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第五章 少女溺死事故

第五章 少女溺死事故




 翌朝、凌一は、新阿久山病院を訪れ、三崎医師に会い、可奈子の状況を聞いた。話が終わって病院を出ようとした時だった。凌一の携帯が震えた。渡辺からだった。


「明日野、貴瀬川の河原で少女の水死体が発見された。場所は水管橋の下だ。今、鑑識が調べている。こちらからは、谷川と久保を向かわせるので、君も合流してくれ」

「わかりました。現場に直行します」


 凌一が現場に着くと、既に谷川と久保が到着し、現場付近を探索していた。谷川が凌一の姿を見て声をかけた。


「明日野か、少女の遺体が発見されたのはここだ。死因は溺死と推定される。体中に打撲を負ってるが、致命傷になるような外傷はない。恐らく打撲は川に転落した時と、流される途中で出来たものだ。亡くなった少女は、榊原里美ちゃん、九歳、この近くの県営住宅に母親と二人で暮らしていた。遺体の第一発見者は母親の榊原綾香さんだ。ちょっと目を放した隙にいなくなったので、近所を探してたらしい」


 凌一は、何も語らず現場周辺を探索した。嫌な予感がした。凌一の予感は的中した。


 しめやかに進められるはずの里美ちゃんの通夜は、マスコミに取り囲まれて、さながらナイトコンサートのようになった。凛として懸命に喪主を務める母親の綾香の周りには、レポーターが群がった。


 翌日以降も榊原綾香の自宅は、マスコミに取り囲まれ、黒山の人だかりが出来ていた。マスコミは、近隣の住民にも付きまとって取材を行っていた。母親はアル中でほとんど娘の世話をしていなかったとか、母親に命じられて自動販売機で焼酎を買う里美ちゃんを見かけたとか、さまざまなインタビューがワイドショーで報道された。

 新聞紙面には、「畑山鈴香」、「模倣犯」、「代理ミュンヒハウゼン症候群」などのキーワードが掲げられていた。

 告別式には、通夜をはるかに上回る群集があつまり、さながらパレードのような様相を呈した。上空には取材ヘリが旋回していた。


 告別式の後、凌一は、母親の榊原綾香の自宅を訪問した。


 母親が話を切り出した。

「みんな、私がやったと思ってるんですね……」


 凌一が慌てて首を横に振り、

「警察は、現状では事故と事件の両面から捜査を行っていますが、お母さんを容疑者とは考えていません。私は、お母さんにお悔やみを申し上げに来ただけです。きのう、谷川と久保が詳しくお話を伺っているので、事情聴取するつもりはありません」


 母親が言った。その表情は生きた抜け殻のようだった。

「私を疑ってるのなら、遠慮なく逮捕して下さい。私が酒びたりでちゃんと娘の面倒を見ていなかったことは事実ですし、娘を亡くした今、この世に思い残すこともありませんので……」


 凌一は、部屋の内部を見回した。安物の焼酎やウイスキーの空き瓶が散乱して、部屋全体が酒臭かった。台所には、インスタント食品の空箱やそれを料理したらしい不潔な食器が山積みにされていた。


 アルコールに漬かる人間の心には隙間が出来ている。その隙間を埋めるために、酒を飲む。でも、酒では心の隙間は埋まらない。隙間風の吹く心の痛みを一時的に麻痺させるだけである。

 凌一は、アルコール依存のために指を震わせながら、痛々しいまでにやせ細った母親が、必死で平静を装っている姿を見て、彼女の心の隙間を垣間見た思いがした。


「娘さんのこと、心からお悔やみ申し上げます。あなたが自虐的になる気持ちもわかります。でも、事実はひとつしかありません。私たちがそれを解明するまで、つらいでしょうが強く生きていただきたいんです。繰り返し申し上げますが、現時点において、我々はあなたを容疑者とは考えていません」

「でも、私が怪しまれるのはあたり前ですよね。畠山鈴香の事件と同じパターンですもの。だから、あんなにマスコミが群がってるんですよね。自分の娘を殺した女だと怪しまれながら生きていくぐらいなら、逮捕されて死刑になったほうがいいんです。どうせ、私にはもう、失うものはないんですから……」

「我々が事実を解明するまで、どうかご辛抱下さい。私にはわかります。あなたは、ろくに娘さんの面倒を見ていなかった。でも、あなたが娘さんを愛していたことに嘘偽りはない。違いますか?」


