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第七章 禁じられた遊び


 凌一が捜査している別件とは、真美署管内で発生した連続結婚詐欺事件である。被疑者の女性は、ホームヘルパーをしながら、一人暮らしの高齢者の家庭を訪問し、結婚話をちらつかせながら、かなり高額の現金を引き出させ、それを貢がせていた。被害者は、新阿久山病院の近くにもいた。特にこの被害者は、被疑者の女性に千二百万円という高額を貢がせられながら、最後は不審死を遂げている。


 結婚詐欺の罪状は、既に身柄を拘束されている被疑者本人が認めているが、不審死については、関与を否認している。凌一の任務は、被害者の自宅付近を聞き込み、交友関係や金銭関係を洗い出して、殺人事件として立件することだった。そのため、凌一は、ほぼ毎日、新阿久山病院の近隣家屋の聞き込みを続けていた。


 捜査の合間に、凌一は時々新阿久山病院を訪れ、三崎にも可奈子の様子を聞いていた。

 その日も凌一は、三崎医師を訪問し、可奈子の様子を尋ねていた。

 二人は中庭に出てベンチに腰掛け、中庭のパンジーを眺めながら和やかに話をしていた。


 凌一は、わざと三崎の方を見ず、まるで独り言のようにつぶやいた。

「三崎先生、先生は可奈ちゃんが先生に好意を寄せていることに気づいてらっしゃいますか?」

「えっ」


 三崎はそれを聞いて驚いたように凌一の顔を見た。凌一には、三崎が驚いたふりをしているように見えた。

「可奈ちゃんのような美人に慕われるなんて、うらやましいですね」と言う凌一の言葉に、三崎は苦笑いを浮かべた。


「谷口さん、確かにきれいですね…… でも、精神科では、医師と患者の間にそれ以上の感情が芽生えることは許されません。患者さんが医師に好意を寄せることはあるかもしれませんが、その逆は絶対に認められません。診断の客観性が失われてしまいます」


 凌一が少し三崎を皮肉った。

「私は、まだ、その逆の話はしていませんが……」


 凌一の言葉を聞いた三崎が少しほっとしたような笑みを浮かべた。

「そ、そうでしたね。私の早とちりです。すいません」


 凌一は急に真剣なまなざしを三崎に向けた。

「男同士です。ざっくばらんに言いましょう。先生、可奈ちゃんに好かれてまんざらでもないんじゃないですか? 私は、精神科医と患者が好きあってはいけないとは思いませんが、どうしてもダメなんですか?……」


 三崎は急に表情を曇らせた。そして、自分に言い聞かせるように、

「ダメなものはダメです。私も谷口さんに好意を持ってもらえば、嬉しいことに間違いはありませんが、それはあくまで、患者とその主治医としてのことです。それ以上の感情は断じてありません。あってはいけないんです……」


 凌一には精神科医と患者が恋に落ちてはいけないとは思えなかった。でも、それが三崎の信念なら、それはそれで仕方ないと思った。


 二人は黙って、陽光を浴びてさざめくパンジーを眺めていた。



 数日後、凌一は、捜査の合間に新阿久山病院を訪れた。

 病院の駐車場に停車し、車を降りた凌一は、トランクから重そうに布製の手さげ袋を二つ取り出した。手さげ袋の中はパンパンに詰まっており、それを両手にぶら下げようとした凌一は、思わず「うわっ、重たいなこれ……」と声をあげた。

 右手の方は何とかなるが、左手は可奈子に噛まれて骨折した指が完治していない。

 凌一は、足元に漬物石のように膨らんだ布袋を二つ置き、ハタと考え込んだ。そしてつぶやいた。


「ど~やって運ぶんだ? これ……」


 考え抜いたあげくに凌一は、一旦しゃがみ込み、左手の肘に一袋、右手の肘に一袋、それぞれ引っ掛けて立ち上がった。

 凌一は両肘にぶら下げた手さげ袋の重さに振り回されてフラフラしながら三崎の診察室に入り、しばらくして出て来た。やはり両肘にパンパンの手さげ袋をぶら下げていた。あまりの重さに耐えかねた凌一は、一旦、手さげ袋を床に置き、ハアハア言いながら呼吸を整えた。そして、包帯の巻かれた左手を見つめた。左手の怪我がなければ何とかなる重さだった。


 凌一は思った。

(左手って案外大事なんだな)


 ここまで来て諦めたら男がすたる。そう思った凌一は、今度はしゃがんでそれを両脇に抱えた。そして、やはり袋の重さにフラフラしながら渡り廊下を歩き、リクリエーションルームに向かった。

 ちょうどその時、可奈子はリクリエーションルームでピアノを弾いていた。ピアノを奏でる可奈子の姿からは、もともと良家の娘であることを感じさせる気品が漂っていた。


 凌一は可奈子に近づいて、そっと目配せした。可奈子はヘッドホンを外し、凌一に挨拶した。

「明日野さん、こんにちは、事件の捜査で毎日この辺りの家を聞き込みに回ってるって三崎先生から聞いてたの……」


 凌一は、両脇に抱えた二つの手さげ袋を「よいしょ」と言いながら足元に下ろし、可奈子に話しかけた。

「そうなんだ。今のところ、良くある結婚詐欺事件なんだけど、容疑者に貢いでいた一人暮らしの男性が何人も不審死している。連続殺人事件に発展する可能性もあるから、慎重に聞き込みをしているんだ」

「そう、怖い事件ね。私も一歩間違えていたら、どんな犯罪をしでかしていたかわからないから、人のことは言えないけど……」


 凌一がピアノに視線を向けながら、

「ピアノか? いい気晴らしを見つけてよかったね。三崎先生からも聞いたけど、君はもうこの病院では閉鎖病棟の美人ピアニストとして有名らしいよ。君はいつも自分のことを放火魔だとかヤク中だとか自嘲的に言うけど、本当は地元屈指の良家の娘だもんね。僕も警官の端くれだから、それぐらいのことは調べてるんだよ。ピアノの腕も中学時代は天才少女と呼ばれていたらしいじゃないか。天才少女が奏でるピアノを僕にも少し聴かせてくれるかい?」

