺事件の聞き込みを続けていた凌一の携帯が鳴った。真治からの電話だった。

「こないだの薬の分析結果が出たよ。説明するから、来てもらえるかな?」

「わかりました。これからすぐに向かいます。四十分ほどで着くと思いますので」

「それじゃ、待ってるから」


 凌一は、携帯をポケットに収め、真治の医院に向かった。


 真治の部屋に入った凌一に真治が言った。

「薬の成分がわかった。クロルプロマジンという強力な向精神薬だ。投薬の対象となるのは、重症の統合失調症・躁病・神経症患者等だが、副作用や依存性が強いという欠点があるので、精神科医はやむをえない場合以外は使わないようにしているはずだ。少なくとも言えることは、薬物依存症患者に処方する必要は全くない薬だと言うことだ。薬物依存患者にクロルプロマジンなんか処方したら、今度はクロルプロマジンの依存症になってしまうだろう。向精神薬というのは、麻薬の親戚みたいなものなんだ。作用も良く似てる。薬物依存患者にこれを処方すると言うのは、違法な麻薬を止めさせる代わりに合法な麻薬を与えてるようなものだ。

凌一君、事情は良くわからんが、とにかく急いで、この薬を処方されてる患者さんを保護するんだ。保護してすぐなら、尿検査や血液検査で薬の服用歴も証明できる。医療法違反に該当する不適切な処方を受けてたのなら、それも証明できる。そんなことより、薬物依存症の患者にこんな薬を投与するなんて、まともな医療とは思えない。患者の健康が心配だ。もし、警察が動かないと言うのなら、私が奈良県精神保健福祉センターに直訴する」


 それを聞いた凌一は仰天した。そして尋ねた。

「どんな副作用が出るんですか?」

「軽い副作用としては、倦怠感や眠気、手足の震えなどが出る。重い場合は、パーキンソン症候群や悪性症候群が出る」


 真治の話を聞いた凌一は愕然とした。次の言葉が見つからなかった。凌一はかろうじて真治に一礼し、可奈子が服用していた薬の成分表を手に真美署に向かった。

 真美署の刑事課には、たまたま全員が署に戻っていた。


 凌一は、自分の席に着き、渡辺の方を見て言った。

「課長、重大な相談事があります。他のみんなも聞いて欲しい」


 普段とは違う凌一の深刻な表情を見た渡辺が尋ねた。

「どうした? 言ってみろ」


 凌一が話を始めた。

「新阿久山病院を強制捜査させて下さい」

 渡辺が眉間にしわを寄せて不審な顔で尋ねた。

「新阿久山病院って、あのアル中、ヤク中治療の専門病院か? なんであそこを強制捜査するんだ? 容疑はなんだ?」

「容疑は麻薬及び向精神薬取締法違反ならびに公文書偽造です。患者に対する不適切な向精神薬の投与は、麻薬及び向精神薬取締法違反にあたりますし、カルテに虚偽の記述があれば、公文書偽造にあたります」


 渡辺は首を傾げながら質問を続けた。

「その根拠は? もっと具体的に言ってみろ」


 凌一は、しばらく沈黙した後、ゆっくりと話し始めた。

「以前、明和署の管内で、自動車に放火した女性を逮捕しました。その女性の尿からは覚せい剤反応が検出されました。この件は、課長もご存知ですね」

「ああ、覚えてる。取調べ中に女が離脱発作を起こしてお前が噛み付かれた上にゲロを吐きかけられた件だろ。あの女にはもう判決が出ている。放火についても覚せい剤についても執行猶予付きの判決を受けて、今は、新阿久山病院に入院しているはずだ」

「そのとおりです。話はそこからです。

彼女が新阿久山入院に入院してから、私は何度か面会に行きました。彼女は、あの病院で三崎という若い医師に治療され、日に日に良くなっていきました。そして、何度か彼女と面会しているうちに、私は、彼女の性格が覚せい剤や他の薬物、アルコール等にのめり込り、放火までやるようになるほど、ゆがんでしまった理由を知ったんです。