母親は声を詰まらせてうなずいた。凌一は、深く一礼して綾香の家を出た。



 凌一が署に戻ると、すでに谷川と久保が榊原綾香の身辺を調べて資料にまとめていた。凌一はその資料に目を通した。

 榊原綾香は、高校卒業後、親元を離れ、会社の独身寮に住みながら堺市内の化学工場に勤めていた。そこで知り合った男性と結婚し、娘の里美を生んだ。里美を生んでから一年足らずでその男性とは離婚し、その化学工場も退職している。

 それからしばらくは、大阪市内のスナックやキャバクラ等、水商売を転々とし、何度も男性を替えて同棲しているが、誰とも長続きしなかったらしく、二年前に両親の住む香芝市に戻っている。今住んでいる県営住宅の別棟に両親は暮らしている。


 谷川が凌一にポツリと、

「似てるだろ」

「似てるって何がですか?」

「榊原綾香だよ、畠山鈴香と境遇が似てるだろ。娘が川で水死したことまでそっくりだ」

「娘をネグレクトしていたことまで一緒ですね。ただ、畠山鈴香は、娘をネグレクトしながら、愛情を注いでいたような一面も見せています。榊原綾香の場合はどうなんですか? 娘に多額の生命保険をかけたりはしていませんか?」


 その質問には久保が、

「保険をかけたりはしていません。ただ、近所の人の証言どおり、娘のネグレクトは、畠山鈴香以上に酷かったようです。近所に祖父母が住んでいるので、娘の里美ちゃんは祖父母の世話で育っていたようなものです。しかし、最近、祖母が寝たきりになってから、祖父は祖母の面倒にかかりきりになり、里美ちゃんの世話も出来なくなりました。実家の近くに戻ってきた頃は、綾香もホステスやキャバクラのアルバイトをしていたんですが、次第にそれもしなくなり、最近では一日中酒びたりの日が多かったようです」

「生活費はどうしてたんだ?」

「ほとんど実家の援助で暮らしていたようです。ただ、見てのとおり、彼女は美人です。スナックやキャバクラに行った日は、かなりの日当を稼いでいたようです」

「鑑識の報告は?」

「有力な証拠や遺留品はあがっていません。ただ、貴瀬大橋の欄干のたもとで、里美ちゃんの靴の片方が見つかっていますので、里美ちゃんが貴瀬大橋から転落したことは間違いなさそうです」


 それを聞いて凌一は首を傾げた。

「靴の片方? 誤って転落したとしても、誰かに突き落とされたにしても、靴の片方が橋の上に残っているというのは不自然な感じがしますね……」


 谷川が、

「綾香を任意で引っ張ってみるか? 案外簡単に吐くかもしれんな」


 それを聞いた凌一が、

「簡単に吐くでしょうね。彼女はもう生きる希望を失っています。死刑になることを望んでいます。里美ちゃんの死に綾香が関与していようがいまいが、彼女は自分がやったと言うでしょう。彼女は、マスコミの取材攻勢にあって憔悴しています。この状態で彼女を引っ張れは、彼女は嘘の自供をする可能性があります。私は、今の時点で彼女の事情聴取を行うことは、冤罪のまま、一件落着になる恐れがあり、危険だと思います」


 三人の会話を聞いて、渡辺が横から釘を刺した。

「明日野の言うとおりだ、この件はまだ事件とも事故ともわかっていない。見込み捜査は危険だぞ。あくまで客観的に捜査を進めろ」


 それを聞いて、三人はハッとして、

「わかりました」


 凌一は、榊原綾香の両親を訪ねた。母親は寝たきりで、話が聞ける状態ではなかったため、凌一は、父親から事情を聴取した。父親はガックリとうなだれ、ショックを隠せない様子だった。

「娘は、男運が悪く、最近は酒びたりの生活をしてました。私たちは、娘に酒をやめるように口うるさく説教してましたし、本人もやめたいと思ってました。アルコール依存症の専門病院にも通院してます。


 酒さえ飲まなければ、娘は真面目でおとなしい子です。しらふの時は孫の面倒もよく見てました。孫は娘の宝物でした。孫の面倒を見なくなったのはアルコール依存症のせいです。


