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第四章 約 束


 署に戻った後、凌一は、車両放火事件の関係書類を書いていた。ドラマや小説では刑事というと、外回りの捜査ばかりしているように描かれているが、所轄刑事の場合、デスクワークは意外に多い。特に捜査の途中や終了後の資料整理や報告書作成は、冗談じゃないと言いたくなるほど大変である。


 ただし、もともとデスクワークの得意な凌一にとっては、血なまぐさい事件の捜査よりも文書作成業務の方が、気楽で落ち着ける仕事だった。


 書類作成が一段落つき、お茶でも飲もうかと凌一が席を立とうとして周りを見回した時、凌一は署内の尋常でない雰囲気を察知した。


 通信指令本部からの各課同時通報が警報を鳴らした。


【葛城警察管内、110番入電、銃撃戦の模様、死者あり、犯人は多数の人質を取って、葛城南高校体育館を占拠、現在、葛城署PCパトカー、及び捜査員が包囲、以降当該方面系の無線を傍受願います】


 そばにいた署員がチャンネルを当該方面に切り替えた瞬間から、無線に無数の怒号が飛び交って理解不能の状態となった。席を外していた渡辺が部屋に飛び込んで来た。いつになく緊迫した声だった。


「葛城南高校で男が猟銃を乱射してる! 既に死者が出てる模様だ! 男は二十人以上の生徒と教師三名を人質にして、体育館に立てこもってる! 既に葛城署とART(奈良県警特殊突入部隊)が体育館を包囲してるが、各署に応援要請が来てる! 我々も、これから現場に向かう!」


 刑事課の署員が慌てて席を立ち、防弾チョッキを着用した。渡辺が銃器保管庫から拳銃を取り出し、一人一人に手渡した。準備が整うと、全員が部屋を飛び出し、捜査車両に乗り込んだ。


 久保がハンドルを握り、アクセルを踏み込んだ。捜査車両は、けたたましいサイレンの音を鳴らしながら、マイクで前の車をどかせ、葛城南高校へ急行した。車内が異様な緊張感に包まれていた。


 正門の前に車が止まると、最初に凌一が車を降り、現場に向かって駆け出した。現場に着くと、既に葛城署のパトカーが校庭に集結しており、無線で連絡を取り合っていた。体育館の周りは、ARTの部隊が包囲していた。高校の周りはマスコミが取り囲み、上空ではヘリが旋回していた。警官隊の横では、人質となった生徒の親たちが心配そうに体育館を見つめていた。


 葛城署の刑事課長は、凌一とも面識のある西田である。凌一は、西田の姿を見つけて声をかけた。

「西田さん! 状況は?」


 西田が緊迫した表情で振り返った。

「明日野か! 状況は深刻だ。猟銃男は既に校長を射殺し、体育館に立てこもってる。体育館の中では、二十二人の生徒と三人の教師が人質になってる。人質は体育館の中央に集められてるが、猟銃男の居場所は確認できてない。恐らく、体育館二階の回廊を移動しながら、人質を狙ってると思われる。三人の教師のうち、一人は、撃たれてけがをしてる模様だが、体育館の一階には窓がないため、中の様子は把握しきれてない」


 凌一が訊いた。

「ARTは?」

「今、体育館の屋根から二階の窓越しに中の様子を伺っているが、二階の窓からでは回廊の死角になって、人質の様子が確認できない。猟銃男の位置も確認できてない。今の状態では突入は不可能だ。こちらがARTの石田小隊長だ」


 石田が凌一に、

「明日野さんですか、石田です」

「真美署の明日野です」


 凌一が西田に尋ねた。

「けが人の容態は?」

「体育館から逃げ出した生徒の話によれば、教師の一人が肩を撃たれた模様だ。けがの程度はわからんが、恐らくかなりの重症だ」


 凌一は、そばにあった拡声器を手に取り、西田に、

「とにかく、けが人を運び出させてくれるように、男と交渉します」


 凌一から少し遅れて、渡辺、谷川、深浦、久保、島が来た。


 拡声器で話そうとしていた凌一を渡辺が制止した。

「県警本部の車がまもなく到着する。それまで待とう」

「あんな連中が来てもクソの役にも立ちません。それより、けが人の出血を止めないと危険です。待てません!」


 渡辺は一瞬戸惑ったが、意を決して、

「わかった。ただ、ここからでは体育館の中に拡声器の声は届かない。男と交渉するには、六箇所ある出入り口のどれかを開ける必要がある。猟銃男は二発発砲して二発とも命中させてる。かなりの腕だ。どこで狙っているかわからんぞ」