彼女は、もともと裕福な良家の娘で、中学までは品行のよい優等生でした。その彼女が変わってしまったのは、十六歳の時に塾の帰りに暴漢に襲われ、強姦されてしまったからです。彼女が襲われたのは平成十三年の三月十四日の午後十時頃、現場は明神橋の下の河原です。彼女は目出し帽を被った男に包丁を突きつけられ、恐怖で何の抵抗も出来ずに辱められました。何の抵抗もせずにかすり傷ひとつ負わず、陵辱された自分を恥じた彼女は、警察に被害届けを出しませんでした。彼女の生活が荒れ始めたのはそれからです。

私は彼女の口からそれを聞きましたが、強姦は親告罪なので彼女が被害届けを出さない限り、警察に捜査権限はありません。しかも事件は八年前の出来事です。彼女は犯人の特徴を何一つ覚えていませんでしたし、もちろん犯人の遺留品もありません。今更、被害届けを出したところで犯人が逮捕できる可能性は限りなくゼロに近い。私はそう思いました。

そうは言っても私も警官の端くれです。彼女を辱め、八年間も苦しめたのが、いったい、どこの誰なのか突き止めてやりたいと思いました。

自宅謹慎処分を受けてまで、私が課長に無断で明神橋付近の聞き込みをしたのはそのためです。

聞き込みの結果、日付も時間もはっきりしないんですが、十年近く前、目出し帽を被った男が、明神橋から慌てて逃げていく姿を見たという目撃者を見つけました。目撃者の話では、目出し帽の男は当時二十歳前後で、明神橋から少し離れた田んぼのあぜ道に止めてあったマウンテンバイクに乗り、そこから少し上ったところにある旧道を通って逃げて行ったとのことです。

その旧道の奥には、三十三件の民家があります。私は久保に頼んで、その民家に住む今現在三十歳前後の男を洗い出してもらいました。その結果、該当する人物は、たった一人しか浮かんできませんでした。その男とは、現在、新阿久山病院で谷口可奈子の主治医をしている三崎医師です。

私は直接、三崎医師に会い、この件について問い詰めました。もちろん、谷口可奈子が強姦された件は、犯罪として立件されていませんので、あくまで個人的に尋ねたんです。

三崎医師はこう言いました。

『私を逮捕するんならご自由に、犯人も苦しんでいるんです。早く楽になりたいんです』

本当は、この時点で谷口可奈子を説得し、被害届を出させた上で、三崎医師を逮捕すべきだったのかもしれません。でも、私にはそれが出来ませんでした。その理由は、三崎医師と谷口可奈子の間に恋愛感情が芽生えていることを知っていたからです。過去はどうあれ、現在の三崎医師は、薬物やアルコールの依存症患者を治療することに人生を捧げている優秀で誠実な医師です。そして、三崎医師の献身的な治療に谷口可奈子は心を開いた。そして二人はいつしかお互い愛し合う仲になった。もちろん、お互いに、強姦の被害者と加害者という過去があることを知らずにです。

でも、現在、彼女は三崎医師の治療のおかげで素直な明るい自分を取り戻し、一途に三崎のことを慕っています。また、三崎医師の彼女に対する愛情にも偽りはありません。今更、八年も前の事件をほじくり返して、三崎医師を逮捕したところで、一体誰が救われるんでしょう? 谷口可奈子は、十六歳の時に凌辱され、長年苦しみぬいた末に、やっと三崎という男性に心を開き、幸せになりかけているんです。その彼女に、三崎医師は、本当は八年前に君を強姦した男だと知らせれば、彼女のショックは計り知れないものです。私にはそんなことは出来ませんでした。

結局、私は二人の今後のことは二人に任せておこうと考えたんです。このとき、私の中にはいくつかのストーリーが描かれていました。

・三崎が本当のことを可奈子に告げたうえで、可奈子がそれを赦し、二人の恋愛は成就する。

・三崎が本当のことを可奈子に告げた結果、二人の恋愛は破局する。

・三崎は本当のことを可奈子に告げないまま、二人の恋愛は成就する。

・三崎は本当のことを可奈子に告げないまま、自分の過去を赦せない可奈子が自ら身を引く。

でも、結果は、私が想像していたいずれとも違うものでした。これがその証拠です」


 凌一は、一包の粉薬とその成分分析報告書を差し出した。

 渡辺は、その粉薬の包みを見ながら凌一に尋ねた。

「何だ? これは……」

「クロルプロマジンという強力な向精神薬です。投薬の対象となるのは、重症の統合失調症・躁病・神経症患者等です。ヤク中やアル中患者に投与されるような薬じゃありません。しかし、三崎医師は可奈子にこの薬を投与していました。しかも周期的に……」