 娘は心の中で孫に詫びながら酒をやめられない自分を責めてました。娘が孫を殺すなどありえません。絶対にそんなことはありません」


 凌一は、もの静かに祖父の話を聞いた後で尋ねた。

「娘さんは専門病院に通院してたんですね?」

「はい、新阿久山病院です」

「そうですか…… やっぱりあの病院ですか。どうも大変参考になりました。ありがとうございます」


 凌一は、一礼して、榊原綾香の父母の家を後にした。



 次に凌一は新阿久山病院を訪れ、受付で、榊原綾香の担当医師を尋ねようとした。既に外来の時間は過ぎていたので、受付には誰もいなかった。

「すいません。どなたかいらっしゃいませんか?」


 凌一が、受付の奥の事務室を覗き込みながらそう呼ぶと、奥から事務服を着た女性が出て来た。

「あいにく、今日の診察は終了しましたが……」


 凌一は、警察手帳を出し、身分証明のページを開いた。

「診察ではないんです。私は警察の者です。明日野と言います。こちらに通院されていた榊原綾香さんのことで、少しお尋ねしたいことがありまして。彼女の担当の先生にお会いしたいんです」


 その女性は後ろの書棚からファイルを取り出し、それに目を通した。

「榊原綾香さんですか、えーと、担当は三崎医師ですね」


「三崎医師?」

 凌一がそう問い返すと、女性は、

「そうです。榊原綾香さんの担当は三崎医師です」

「三崎医師にお会い出来ますか?」


 その女性は、出勤簿に目を通した。

「ええ、三崎先生は今夜当直なので、院内にはいらっしゃると思いますよ」


 そう言った後、女性は電話の受話器をとり、内線で何か話していた。相手は三崎医師のようだった。

女性は受話器を置き、凌一の方を見て言った。

「三崎先生は当直室でお会いになるとのことです。当直室は、四階の一番奥の部屋です。そちらのエレベータをお使い下さい」

「ありがとうございます」


 凌一は、そう言って事務の女性に一礼した後、三崎医師の待つ当直室を訪ねた。

「コンコン」凌一は当直室のドアをノックして、

「明日野です。三崎先生はご在室ですか?」

「どうぞお入り下さい」


 中から三崎医師の声がした。凌一が部屋に入ると三崎が、

「どうぞ、おかけ下さい」


「ありがとうございます」

 凌一は、三崎医師に一礼して椅子に腰掛けた。

「三崎先生、榊原綾香さんの件ですが、娘の里美ちゃんが貴瀬川で水死したことはご存知ですね」

「はい、ニュースでも新聞でも大きく報道していましたね。なんでも畠山鈴香の再来だとか、模倣犯だとか……」

「あんな報道は気にしないで下さい。それより、彼女はどんな症状だったんですか?」

「アルコール依存症の治療では、患者がアルコールに頼るようになったきっかけまで、深く掘り下げて質問をします。ですから、彼女の生い立ちから今に至るまで、詳しく聞いています。アルコール依存症患者は、全てを医師に打ち明けるわけじゃありませんし、嘘をつくことも多いんですが、彼女の場合、酷く男運の悪い女性だったようです」

「男運が悪いとは?」

「最初の男性、つまり里美ちゃんの父親ですが、ろくに仕事もせずにギャンブルにのめり込み、綾香さんは、四六時中暴力を受けていたようです。その男と別れた後、彼女は何人かの男性と同棲していますが、どの男性も似たり寄ったりです。彼女が求めていたのは、里美ちゃんをかわいがってくれるような真面目な男性だったんですが……」


 三崎の話を聞いて凌一が尋ねた。

「それで彼女は酒で憂さを晴らすようになったんですか?」

「そのようです。ただ、彼女は夜の仕事をしていたので、仕事上酒を避けることは難しかったようです。職場で酒を飲み、自宅では酒で憂さを晴らす。アルコール依存症が出来上がる条件は整っていたようです」

「彼女は、代理ミュンヒハウゼン症候群だったんですか?」

「彼女は、いつも里美ちゃんを連れて通院していました。さすがに病院に来る時は酔っていないので、彼女と里美ちゃんの様子はよく見ています。とても仲の良い親子で、綾香さんは娘の里美ちゃんをとても愛しそうにしていました。酒びたりの時に、ろくに娘さんの面倒を見ていなかったのは事実でしょうが、一日中酒びたりの状態では家事なんか出来ないのは、あたり前のことで、ネグレクトや虐待とは別の問題です。代理ミュンヒハウゼン症候群には覆面症状、つまり他人から見てもわからないことが多いんですが、私の見立てでは、彼女は違います。彼女には、娘さんを殺したり出来ません」


