第六章 檻の中のピアニスト
1
翌朝、出勤した凌一に、渡辺が声をかけた。
「榊原綾香さんの件、気の毒だったな……」
凌一は席を立って渡辺に歩み寄り、力なく問いかけた。
「私が悪かったんでしょうか?」
渡辺がぶっきらぼうに答えた。
「警察はよろず相談所じゃない。お前の責任なわけがないだろ……」
「しかし、何か出来ることがあったんじゃないかと……」
「それじゃ一体、何が出来たと言うんだ?」
「何がって……」
そう言って凌一は、うつむいた。警官には人の不幸は救えない。それは、警官になって以来、凌一が嫌というほど思い知らされてきた事実だった。
渡辺が話題を変えた。
「明日野、話は変わるが、谷口可奈子については、建造物等以外放火と覚せい剤取締法違反で在宅起訴と決まった。今日、検察立会いのもとで放火現場の検証が行われる。君は目撃証人だ。検証に立ち会うように」
凌一が渡辺に尋ねた。
「新阿久山病院から放火現場までの護送は中村さんと藤田さんが行くんですね」
「そうだ」
凌一は、席に戻り、明和署の中村に電話した。
「明日野です。今日の現場検証の件、課長から聞きました。新阿久山病院まで谷口可奈子を迎えに行くんですね。私も同行したいんですが……」
「わかった。一緒に行こう」
中村の返事を聞いて、凌一は受話器を置いた。
渡辺が尋ねた。
「何でお前が病院まで同行するんだ?」
凌一は、戸惑いながら答えた。
「谷口可奈子は、まだ、心を開いていませんし、反省の態度も見せていません。でも、それは彼女の本心ではないように思うんです。このままの態度で公判に臨めば、判決は彼女に不利なものになるでしょう。私はそれを避けたいんです」
渡辺は少し首を傾げながら、
「わかった。好きにしろ」
しばらくして、明和署の車に乗り、中村と藤田がやって来た。凌一は、後部座席に乗り、三人で新阿久山病院に向かった。
新阿久山病院に着くと、凌一が中村と藤田に、
「少し時間をもらえますか? 彼女と二人だけで話したいので……」
中村が答えた。
「それはかまわんが、早くしてくれ。俺たちはここで待ってる」
「わかりました」
凌一はそう言って、一人だけ車から降り、病院に入った。現場検証の件は、病院には連絡済みだった。病院の受付は、凌一の姿を見て声をかけた。
「谷口可奈子さんを迎えに来られたんですね。今日の現場検証の件は連絡を受けています。すぐに連れて来ますのでお待ち下さい」
凌一が受付に、
「あの、ちょっと、その前に、少し彼女と話したいんですが……」
「わかりました。それでしたら、閉鎖病棟の面会スペースでお待ち下さい」
凌一は、受付で記帳して、閉鎖病棟に入り、面会スペースに腰掛けた。
2
しばらくして、看護師に導かれて可奈子がやって来た。
可奈子の姿を見て凌一が声をかけた。
「やあ、可奈ちゃん、こんにちは」
可奈子がパッと表情を明るくした。
「あれっ、明日野さん。こんにちは、今日の現場検証って、明日野さんも来るの?」
「うん、一応、僕は放火事件の目撃者だからね……」
「わあ、良かった」
良かったと言う可奈子の言葉の真意をはかりかねた凌一が尋ねた。
「良かったって?」
「ええ、ちょっと…… 現場検証って大勢の刑事さんに囲まれてやるんでしょ。ちょっと気が引けてたの」
「そうかい。そう言ってくれて嬉しいよ。現場検証でも検察の取調べでも、大切なことは捜査に協力的であり、反省している態度を見せることだよ。僕がわざわざ先に君に会いに来たのはそれを伝えるためさ。
君は初犯だし、君の罪状なら、普通は執行猶予がつく。ただし、執行猶予というのは、本人が罪を認めて反省していることが大前提なんだ。明和警察の取調室の時のように、心にもない悪態をついたり、捜査に非協力的だったりすると、実刑判決が下っても不思議じゃない。