 渡辺が首をひねりながら凌一に尋ねた。

「どういうことなんだ? さっぱりわからん」

「クロルプロマジンは、向精神薬としては最初に発明された非常に古い薬品で、副作用と依存性が強いという欠点があります。この薬を投与すれば、患者には、倦怠感や眠気、ふらつき、指先のふるえ等の副作用が出ます。しかもこの薬には耐性がつきやすいという欠点があるので、服用量をどんどん増やさなければ次第に効かなくなります。服用量を増やせば当然、副作用も強く現れます。重篤な副作用としては、パーキンソン症候群や悪性症候群が現れます。

知り合いの医師は、薬物依存患者にクロルプロマジンなんか処方したら、今度はクロルプロマジンの依存症になってしまうと言っていました。クロルプロマジンのことを麻薬の親戚だとも言っていました。もし、警察が動かないと言うのなら、自分が奈良県精神保健福祉センターに直訴するとも言っていました。このままでは患者の健康が心配だと…… しかし精神保健福祉センターは所詮、お役所です。病院とはツーカーの仲でしょう。厳格な抜き打ち検査が行われるかどうかは、甚だ疑問です」


 渡辺は、薬の成分分析表に目を通しながら言った。

「難しくてよくわからんが、要するに、三崎医師は谷口可奈子に必要ない薬を処方してたということだな。必要ないというよりむしろ病気を悪化させるような薬じゃないか? それは何のためなんだ」


 凌一は視線を下に落として、しばらく沈黙した後、ポツリと答えた。


「可奈子をかごの鳥にし、飼い殺しにするためです」


 渡辺が問い返した。

「飼い殺し?」


 凌一は、少し視線を上げ、他の署員にも視線を向けながら話した。

「三崎医師は、谷口可奈子を愛しています。その気持ちに嘘偽りはありません。でも、彼は、八年前に可奈子を襲い、凌辱した強姦魔です。その後の可奈子の苦悩を思えば、事実を打ち明けることは出来なかったんでしょう。でも、措置入院には、六ヶ月という期限があります。このまま治療が進めば、六ヶ月目の再診断では、もう措置入院の必要はないという診断が下るでしょう。つまり、このままでは、可奈子はそう遠くない時期に退院することになります。

可奈子が退院した後も交際を続けるためには、可奈子に事実を打ち明けるか? あるいは事実を隠し通すか? 三崎にはその選択が必要になります。でも、三崎医師にはどちらを選ぶ勇気もありませんでした。

結局、三崎は可奈子にクロルプロマジンを服用させ、さまざまな副作用を生じさせて、彼女の病気があまり改善していないように見せかけていたんです。しかし、クロルプロマジンを常用させれば、最終的にはパーキンソン症候群や悪性症候群などの重篤な副作用が起こる可能性があります。だから、三崎は、可奈子に断続的にこの薬を処方して、彼女の症状を巧妙にコントロールしていたんです。

つまり、三崎は可奈子をいつまでも『かごの鳥』にしておこうとしたんです。

動機はともあれ、副作用の強い薬を必要のない患者に投与し、病気の症状に見せかけるという手口は悪質です。しかも三崎医師はこの薬を私に対して抗酒剤のノックビンだと言いました。恐らくカルテにもそう記載しているでしょう。カルテを押収する必要があります。

可奈子を保護するためにも、新阿久山病院の強制捜査が必要だと思います。被害者本人の証言が取れており、物的証拠である薬包とその成分分析書がここにあるのですから、令状は下りるんじゃないですか?」 