 凌一が険しい表情で西田に訊いた。

「学校なら、校内放送の設備があるはずです。教師はいないんですか?」


 横から一人の教師が凌一に声をかけた。

「私は、ここの教諭です。山本といいます。校内放送の設備はこちらです」


 凌一は、職員室の隣の放送室に案内された。凌一は、マイクに向かって語りかけた。

「体育館に立てこもっている者に告ぐ、こちら警察だ。君の要求を聞く前に、中のけが人を収容させてくれ。もう一度言う。こちら警察だ。君の要求を聞く前に、中のけが人を収容させてくれ」


 山本が険しい表情で、

「ダメです。体育館内には、こちらに返信する設備がありません。犯人の返事を聞けません」


 その時、隣の職員室の電話が鳴った。犯人からのものだった。犯人は携帯電話から、学校の電話に返信して来たのだ。


 凌一はその電話を取り、犯人と話した。

「体育館の中の君か? 私は明日野という警察の者だ。君の要求は後でゆっくりと聞くから、中のけが人を運び出させてくれ。頼む」


 電話の向こうで猟銃男が、

「けが人は自分で歩ける。今から出て行かせる。妙なことをしたら人質は皆殺しにするぞ」

「わかった。一切、手は出さない。約束するから、けが人を出て来させてくれ」


 しばらくして、一人の教師が肩を押さえながら体育館から出て来た。かなりの出血だが、命に別状はなさそうだった。

 その教師を乗せた救急車と入れ違いに、県警本部の車が到着した。

 県警本部の連中は、少し離れたところで何か話していたが、どうしていいかわからないような様子で本部の指示を仰いでいた。現場の指揮は実質的に渡辺にゆだねられる状態になった。



 無線で何か話していた西田が近づいて来た。

「猟銃男の身元が割れました。佐伯敏男です。携帯番号もわかりました」


 渡辺が、

「そうか、当面この放送室と隣の職員室を対策本部にする」


 凌一が西田に尋ねた。

「佐伯敏男は何者ですか?」

「佐伯は、息子をこの高校に通わせてたが、その息子が去年、自殺した。息子の遺書には、自分をいじめた生徒四人の名前が記されてたが、学校側は、調査の結果いじめはなかったと発表した。今回の凶行は、息子の恨みを晴らすのが目的だろう」

「人質の中にその四人はいるんですか?」

「いや、いない」

「恐らく、佐伯の目的は、息子をいじめた生徒といじめを否定した教師への復讐でしょう。今のところ、撃たれたのは校長を含め、二人とも教師です。佐伯には無関係な生徒を撃つ意図はないと思います」

「しかし、中にはまだ教師が二人いる。彼らの命は極めて危険な状態だ」

「確かに…… 石田さん、まだ、佐伯の動きは掴めませんか?」


 石田小隊長が答えた。

「はい、二階の窓越しでは、佐伯の動きを完全に把握するのは不可能です」


 渡辺が携帯を手に取り、佐伯に電話した。

「佐伯か、こちら奈良県警の渡辺だ。要求を聞こう」


 携帯の向こうで佐伯が答えた。

「息子を殺した四人を連れて来い」

「それは出来ない」

「四人を連れてこなければ、人質は全員射殺する」

「落ち着け、君の気持ちはわかる。心から同情する。しかし、中の人質は無関係だ」

「そうだ、無関係だ。無関係な人質の命が大事なら、息子を殺した四人を連れて来い」


 佐伯が電話を切った。


 渡辺が、

「佐伯は恐らく、息子の遺書に名前のあった四人を射殺するつもりだろう。明日野が言うように、中の生徒を殺すつもりはないと思うが、二人の教師は危ない」


 凌一が山本に訊いた。

「体育館の図面はありますか?」

「どんな図面が要るんですか?」

「あるもの全てです。特に平面図、断面図、設備や配管の図面が欲しいんです」

「わかりました。探して来ます」


 山本は、すぐに図面を探して戻って来た。関係者全員が体育館の図面をめくった。


 体育館の平面図を見た久保が、

「うーん、人質が体育館の中央に集められているとすると、二階の回廊からなら、どこからでも人質を狙えますね……」


 それを聞いた深浦は、

「しかし、舞台裏の倉庫からなら、犯人の射程に入らずに一階に侵入できます。問題は、侵入した後どうするかですね」

 久保が、

「そうです。そこが問題です。一階の舞台に侵入できても、二階に上がる階段はありません。回廊に上がる方法は、東西に二箇所ずつあるモンキータラップを登るしかありません。犯人からは丸見えですよ」