「いいですよ。ただし、もう天才少女だった頃の腕前はありませんけど…… ヘッドホンをして下さい」


 凌一がヘッドホンをつけると、可奈子はピアノの演奏を始めた。一曲めはやはり『禁じられた遊び』だった。

一曲聴き終えると凌一は、深く感銘を受けたような表情を見せながらヘッドホンを外し、言った。

「切ない曲だね」

「はい、一番好きな曲なんです」

「まるで、君の心の寂しさを垣間見るような調べだった」


 それに対しては、可奈子は何も答えなかった。


 凌一は、足元の手さげ袋の中身を可奈子に見せた。

「これ、役に立つかなと思って持って来たんだけど……」


 可奈子が袋の中を覗くと、中には、どっさりとピアノの楽譜集や教本が詰まっていた。

「一応、君の自宅にあったピアノ関係の本は全部持って来たんだ。僕は楽器をやらないから可奈ちゃんぐらいの上級者には楽譜なんていらないのかとも思ったんだけど」

 可奈子は床にしゃがみこんで、袋の中の楽譜集や教本を一冊一冊取り出しながら思わず「うわー」と声を漏らした。そして、凌一の顔を見上げた。

「嬉しい! 全部あるわ! 全部! 欲しかった本が全部ある! 楽譜を忘れて弾けない曲が沢山あったの。でも、全部ある。これで弾きたい曲は全部弾けるわ! 嬉しい! 明日野さん、ありがとう! 本当にありがとう!」


 可奈子は満面の笑顔を見せた。無邪気な笑顔だった。

 凌一は、可奈子のこんな無邪気な笑顔を初めて見た。

「喜んでもらえて嬉しいよ。それにしても楽譜って重いね。死ぬかと思った」


 その言葉を聞いた可奈子は口元に手を添えて「フッ」と小さくふき出し、すぐにもとの穏やかな笑顔に戻って、

「ごめんなさい。重かったでしょう。でも、本当に嬉しい! 明日野さん、本当にありがとう」

「もう中身を三崎先生に確認してもらって、許可はとってあるからね。三崎先生は、そこの書架の空きスペースに入れていいって言ってくれたよ。こんなの、閉鎖病棟に持って行っても意味ないだろ」

「本当!、ここに置いていいの?」

「ああ、三崎先生がいいってさ」

「嬉しい!」


 凌一は、穏やかに微笑みながらピアノの横の書架に本を並べる可奈子の姿を見守っていた。本の収納が終わると、  

 凌一は空の布袋を右手に握り締めて、

「少し中庭で話そうか?」

「はい」そう言って、可奈子はコックリとうなずいた。


 凌一と可奈子の二人は、いつものように中庭のベンチに腰掛けた。今までと違って、可奈子の姿には凛とした気高さが感じられた。凌一は、可奈子の横顔に、本当の彼女を見たような気がした。

「私、三崎先生に打ち明けられたんです」

「ん?」

「三崎先生、私のことが好きだと言って下さったんです」


 凌一は、内心驚いたが、表情には出さなかった。

「そう、良かったね。本当に良かった」


 それを聞いて、可奈子は憮然とした表情を浮かべた。

「良くなんかありません」


 凌一には、良くないという意味がわからなかった。可奈子の三崎への気持ちは知っていた。とても喜ばしいことに思えた。凌一が可奈子に尋ねた。

「どうして? 三崎先生は、君の覚せい剤のことも、放火のこともご承知の上で、君に好きだと言ってくれたんだろ?」


 可奈子は凌一の方に視線を向けず、つらそうな表情をした。

「それだけじゃないんです。私って女は…… 私って女は…… それだけじゃないんです」


 そう言って可奈子は声を詰まらせ両手で顔を覆い、ワッと泣き出した。

 突然のことに凌一は狼狽したが、痛々しそうに可奈子に向けていた視線をそらし、独り言のようにつぶやいた。


「三崎先生は、今の可奈ちゃんが好きなんだと思う。過去はいいのさ…… 例え君が殺人犯でも、三崎先生の気持ちは変わらないと思うけど……」


 可奈子は髪を振り乱して声を震わせた。

「三崎先生もそう言うんです。今の君が好きなんだって、例え君が殺人犯でも、僕の気持ちは変わらないって…… むしろ、君に愛される資格がないのは自分の方だって……」

「自分のほう?」


 意味がわからずにポカンとしている凌一に可奈子が話を続けた。

「でも、このまま先生の胸に飛び込むことは出来ないんです。人間として許されても、女としてそれは許されないんです」

「三崎先生の気持ちを受け入れる前に、告白しなければいけない事があるっていうことだね……」

「そうです」

「それは、例えそれを打ち明けることで、君の恋がダメになっても、打ち明けなければならない事なんだね」


 可奈子は小さな声でポツリと、

「そうです」


 凌一も小さな声でささやくように、

「それは僕には言えない事なんだね」

「いえ、今日は、明日野さんにそれを打ち明けるつもりだったんです。でも、やっぱり言えない…… ごめんなさい」


 そう言って再び可奈子は泣き出した。瞳から大粒の涙がポタポタと落ちた。

「いいんだ。無理しなくても。僕はまた来るから……」


 激しく泣きじゃくる可奈子の様子を看護師が無表情に見つめていた。



 次の日、凌一は再び可奈子に面会した。二人はいつものように中庭のベンチに腰かけた。


 可奈子がまるで機械のように無表情に、鋭い視線をまっすぐ前に向けて言った。


「私、十六歳の時に強姦されたんです」


 この告白は、全く凌一が予想していなかったことではなかった。可奈子の過去に余程のことがあることは覚悟していた。


 凌一は可奈子と同じように無表情に、まっすぐ前を見すえて言った。

「君のことは明和署から聞いている。中学まで優等生だった君が荒れ始めたのはその頃からだね……」


 可奈子は、まるで物語を語るように話を続けた。

「平成十三年三月十四日の夜、私は塾の帰りが遅くなって、夜十時頃に明神橋を通っていたんです。いつもなら両親が車で迎えに来てくれるんですが、その日はたまたま両親が外出していたので、一人で帰宅していました。橋を渡り終えた時、橋の下から目出し帽を被った男が出てきて、私の喉元に包丁を突きつけました。私は恐怖で抵抗も出来ないまま橋の下に引きずり込まれ、辱められました。私に出来たことは早く終わってくれるように願うことだけでした。

例え、命がけで抵抗することが出来なくても、何か出来ることがあったと思うんです。目出し帽を剥がしたり、噛み付いてやったり、例えボタンのひとつでも引きちぎってやれば、訴えたって証拠に出来たと思うんです。

私にはそれすら出来ませんでした。

私にはそれが許せない! かすり傷ひとつ負わずに黙って辱めを受けた自分が許せない!