 凌一の話を最後まで聞いた渡辺は、口を真一文字に結び、ひとつ大きくうなずいた。そして言った。

「わかった。令状を請求する。谷川、久保、深浦、島、君たちも行くんだ。私も同行する」




 翌日、強制捜査の令状が下りた。


 渡辺が刑事課の署員全員を集めて強制捜査の手順を説明した。

「これから、新阿久山病院の強制捜査に向かう。容疑は三崎医師の麻薬及び向精神薬取締法違反だ。君たちの任務は、三崎医師の身柄を拘束し、谷口可奈子の血液と尿のサンプルを入手することだ。病院からは谷口可奈子のカルテを押収する。 

一般に、病院の犯罪を警察が立証することは非常に難しいが、今回は病院ぐるみの犯罪じゃない。あくまで一個人の犯罪だ。みんな臆することなく捜査に臨め」


 久保が渡辺に問いかけた。

「谷口可奈子は保護しないんですか?」

「彼女には精神保健福祉法に基づく措置入院命令が県知事より下っている。現状で、彼女を保護する権限を持つのは奈良県精神保健福祉センターだけだ。既に状況はセンターに連絡してある。我々に出来ることはセンターの検査官が彼女を保護するまで、彼女の安全を守ることだけだ」


 谷川が渡辺に尋ねた。

「拳銃は携帯するんですか?」

「病院にいるのは医療関係者と患者だけだ。恐らく必要はないと思うが、万が一、どんな想定外の事態が起こっても我々には谷口可奈子の安全を守る義務がある。全員拳銃を携帯するように。それから深浦、お前はバールとチェーンカッターを持って行け。精神病院の扉は、ほとんどが施錠してある。いざという時に扉をこじ開けるのに必要だ」


「わかりました」深浦が答えた。


 渡辺は全員に拳銃を配布した。拳銃を受け取る署員に緊張が走った。


 渡辺が全員に号令をかけた。


「さあ、行こう」


 真美署刑事課の全員が二台の捜査車両に分乗し、新阿久山病院に向かった。車中、全員が無言だった。署員たちは、鉄格子で閉じられた病院の門の前に停車し、門番に令状を見せた。鉄格子の門が開けられた。全員が車を降り、小走りに院内に入った。渡辺が受付で令状を見せた。受付は内線でどこかに連絡を取ろうとしたが、渡辺がそれを制止して言った。

「谷口可奈子のカルテを押収します。速やかに提出願います」


 凌一たちは、小走りに可奈子が収容されている閉鎖病棟に向かった。静かな病院の廊下にカツカツという靴音が響いた。スーツを着た集団が廊下を駆け抜ける姿に、入院患者たちが奇異な視線を送っていた。

谷川が閉鎖病院の入り口にいた看護師に令状を見せた。看護師はそれを見ると黙って閉鎖病棟の施錠を解いた。凌一たちは閉鎖病棟の中に入り、一直線に可奈子のベッドに向かった。しかし、そこに可奈子はいなかった。凌一が看護師をにらみつけて怒鳴るような大声で尋ねた。


「谷口可奈子は!?」


 凌一のあまりの迫力に看護師が狼狽しながら答えた。

「谷口さんは、今、三崎先生と処置室にいます」

「処置室?」


 一瞬、凌一の胸を嫌な予感がよぎった。凌一たちは、緊迫感を胸に閉鎖病棟を出て、処置室に向かった。


 その頃、可奈子は処置室で全身麻酔をかけられ、手術台に横たわっていた。その横には、手術衣を着た三崎医師が立っていた。能面のように無表情だった。三崎は手術用のマスクをし、両手にゴム手袋をはめた。そして、電動ドリル、アイスピック、メス、縫合用ステープラを入念に消毒した。


 普段、精神病院で外科手術が行われることはない。三崎は処置室の器具や薬品を入念にチェックした。

 最後に三崎は、試しに電動ドリルのスイッチを二、三回押した。

「ウィーン、ウィーン」という電動ドリルの回転音がした。歯科医で使うような細い針状の電動ドリルがうなるような高周波音を発した。不気味な音が部屋中に反響した。それは歯科医で聞いても決して心地のよい音色ではない。しかしその音を聴いた三崎は何故か冷淡な笑みを浮かべた。三崎は爪楊枝のような細いドリルの刃先を見つめた。これなら、こめかみに残る傷跡はニキビ程度の大きさだ。傷口は前髪に隠れる。可奈子の美を損ねることはない。三崎はそう思った。