 二人の会話を横で聞いていた谷川は、

「犯人が南側の回廊にいる時なら、一階の舞台から狙撃できるな」


 石田小隊長が、

「隊員からの報告によれば、犯人は、回廊を絶えず移動していますが、南側には、ほとんど行っていません。舞台からの狙撃を警戒しているものと思われます」


 その時、ガツンという猟銃に特徴的な銃声が鳴り響いた。


 渡辺が犯人の携帯に電話した。

「佐伯か、何をした。誰か撃ったのか?」


 電話の向こうで佐伯が答えた。

「こちらの要求を呑まないので、教師を一人射殺した」

「佐伯、落ち着け、早まるな、落ち着くんだ」

「息子を殺した四人が来なければ、残りの人質も一人ずつ射殺する」


 佐伯が電話を切った。最悪の事態となった。犯人はどこからでも人質を狙撃できる。この状態では、突入は不可能だ。


 その時、ARTの隊員から報告があった。教師が一人撃たれたことを確認したとのことだった。


 体育館の図面を見ていた石田が、

「ダメだ! あの体育館の排煙方式では、催涙弾を打ち込んだところで、煙は一階に充満するだけで、二階の犯人を無力化できない。犯人を興奮させて人質を危険にさらすだけだ! 突入は無理だ! 万事休すか……」



 その時、凌一が拳銃を机に置き、防弾チョッキをはずして、上着を脱いだ。そして、

「課長、私が行きます」


 渡辺が驚いて、

「明日野、お前、何をするつもりだ?」

「佐伯を説得します」

「ムチャな! 奴は既に二人殺してるんだぞ」

「だから行くんです。これ以上、被害者を出すわけにはいきません」

「じゃあ、なぜ、銃とチョッキを置いて行くんだ?」

「こんなもの持ってたら、説得なんか出来ません」

「明日野、お前……」


 凌一は、携帯を取り出し、佐伯に電話した。

「さっき、校内放送で話した明日野だ。今からそっちへ行く、銃と防弾チョッキを置いて、上着も脱いで行く。校庭の真ん中を歩いて一人で行く。そちらから丸腰が確認できるように、時々背中を向けるからよく見ろ」


 電話の向こうで佐伯が言った。

「何しに来るんだ!」

「君とゆっくり話がしたい」

「こっちの気をそらして、その隙に突入するつもりだろ! その手は食わんぞ!」

「そっちの状況は調べた。突入が不可能なことは知ってる。君と話したいだけだ」

「わかった。妙なことをしたら人質は全員射殺するぞ、こっちはもう二人殺してるんだ。何人殺すのも同じだぞ!」

「わかってる。とにかく行く。撃ちたければ撃て」


 凌一はシャツのポケットにパールスティックを収め、対策本部を出て行こうとした。


 それを見た県警本部の捜査員が呼び止めた。

「おい! ちょっと待て! 本部から突入の指示は出てない。勝手なことは許さんぞ!」


 凌一は振り返って、ひきつった笑みを浮かべながら答えた。

「突入なんかしませんよ。犯人を訪問するだけです」

「しかし……」県警本部の捜査員が次の言葉を探しているうちに凌一の姿はなくなっていた。


 凌一は両手を頭の後ろに組み、校庭の真ん中をゆっくりと歩いた。丸腰であることがわかるように、時々、体育館に背中を向けた。怖かった。恐ろしかった。足がガクガク震えた。指先がワナワナ震えた。佐伯は体育館のどこかで見ている。もう奴の射程圏内に入っている。恐らく、今、奴の銃口は、自分に向けられているだろう。今度、銃声が響いた時には、もう自分はこの世にいないだろう。凶弾に倒れて、自分の周りが血の海になっている様子を想像した。怖かった。とにかく怖かった。それでも凌一は、ゆっくりと歩を進めた。真子と真穂のことを考えた。もうあの姉妹に会えないかもしれないと思った。死ぬまでに二人を思い切り抱きしめたかった。二人の柔らかい温もりをもう一度感じたかった。凌一は後悔した。人間、明日のことはわからない。自分は何を遠慮してたんだろう。自分は姉妹に愛されている。自分も姉妹を愛しく思っている。姉妹の両親にも認められている。二人を思いっきり抱きしめたかった。二人に好きだと言いたかった。


(姉妹を二人とも愛して何が悪い! 好きなものは好きなんだ! 同時に二人の女性を愛することが道徳的に許されないというのなら、好きな娘を無理に嫌いになれというのか? そっちの方がおかしいだろ!)凌一はそう思った。


 体育館に近づくにつれ、足の震えが止まらなくなった。顔が引きつった。心臓の鼓動が激しくなった。背中が汗でびっしょりになった。怖かった。ただ、ただ、怖かった。


 凌一は自分に言い聞かせた。

(怖いか、怖くないかなんて関係ない。やるべきことだから、やるんだ!)