私には犯人の特徴を訊かれても何も答えられない。何の証拠品もない。自分の一番大切なものを奪われていながら、体を交えていながら、何もわからないって、そんなことってありますか? 私にはそんな自分が許せないんです。夜十時なら明神橋の辺りはまだ人通りがあります。悲鳴でもあげていれば助けてもらえたかも知れないのに……」


 凌一は少し視線を下に落とした。

「君は、被害届けを出さなかった。警察の事情聴取で、かすり傷ひとつ負っていないことを知られるのが我慢できなかった。そうだね……」


 しばらくの間、沈黙が続いた。静寂の時が流れたようにも、時の流れが止まったようにも思えた。

伏し目がちに小さな声で可奈子が尋ねた。

「捜査を始めるの?」

「いや……」そう言って凌一は首を横に振った。

「どうして? 私が打ち明けたのに……」

「強姦は親告罪だ。君が被害届けを出さない限り警察は何も出来ない。ただし、処女を強姦し、処女膜を破裂させた場合は強姦致傷罪に当たる。強姦致傷は、非親告罪だから、被害届けがなくても犯罪は成立する。君がその時、処女だったことを誰も疑いはしないが、刑事裁判は証拠が全てだ。それを証明する必要がある。それに、包丁で脅迫されたのなら、非親告罪である脅迫罪が適用できるけど、強姦罪の定義が暴行・脅迫等の手段を用いた強制的な性交だから、脅迫罪を単独で適用するのはあまりにも不自然だ。つまり、僕が言いたいのは、捜査を始めるためには、君が、もう一度ボロボロになる覚悟が必要だということさ」

「もう一度ボロボロになる…… やっぱりそうなのね。明日野さんが言いたいことの意味はわかります。それでも私が被害届けを出したら?」

「捜査が開始される。ただ、事情聴取や実況見分で君は、つらい過去のことを全て思い出さされ、それを担当の刑事に話さないといけない。君は二度強姦されるようなものさ。おまけに犯行が八年前なら証拠や証言を十分に揃えることは不可能に近い。犯人を特定できるような特徴を君が覚えていたり、確たる証拠が残っているのなら話は別だけど、それがない限り、まず、犯人は逮捕できない。

もし仮に犯人が逮捕されても、公判では、被告側の弁護士から君は辛らつ極まる質問を浴びせられる。君は三度目の強姦を受けるようなものさ。それを覚悟の上で君が被害届けを出すのなら、時効までは、まだ二年ある。僕は、犯人逮捕に最善を尽くす。僕に約束できることはそれだけさ。どうする? 被害届けを出すのかい?」


 凌一の問いかけに可奈子はか細い声で答えた。

「ううん、もういいの。犯人が逮捕されたって、汚された私の体が元に戻るわけじゃないし、この八年間をやりなおせるわけでもないでしょ」

「警察官として模範解答をするとしたら、断固として泣き寝入りすべきじゃない。性犯罪者なら、再犯を犯すかも知れない。いや、もう犯しているかもしれない。例え犯人を逮捕できなくても、捜査が行われるだけで再犯の抑止力にはなる。絶対に被害届けを出すべきだと言うだろう。

でも可奈ちゃん。僕は模範警官じゃないんだ。もし、交通事故で両手両足を失ったとしたら、僕だってさぞかし加害者を恨み、憎しむだろう。でも、加害者を恨み、憎しんでいるだけじゃ、いつまでたっても幸せにはなれない。幸せをつかむためには新しい一歩を踏み出すしかないんだ。君は八年前にいわれなき陵辱を受けた。その事実はもう変えられない。

君は一生その事実を背負って強く生きていくしかない。でも、世の中には君のような理不尽な経験をしていなくても結局不幸になる人が沢山いる。それなら逆に、過去に深い傷を負った君が、最後に幸せを勝ち取ったっておかしくないんじゃないか?」

「明日野さんの言うこと、理屈では良くわかるの。でも、私には、見知らぬ男に辱めを受けた自分のこの体がゆるせない。ときどき、メチャクチャにぶっ壊したくなるの! こんな体、この世から消滅してしまえばいいと思うの!」

可奈子はそう吐き捨てるように言って、すすり泣いた。


 凌一には次の言葉が見つけられなかった。しばらくの沈黙の後、凌一が可奈子に尋ねた。

「君が、三崎先生を受け入れる前にどうしても打ち明けないといけないと言っていたのは、このことだね」


 可奈子は、コックリとうなずいた。

「そうです」

「どうしても打ち明けないといけないこととは思わないけど…… だって、君は心まで汚されてはいない。心の純潔まで奪われてはいない」


 可奈子が冷徹な表情を見せた。

「それは、三崎先生が決めることです」


 可奈子の言うとおりだった。

「そうか、そうかもしれないね…… 可奈ちゃん。さっきのこと、どうしても三崎先生に話すのかい?」

「話さないといけない。絶対に話すべきだと思っています。

私が本当に幸せになりたいのなら、自分の幸せを望むなら、話さないといけないと思っています。嘘で固めたガラスの幸せを死ぬまで守り抜く強さは私にはありません。

でも、どうしても、私、言えないんです。明日野さん、お願い、あなたの口から話して。それでダメになるのなら、それはそれでいいんです」


 凌一は、しばらく考えて、

「わかった。幸せには白か黒しかない。幸せにグレーゾーンがあっちゃいけない。それが君の考え方なら僕から話そう。でもね、可奈ちゃん、現実の世の中には、そんなイチかゼロみたいな幸せの方が少ないと思うんだ。実際にはみんなグレーゾーンの幸せの中で、いつ訪れるかわからない不幸に怯えながら生きている。僕は、そう思うんだ。それでもやっぱり三崎先生に話して欲しいのかい?」

「はい。お願いします」

「可奈ちゃん、最後に一つだけ質問していいかな?」

「どうぞ」

「君は犯人の特徴を何も覚えていないと言ったが、今聞いた話なら、犯人の服の色ぐらいは見えたんじゃないか?」

「はい、目出し帽は黒、黒いジャンパーを着て、下は紺のジーンズでした。靴は白いスニーカーでした。でも、そんなんじゃ犯人の特徴とは言えないでしょ? それ以外に私が覚えている特徴は何もありません」


「……」


 凌一は何も答えられずにいた。確かにあまりにもありきたりの服装でそれだけでは特徴とは言えない。

 二人はしばらく、呆然と中庭の花を眺めていた。初夏の澄みわたった青い空を、まるでソフトクリームのようなまっ白い雲が流れていた。



 可奈子は看護師に導かれて閉鎖病棟に戻った。凌一は、三崎の部屋を訪ねた。


「三崎先生、先生は、谷口可奈子さんにご自分のお気持ちを打ち明けられたそうですね」


 それを聞いた三崎は、少し驚いたような表情を見せた後、うつむき加減に小さな声で答えた。

「はい、好きだと言いました。私は以前、明日野さんに精神科医は患者に異性感情を持ってはいけないと言いました。その考えは今でも変わりません。でも、人を好きになることは職業倫理感では防げませんでした。どんな理屈をつけたところで、好きなものは好きです。女の色香に惑わされて、自分の信念を曲げるような奴だと笑ってやって下さい。でも、事実は事実です。私は彼女のことを愛しています」