 凌一は席を立ち、三崎医師に一礼しながら言った。

「そうですか、ありがとうございます」



(そうだ、せっかくここまで来たんだから可奈ちゃんに会っていこう)


 そう思った凌一は可奈子に面会した。こころなしか、可奈子の表情は明るかった。

「やあ、可奈ちゃん。少し元気になったみたいだね」


 可奈子はぶっきらぼうに答えた。

「元気になんかなってません」


 凌一は首を傾げながら、

「そうかな? 確かにまだ離脱症状が出るだろうから、辛い時期だろうと思うけど、三崎先生のような優しい先生に診てもらえて君はラッキーだよ」


 可奈子は冷淡に、

「ラッキーだなんて、勝手なことを言わないで下さい。私にラッキーはありません」

「?」


 凌一には可奈子の話の意味がわからなかった。可奈子は話を続けた。

「私は、不幸になるように神様に定められて生まれてるんです。私にラッキーはありません」


 凌一はやや呆れた表情を浮かべた。

「そんなに自暴自棄になっちゃいけないよ……」

「三崎先生にはとても親切にしてもらってます。感謝してます。でも、私はラッキーなんかじゃありません」

「……」


 凌一には次の言葉が見つけられなかった。


 凌一は、鉄格子がはめられた面会スペースの窓越しに外の景色を見た。そしてつぶやいた。

「君をそんなにゆがめてしまったものが何か、僕にはわからない。訊こうとも思わない。でも、運命に定められた不幸があるからといって自分をゆがめちゃいけない。その報いは全て自分が受けることになる。どんなに辛いことがあっても強く正しく生きていくんだ。その先にしか幸せは見えてこない」


 それを聞いて、可奈子は冷淡に笑った。

「幸せが見えてくる? 笑わせないで。そんなこと私にはないの。ありえないの。私が明るく見えるのは、ここが外の世界よりも私に向いてるからよ」

「そうかい。それじゃいつまでもここにいるんだね……」


 凌一は、そういい残して可奈子と別れ、新阿久山病院を後にした。

 翌朝から凌一は、少女の遺体が発見された貴瀬川周辺の聞き込みを開始した。聞き込みではマスコミの取材と同じように、綾香の自堕落な生活ぶりや里美ちゃんの可哀想な生活ぶりを散々聞かされた。しかしながら、里美ちゃんの死因と関係のありそうな有力な情報は全く得られなかった。


 最後に凌一が得た情報は、この付近でネグレクトにあっていた児童は里美ちゃん以外にもう一人いるということだった。その子は、里美ちゃんと同じ九歳で、近くのハイツに住んでいる高山祐樹という少年らしい。里美ちゃんと祐樹君は、よく二人で遊んでいたという。


 児童相談所はちゃんと対応しているんだろうか? 祐樹君のことが気になった凌一は、その子のハイツを訪れた。ドアの横のチャイムを鳴らすとインターホンに母親の声がした。

「どちらさまですか?」

「明日野と言います。警察の者です。先日、貴瀬川で児童が水死した件を調べているんですが、少し、お話を伺えますか?」

ドアが開き、母親が顔を出した。部屋の中を見られたくないような様子だった。凌一は、警察手帳を見せながら言った。

「祐樹君は里美ちゃんとは、仲良しだったようですが、少し祐樹君のお話を聞かせてもらえますか?」


 母親は怪訝そうな表情を浮かべながら、

「祐ちゃん、ちょっとこっちにおいで」


 母親にうながされて少年が出て来た。凌一は、しゃがみ込んで尋ねた。

「祐樹君だね。おじさんはおまわりさんなんだけど、こないだ、里美ちゃんが貴瀬川にはまったことは知ってるね」

それを聞いたとたん、その少年は「ワッ」と泣きながら、


「わざと落としたんじゃないんだ!」


「えっ!」


 意味がわからずに凌一が訊き返すと、少年は同じ言葉を繰り返した。


 「わざと落としたんじゃないんだ!」


 凌一は優しい声で尋ねた。

「詳しく話してくれるかい? 怒ったりしないから」


 少年は泣きじゃくりながら答えた。

「あの時、二人で鬼ごっこをしてたんだ。僕が里美ちゃんにタッチした時、里美ちゃんの靴のかかとを踏んづけちゃったんだ。そしたら、里美ちゃん、つまずいて川にはまったんだ。わざとやったんじゃないんだ」