執行猶予がつけば、執行猶予期間中、普通に暮らしてさえいれば、処罰自体がなかったことになる。つまり、何も罪を犯さなかったのと同じことになる。ところが、実刑判決が下れば、君は刑務所に入らないといけないし、前科者になる。天と地ほどの差があるんだ。わかってくれるかい?」
「わかった、いい子にしてます」
可奈子の返事を聞いて凌一はホッと胸をなで下ろした。そして微笑みながら言った。
「フフッ、それじゃ行こうか?」
「はい」
可奈子の態度は少し軟化していた。物腰にも目つきにも穏やかさが感じられた。凌一は、外で待っていた中村に電話し、閉鎖病棟の入り口まで来るように頼んだ。中村と藤田を待つ間、凌一が可奈子に話しかけた。
「ここの生活になじんだみたいだね」
「ええ、少し落ち着きました。三崎先生から聞きました。明日野さんの手の怪我、私が噛み付いたんですってね。すいませんでした」
凌一はニッコリと微笑んで、
「あれは、発作の症状だから、気にしなくていいよ」
中村と藤田の二人が閉鎖病棟の入り口まで来た。看護師にうながされて閉鎖病棟を出た可奈子の両手に藤田が手錠をかけた。手錠をかけられた瞬間、可奈子はハッとして表情を曇らせた。精神病院の閉鎖病棟とは言え、ここでは患者として扱われている可奈子が、一歩外に出れば、自分は犯罪者なんだと実感させられた瞬間だった。
四人は車に乗り、現場検証に向かった。現場は、常時使用されている月極駐車場だったので、既に放火現場は綺麗に清掃されていた。可奈子は、明和署の担当刑事の指示にしたがって、素直に事情聴取に応じた。現場検証は円滑に進み、なんら不審な点もなく、短時間で終了した。か細く青白い両手に手錠をかけられた可奈子が、捜査員たちに犯行時の状況を説明している姿は、痛々しく不憫だった。
現場検証の後、中村と藤田と凌一の三人は、可奈子を送り届けるため、再び新阿久山病院に向かった。
病院に到着し、凌一と可奈子が後部座席から降りると、三崎医師が迎えに出て来た。三崎が言った。
「明日野さん、こんにちは、現場検証、ご苦労様でした。可奈ちゃん、いい子にしてたかい?」
可奈子が答えた。
「はい」
「それじゃ、可奈ちゃん、後で回診に行くから、先にベッドに戻っていなさい。明日野さん、少し話したいことがあるんですが、お時間はよろしいでしょうか?」
凌一が中村と藤田の方を見ながら、
「中村さんと藤田さんは先に帰って下さい。私は、三崎先生と話した後、バスで帰りますので……」
それを聞いた中村が、
「そうか、わかった。それじゃ我々は、閉鎖病棟の入り口まで彼女を送って、先に帰るよ」
「それじゃ、よろしく」
「それじゃ」
三崎医師の部屋に入った凌一が、
「彼女、随分素直になりましたね」
と言うと、三崎は、
「はい、最初は私たちにも心を閉ざしていたんですが、最近は、随分明るくなったように思います」
「何が彼女をあんなに頑なにさせてたんでしょうか?」
凌一の問いに、三崎は少し考えた後で答えた。
「さあ、それは私にもわかりません。ただ、心理テストやカウンセリングの結果から推測すると、何か心に深い傷を負っているようです。多分、その心の傷を繕うために薬物やお酒に溺れていたんでしょう。明日野さんのお考えのとおり、彼女は、生まれつきの性悪女じゃありません。
この病院には、何か不幸な出来事がきっかけになって酒や薬物に依存するようになった患者さんが沢山います。そうした人たちと接する機会が多いことも彼女の励ましになってるんじゃないかと……」
「そうですか…… いずれにせよ、三崎先生のようないい先生と出会えたことは彼女にとって幸いでした。今後ともよろしくお願いします」
三崎は、少し自嘲的な笑みを浮かべて言った。
「何をおっしゃいます。私なんか何の力にもなりません。彼女の本当の闘いはこれからです。薬物やアルコールの依存症というものは、何年、それを絶ち続けていても、たった一回の摂取で元の木阿弥に戻ってしまうんです。健全な生活を営むためには毎日が誘惑との闘いなんです」