 三崎は手術用の照明を点灯させた。ギラギラした照明が可奈子を照らした。三崎はそれを可奈子の額に向けた。

三崎は、眠っている可奈子に向って話しかけた。


「可奈ちゃん、これからは、僕たち二人はずっと一緒だよ。いつまでも一緒にいられるんだ。これからは、もう、つらいことも、悲しいことも何もないんだよ。君は一生僕のものになるんだ。もう、僕も悩む必要はなくなるんだ。苦しいことは何もなくなるんだ。だって、君は全てを忘れてしまうんだから、もう何も考えなくなるんだから…… この手術が終われば、僕たち二人は幸せになれるんだ。いつまでも幸せに暮らせるようになるんだ。もう、何も心配はいらない。この電動ドリルが全てを解決してくれる。君から全てを忘れさせてくれる。僕は君を離さない。永遠に離さない。君はいつまでも僕のものさ。二人で幸せになろう」


そう言いながら、三崎は電動ドリルを可奈子の額に近づけた。


 三崎にとってはじめての外科的手術だった。しかし、三崎は前もってロボトミー手術の方法を徹底的に学習していた。ペットショップで犬を一匹買い、その犬の脳で練習もした。


(大丈夫だ。きっと成功する)三崎は自分にそう言い聞かせた。


 電動ドリルを握る三崎の右手がワナワナ震えた。三崎は深呼吸して必死に手の震えを止めようとしていた。


 凌一たちが処置室の前まで来た。処置室は、中から施錠されていた。凌一が叫んだ。


「三崎さん! ここを開けなさい!」


 中からは何の返事もなかった。


 凌一は処置室の扉をドンドンと叩きながらもう一度叫んだ。


「三崎さん! ここを開けなさい!」


 やはり中からは何の返答もなかった。


 凌一が深浦に言った。

「こじ開けろ! バールでこの扉をこじ開けるんだ!」

 深浦が扉の隙間にバールを差し込み、力づくで処置室の扉をこじ開けた。

 

 凌一たちの目に入ったのは、全身麻酔をかけられて手術台に横たわっている可奈子と、彼女の額に電動ドリルを突き刺そうとしている三崎医師だった。

「ウィーン」という電動ドリルの回転音が響いていた。


 久保の手がホルスターの拳銃にかかった時、凌一が低い声を絞り出すように唱えた。


「オンベイシラマンダヤソワカ!」


 次の瞬間、凌一のパールスティックが唸りを上げて宙を舞った。


 全身全霊の祈りを込めた凌一の乾坤一擲の一振りは、魂の塊となって、電動ドリルを握り締めている三崎の右手の甲を射た。


「痛っ」三崎は思わず電動ドリルを足元に落とした。


 渡辺が叫んだ。


「取り押さえろ!」


 久保と深浦が三崎に飛びかかった。谷川は、床にうつぶせに押さえつけられている三崎の両手を背中に回し、後ろ手に手錠をかけながら、


「三崎宏幸、麻薬及び向精神薬取締法違反容疑で逮捕する」


 院長と医長が処置室に飛び込んで来た。床に押し付けられ、手錠をかけられている三崎医師、全身麻酔をかけられ、手術台に横たわっている可奈子、床に落ちている電動ドリル、手術台の横のテーブルに置いてあるアイスピック、精神科医が見れば、一目でロボトミー手術とわかる光景だった。院長が声を震わせながら言った。


「三崎君、君、まさか、この患者に……」


 谷川、久保、深浦の三人に取り押さえられている三崎に向かって凌一が問いかけた。顔が苦悩にゆがんでいた。

「何故なんですか? あなたが苦しんでいたのは良くわかります。つらかったでしょう。悲しかったでしょう。その気持ちは痛いほどわかります。

 あなたがこの娘を想う気持ちに嘘偽りはなかった。あなたにとっては彼女が全てだった。でも過去に犯した自分の過ちは元には戻らない。そして、あなたの過ちによって苦しみぬいているのは、あなたにとって最愛の人だ。彼女の苦しみを取り去ってあげたかったでしょう。ご自分のためだけでなく、あなたを慕う彼女のためにも、本当のことは言えなかったでしょう。その苦しさ…… お察しします。