「先生は、彼女が、放火と覚せい剤の件で逮捕された前歴を知りながら、彼女を好きになった。ご自分の立身出世よりも彼女を選んだ。そして私が知る限り彼女は先生に選ばれるに値する女性です。立派な選択だと敬服します。その気持ちは今でも変わりませんか?」

「はい、変わりません。私はもともと出世には興味がありませんし、医師の世界では私などエリートでも何でもありません。私は一生この病院に勤めて、ひとりでも多くの薬物患者やアルコール患者を治療できればいいんです」


 凌一は、窓の外をぼんやりと眺めながら、

「先生に告白された時、彼女は涙が出るほど嬉しかった。でも、彼女には、すぐに先生の気持ちを受け入れることが出来なかった。その理由をご存知ですか?」


 三崎は首を横に振った。

「いえ、わかりません。実のところ、彼女には他に好きな男性がいるのか、それとも私のようなぶ男はイヤなのか、そのどちらかだと思っていました」


 凌一が話を続けた。

「可奈ちゃんは十六歳の時に、知らない男に強姦されたことがあります。塾の帰りの夜道のことだったので、男の特徴もわからず、脅迫に屈して辱めを受けた自分が許せなかったのか、被害届も出していません。

 彼女は、もともと旧家の娘で、その事件があるまでは、品行のよい優等生でした。彼女の生活が乱れ始めたのはその事件以降です。彼女には、たとえ脅迫を受けたにせよ、何の抵抗も出来ずに、辱められた自分が許せなかった。言いかえれば、彼女が薬や酒に溺れたのは、自分で自分を痛めつけるためです。自分は純潔の女じゃない。三崎先生に愛される資格はない。彼女はそう思っています」


 それを聞いた三崎の肩が一瞬ビクッと震えた。三崎は明らかに動揺しながら言った。ほほが引きつり、顔が紅潮していた。


「そうだったんですか……」


 三崎の動揺する姿を見ながら凌一は思った。

(やっぱり、この男性には純潔の娘じゃないとダメなのか?)


 三崎が動揺した理由が他にあることなど凌一には知る由もなかった。

「どうですか? それでも先生の気持ちは変わりませんか? 私の勝手な意見を言わせてもらえれば、彼女は、根っからの放火魔でもヤク中でもなかった。一人のかわいそうな犯罪被害者です。そして、そんな彼女に生きる希望を与えることが出来るのは、先生、あなただけです。

勘違いしないで下さい。私は、先生に彼女と結婚して下さいなどと頼むつもりはありません。お互い何の問題もない立派な男女でも、一時は自分の命より大切に思い、愛しあった男女でも、最終的に破局する例はいくらでもあります。破局の心配はたとえ式を挙げて正式に入籍したところで、なくなるわけじゃありません。私が先生にお願いしたいのは、過去を理由に彼女を諦めないであげて欲しいということです。他の女性と同じスタートラインに立たせてあげて欲しいんです。過去を理由に彼女から生きる希望を奪わないで欲しいんです」


 三崎は抜け殻のように焦点の定まらない目つきをしていた。うつむいてしばらく考えていた。しばらくの沈黙の後、その場を繕うように、

「明日野さん、お話はよくわかりました。後は私と彼女の問題です。いずれにしても時間がかかるでしょう」

「そうですね。後はお二人の問題ですね。私はこれで失礼します」


 凌一はそう言って三崎の部屋を出た。


 凌一は自分の身に置き換えて考えてみた。

(もし、自分が愛した女性が過去にいわれなき陵辱を経験した女性だったら、自分はそれを理由にその女性を『ボツ』にするだろうか? ありえない。絶対にありえない。その女性のことが本当に好きだったら、心から愛しく思っていれば、それはありえない。もちろん、気にならないはずはない。一生、心の片隅にモヤモヤしたものを残しながら生きていくことになるかもしれない。それでもそれを理由に別れはしない。絶対に……)


 凌一は三崎医師に年齢を尋ねたことはなかった。でも、凌一と同じ適齢期の独身男性だということは知っている。凌一は三崎医師を信じていた。三崎医師の心情が理解できた。彼は心を持った人間だ。可奈子に『例え君が人殺しでも、僕の気持ちは変わらない』と言った人だ。自分と同じように考えるに違いない。凌一はそう確信した。

でも、それなら、さっき三崎が見せたあの動揺した様子はいったい何なのか? 凌一にはわからなかった。




 病院を出た凌一は、明神橋にいた。明神橋は、四位堂駅を東に約十分歩いたところにある橋長約二十メートルの橋である。四位堂駅から明神橋を渡ってさらに行くと、小高い丘陵地に出る。可奈子の実家はその丘陵地の上にある。川幅は約七メートルだが、川の両側に幅六メートルほどの河川敷がある。明神橋の両側のたもとには河原に下りるためのコンクリート製の階段がある。

 清流、真美川が流れ、四位堂駅のシンボルとなっている栄橋とは違い、明神橋は、どんよりと濁った水が流れる薄汚れた橋だった。不法投棄や大雨の時に流れ着いたと思われるゴミが散乱し、背の高い雑草がうっそうと茂った河原は、生臭い異臭を放っていた。

 可奈子は、駅前の塾の帰りに明神橋を渡り切ったところで襲われた。だとしたら、犯行現場は橋の東側の橋台のたもとだ。凌一は、橋の東側の階段を下りて、可奈子が襲われたと思われる河原に出た。恐らくここが可奈子が辱められた場所だ。凌一は、そこに立ち尽くして考えた。事件は八年前だ。

 この川は大雨が降ると橋台の根元まで水に漬かる。河原は完全に水没する。年に一回や二回はそんな状態になる。証拠が残っているはずがなかった。可奈子の話からは犯人の手がかりは何も得られていない。可奈子は被害届けを出していない。事件は立件されていない。もちろん凌一に捜査権限はない。


 凌一は階段を上って明神橋の歩道に立った。ここで、可奈子は喉元に包丁を突きつけられ、下の河原に連れて行かれた。犯人は、この階段に潜んで、上の歩道を通る獲物を待っていた。橋の下に入れば、隣家からは全く見えない。


(人を襲うには格好の場所だな。でも、よそ者なら特に何ら印象を受けずに通り過ぎてしまうような場所だ。土地勘のある者の犯行か?)


 直感的に凌一はそう思った。でも、八年前の出来事に直感を働かせたところで、今更どうなるものでもない。

 これが推理小説の世界なら、犯人は必ず真相究明のヒントになるものを残してくれる。しかし、現実はそんなに都合よくは出来ていない。まして、推理小説の定番であるアリバイ崩しなどここでは意味をなさない。『八年前のことなど覚えていない』その一言ですべて済まされてしまうからだ。


(付近の聞き込みでもしてみるか?)