 体育館の前に着いた。ここまで来るのに、何日も歩いたように感じた。凌一は、体育館の扉に手をかけた。恐怖で手が震えて、鉄の扉がうまく開けられなかった。凌一は、両手でしっかりと扉の取っ手を握りしめ、ゆっくりと扉を開いた。凌一は震える足を体育館のフロアの上に進め、中に入ると、ゆっくりと扉を閉めた。母親を知らない凌一が心の中で唱えた。


(お母さん……)


 視線の前には、人質たちがいた。射殺された教師の周りは血の海になっていた。人質たちは体育館の中央に集められ、ガタガタ震えながら泣きじゃくっていた。確認したわけではないが、女子生徒ばかりのように見えた。人質の中に教師らしき者もいた。凌一は、どこにいるのかわからない犯人に声をかけた。恐怖で変な声になった。


「佐伯さん! 聞こえますか! 私が明日野です!」


 どこからか、佐伯の声がした。

「ああ、聞こえるぞ!」


 凌一は姿の見えない犯人に語りかけた。

「佐伯さん! 事情は聞きました! 息子さんのこと! 心からお悔やみ申し上げます!」


 佐伯の返事が聞こえた。

「お前なんかに息子を殺された俺の気持ちがわかるか!」

「わかります! 私にはわかります! 私の目の前にいたら、息子さんをいじめた奴らが私の目の前にいたら、私だって殺してやりたい! いじめは犯罪です! いじめによる自殺は人殺しです! 私はそう思っています! いじめを否定した教師たちも殺してやりたいと思います! 教師という聖職にありながら、何たる無責任! 許せない! 私には許せない!」


 犯人からは何の返事もなかった。凌一は話を続けた。

「佐伯さん、でも私はあなたにも訊きたいんです! 息子さんはどうしていじめられていることをあなたに相談しなかったんですか! あなたに相談していれば、転校させることだって出来たじゃないですか! 息子さんはなぜ自殺するまで黙っていたんですか! 今の子供たちは、親をあまり頼りにしてくれませんが、実際には、親の力で何とかなることはいっぱいあると思うんです! どうして今の子は親に相談しないんですか! 私にはそれが残念でなりません!」


 やはり犯人からは何の返事もなかった。凌一はさらに話を続けた。

「佐伯さん! 確かにあなたの息子さんを自殺するまでいじめ抜いた四人も、いじめを否定した教師たちも、今の法律で裁くことは出来ません! でも、私の友人にジャーナリストがいます! あなたに約束できます! そのジャーナリストに頼んで、この学校のいじめの実態を暴きます! 必ず紙面に載せて見せます! 私の命と名誉にかけて誓います! ですからどうか私を信じて銃を置いて下さい!」


 二階の回廊のどこかから、嗚咽する声が聞こえた。声が反響して、どこからその嗚咽が聞こえてくるのか、わからなかった。凌一は、

「佐伯さん! 今からタラップを登って回廊に上がります! お願いします! あなたに手錠をかけさせて下さい! そうしないと、警官隊が突入すれば、あなたは射殺されます! 私には、あなたのような人が射殺されるのが我慢できないんです! 今からタラップを登ります! 撃ちたければ撃ちなさい!」


 凌一は、ゆっくりとタラップを登り始めた。足がガクガク震えた。指がワナワナ震えた。自分の心臓の鼓動が聞こえた。怖かった。ただ、ただ、怖かった。それでも凌一はタラップを登り、二階の回廊に上がった。見渡すと、そこには、猟銃を床において、ぼんやりと座っている男がいた。男の瞳からは、とめどなく涙が流れていた。凌一は、ゆっくりと、ゆっくりと男に近づき、優しく声をかけた。


「佐伯さんですね。あなたに手錠をかけさせてもらいます。さっきの約束は守ります」


 凌一は、男の両手に手錠をかけ、猟銃を手に取った。そして、バッタリとその場にへたり込んだ。凌一は、しばらく呆然と体育館の天井を眺めていた。そして、思い出したようにズボンのポケットから携帯を取り出し、震える指で渡辺に電話した。


「明日野です。佐伯敏男の身柄を拘束しました。猟銃は取り上げました。中は安全です」

そう言って、凌一は両手にしっかりと猟銃を握りしめたまま、バッタリと仰向けに寝転んだ。


 一斉に全ての扉が開けられ、警官隊が飛び込んで来た。人質たちは収容され、生徒たちは父兄に帰された。血相を変えて久保と深浦がタラップをかけ上がって来た。そして凌一に声をかけた。


「明日野さん! 大丈夫ですか!」


 ひと呼吸おいて、凌一が、

「いや、全然大丈夫じゃない……。おしっこちびった」


 佐伯敏男を久保にまかせ、凌一は深浦に抱きかかえられるようにしてタラップを降りた。下で待っていた渡辺が凌一の背中にそっと手をあてて言った。


「ご苦労だったな。さあ、帰ろう」


 帰りの車中、凌一は顔をクシャクシャにして子供のように泣きじゃくった。渡辺が、

「ここは、刑事ドラマの世界じゃない。刑事だって怖いんだよ。明日野、それでいいんだ……」



 翌朝の紙面には大見出しが掲げられた。


『丸腰刑事 猟銃乱射男を説得逮捕 二名死亡 学校のいじめ調査に疑問』


 凌一は新聞を読まないので、なにやら外が騒がしいなと思いながらも、何も知らずにハイツのドアを開けた。外に出た途端、マスコミのフラッシュで前が見えなくなった。凌一は、マスコミをかき分けながら駅に向かった。駅に向かう途中も、凌一の周りには異変が起きていた。女学生たちが凌一の行方を取り巻きながら黄色い歓声を上げていた。