 でも、何故なんですか? あなたは苦しみもがいた結果、一つの解決策を選択した。選択肢はいくつもあったでしょう。でも、ハッピーエンドで終わる選択肢などない。あるはずがない。ありえない。だからといって、何故、最悪の選択肢を選ぶ必要があったんですか?

 それじゃ、どうすればよかったのか? どうするのがベストだったのか? それは私もわからない。わかる人などいるはずがない。

 でも、私は私なりに勝手な想像をしていました。二人の過去と現在が天秤にかけられ、二人の現在の愛情の方が重ければ、今の愛情が勝つ。二人は結ばれる。もちろん、結ばれたからといって、二人を待っているのは手放しで喜べるような幸せじゃないでしょう。二人は結ばれた後も、被害者と加害者という過去の関係に苦しみ続けるんでしょう。二人は、死ぬまで過去の影に怯えながら、記憶の中で時折よみがえる過去の残像に苦しみながら生きていくんでしょう。あなた方二人は、死ぬまでそれに苦しみもがきながら、苦しみを分かち合いながら、生きていけるのか? それは私にはわかりません。でも、私は心のどこかでお二人がその道を選択することを祈っていた。目の前があまりにも険しい『いばらの道』であることを知りながら、敢えてその道を選択するだけの深く強い絆が二人の心に結ばれていることを祈っていた。

 あなたが今、やろうとしたことは、彼女の体だけをそのまま残して、彼女の人格を破壊し、記憶を消し去ろうという行為です。でも、あなたが愛したのは彼女の体だけじゃなかったはずだ。はっきり言えば、今のあなたは彼女の体などにさして興味はなかった。あなたが愛したのは彼女の人格であり人柄だ。あなたは、ご自分でもそれを認識していたはずだ。なのに、何故こういう結末を選ばなくちゃいけなかったんですか?

教えて下さい。彼女はもうすぐ目を覚ますでしょう。その時、あなたはもういない。もうこの病院には帰ってこない。彼女はあなたが逮捕されたことを知るでしょう。そして、その理由を私に問うでしょう。教えて下さい。私はいったい何と答えればいいんですか?」


 凌一は声を詰まらせた。両目を真っ赤に腫らし、ポタポタとこぼれ落ちる涙を拭おうともせず、再び三崎に問いかけた。


「教えて下さい。いったい私は何と答えればいいんですか? 私は彼女にこう答えればいいんですか?


『可奈ちゃん、君の最愛の男性は、実は過去に君を陵辱し、八年間も苦しめぬいた婦女暴行魔だ。その婦女暴行魔は、自分の過去を君に知られることを恐れ、君を永遠に独り占めにするために、君の知能を破壊する違法な手術をしようとした。だから逮捕したんだ』と…… そう言えばいいんですか?

でも、そうじゃないでしょう? あなたがこんな方法を選んだ理由は、そんなんじゃないでしょう。そ……」


 凌一は嗚咽し、声を詰まらせた。どうしても次の言葉を発することが出来なかった。

 凌一の話を黙って聞いていた三崎は、既に我に帰っていた。自分がしようとしたことの意味に気づいていた。

廃人のように無表情に、三崎が絞り出すような口調で、


「苦しみに苦しみ、悩みに悩み、悲しみに悲しみ、もがきにもがいた結果、最悪の選択をした。そうお伝え下さい」


 渡辺が院長の方を振り返り、

「三崎医師を連行します。容疑は麻薬及び向精神薬取締法違反ですが、院長先生もご覧になったとおり、三崎医師は谷口可奈子に対してロボトミーを施術しようとしていました。起訴時には傷害未遂容疑が加わるでしょう。院長先生は谷口可奈子から、血液と尿を採取して下さい。証拠として押収します」