 刑事の習性で、ふとそんなことを考えた凌一は自嘲的な苦笑いを浮かべた。


(何て尋ねるんだ? 平成十三年の三月十四日の夜十時頃にここで何か見ませんでしたか? そう尋ねるのか? 八年前だぞ…… お前、自分が八年前の三月十四日にどこで何を見たか答えられるか? 馬鹿だな…… それで何か答えられる人がいたら神様だ。可奈子は犯人逮捕を望んでいない。お前に出来ることは何もないはずだ)


 凌一はいつまでもそこにたたずんでいた。沈みかけた夕日が川面に反射してキラキラとまぶしかった。露出アンダーになったオレンジ色の景色を凌一が眺めていた。長く伸びた凌一の影がブロック塀に投影されていた。凌一には、そこにまだ犯人がいるように思えた。

 凌一は真美署に戻り、担当している連続結婚詐欺事件の聞き込みの結果を整理していた。不審死を遂げた被害者が実は殺害されたのだという証拠・証言は未だに得られていなかった。凌一は、何の成果も得られていない無味乾燥した報告書をまとめながら自分に言い聞かせていた。


(可奈子が襲われたのは八年前だ。被害届けも出ていない。証拠も証言もない。今更捜査を始めたところで犯人が特定できるはずがない。そもそも犯罪として立件されていない以上、自分には捜査権限もない。無駄なことはやめろ)


 翌朝から、明神橋を中心に、隣家を一軒一軒聞き込みに回っている凌一の姿を見かけるようになった。砂漠の真ん中で十円玉を探しているような聞き込みだった。凌一は一軒終わるごとに心の中でつぶやいた。


(次の家で終わりにしよう。いつまでこんなことを続けていてもしょうがない……)


 地方の小さな町のことである。刑事が何か聞き込みに回っているということは、すぐに町中のうわさになった。真美署には、何か事件があったのかという問い合わせの電話が多数寄せられた。凌一は渡辺に呼び出され、詰問された。

「明日野、あんなところでいったい何を嗅ぎ回っているんだ?」


 凌一は無表情に答えた。

「いや、特に……、最近、取り立てて事件がないので防犯パトロールに回っています」


 そんな答えで渡辺をごまかせるはずがなかった。

「防犯パトロールって、お前には連続結婚詐欺事件の聞き込みを命じてあるだろう」

「はい」凌一にはそう答えるしかなかった。


 渡辺が続けて、

「正当な理由を言えないなら、勤務時間内に任務外の行為をしていたことになる。懲戒処分は免れんぞ」

「はい」


 渡辺は、心の中で凌一のことを心配しながら、冷徹な視線を向けた。

「お前、いったい、八年も前の何を調べているんだ? 目出し帽の男って何のことだ? 私が何も知らないと思っているのか?」

「いえ、特に……」


 渡辺はあきらめ顔で吐き捨てた。

「もういい、下がれ、後日正式な処分が下る。それまで、自宅謹慎を命じる」

「わかりました」


 凌一は、警察手帳と手錠を渡辺のデスクに置き、身の回りのものを持って部屋を出た。その後を島婦警が追ってきた。

「明日野さん、何か事情があるんでしょ? 課長に相談したら……」


 凌一は、振り返って寂しげな笑みを浮かべながら答えた。

「いや、いいんだ」



 とうとう、隠密裏の聞き込みも出来なくなった凌一は、なす術なく明神橋のたもとにたたずんでいた。少し離れたところにバス停があった。凌一は、そのバス停のベンチに腰掛けてタバコをふかしていた。

 一人の中年男性がバス停の方向に歩いて来た。中年というより初老と言った方が適当かもしれない。だらしないス ウェット姿だけで近所の住民だとはわかるが、聞き込みでは会ったことのない男性だった。その男性は凌一に気づくと、何か思いついたように歩を早めて近づいて来た。そして、タバコに火を点けながら凌一の隣に腰掛けた。年の頃は五十代か? 頭髪はフサフサしていたが半分は白髪だった。あご下に二~三ミリ伸びた無精ヒゲも半分ぐらい白髪になっていた。


「フウー」と大きく煙を吐いた後、その男性が凌一に話しかけた。

「この辺りを聞き込んでいる刑事さんですか?」


 凌一はハッとして姿勢を正し、答えた。

「そうです。明日野と言います」

「八年前なのか、三月かもはっきりしませんが、この道を慌てた様子で走り去っていく目出し帽の男を見ました」


「えっ!」


 凌一は驚いてその男性をみつめた。男性は話を続けた。

「体格と身のこなしから二十歳前後の男性だと思います」

「あなたは平成十三年の三月十四日の夜十時に、ここにいたんですか?」


 凌一の質問にその男性が答えた。

「だから言ったでしょう。何年前かも何月かも覚えていないと。ただ、十年近く前だとは思います。そこに、今は廃屋になっている店舗があるでしょう。三年前まで私は、あの店で焼肉屋をしていました。毎日夜遅くまで店にいましたよ。飲酒運転が厳罰化されるまでは、店もそこそこ繁盛してましたから」


 凌一は質問を続けた。

「目出し帽の男は、その後どうしたんですか?」

「そこの田んぼのあぜ道の入り口のところに立てかけてあったマウンテンバイクに乗って、慌てて立ち去りました。左手に何か握っているようで、それを上着で隠していました。だから、ハンドルを右手一本で握って、マウンテンバイクを漕ぎ出しました」

「左手に持っていたのは包丁じゃないですか?」

「それはわかりません」

「目出し帽は黒で黒いジャンパーと紺のジーンズ姿じゃありませんでしたか?」

「何せ夜のことなので、黒か紺かと言われてもわかりませんが、目出し帽を被っていることしかわからなかったぐらいなんで、多分黒っぽい服装だったと思います。ただ、靴が白だったことははっきり覚えてます」

「どっちの方向へ行ったんですか?」

「はい、この坂を少し上って、ほらあそこ、あそこに旧道があるでしょう。あの旧道をまっすぐに上って行きました」


 凌一は、その男性に一礼して言った。

「そうですか、ありがとうございます。お手数ですがあなたのお名前と連絡先を教えて下さい」


 その男性の名前と連絡先を聞いた後、凌一は勇躍して旧道に向かった。旧道の奥には、三十軒ほどの集落があり、その先は雑木林になっている。犯人がその集落の住人なら、犯人の特定は難しくない。