「……」


 凌一は言葉に詰まった。母親が叱り声を上げた。

「祐樹! お前、どうしてそれを早く言わなかったの!」

「ごめんなさい」


 少年は泣きじゃくるばかりだった。


 凌一が物静かに母親に、

「息子さんの話では、どうも不可抗力だったようですが、一応お話を聞かないといけないので、二人で署まで同行願います」


 母親はかなり動揺した表情で、

「わかりました」


 凌一は二人を車に乗せ、真美警察に向かった。

 真美署で二人からの事情聴取を谷川と久保に任せた凌一は、榊原綾香の自宅に向かった。


 綾香と向かい合った凌一は、事故の真相を報告した。綾香はポタポタと大粒の涙をこぼした。

「私が悪かったんです。私がちゃんと娘の面倒を見ないものだからこんなことになったんです」


 つらそうに語る綾香の吐息は酒臭かった。凌一の訪問時に慌てて片づけたと思われるウイスキーのボトルとガラスコップがキッチンの上に置かれていた。多分、朝から飲んでいたんだろう。

 依存症患者はあくまで酔うための薬品として酒を飲む、だから銘柄や味にはこだわらない。依存症者の部屋にあるのは決まって安物のウイスキーか焼酎、つまり、安くてアルコール濃度の高い酒だ。


 凌一が尋ねた。

「祐樹君を責める気持ちはお持ちではないんですか?」


 綾香がしばらくの沈黙を破った。

「運が悪かったとは思いますが、もとはと言えば私が悪いんです。祐樹君を責めても、里美は戻ってきません。もう、私には何もありません」


 そう言いながら綾香はよろめくように立ち上がり、フラフラと歩いて、キッチンの上の酒瓶に手を伸ばした。凌一がそれを制止し、

「あなたがしっかりと生きていくことが里美ちゃんの一番良い供養になるんです。どうか、ご自分を大切にして下さい」


 それを聞いた綾香は、恥じ入るように凌一の方を振り向き、視線を床に落とした。

「すいません。刑事さんのおっしゃること、わかってはいるんですが……」

「三崎先生のところには、必ず行くようにして下さい。きっといい方向に向かうと思いますよ」


 綾香が小さくうなずいた。

「そうします。ありがとうございます」


 凌一は、綾香と別れ、外に出た。外ではマスコミが待ちかまえていた。凌一が綾香を逮捕に来たと思っていたらしい。凌一は、マスコミのフラッシュや質問を避けるように小走りに車に乗り、その場を離れた。



 凌一は胸のポケットから携帯を取り出し、真穂に電話した。

「こんにちは、今夜、行っていいかな?」

 真穂はいつもの明るい調子で、

「もちろん!」

「それじゃ、今からすぐ行く」


 凌一は、そう言って携帯をポケットに収め、車を走らせた。

 少女が一人溺死した。不幸な出来事だった。でも、それはマスコミが期待したような実母による殺人事件ではなかった。凌一の仕事は終わった。

 凌一は、何か無性に真子と真穂に会いたくなった。会いたいというより、甘えたい心境だった。真子と真穂に対して初めて感じる感情だった。


(疲れているのかな……)


 凌一はそう思いながら、中井邸に急いだ。

 中井邸に着くと、部屋の窓からちらちら覗いていた真穂が飛び出して来た。

「凌一さん、いらっしゃい。早く入って」


 玄関に入ると、真子が出迎えてくれた。

 凌一は、いつものようにリビングのソファに腰掛けた。真治が出て来て言った。

「貴瀬川の少女水死事件、君が担当しているんじゃないのかい? 世間じゃ、畠山鈴香の再来だと騒いでいるようだが……」

「いえ、あの件は、事件というより事故です。もう真相は解明されました。報道されていたように、母親の榊原綾香は、アルコール依存症で、ろくすっぽ娘の面倒を見ていなかったことなど、秋田の連続児童殺害事件に類似していた点が多かったんでマスコミが騒いだんですが、事件性はありません」