「あの刑事さんよ! あの刑事さん! かっこいい!」


 凌一は、そばに芸能人でもいるのかなと思って、周りをキョロキョロ見回しながら歩いていた。電車の中でも、下車してからも、凌一は女学生に取り囲まれていた。中にはサインをねだる娘までいた。


 署では、凌一は拍手をもって迎えられた。席に着くと、すぐに刑事部長から電話があった。記者会見に出席するようにとのお達しだったが、凌一は頑として断った。きのうおしっこをちびったことがバレるのを恐れたからである。


 島が凌一に問いかけた。

「明日野さん、お手柄だったのに、どうして記者会見に出ないの?」


 凌一がもっともらしい建前上の理由を答えた。

「人が二人も亡くなってる。でも私には、心の底から射殺された校長のことを気の毒に思えない。むしろ、私には、いじめで息子を失った佐伯敏男が気の毒に思える。警察官には許されない感情だということはわかってるんだが、どうしても天罰覿面という言葉が思い浮かぶんだ。あの校長が学校内でのいじめを認めて、謝罪でもしていれば、こんなことにはならなかったんじゃないかと……」


 それを聞いた渡辺は、

「明日野、気持ちはわかるが、それは警察官の仕事じゃない。佐伯敏男の情状は裁判で酌量されるだろう。公判では、いじめの事実についても明らかになるに違いない。いずれにしても、お前が二十三人もの人質を救ったことは間違いない。もっと胸を張れ」


 凌一は考えていた。自分は佐伯敏男と約束した。あの高校でのいじめの実態を暴くと…… その約束は果たさなければならない。


 凌一の携帯が鳴った。真穂からだった。凌一は部屋を飛び出しながら、通話ボタンを押した。

「真穂ちゃん、おはよう。どうしたの? こんな時間に。今、授業中じゃないの?」

「うん、今トイレからかけてるの。凌一さん、きのうすごかったのね。ひどいじゃない、電話ぐらいくれてもいいのに……。今夜は、お母さんが大ご馳走を作るってはりきってたわよ!」

「真穂ちゃん、ダメだよ、授業抜け出したりしたら。ご馳走は楽しみだけど……」

「そう、それを聞いて安心したわ。きれいな娘にキャーキャー言われて、もう、うちには来ないんじゃないかって、ちょっと心配だったの」

「そんなわけないだろ」

「わかったわ。それじゃ待ってるから」

「ああ、必ず行くよ、それじゃ仕事があるから」


 凌一は電話を切り、携帯をポケットに収めた。その途端、今度は真子からメールが入った。

〔凌一さん、お手柄、おめでとう。今夜はご馳走です〕


 凌一は、短かく返信した。

〔ありがとう。ご馳走楽しみです〕


 席に戻った凌一は、なぜか深いため息を吐いた。いい仕事をしたとは思うが、まさか、こんな大騒ぎになるとは想像もしていなかった。


(そうだ、佐伯との約束を果たさないと……)