それを聞いて凌一は黙ってうなずき、三崎に深く一礼して部屋を出た。
3
凌一が帰った後、三崎は閉鎖病棟の回診で可奈子のベッドを訪れた。三崎が言った。
「今日の現場検証はお疲れだったね。強面の刑事さんに囲まれて、いろいろ訊かれたんだろ?」
「いえ、明日野さんがいてくれたから、何も怖いことはありませんでした。元はと言えば、私が撒いた種だし……」
「明日野さん、優しい刑事さんだね」
「明日野さんも、三崎先生のこと、言ってましたよ。優しい先生だねって。他の入院患者さんに聞いたんだけど、精神病院って、すごく怖いところもあるんでしょ」
「ああ、ある。刑務所より怖いようなところもある。でも、この病院の阿久山院長は、そうした精神病院の体質を改善するために闘ってる。
この病院も精神病院の体質を改善し、まともな医療を実現したいという院長先生の夢をかなえるために設立されたんだ。
もともと廃院になった古い精神病院を買い取って設立された病院だから、お世辞にもきれいな病院とは言えないけど、この病院は他の精神病院とは違って、患者を社会から隔離することが目的じゃなく、早く退院して社会復帰してもらうためにあるんだ。僕たちもそのために頑張ってるつもりだよ」
「そうだったの。じゃあ、あの保護室の落書きは、きっと前の病院の患者さんが書いたんだ…… 私、この病院に運ばれて来て、初めて目を覚ました時、目の前の落書きを見たの。
『神様おゆるしください』って書いてあったわ。私、その落書きを読んで急に怖くなったの。きっと、前の病院で、不幸な目に遭っていた患者さんが書いた落書きなのね…… でも、今の私がいるのは新阿久山病院だから安心ね」
三崎が苦笑いを浮かべながら言った。
「その落書きは消しておくよ。でも、いくら安心だからと言っても、いつまでもこんな病院にいちゃダメさ。早く治って人生をやり直さないと…… そうだ、今日は天気がいい、少し中庭を散歩しようか」
それを聞いた可奈子は目を丸くして、
「えっ、外に出てもいいんですか?」
「外と言っても中庭だけだよ。君の場合、刑事処分が決まるまで、当分、外出許可は出せないから」
可奈子がベッドから飛び起きながら、
「それでも嬉しい。連れて行って下さい」
「それじゃ、行こう」
三崎は看護師に目配せして閉鎖病棟の鍵を開けさせ、可奈子と一緒に中庭に出た。中庭のベンチに腰掛けた可奈子が両手を左右に広げ、深呼吸しながら言った。
「うわー まぶしい! 外ってこんなに明るかったんだ……」
三崎が中庭の花壇に寄せ植えされた花を指差しながら言った。
「きれいな花が沢山植えてあるだろ、みんな開放病棟の患者さんたちが植えてくれたんだ。この病院は財政難だから、患者さんたちの寄付で植えてもらった花ばかりさ」
中庭の花壇には、パンジーやビオラ、マリーゴールドや日々草、ノースポール、ペチュニアなど、いろんな花が寄せ植えされていた。
「開放病棟もやっぱりアル中やヤク中の患者さんなの?」
「そうさ、退院が近くなると君も開放病棟に移れるよ。開放病棟には鉄格子も鍵もないし、普通の病院と変わらない」
「退院?」
そう言って可奈子は少し瞳を曇らせた。可奈子にはこの病院に守られているような意識が芽生えていたし、可奈子にとって退院するということは現実の世界に連れ戻されることを意味した。外の世界に何かいいことがあるとは思えなかった。
可奈子の心情を察したのか、三崎は、
「何もあせることはない。外で暮らす自信がつくまで、ゆっくりとここで療養すればいい。薬物やアルコール依存の患者にとってあせりは禁物だよ」
「はい、わかりました」
可奈子はコックリとうなずき、花壇の花に目をやりながらつぶやいた。
「かわいい……」
可奈子は思った。花を見てかわいいと思うような感覚は何年も忘れていた。可奈子の心はそこまで荒んでいた。でも、なぜ今、自分は花を見てかわいいと感じるんだろう。可奈子にもわからなかった。自分の心の中で起こっている静かな変化の理由が可奈子にはわからなかった。