 しかし、そこで凌一は立ち止まった。凌一は自宅謹慎中の身だ。いまだにこの辺りを嗅ぎ回っていることが知れたら、今度は厳罰に処せられるだろう。懲戒免職だってありえる。


(あせるな、あせる意味はない、これは事件の捜査じゃない。犯人がわかったところで、逮捕できるわけでもない)


 凌一はそう自分に言い聞かせて振り返り、今来た道を戻った。

 車に戻った凌一は、携帯で同僚の久保に電話した。

「久保か、今、部屋か? 課長に聞かれるとまずい、外に出てから電話してくれ」


 凌一は一旦携帯を切り、久保からの電話を待った。すぐに携帯が震えた。凌一は、通話ボタンを押し、いきなり言った。

「頼みがある。北葛城郡沢井町大字という住所で三十三軒の集落がある。その住民の中で、今現在三十歳前後の男性をピックアップしてくれ、ついでにその素性も探ってくれ。くれぐれも課長には内緒でな」


 久保が不審そうに尋ねた。

「明日野さん、一体何を調べてるんですか?」

「それは訊かないでくれ、頼む」

「わかりました。早速調べます」


 凌一は電話を切り、携帯をポケットに収めた。そして「ふう」とひとつため息をついた。

久保の調査は迅速だった。次の日の夕刻、凌一は久保と喫茶店で待ち合わせ、調査の結果を聞いた。そして、愕然として沈黙した。凌一は言葉を失った。久保の調査から、該当する男性としてピックアップされたのは、たった一人だった。

 久保は恐ろしく頭の切れる後輩だった。『八年も前の何を嗅ぎまわっているんだ』という渡辺の言葉を横で聞いて、それを意識しながら調べていた。

 凌一が探しているのが今現在三十歳前後の男性だから、八年前には二十二歳前後だった男性を探していることになる。久保は、たった一人の容疑者である男性の八年前の写真まで入手していた。

 その写真を見た凌一は、意識が遠のいていくような朦朧とした感覚に襲われた。八年前の写真とはいえ、人違いではない。その写真に写っているのは、間違いなくその人だった。


 まるで抜け殻のようになって硬直している凌一に久保が声をかけた。

「明日野さん、この男性がいったい何をしたんですか?」


 凌一はハッとして答えた。

「いや、なんでもない。頼む。これ以上訊かないでくれ。もともと、これは事件の捜査じゃないんだ。事件の捜査なら、僕が自分でやってるさ……」


 久保が不審そうに、

「事件の捜査じゃないんなら、いったい、何を調べてるんですか? きちんと事情を説明してもらえたら。もっといろいろお役に立てることがあると思うんです」


 久保の思いやりに満ちた暖かい問いかけに凌一が震える声で答えた。凌一の表情は苦悩に満ちた断末魔のものだった。


「これ以上、訊くなと言うのがわからないのか!」


 追い詰められた表情で怒りを露にし、そう言う凌一の瞳は、少し涙で潤んでいた。穏やかで、いつも笑顔を絶やさない凌一しか見たことがない久保は、凌一の悪鬼のような迫力に沈黙した。


 少し我に帰った凌一がすまなそうに、

「本当に助かったよ、ありがとう」



 喫茶店を出た凌一は、市内を廃人のようにさまよい歩いた。

 該当する男性は一人しかいなかった。八年前に可奈子を陵辱した犯人として該当する人物は一人しかいなかった。それは凌一が良く知る人物だった。とても、性犯罪など起こすとは思えない人物だった。そして、その人物が犯人であった場合、それは、疑いなく可奈子を再び不幸のどん底に突き落とす事実だった。

 凌一には、自分がどこで何をしているのかわからなくなっていた。可奈子は被害届を出していない。犯罪は立件されていない。もともと犯人を探す必要などなかった。凌一は、探す必要のない犯人を突き止めてしまった。そんなことをしても、可奈子には何のプラスにもならない。自分は一体何のために可奈子を辱めた犯人を突き止めたのか?   

 自分の興味本位か?

 だとしたら、お前、かえって可奈子の足を引っ張るようなことをしてるんじゃないのか? お前、本当に可奈子の更生と幸福を祈っているのか?


 凌一は考えていた。人の体は、そのほとんどが水で出来ている。心が体のどこにあろうと、そのほとんどは水だろう。

 でも、その水は、愛し、憎しみ、喜び、悲しみ、期待し、不安に駆られ、あせり、安らぎ、苦しむ。

 所詮、ただの水の塊でありながら、人であることは、なぜ、これほどまでに苦しいのか?

 いつの間にか凌一は栄橋に来ていた。無性に真穂に会いたくなった。朦朧とする意識の中で、凌一は、携帯を取り出し、真穂に電話した。


「真穂ちゃん、今、栄橋にいるんだけど会えないかな?」


 真穂の返事はOKだった。凌一は、河原の斜面に腰を下ろして、真穂が来るのを待った。河原の斜面には芝生が敷き詰められており、腰を下ろすとまるでクッションのようにふわふわして心地よかった。朝から日差しを受けてほんのりと温まった芝生は、まるでホットカーペットのように暖かかった。