 凌一は、思い出したように携帯を取り出し、榎本真由美に電話した。

 電話の向こうの真由美に凌一が挨拶した。

「明日野です。こんにちは」


 真由美が凌一を冷やかした。

「あら、ヒーローが私に電話? ライターがみんな死ぬほど取材したいと思ってる人が自分から電話してくるなんて、どういう風の吹き回しかしら?」

「実はお願いがありまして……」

「私に出来ることなら何なりと……。ただし、交換条件として、きのうのことを取材させてね」

「その、きのうのことと無関係じゃないんです。ちょっと込み入ったことなので、直接会ってお話したいんですが、今日の午後、お邪魔してもいいですか?」

「お邪魔したいと言われても、私のマンションでもいいの?」

「はい、ちょっと喫茶店のようなところでは話しにくいことなんで……」

「わかったわ、午後はずっといるようにするから、今から住所をメールするわね」

「お願いします。出来るだけ早く伺うようにします」


 凌一は電話を切り、渡辺のところに歩み寄った。

「課長、実はきのう、佐伯と約束しまして……」


 渡辺が尋ねた。

「ん? どんな約束をしたんだ」

「あの学校のいじめの実態を暴くと……」


 渡辺が渋い表情で答えた。

「いじめは刑法犯じゃない。警察の職権外だ」

「はい、ですから知人のライターに頼むつもりです」


 少し考えた後で渡辺が、

「わかった。それならいいだろう。ただし、お前はあまり首を突っ込むな。そのライターにまかせるんだ。いいな」

「わかりました」凌一はそう言って、席に戻った。


 真由美の住所がメールで送られて来た。凌一は、その場所を地図検索サイトで調べ、部屋を出た。



 真由美の住むマンションに着いた凌一は、ドアの横のインターホンのボタンを押した。真由美の声が聞こえた。

「凌ちゃんでしょ、今、鍵開けるから」


 ドアが開き、凌一は、真由美の部屋に招き入れられた。そこは、独身女性の部屋というよりは、雑誌社の事務所のような雰囲気だった。


「ごめんね、ちらかってて。でも、ライターの部屋なんか、みんなこんなものよ」

「いえ、僕の部屋なんか、もっとちらかってます」


 凌一は、小さな円いテーブルをはさんで、真由美と向き合った。

 凌一が真剣なまなざしで真由美を見つめ、

「実は、お願いがありまして……」


 真由美が皮肉っぽい笑みを浮かべた。

「おいしい料理を作れといわれても無理だけど、それ以外ならどうぞ」

「きのう、猟銃を乱射した佐伯という男、去年、自殺で息子を亡くしてるんですが……」

「酷いいじめがあったんでしょ。だいたい知ってるわ」

「学校側はいじめはなかったと発表しています」

「あんなの、厚顔無恥の嘘っぱちよ」

「きのう、佐伯と約束したんです。学校のいじめの実態を暴くと」

「でも、警察の職権外だから私に頼みに来たわけね」

「そうです」

「いいわよ。そういうことなら私の本職だから、徹底的にやってあげる。ただし、敵は学校だけじゃないのよ。バックには教育委員会がいるんだから、凌ちゃん教育委員会の怖さを知ってる?」

「いえ」


 凌一の答えを聞いて、真由美は真顔で話を続けた。

「魑魅魍魎の世界、伏魔殿、警察なんか比べ物にならないような恐ろしい役人社会よ。そんなところを敵に回すのよ。まあいいけど、それが私の本職だから。ただし、代償は高くつくわよ」