三崎は穏やかな表情で中庭の花を眺める可奈子の横顔を見ながら、美しいと思った。
二人は黙ってそよ風になびく花びらを眺めていた。
4
その頃、凌一はバスの中できのうのことに思いを巡らせていた。自分は警察官だ。刑事事件を扱うのが仕事だ。渡辺が言うようによろず相談屋じゃない。里美ちゃんが亡くなったことは不幸な出来事だった。綾香が後を追って自殺したことも悲しいことだ。でも、綾香が自殺したのは刑事事件じゃない。自分の職分じゃない。凌一はそう自分に言い聞かせていた。でも、最後に綾香と会ったのは自分だし、自分は自分なりに綾香を励ましたつもりだった。あの時自分がもっと親身になって綾香と話をしていたら…… 凌一の考えはどこまで行っても堂々めぐりだった。
その時、凌一の携帯が震えた。真穂からのメールだった。
〔凌一さん、どこかで会えない?〕
綾香の自殺のことで自分が苦しんでいることが真穂にはわかっているんだろう。きっと心配して、こんなメールを送って来たに違いない。
〔もうすぐ栄橋のところに着くから、そこで待ってるね〕
凌一はそう返信した。
栄橋のたもとでバスを降りた凌一は、橋の真ん中まで歩いて行き、欄干にもたれながら川面を眺めていた。
初夏の日差しに照らされてきらめく水面が美しかった。
しばらくして、後ろから真穂が声をかけた。
「こんにちは」
凌一が覇気のない声で返事した。
「こんにちは。きのうの夜、真穂ちゃんが抜け出したこと、ご両親怒っていなかったかい?」
「いいえ、私が抜け出したことには多分、気づいてたんだろうけど、事情は知ってるから、何も言わないわ」
凌一が視線を下に落とした。
「そう、でも本当はちゃんとお詫びしないと……」
「私が勝手に抜け出したのよ。凌一さんが謝ることじゃないわ」
「だけど……」
真穂が心配そうに尋ねた。
「凌一さん、綾香さんのこと気にしてるのね……」
凌一は、首を横に振りながら言った。
「いや、気の毒だったとは思うが、彼女の人生さ。今更悔やんでもどうにもならない。それより、少し歩こうか?」
「うん」
二人は、しばらく遊歩道を歩いた後、河原に下りた。凌一は、河原の石を手に取り、サイドハンドで川面に向けて投げた。石は、川面でチョンチョンと何度もバウンドして、綺麗な水紋を残して消えていった。
それを見た真穂が瞳を輝かせて言った。
「きれいきれい! もう一度投げて!」
「いいとも!」
凌一は、もう一度、河原の石を手に取り、サイドハンドで川面に向けて投げた。さっきと同じように、石は川面で何度もバウンドし、美しい軌跡を残して沈んでいった。
「私にも出来るかな?」
「コツを教えてあげよう」
「まずは石選び。投げやすい大きさで、平べったくて、円い石がいいんだ」
「平べったくて、円い石ね。こんなのどうかな?」
「いいね。次は投げ方。横手投げで、石に横回転がかかるように投げるんだ」
「わかった。やってみる」
「あれっ!」
真穂が投げた石は、とんでもない方向に飛んでいった。
「ノーコンだな。もう一度やってごらん」
「はいコーチ」
真穂は石を選び、不器用なサイドハンドで石を投げた。
「ドボン」
「プッ フフフ」
目の前に石が沈むのを見て、二人はふきだした。
「もう一度」
「まるで鬼コーチね」
真穂は、ぼやきながら石を拾い、一球入魂してそれを投げた。
「チョン」
石は、川面で一回だけバウンドして沈んでいった。
「やった! 今、一回跳ねたよね!」
「ああ、確かに。コツはわかったみたいだね。後は練習だけさ。高く投げ上げたらダメだよ。出来るだけ川面に水平に、滑らせるように投げるんだ」
無邪気に遊ぶ二人を静かに沈む夕陽が照らしていた。夕陽に照らされた川面がキラキラと光っていた。