「そうかい。それなら良かった」


 真治がそう言った時、凌一の携帯が震えた。渡辺からだった。電話の向こうから渡辺の切迫した声が聞こえた。

「明日野、今、どこにいる。榊原綾香の家にいたんじゃないのか?」

「はい、ついさっきまでいました。事故の真相を説明した後、亡くなった娘さんの供養のためにも強く生きていくように励まして来ました」

「励ましただと? 綾香はお前が帰った後、首を吊った。たまたま、父親が見つけて119番したが、意識不明の重体だ。今、香芝市総合病院のICUにいる」

「えっ」


 凌一は愕然とした。一瞬言葉に詰まった後で言った。

「今からすぐに病院に向かいます」


 凌一は携帯をポケットに収め、真治に、

「申し訳ありませんが、急用で今日は失礼します」

「渡辺さんの話、聞こえたよ。榊原綾香が自殺を図ったって?」

「そうらしいです。今、意識不明の状態で、市立病院のICUにいるらしいです。私もこれから向かいます」

 真穂は心配そうに、

「凌一さんは、ちゃんと事件の真相を解明したんでしょ。その榊原さんにはお気の毒だけど、自殺を図ったことは、凌一さんとは関係ないじゃない」


 凌一は、うわの空で真穂の方を見やりながら、

「榊原綾香さんは、不幸な女性だ。娘さんの面倒を見なくなったのも、憂さ晴らしのために酒を飲んでいるうちにアルコール依存症になったからで、娘さんを愛していなかったわけじゃない。むしろ、里美ちゃんは綾香さんのたった一つの宝物だった。その宝物を失えば自殺を図るのも想像できる。だから、さっきまで僕は彼女の家で強く生きていくように励ましていたつもりだったんだ。でも、彼女の心の傷は、そんな通り一遍の励ましで繕えるようなものじゃなかった。僕の見込みが甘かった。確かに彼女の自殺企図は僕の職分じゃない。でも、それを防げたのは僕だけだった。僕の見込みが甘かったんだ」


 そういい残して凌一は、小走りに中井邸を飛び出し、香芝市立総合病院に向かった。



 受付で事情を話した凌一は、ICUの入り口近くにある面会スペースに入った。そこには、綾香の父親がいた。凌一はなんと声をかけていいかわからずに、黙ってその近くに腰掛けた。父親が独り言のようにつぶやいた。

「この年になって、孫と娘に先に逝かれるとは思わんだ……」


 凌一は、痛々しげに父親の顔を見た。やはり、かける言葉が見つからなかった。


 長く苦しい一夜が始まった。壁の掛け時計がゆっくりと、ゆっくりと時を刻んだ。凌一には、時計が動いているように思えなかった。しばらくして、あたりをキョロキョロ見回しながら、人影がもうひとつ、面会スペースに入って来た。真穂だ! 凌一は驚いて声をかけた。

「真穂ちゃん! こんな時間に、こんな所まで来るなんて、危ないよ!」

「何言ってるの? 家はすぐ近くじゃない。ここの病院には救急外来があるから、この辺りは一晩中人通りが多いのよ、危なくなんかないわ」

 真穂はそう言って凌一の隣にチョコンと腰掛けた。


 凌一が、周りを気にしながら、声を押し殺して言った。

「真穂ちゃん! 帰らないといけないよ! ご両親には黙って来たんだろ?」

「うん、でも、お姉ちゃんにメールを入れておいたから大丈夫」

「そんな…… 何時になるかわからないんだよ。真穂ちゃんが早く帰らないと、僕はご両親にあわす顔がなくなるよ」

「いいのいいの、二人で綾香さんの回復を祈りましょう」

そう言って真穂は凌一の肩にほほを寄せ、じっと目をつむった。なんともいえない淡い乙女の香りが、凌一の周りを包んだ。その心地よい乙女の香りにときめく心の余裕が凌一にはなかった。


(後悔先に立たずか……)


 凌一はそんなことを考えていた。さっき、もっともっと真剣に自分が綾香の相手をしてあげていたら、もっと時間をかけて、彼女の悩みや苦しみを聞いてあげていたら、もっと情のこもった励ましの言葉を彼女にかけてあげていたら、こんなことにならなかったんじゃないか? 自分は、早く真子と真穂に会いたいものだから、通り一遍の話を済まして、そそくさと綾香の家を出たんじゃないのか?