 院長はその場にガックリ膝をついてワナワナ震えていた。しかし、渡辺の言葉に対しては、しっかりとした口調で答えた。


「わかりました…… 私にも監督責任があります。捜査には全面的に協力しますので、その点だけはご安心下さい」


 渡辺は島婦警の方を見て、

「島、血液と尿の採取には君が立ち会え、血液と尿がすりかえられる可能性がある」


 島が背筋を伸ばして答えた。

「はい、わかりました」


 渡辺は今度は凌一に、

「明日野、お前は島と二人でここに残れ、彼女の保護を命じる。精神保健福祉センターの検査官が来るまで彼女を守るんだ」


 谷川と久保は、三崎を引き起こし、捜査車両の後部座席に乗せた。運転席には深浦が乗り、別の車に渡辺一人が乗った。


 凌一と島婦警を病院に残して、二台の捜査車両がゆっくりと動き始めた。


 それから約一時間後、精神保健福祉センターの検査官たちが数名現れ、まだ全身麻酔が抜けずに眠っている可奈子を寝台に乗せたまま立ち去った。眠ったまま車に乗せられ、搬送される可奈子の姿を凌一と島が見送った。



 数日経ったある日、真美署刑事課の電話が鳴った。電話に応対した島が明らかに狼狽した様子で凌一の方を見て、


「明日野さん、電話よ。谷口さんから……」 


 凌一がハッとして尋ねた。

「谷口さんって、谷口可奈子か?」


その問いに島は黙ってうなずいた。


 凌一が受話器を取った。緊張でほほが引きつった。

「明日野です」


 電話の向こうから可奈子の明るい声が聞こえた。

「明日野さん、可奈子です。あれから別の病院に転院になりました。今、当麻町の当麻松水会病院にいます。お会い出来ますか?」それは、一片の陰りもない涼やかな声だった。


 凌一は返答に詰まった。ゴクンとつばを飲み込んで、

「う、うん。今から行く」


 来るべき時が来た。凌一は覚悟を決めて立ち上がり、渡辺の方を向いて、

「今、谷口可奈子から電話がありました。当麻町の当麻松水会病院に転院になったそうです。会いたいというので、これから行ってきます」


 渡辺は凌一の方を見ようとはせず、視線をそらしてポツリと、

「行ってこい。頼むぞ」


 凌一は車に乗り、真美署からは約三十分の距離にある当麻町の当麻松水会病院に向かった。

当麻松水会病院に着いた凌一は、車を降りた。ここは、依存症患者専門ではない、ごく一般的な精神病院だ。病院の入り口には鉄格子の門などなく、駐車場から病院まで、何のチェックも受けずに入ることが出来た。建物の構造そのものは、新阿久山病院に似ているが、あれほど古めかしくも、薄気味悪くもない。恐らく、もともと重症患者向けの病院ではないんだろう。


 凌一が面会スペースに入って待っていると、まもなく看護師に導かれて可奈子がやって来た。凌一の心臓の鼓動が高まった。


「やあ」凌一にはそう言うのが精一杯だった。


 可奈子は、凌一の隣に腰掛け、妙に吹っ切れたような澱みのない笑みを浮かべて言った。

「あの、明日野さんに、お尋ねしたいことがあるんです。刑務所に入っている受刑囚と結婚することは出来るんでしょうか?」


 突然の質問に凌一が言葉を失っていると、可奈子がもう一度質問した。

「執行猶予付きの有罪判決を受けて、精神病院に措置入院中の患者と実刑判決を受けて服役中の囚人が結婚することは出来るんでしょうか?」


 質問の内容に凌一は困惑した。戸惑いを隠すことが出来なかった。可奈子の問いは、凌一が想像していたものとは全く異なっていた。


 凌一が震える声で、必死に平静を装って答えた。

「成人の場合、婚姻は両性の合意によってのみ成立する。それは服役中の身にも当てはまる。例え執行猶予中の身であろうと、死刑囚であろうと結婚は出来る。ただし、措置入院で入院中の患者の場合には、恐らく精神保健福祉法上の保護者または扶養義務者の同意が必要になると思う。君の場合、公的扶助が適用されているから、法律上は奈良県知事の同意が必要ということになると思うけど、恐らく過去にそんな事例はないから、僕にも良くわからない」