凌一が「今日はこれぐらいにしよう」と言うと、二人は河原から遊歩道に上がった。心地よい風が二人のほほをなでた。二人は離れがたい気持ちを抑え、別れを告げて、それぞれの家路につこうとした。
その時だった。若い女性の大きな声がした。
「つかまえて! そのバイクをつかまえて!」
凌一には、すぐにピンと来た。最近、この界隈を騒がせているミニバイク強盗だった。手口はいつも同じで、ミニバイクで横を通り過ぎる瞬間に、女性のバッグをひったくるのである。
ミニバイク強盗は、歩道を歩いていた女性のバッグを引ったくり、そのまま歩道を走って、凌一と真穂の方に向かって来た。凌一は真穂をかばってバイクの前に立ちふさがった。
凌一の『妖刀』がうなった。
ミニバイクはあっけなく転倒し、フルフェイスのヘルメットをかぶった男がバイクから転げ落ち、主を失った無人のミニバイクが歩道を走って転倒した。エンジンがかかったまま横倒しになったミニバイクの後輪が空しく回転を続けた。
真穂には何も見えなかった。なぜバイクの男が転倒したのかわからなかった。凌一はパールスティックを胸ポケットに収め、ミニバイク強盗に近づいた。
「警察だ。強盗容疑で現行犯逮捕する」
凌一は男の片手に手錠をかけ、手錠のもう片方を、歩道の手すりにかけた。それから凌一は携帯を取り出し、何か話していた。まもなく、サイレンを鳴らしながらパトカーが近づいて来た。パトカーから降りた二人の制服警官が凌一に敬礼した。凌一も軽く敬礼を返し、何か話していた。凌一は、男が落としたバッグを拾い、それを被害者の女性に返した。
「これはあなたのバッグですね」
女性は息を切らしながら答えた。
「ありがとうございます」
「お怪我はありませんでしたか?」
「はい、大丈夫です」
「それは良かった。大変お手数ですが、あのお巡りさんに事情を説明して下さい。私はこれで失礼しますので」
凌一は真穂の方を振り返って問いかけた。
「真穂ちゃん。怪我はなかった?」
「う、うん。私は全然平気」
真穂は、ポカンとしていたが、我に帰って凌一に尋ねた。
「凌一さん、あの強盗に何かしたの?」
凌一が微笑みながら答えた。
「いや、何もしてないよ。自分で勝手に転んだんだ。でも、いい手みやげになったよ。ここの所轄署は、あのミニバイク強盗に悩まされてたんだ」
「そうそう、私たちも先生から気をつけるように言われてたの」
「それじゃ、今度こそさようなら。気をつけてね」
「はい。凌一さん、さようなら」
二人は、今度こそ本当にそれぞれの家路についた。
家に戻った真穂は、玄関から大声で叫んだ。
「お母さん! 今、栄橋のところで、凌一さんがあのミニバイク強盗を逮捕したよ!」
祥子が驚いて尋ねた。
「ミニバイク強盗って、あのミニバイク強盗?」
真穂は、キッチンに駆け込みながら言った。
「そう! そのミニバイク強盗! 女の人が襲われてたの。私、逮捕シーンを目の前で見たのよ!」
「凌一さんはミニバイクと素手で闘ったの?」
真穂は、首をかしげながら答えた。
「それが、よく見えなかったの。凌一さんは強盗が勝手に転んだんだって言うんだけど……
ただ、強盗が転ぶ瞬間、凌一さんの手元で何かキラリと光ったのよ。その瞬間、ミニバイクが横転したの。凌一さん、顔色ひとつ変えずに、強盗に手錠をかけてたわ。かっこいいのなんのって。あれは、まるで時代劇の剣豪が顔色ひとつ変えずに悪者を切って捨てるようなシーンだったわ」
真穂は、真子にも真治にも同じ話を繰り返した。その夜、中井邸は、凌一のミニバイク強盗逮捕の話題で盛り上がった。
翌朝の高校でも、真穂は、友達にきのうの逮捕劇をしゃべりまくった。真穂の友達の今どきのにぎやかな女子高生たちが口々に騒いだ。
「かっこいい~ 真穂、私たちにもその刑事さんを紹介してよ!」
真穂は得意げに、
「ダーメ。凌一さんは私だけのものよ」
5
翌朝、可奈子はベッドに横たわり、毛布を被って、一人悶々と苦しんでいた。看護師が持って来た朝食にも手をつけていなかった。