 凌一は自責の念にさいなまれた。


 苦悩にゆがむ凌一の表情とは対照的に、真穂は凌一の肩にほほを寄せて幸せそうに目をつむっていた。しばらくして、スースーとあどけない真穂の寝息が聞こえて来た。凌一は、祈った。


(真穂のこのあどけない寝顔がいつまでも、いつまでも世間の荒波にゆがめられることなく、このままでありますように……)


 深夜、綾香は息を引き取った。凌一は、後頭部をフライパンで殴られたような重い衝撃を頭に感じながら、朦朧とする意識の中で、搾り出すように一言、父親に告げた。


「心から、お悔やみ申し上げます」


 父親は何も答えず、ただ、抜け殻のように娘の亡骸を見つめていた。


 凌一は、魂の抜けた視線を真穂に向けて、

「真穂ちゃん、ありがとう。僕のことを心配して来てくれたんだね。もう、用件は終わったから送っていこう」


 真穂が心配そうに凌一を見上げた。

「凌一さん、綾香さんのこと、お気の毒だけど、凌一さんのせいじゃないわ、思いつめちゃダメよ」

「ああ、わかってる。さあ、車に乗って……」


 凌一は、真穂を車に乗せ、中井邸に向かった。

 中井邸に着くと、真子の部屋には、まだ、明かりが灯っていた。真穂が真子の携帯に短いメールを送ると、二階から忍び足で降りて来た真子が、そっと玄関の扉を開けた。


 真穂が声を押し殺して言った。

「おやすみなさい」

 凌一も声を押し殺して答えた。

「おやすみ」


 凌一は、再び車に乗り、自分のハイツに戻った。シャワーを浴びた後、缶ビールを一気飲みしてベッドに潜り込んだ。


 幸せ薄い少女が一人、溺死した。その後を追って母親が自殺した。世の中に数限りなくあるような不幸のひとつだ。いちいち気にしていたら刑事なんかやってられない。凌一はそう自分に言い聞かせた。なかなか寝付かれずに寝返りを繰り返す凌一の耳に、いつもは聞こえない掛け時計の音がカチカチと響いていた。


「恥ずかしい……」


 真っ暗な部屋のベッドの中で、凌一が一言つぶやいた。寝返りを打って横向きになった凌一の両目から一筋の涙が流れた。


 今夜でなくても、いずれ綾香は自殺したかもしれない。それは自分には防げない。でも、今夜一晩明かすつもりでじっくりと綾香の相談にのってあげていたら、少なくとも今夜の自殺は防げた。それだけは疑いない。でも、自分は、早く真子と真穂の二人に会いたくて浮き足立っていた。だから、通り一遍の話を済ませてそそくさと綾香の家を出たんだ。


(お前の怠慢で救えたかも知れない命が一つ失われた)


 その言葉が凌一の胸の中に響き渡った。


 結局、一晩中寝付かれず、凌一はベッドの中で寝返りを繰り返していた。


 依存症者にとって、酒や薬物はサタンである。鉄の鎧を身にまとい、鉄壁の要塞を築いて断ち切ろうとしても、ありとあらゆる卑劣な手段を用いて、依存症者に誘惑をかけてくる。

 ほんの僅かな心の隙を見つけ、執拗につけ込んでくる。


 サタンは城壁の前に立ち、こう言う。


『何を迷っているのだ? これさえ受け入れれば楽になる。辛いことは何もなくなる。人生が薔薇色になる。毎日が愉快に過ごせる。悲しさも寂しさも全て忘れられる。何を躊躇しているのだ。心配することは何もない。安心してこれを受け入れればいい。代償は何も求めない。ただ、あなたに永遠の快楽を与えたいだけだ。安心してその身をゆだねるが良い。さあ、城門を開けなさい。これは、辛く厳しい試練だけを与える現実の世界から、永遠の快楽の世界にあなたを導くだろう』


 サタンはそう言って、依存症者に甘い誘いをかけてくる。

 一旦、誘惑に負けて心の砦を開城すれば、サタンの背後に潜んでいた無数の魔物が一気に城になだれ込む。依存症者はなす術なく命尽きるまで酒や薬物という邪悪な魔物の虜になる。


 天は自らを救う者のみを救う。自ら望んでサタンに魂を売り渡した依存症者に救いの手を差し伸べることはない。

依存症者をサタンの魔の手から救うものがあるとしたら、それは神ではなく『愛』である。愛のみがボロボロに踏み荒らされた砦の中で依存症者の心を守る盾となりえるのである。


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