 それを聞いた可奈子が明るい声で言った。

「そう、それじゃ、私の措置入院が解除されてからなら、結婚は自由だってことね」


 凌一が戸惑いながら答えた。

「う、うん、そうなる」

「よかった」

 可奈子の「よかった」という言葉の真意をはかりかねた凌一が尋ねた。

「よかったって、君、結婚するつもりなのか?」

「はい、三崎先生と……」


 それを聞いた凌一はギョッとした。恐らく、まだ詳しい事情を聞いていないんだろう。そう思った凌一が尋ねた。

「三崎先生って、君、新阿久山病院から転院になった理由を知っているのか?」

「はい、精神保健福祉センターの方から聞きました。三崎先生、逮捕されたのね。私に廃人化手術をしようとしたんでしょ」


 朗らかな表情でそう答える可奈子に凌一がためらいながら尋ねた。

「そ、そうだ。でも君は、三崎医師がそんなことをしようとした理由を知っているのか?」


 可奈子はニッコリと微笑んで答えた。

「それも聞きました。八年前の犯人は三崎先生だったんでしょ」


 可奈子は、自分を陵辱し、八年間も苦しめた犯人を三崎だと知っていた。凌一は、戸惑いながら尋ねた。

「そうだ。それを承知で君は彼と結婚しようと言うのか?」


 凌一の問いに対し、可奈子が朗らかな口調で答えた。

「三崎先生は、私が放火魔で覚せい剤犯だと承知で私を愛して下さいました。今度は、私が先生を強姦魔でロボトミー犯だと知りながら、彼を愛する番じゃないですか?」


「……」


 凌一は、困惑のあまり、次の言葉を発することが出来なかった。可奈子が続けて言った。

「私、思うんです。私は見知らぬ男に陵辱された女じゃなかった。私は最愛の男性と八年前に婚前交渉しただけだったと。いまどき、そんなの珍しくもないでしょ?」


 可奈子の言葉を聞いた凌一が震える声で問い返した。


「き、君は、本心からそう思えるのか?」


 可奈子が澱みない口調で答えた。

「私は、何もないところから三崎先生と言う宝物を得ました。三崎先生は私に『例え君が殺人犯でも僕の気持ちは変わらない』と仰って下さいました。私を廃人にしてでも手放したくない、そこまで愛して下さいました。それなら私は先生に言います『たとえ先生が、強姦魔であろうとロボトミー犯であろうと私の気持ちは変わりません』と。言い換えれば、これでやっと私と先生は同じ穴のムジナになれたんです」


「……」


 何も言葉を返せずに沈黙している凌一に可奈子が、

「明日野さん、今日はこれで失礼します。式には招待しますので、ぜひいらして下さいね」


 病院を出た凌一は、駐車場から病院の外壁を見上げた。

 建物の一部に鉄格子がはめ込まれた一画があった。恐らくあそこが可奈子のいる閉鎖病棟だ。

 凌一は思った。あの時、自分たちは間違いなく彼女がロボトミーを施術されるのを阻止した。彼女は無傷だった。でも、実際は、全身麻酔を受けた時点で、彼女は精神的にロボトミーを施されてしまったのではないかと……


 あの日、あの時、可奈子は三崎がロボトミー手術をすることを知っていて、自分を廃人にしようとしていることを知っていて、覚悟の上で全身麻酔を受けたんじゃないかと……

 三崎の手術は成功だったんじゃないかと……


 凌一はうつむきぎみに車に乗り、静かにドアを閉めた。

 凌一を乗せた車がゆっくりと動き出した。







参考文献


X51.ORG:前部前頭葉切截 ― ロボトミーは“悪魔の手術”か

 http://x51.org/x/05/08/1413.php

松本昭夫「精神病との二十年」(新潮文庫)

大熊一夫「ルポ・精神病棟」(朝日文庫)

飯田裕久「警視庁捜査一課刑事」(朝日新聞出版)

林郁夫「オウムと私」(文春文庫)





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