朝の回診に来た三崎がその姿を見て言った。
「渇望が始まったんだね。しばらくは苦しいだろうけど我慢するんだ。渇望感は、次第に薄れていくからね。一ヶ月も経てば、ほとんど忘れられるようになるよ」
三崎の声を聞いた可奈子は、毛布から顔を出して尋ねた。
「渇望?」
三崎は穏やかに微笑んで、
「そう、渇望さ。薬物やお酒の離脱症状には二種類あって、最初の三~四日間は、幻覚や痙攣など激しい離脱症状に襲われる。君も経験したね。その後は、身体的な症状は、ほとんどなくなるけど、今度は、断続的な渇望に襲われる。渇望というのは、無性に薬が欲しくなる精神症状のことさ。
今、君は、覚せい剤やお酒が欲しくて欲しくてしようがないんだろう。最初の一ヶ月の渇望感はとても苦しくて、自分の意思では耐えられない。だから、ここのような専門の病院に入院する必要があるんだ。でも、渇望感は、次第に薄れていく。
早い人なら一ヶ月経てば、ほとんど薬や酒を欲しいとも思わなくなる。長い人だと一年ぐらいかかるけどね」
可奈子が心細そうな声で、
「この、寒いような熱いような変な感覚、ものすごい焦燥感は、渇望の症状なんですか?」
それを聞いた三崎は、可奈子の脈をとり、胸に聴診器をあてた。そして、
「うん、渇望だね。熱もないし、体には異常はないと思うよ。この病棟の患者さんは、みんなそれと闘っているんだ。君の場合、覚せい剤とお酒のチャンポンだったから、渇望感もきついと思うけど、僕を信じて我慢するんだ。渇望感は日を追って薄れていく。それを待つしかない。可奈ちゃんには何か気晴らしになるようなことはないのかい?」
「気晴らしですか?」
「そう、気晴らし、周りの人を見てごらん。みんな本を読んだり、トランプをしたりして気を紛らしているだろ。何か気晴らしになるようなものがあれば、言ってごらん」
可奈子が少しはにかみながら、
「わたし、ピアノを弾きたいんですが、病院にはありませんよね……」
それを聞いた三崎が少し考えた。
「ピアノか…… 実は、中庭のリクリエーションルームに電子ピアノがあるんだ。時々弾きに行ける様に、看護師に申し送りしておこう。ただし、ヘッドホンをつけて弾くんだよ。病院で大きな音を出すわけにはいかないからね……」
可奈子は少し嬉しそうな表情を見せて、
「わかりました。ありがとうございます」
三崎は少し意外そうに可奈子に尋ねた。
「可奈ちゃんはピアノが弾けるのかい? 素敵だな……」
「ええ、実家が楽器屋さんをしていたものですから」
「そうなんだ。是非一度、君の演奏を聴きたいな…… それじゃ、僕はこれから外来の診察があるから、がんばってね」
「ありがとうございます」
三崎が去って、しばらくした後、可奈子のところに看護師がやって来た。
「先生の許可が出ていますので、リクリエーションルームに行きましょう」
可奈子はベッドから飛び起きて答えた。
「はい」
閉鎖病棟から中庭に出るのは、常時施錠された鉄の扉を開けてもらう必要がある。閉鎖病棟の患者にとって、この鉄の扉の外に出られるのは、とても嬉しいことである。この嬉しさは、刑務所や閉鎖病棟など、何らかの施設に監禁された経験のある者にしかわからない感覚である。閉鎖病棟の中と外では、空気の味さえ全く違うのである。
可奈子はリクリエーションルームに入った。そこは、小学校の講堂のような建物だったが、講堂に比べれば随分小さい。可奈子は、舞台の上にあった電子ピアノの前に座り、電源を入れた。看護師が声をかけた。
「十一時四十分までですよ」
「わかりました」
可奈子はヘッドホンを掛け、演奏を始めた。最初に可奈子が奏でたのは、『禁じられた遊び』だった。
リクリエーションルームには、開放病棟の患者が大勢来ていて、世間話をしたり、軽い運動をしたりしていた。