「お金はありませんが……」


 真由美が苦笑した。

「バカなことを言わないの。交換条件は、今後、私の取材には必ず応じること。それも他の記者より先に、私に取材させること。いいかしら?」

「わかりました。ただし、捜査上の秘密や被害者、被疑者のプライバシーに関わることは話せませんよ」

「わかってるわよ、そんなこと。凌ちゃんの口からそんな話、聞きたくもないわ」


 凌一は表情を和らげた。

「それなら交渉成立ですね」

「そう、交渉成立。それから、せっかくだから、きのうのこと少し教えて」

「いいですよ」


 真由美はボイスレコーダのスイッチをONにして質問を始めた。

「凌ちゃん、どうやって猟銃男を説得したの?」

「ただ、お願いしたんです。人質を解放するように」

「その時、約束したってわけね。あの学校のいじめの実態を暴くと」

「はい」

「で、当然、その時、私を当てにしてたわけね」

「はい」

「丸腰で体育館に入っていく時、怖くなかったの?」

「死ぬほど怖かったです」


 凌一のあまりにも正直な答えを聞いて、真由美は苦笑した。

「プッ、正直ね。撃たれると思わなかったの?」

「思いました」

「自分の命をかけたバクチってわけね」

「はい」

「体育館に入る瞬間の心境は?」

「お母さん……と思いました」

「凌ちゃん、お母さんいないんでしょ」

「はい、でも、お母さん…… と思いました」

「猟銃男を逮捕した瞬間の心境は?」

「死ぬほどホッとしました」


 真由美はくすくす笑った。

「死ぬほどホッとするって日本語、変じゃない?」

「ええ、でも死ぬほどホッとしました」

「今の話、記事にしていい?」

「いいですよ。ただし、装飾はなしですよ」

「装飾なんかしないわよ。今の、純朴なコメント最高だもの。来週号はいただきだわ。ごちそうさま」


 凌一が念を押すように、

「いじめの件、忘れないで下さいね」

「ご心配なく。この際、他の学校も含めて、徹底的にやってやるわ」

「ありがとうございます」

「水臭いこと言わないの。それより、今度はいつ飲みに誘ってくれるの?」

「近いうちに」

「楽しみにしてるわよ。今夜はどうせ姉妹のところに行くんでしょ」

「はい。今夜は行きます。それじゃ、僕はこれで失礼します」

「こんなところでよければ、いつでも遊びに来てね」

「はい」


 凌一は、真由美のマンションを出た。署に戻ろうかと思ったが、きのうのこともあって疲れていた凌一は、渡辺に電話した。

「明日野です。すいません。少し疲れたので、今日は早く引けてよろしいでしょうか?」

「ああ、きのうのこともある。ゆっくり体を休めろ」



 凌一は、栄橋で川面を眺めながら真穂を待っていた。凌一が中井邸の方向に目をやると、坂の上から、黄色いあでやかなワンピース姿の若い女性が近づいて来るのが見えた。凌一は、真穂によく似た女性だなと思ったが、真穂は、いつも学生服姿だったので、凌一は、それが真穂だとは思わず、再び川面を眺めていた。五月の河原は、ノースポールやタンポポ、菜の花が開花し、凌一が一番好きな季節だった。自分が五月生まれのせいもあるのか、春になると凌一はいつもさわやかで快活な気分になれた。ほほを撫でる春の爽やかで穏やかな空気も大好きだった。太陽の光を浴びて、きらめく川面のせせらぎを見ていると、まるできのうの事件が随分昔のことのように感じられた。


「おまたせ、ごめんなさい」


 その声に凌一が驚いて振り返ると、さっきのワンピースの女性は、やはり真穂だった。


「やあ、真穂ちゃん、どうしたの? そんなにおめかしして、まるでデートに出かけるみたいだよ」


 真穂が少しむくれた。

「凌一さん、それ、ごあいさつね。これでも私、デートのつもりなんだけど」


 凌一は真顔で周りを見回しながら、

「デートって誰と?」

「誰とって、他に誰がいるのよ!」

凌一が人差し指で自分を指差した。

「ひょっとして僕?」

「ひょっとしなくてもそうよ!」

凌一があわてて言った。

「あ、いや、ごめん。それは嬉しいんだけど、真穂ちゃんって学生服か普段着姿しか見たことなかったから…… いや、えらく綺麗な女性が坂を下りて来るなとは思ってたんだ。でも……」