 クローバーに咲く星砂のような花が幸せ色に微笑んでいた。その可憐さを愛でる心の余裕が凌一にはなかった。


「凌一さーん」


 河原の遊歩道を自転車で走りながら、真穂が近づいて来た。

 真穂は、自転車を降り、ハアハア息を切らしながら人懐っこい笑顔を浮かべた。


「おまたせ」


 凌一が言った。その表情は真穂の笑顔とは対照的に魂の抜けた能面のようだった。

「ごめんね。急に呼び出したりして…… どうしても会いたかったんだ」

「どうしても会いたかったなんて、嬉しいこと言ってくれるじゃない。何かあったの?」


 真穂の問いに凌一が答えた。

「いや、別に……」

「そう、別に用事なんてなくてもいいんだけど」そう言いながら真穂は自転車のスタンドを立てた。


 凌一と真穂の二人は河原の斜面に体育すわりし、しばらく黙って水の流れを眺めていた。

「あっ、今、魚が跳ねたね!」

 真穂がそう言いながら川面を指差した。

 凌一は黙ってうなずきながら川面を眺めていた。凌一の目はうつろで視線は定まっていなかった。


 真穂が小さな声で問いかけた。

「凌一さん、何か悩んでるの?」

「……」

 凌一は何も答えなかった。

「凌一さん、様子が変よ。何をそんなに悩んでるの? 凌一さんが栄橋に来る時って何か悩み事がある時でしょ。私に会いたかったのも、ひとりで辛かったからでしょ」


 凌一は、うつろな視線を真穂に向けて、答えた。

「悩み事なんかない。ただ……」

「ただ、何?」

「僕にはどうしていいかわからない」


 真穂が心配そうに尋ねた。

「私には話せないこと?」


 凌一は、コックリとうなずきながら答えた。

「誰にも話せない」


 そう言うやいなや、凌一はガバッと真穂の上に覆いかぶさり、両手を押さえつけた。そして言った。


「真穂ちゃん、今、僕が君を強姦したら、僕のことを嫌いになるかい?」


 真穂は全く抵抗せずに冷ややかな視線を凌一に向けた。


「凌一さんの気休めになるのなら、好きにすれば? 私はそんなことで凌一さんを嫌いになったりしないから……」


凌一は、つばをゴクリと飲み、追い詰められた断末魔のような表情を真穂に向けた。

「君は、自分を強姦した男を愛せるのか?」

「凌一さん、私を強姦できる? 出来るものならやってみなさいよ!」


しばらくの沈黙の後、凌一は、うつむいて真穂の両手を開放した。凌一は、まるで観念したように芝生の上に仰向けに寝転んだ。今度は、真穂が凌一を押さえ込んで凌一の上に馬乗りになり、叫んだ。


「意気地なし!、好きな女ぐらい抱けないの? 凌一さん、あなたそれでも男?、男はね…… 男は女の足の間から生まれて来て、女の足の間に戻って来るのよ! そして、次の命を宿すの! 凌一さん、小娘の私にこんなこと言われて、黙ってるの? 悔しかったら私を抱きなさい! 凌一さん、苦しいんでしょ?、つらいんでしょ? でも、私は相談相手にはなれないんでしょ? それなら、体で悩みを分かち合えばいいのよ!」


 そう言って、真穂は自分の唇を凌一の唇に押し付けた。

 凌一の唇に真穂のやわらかい唇の感触が伝わった。その淡い感触にときめく心の余裕が凌一にはなかった。真穂に押さえつけられたまま、仰向けになり、ただ呆然と空を流れる雲を眺めていた。

 凌一の力なら、その気になれば馬乗りになっておなかの上に乗っている真穂を跳ねのけることは簡単だったろう。 

 凌一の手首をつかんで芝生に押さえつけている細くて白い腕を振り払うことも簡単だったろう。でも、凌一はそれをしなかった。それをする力が沸いてこなかった。


 真穂は、凌一のようにすぐに力を抜いて凌一を開放しようとはしなかった。必死の形相で顔をゆがめながら凌一の両腕をグイグイと押さえ続けた。そして、いつの間にか凌一の顔の上にポタポタと何かのしずくが滴り落ちて来た。一滴のしずくが凌一の口元に落ちた。少し酸っぱい味がした。


 真穂は瞳を真っ赤に潤ませて、大粒の涙をこぼしていた。真穂が震える声で言った。

「どうしてなの? どうして私じゃダメなの? 私のどこがいけないの? どうして私には話せないの? 私は凌一さんの相談相手にはなれないの? 私は凌一さんと一緒に悩みたい。凌一さんと一緒に苦しみたい。一緒に悲しみたい。私が高校生だから? バカにしないで!。私は十八歳よ、もう結婚だって出来るんだから…… 子供じゃないのよ! さっき、凌一さんはお姉ちゃんじゃなく私を呼び出した。そう、凌一さんが、本当に苦しい時に会いたいのは、お姉ちゃんじゃなくて私なのよ! 凌一さんはお姉ちゃんと会う時、まるで腫れ物に触るように気を遣ってる。でも、自分の心にそんな余裕がない時、凌一さんが会いたいのは、お姉ちゃんじゃなくて、私なのよ! 私はそれが嬉しい。だからこうして飛んで来たんじゃない。なのに私には話せないって、私じゃ相談相手にならないって、そ………」


 真穂は声を詰まらせて嗚咽した。顔をクシャクシャにして泣きじゃくった。

 凌一は抜け殻のようになって嵐が過ぎ去るのを待っていた。


 少し平静を取り戻した真穂は、何を思ったか、凌一の額に手を当てた。

「凌一さん、すごい熱じゃない!」

「えっ」


 確かに午後から、何かふらふらするような感覚があった。でもそれは、久保からもらった資料を見てショックを受けたからだと思っていた。


 真穂は凌一の脇の下に手を入れた。そして言った。

「間違いないわ、凌一さん、熱があるよ。早く帰らないと。私、送るから」


 凌一は、真穂に連れられて自宅のハイツに戻った。


 真穂が部屋に入ろうとすると、凌一があわてて言った。

「ダメだよ、真穂ちゃん。年頃の娘さんが、一人暮らしの男の部屋に入ったりしちゃ……」


 真穂はプイと横を向いた。

「そんな説教は、病気を治してからにして」


 凌一は投げ捨てるようにスーツを脱ぎ、パジャマに着替えてベッドに潜り込んだ。ぞくぞくと悪寒がした。ガタガタと体が震えた。

「凌一さん、体温計はどこ?」

「えーと、確か、食器棚の一番右の引き出しにあると思うけど……」


 真穂は、食器棚の引き出しの中をまさぐり、体温計を見つけて、凌一に差し出した。

「さあ、熱を測って」


 しばらくしてピピッという体温計の電子音がした。凌一が脇から体温計を抜くと、真穂がそれを奪い取って、まじまじと数字を見た。


「大変! 三十八度六分もあるわ! どうしよう」


 真穂は携帯を取り出し、真治に電話した。

「お父さん、今、凌一さんのハイツにいるんだけど、凌一さん、熱が三十八度六分もあるの。インフルエンザかしら?」


 電話の向こうで真治が言った。

「この季節だからインフルエンザじゃないだろう。疲労でもそれぐらいの熱は出ることがあるから、とにかく安静にするように、薬で胃を荒らすので、お腹を減らさないように。何か温かいものでも作ってあげなさい」


 真穂はキッチンに立ってお粥を作り始めた。出来上がるとそれを器に入れ、凌一の枕元に来た。

「さあ、お粥が出来たから、凌一さん、少し体を起こして」

「真穂ちゃん、ありがとう。いただきます」


 凌一は真穂のお粥を口に含んだ。梅粥のあわいすっぱさが涙が出るほどおいしかった。凌一は年に一度ぐらい、これぐらいの熱を出す。一人暮らしで一番困るのが高熱を出した時だ。ひどい時には着替えさえなくなってしまう。凌一は素直に真穂のことをありがたく思った。お粥を食べ終えた凌一は、静かに眠りについた。