電子ピアノをヘッドホンをかけて弾いたのだから、当然音は出ない。でも、可奈子がピアノを奏でる姿は、なぜか他の患者たちの注目を集めた。例え音は聞こえなくても、可奈子の指先の動きや体のしなり方を見れば、美しい曲を奏でていることが想像できたからである。
一人の患者が可奈子の所に歩み寄って言った。
「娘さん。ちょっと聴かせてもらえるかな?」
「いいですよ」
可奈子はそう言って、その患者にヘッドホンを手渡し、演奏を続けた。その患者は、しばらく目をつむって可奈子の演奏に聴き入った後、ヘッドホンを外しながら言った。
「とても上手ですね」
「ありがとう」
可奈子は少し照れくさそうにそう言って、もう一度ヘッドホンをかけ、演奏を続けた。いつの間にか十一時四十分になっていた。
看護師が可奈子に近づいて言った。
「時間です」
「わかりました。ありがとうございます」
可奈子は看護師に礼を言って、席を立った。可奈子は看護師にうながされて再び閉鎖病棟の中に戻った。ベッドに横たわった可奈子の耳には、さっきまで自分が弾いていた『禁じられた遊び』が鳴り響いていた。長い間、自分がピアノを弾けることすら忘れていた。もちろん演奏の腕は落ちていたが、中学生の頃まで、天才少女とまで言われていた可奈子の演奏は、一般の人を感動させるには十分だった。
この病院に来て、自分は、花を愛でる感情を取り戻した。ピアノの音色に感動する感情も取り戻した。何年も何年も忘れていた、とても大切なものをこの鉄格子に囲まれた檻の中で取り戻した。可奈子の瞳から、何故かとめどなく涙が流れた。
6
翌日も、その翌日も、可奈子はリクリエーションルームに出てピアノを弾いた。ピアノを奏でている間も、可奈子の心から嫌なことが全て忘れられたわけではなかった。決して心の傷が完全に癒されるわけではなかった。
でも、ピアノを奏でる度に、可奈子の心の中で長年うち捨てられていたまるで少女のように繊細で純粋な感情が呼び覚まされた。可奈子にはそれがわかった。可奈子はピアノを弾くことで、忘れ去られた自分の大切なものを呼び起こそうとしていた。
一般の病院とは違い、精神病院にはベッド脇のテレビなどない。この病院の患者も、感動できるものに飢えていた。
可奈子がピアノを弾いていると、開放病棟の患者たちが入れ替わり立ち替り可奈子の所に来て、一曲聴かせて欲しいと頼んだ。
「お一人一曲ずつですよ」
可奈子は、患者たちに演奏をせがまれる度にそう言って微笑みを浮かべながらピアノを奏でた。
閉鎖病棟にピアノの上手い女性が入院しているという噂は、瞬く間に病院中に広がった。その噂は三崎の耳にも入った。
三崎が可奈子に、
「一度君のピアノを聴かせてくれないか?」
「ええ、いいですよ。ただ、プロのピアニストみたいに上手なわけじゃないので……」
「そんなこといいから、君のピアノが聴きたいんだ」
二人は閉鎖病棟を出て、リクリエーションルームに向かった。ピアノの前に腰掛けた可奈子が、少し照れくさそうにしながら三崎にヘッドホンを手渡した。可奈子が奏でたのはやはり『禁じられた遊び』だった。三崎の耳に、はかなく、哀愁漂うピアノの調べが響いた。三崎は、目をつむってじっと聴き入った。一曲弾き終えたところで可奈子は手を止めた。三崎はヘッドホンを外して、可奈子に拍手した。
「すばらしい、なんて美しい調べなんだ…… もう一曲お願い」
それを聞いて、可奈子は、はにかみながら鍵盤に視線を向け、二曲目を弾き始めた。三曲目、四曲目と可奈子の演奏は続いた。三崎は目をつむり、黙ってピアノの調べに聴き入った。
五曲目が終わり、可奈子が三崎の方に視線を向けた。三崎はヘッドホンを外し、可奈子に拍手を送った。
「可奈ちゃん、すばらしい演奏をありがとう。他の患者さんにも聴かせてあげたいな、この部屋は、一応、防音になっているから、院長の許可が取れればコンサートだって出来る」
「コンサートなんて、恥ずかしい」
「本当は、いつもこうして僕だけのために演奏して欲しいけど……」
「三崎先生のためなら、いつでも……」
可奈子と三崎は、お互いに見つめあった。しばらくの間、沈黙の時が流れた。
7
翌日、ある別件の捜査で南生駒まで来た凌一は、途中、新阿久山病院に立ち寄り、可奈子に面会した。二人は、看護師の許可を得て中庭に出た。入院中の可奈子の言動は、閉鎖病棟の患者としては模範的なものだったし、時折、可奈子が聴かせるピアノの演奏は、院内ではまるでプチコンサートのように人気を得ていたため、可奈子が中庭に出ることについては、既に医師の了解を必要としないようになっていた。
入院患者の間では、可奈子は『檻の中のピアニスト』と呼ばれていた。可奈子もそう呼ばれていることは知っていたが、今の自分にはお似合いのニックネームだと思っていた。
初夏の日差しを避けて日陰のベンチに腰掛けている可奈子の透けるような白い肌の奥に、細い血管が透けて見えていた。
凌一が明るい声で尋ねた。
「可奈ちゃん、随分元気になったね。さっき三崎先生から聞いたけど、内臓もほとんど健康な状態まで回復しているらしい。三崎先生の言いつけをちゃんと守っていれば、もっともっと良くなるよ」
「ありがとう、入院患者さんも看護師さんもここの人はみな親切だから、少しずつ自分のひねくれたところが治ってきているような気がしています」
凌一が、少しためらいながら可奈子に尋ねた。
「可奈ちゃん、三崎先生のことが好きなのかい?」
可奈子は一瞬ハッと表情を変えたが、すぐにクスクスと笑いながら答えた。
「明日野さん、世間知らずね。世の中には身分相応というのがあるのよ。ヤク中で放火魔の私がエリート医師に恋? そんなばかな…… 私はそこまで身の程知らずじゃありません」
凌一は真顔で、
「ヤク中で放火魔の君が三崎先生を好きになっちゃいけないかい? 人に想われることは自分の自由にはならないが、人を好きになることは自由だ。人を好きになることに身の程知らずなんてありえない。君には男の心がわかっていない。君のような若くてきれいな女性に好かれて迷惑に思う男はいない。その娘がヤク中であろうと放火魔であろうとそんなことは関係ない。それが男という生き物さ」
可奈子はそれを聞いてひときわ可笑しそうに笑った。
「フフフ、そうね。そうかもしれないわね。三崎先生も私に好かれれば、まんざらでもないかもね。でもね、私にはわかるのよ、物語の結末が…… 私と三崎先生なんて、どこまで行っても仲の良いヤク中患者とその主治医よ。それ以上には絶対なれない。なれるはずがない。なっちゃいけない。三崎先生は、育ちのいい上品な御令嬢と結婚して、末は病院の経営者ね。人の人生なんてあらかじめストーリーの決まった出来レースよ! 私なんか、いいとこ行っても、三崎先生にとっては、若かりし頃のあわい思い出の女の一人よ! そうに決まってる」
可奈子の話を黙って聞いていた凌一がしばらく沈黙した後でポツリと、
「やっぱり君は三崎先生が好きなんだ……」
凌一の一言に可奈子は返す言葉を失った。
凌一が続けて、
「ふられて傷つくのが怖くて恋が出来ない人は沢山いる。でも、僕は君に別の理由があるように感じる。僕には言えないことなんだろう。無理に訊きはしない……」
可奈子はしばらくの沈黙の後、真っ直ぐ前を見すえたまま言った。小さく、はかない声だった。
「帰って……」
一瞬の沈黙の後、凌一は、自分の足元に視線を移し、足元の砂を靴でいじくりながら言った。
「わかった」
凌一は立ち上がり、中庭のベンチを離れて正門の方に歩を進めた。四歩か五歩進んだところで、可奈子の方を振り向き、何か言おうとして一瞬躊躇した。しかし、すぐに穏やかな微笑みを浮かべて物静かに問いかけた。
「また来ていいかい?」
ベンチに腰掛けたままの可奈子が少し目を潤ませて言った。凌一の顔を見ようとはしなかった。
「ええ…… ご自由に……」
看護師にうながされて可奈子はベンチを立ち、病室に戻って行った。