 凌一は夢を見ていた。夢の中の凌一は強姦魔だった。凌一は一人の少女を強姦した後、じっと時効が来るのを待っていた。時効直前、凌一は一人の美しい女性と恋に落ち、その女性と結婚した。その女性はすぐに凌一の子を身ごもった。出産に立ち会った凌一は、息を呑んで妻の股間を見つめていた。しばらくして妻が破水し、おなかの中から何か出て来た。毒蛇だった。妻は、まるで噴水のように次々と毒蛇を生み続けた。凌一は妻から生まれ出た毒蛇に首まで埋もれ、悲鳴をあげた。


 そこで目が覚めた。怖い夢だった。


 どれぐらい寝ていたんだろう。凌一が目を覚ますと、真穂がベッドの横に寄り添っていた。

「凌一さんお目覚め? もう一度熱を測って」


 凌一が脇に体温計をはさむと、真穂がスポーツドリンクを差し出した。凌一はそれを飲みながら時計を見た。もう夜の十時を過ぎていた。


「真穂ちゃん、もう十時だよ。送っていこう」

「何言ってるの? 途中で倒れるわよ。もうすぐお父さんが来るから大丈夫」


 凌一は体温計を見た。三十七度八分だった。

「目覚めの時に熱が下がっているのは、あまり安心できないのよ。また熱が上がるかもしれないから安静にしていないと……」

「僕は年に一度ぐらい、これぐらいの熱を出すんだ。ひどい時には、このまま死ぬんじゃないかと思ったりする。一人暮らしだから、しばらくしてミイラ化遺体か何かで発見されるんだろうな」


 真穂がクスクス笑って、

「ミイラ化遺体って、凌一さん笑わせないでよ…… 遺体の第一発見者は私ってわけ? そんなのいやよ」


 しばらくして真治がやって来た。内科医の真治はペンライトをあてて、凌一の喉を覗き込んだ。

「ありがとうございます。ご迷惑をおかけして……」

「水臭いことを言うなよ。真穂はどうする? 一晩置いていこうか?」

「いえ、とんでもない。連れて帰ってあげて下さい」

「凌一さん。私、一度帰るけど、困ったことがあったら、夜中でも電話ちょうだいね」

「ありがとう。真穂ちゃん。本当に助かったよ」


 真治が言った。

「とにかく熱が下がるまで安静にするように、しばらくは仕事のことも忘れてゆっくりしないとだめだ。大丈夫、君がいなくても地球は周るから」


 真治は笑みを浮かべて、真穂に言った。

「真穂、さあ、一旦引き上げよう」


 ベッドから出て見送ろうとする凌一を真治が制止した。

 真治と真穂が去った後、凌一は明かりを消してベッドの上にいた。喉が痛く、体がだるかった。

 その頃、真子は部屋で窓の外を眺めていた。出窓の外は雨が降っていた。真穂が凌一のハイツで看病をしていることは知っていた。真子は、窓ガラスに細い指を滑らせ、○×ゲームを書いた。窓ガラスの曇りを溶かしてすべる指先に、伝わる感触は冷たかった。瞳から大粒の涙が一粒落ちた。


 翌朝、凌一は新阿久山病院に行くつもりだった。どうしても三崎に会って訊きたいことがあった。体温計で熱を測ると三十九度二分あった。凌一は、ためしに立ち上がってみた。


(大丈夫だ、歩ける)そう思った凌一は、身支度を整え始めた。指先に力が入らず、シャツのボタンをとめるのに苦労した。凌一は真治にもらった薬を飲み、スーツを着た。ドアを開けて外に出ようとした時、立ちくらみがしてガックリと膝をついた。そこへ真穂が来た。


「やっぱり。心配になって来てみたら、案の定ね」


 真穂は凌一をベッドに戻しながら言った。

「お父さんが言ったでしょ。凌一さんがいなくても地球は周るのよ」


 もう一度立ち上がろうとした凌一を真穂が体で受けとめた。

 真穂は強引に凌一をベッドに連れ戻し、そして言った。

「凌一さん、すごい汗じゃない、さあ、下着も着替えて、毛布も替えないと……」


 真穂に言われるまま、凌一はシャツを脱いだ。真穂は凌一の細いがまるでボクサーのような筋肉質な上半身を見てハッとした。凌一が着替えをしている間に真穂はシーツと毛布を交換した。

 再びベッドに横になった凌一の上に真穂が毛布をかけた。

 真穂は布団の上から凌一の胸に手をあて、小さな声で、ささやくように唄った。


菜の花ばたけに、入り日薄れ

見わたす山のは、かすみ深し

春風そよふく、空を見れば

夕月かかりて、におい淡し


里わのほかげも、森の色も

田中のこみちを、たどる人も

かわずのなくねも、かねの音も

さながらかすめる、おぼろ月夜


 まるで母親の子守唄を聴く乳児のように、凌一の緊張は解れ、体が軽くなっていった。そして、まるで体が宙に浮くようなふわふわした感覚を感じながら、凌一の意識は遠のき、やがて静かに眠りについた。


 どれくらい眠っていたんだろうか? 随分、眠っていたようだ。時計を見ると、午後三時を過ぎていた。

真穂が声をかけた。

「あら、凌一さんお目覚め? よく眠ってたわね。少し楽になったんじゃない? もう一度熱を測ってみて」

(そうか、自分は真穂の歌を聴きながら眠ってしまったんだ。今日は、新阿久山病院に行くつもりだったのに……)

凌一は、そう思いながら、脇の下に体温計をはさんだ。


 体が少し楽になっていた。多分熱も下がっているだろう。

 体温計の電子音が鳴り、数字をみると三十七度六分になっていた。今日は一日つぶれてしまったか……


 夕刻になり、真子が見舞いに来た。

「凌一さん。どうですか?」

「ああ、真子ちゃんまで来てくれたの。面目ない」


 真穂が真子に、

「熱はずいぶん下がったわね。今、三十七度六分ぐらい。凌一さんって熱が三十九度二分もあったのに、仕事に出ようとしてたのよ。信じられない。死んじゃうわ」


 それを聞いた真子が、

「凌一さん、無理しないで。真穂ちゃん、疲れたでしょ。私代わるわ」

「ううん、全然、平気」


 凌一は、二人に、 

「僕はもう大丈夫。二人とも暗くなる前に帰ったほうがいい」

「それじゃ、私たち一度帰るけど。お粥作っておいたから、チンして食べてね。薬を飲む前には必ず少しでも食べるのよ。困ったことがあったら、いつでも電話してね」


 真子も微笑みながらうなずいた。

「いつでも電話して下さい」


 真穂が真子に、

「それじゃ、お姉ちゃん。帰ろうか?」

「うん」

「凌一さん。何か欲しいものある? 先に買ってこようか?」

「いや、特にない。二人とも本当にありがとう」

「それじゃ、私たち帰るから、お大事にね」


 真穂と真子の二人が帰っていった。



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