「凌一さん、何をアタフタしてるのよ。綺麗な女性って言ってくれたのは嬉しいけど、何か変ね。凌一さん、私、おめかししちゃおかしい?」

「えっ いや、そんなわけないだろ。僕だって男の端くれだから、そりゃ綺麗な女性とデートできるのは嬉しいよ。ただ……」

「ただ……何?」

「い、いや、何もない」

「そう、それならいいの。ほうら、やっぱり。凌一さん、周りをよく見たら?」


 真穂に言われて凌一が周りを見回すと、次第に女学生たちが凌一の周りを取り囲み始めていた。女学生たちは、口々に黄色い歓声をあげていた。

「キャー」

「やっぱりあの刑事さんよ!」

「間違いないわ!」

「かっこいいー」

「案外小柄なのね~」


 凌一は驚いて真穂に言い訳した。

「あれっ、いや、さっきはこんなんじゃなかったんだ。本当だよ、本当に…… さっきまでは、あれっ、おかしいなぁ……」

「凌一さん。私がおめかししてきた理由がわかった?」

凌一が間の抜けた顔で答えた。

「いや、わからない……」

「あんな小娘たちに負けるわけにいかないでしょ! だから、きちんとした身なりで来たのよ! もう、鈍感ね!」

「あんな小娘って、真穂ちゃんと同年代じゃないか」

「同年代でも私とは違うのよ!」

「何が違うの?」

「何が違うって、凌一さんはヒーローなのよ! だから私はヒロイン! あの娘らは、ただのギャラリーよ! 何て言うかなー、そのー、私とは、役回りが違うの!」

「そ、そう」

真穂はいきなり凌一の腕をつかみ、ツンとした表情をした。

「さあ、行きましょう。あ な た 」

「あ、あ、あなたって……」

凌一を引きずるようにして、真穂は歩き始めた。それを見た女学生たちは口々につぶやいた。

「やっぱり、彼女いるんだー」

「それも結構かわいい娘じゃない」

「えーあんなの、たいしたことないわよ」


 凌一は、真穂に引きずられながら、近くのお洒落な喫茶店に入った。店のウインドウ越しに、女学生たちは二人の様子を眺めていた。

 真穂がウインドウの外をチラチラ見ながら、

「もうあの子たちは気にしないで、いつもどおり、話しましょう」

「そうだね。それがいいね。僕は芸能人じゃないから、こんな騒ぎ、今日一日で収まるさ」


 真穂がうんざりした表情を見せて、

「本当、そう願いたいわ。あんな子供たちにいつまでもつきまとわれたら、楽しくないもの」


 凌一が首を傾げた。

「子供たちって、どう見ても真穂ちゃんと同年代だけどなぁ」


 真穂はむくれて、

「それでも子供は子供なの! 私とは違うのよ! 私は、日本一素敵な刑事さんの彼女なの!」

「に、日本一素敵な刑事って、それって、あばたもえくぼって言うやつじゃ……」

「自分で言うことないでしょ!」


 ウエイトレスが来た。凌一はコーヒーを、真穂はレモンティーを注文した。


 真穂がウエイトレスの後ろ姿を見つめた。

「あのウエイトレス、いやらしい目つきで凌一さんを見てたわね」

「そんなことないって」

「まあいいわ。凌一さん、きのうのこと話して」


 真穂のその言葉を聞いて、凌一は沈黙した。凌一は急に表情を曇らせた。そして、しばらく間をおいて、グラスの水を見つめながら、伏し目ぎみに言った。

「人が二人死んだ。それだけさ」


 その言葉を聞いた真穂は、すぐに凌一の心情を汲み取った。凌一は、英雄扱いされて浮かれるようなタイプではない。女の子たちにキャーキャー言われて喜ぶタイプでもない。そのことを真穂はよく知っていた。

 恐らく、凌一の心には、人が二人死んだという事実しか残っていないんだろう。

 ひょっとしたら凌一は、その二人を助けられなかった自分を責めているのかもしれない。

 真穂は恥ずかしくなった。

 凌一の人柄は、よく知っている自信があった。その自分が、こんな浮かれた服装をしてくるなんて…… 恥ずかしい。真穂は、出来ることならその場で、ワンピースを脱ぎ捨てたい気分になった。


 真穂は瞳を潤ませた。

「ごめんなさい。私、凌一さんの気持ちも考えずにこんな格好をして来て…… 私、凌一さんの気持ちは、自分が一番よく知っているつもりだったのに…… 私、恥ずかしい……」

「何を言うんだい。真穂ちゃんのあでやかな姿を見せてもらって、僕の心は晴れた。救われた。僕だって日本一素敵な女子高生とデートしてるんだ。楽しくないわけないだろう。

二人が死んだのは彼らの寿命さ。僕らにはどうすることも出来ないし、気にする必要もない。

人間は、生まれた時から死ぬまでの運命を神様に定められてる。僕はそう思ってる。だから、体に悪いと言われながらも僕はタバコを吸う。どんな病気で死ぬかは、生まれた時から決まってると思ってるからさ。

僕は別に、『運命は自分で切り開くものだ』という考えに反対なわけじゃない。でも、運命で定められてることには抗えない。僕はそう思ってる。

きのう、凶弾に倒れた二人は、生まれた時からそれを定められていた。僕はそう思っている。

僕に出来ることはした。助けられる人は助けた。でも、それは助けられた人たちに、僕に助けられるという運命が定められていたからさ。

僕は、自分の努力で何とか出来ることは必ずなんとかする。でも、努力してもどうにもならないことには抗わない。真子ちゃんを見てみるといい。真子ちゃんは、自閉症という先天性の病を運命に定められながら、自分の努力で普通の人に負けない生活が出来るようになった。僕は真子ちゃんを見ていると頭が下がる思いがする。

きのう亡くなった二人には気の毒だけど、それは彼らの持って生まれた寿命さ。僕らが気にすることじゃない」

「そうね。お姉ちゃんだったら、きっと、いつもどおりの服装で来たと思うわ。お姉ちゃんは大人だもの」


 凌一は話題を戻した。

「きのうの事件、亡くなった人も気の毒だけど、実は、犯人も気の毒な人なんだ」


 真穂もやっといつもの調子に戻って答えた。

「ええ、新聞にも少し書いてあったけど、息子さん、いじめで自殺したんでしょ」

「学校はいじめの事実を否定した。きのうの犯行はその復讐さ。真穂ちゃんの高校でもいじめとかあるの?」

「いじめのない学校なんかないと思うわ。凌一さんの時代にもあったでしょ」

「確かに……」

「最近のいじめは、相手が自殺するまでとことんやるの。大人の世界よりずっと怖いのよ」


 凌一が硬い表情をした。

「例え学校内のいじめでも、殴られたとか、恐喝されたとか、刑法に触れる行為があれば、それは本来、僕たち警察官が担当する仕事なんだ。昔は、学校の先生に情熱的な人が多かったから、生徒もよく先生の言うことを聞いたし、警察が介入する必要なんかほとんどなかったけど……。

僕自身は、相手が自殺するほどいじめるのは、殺人に近いぐらい重い罪を適用すべきだと思ってる。それが出来れば、いじめの加害者には、保護処分のような甘い処分じゃなく、懲役刑が適用できるんだ」


 真穂がうんざりした表情を見せた。

「今の先生なんて、ただのサラリーマンよ。いえ、サラリーマン以下ね。聖職者なんて呼べる人、見たことないもの」

「やっぱりそうなんだ……」


 真穂が話を続けた。

「学校内にしょっちゅうお巡りさんがパトロールに来てくれたら、生徒はどんなに心強いかわからないわ、きっと、ほとんどの生徒は、先生よりもお巡りさんを頼りにするようになると思うわ」


 凌一が困った表情で言った。

「僕らだってそうしたいんだ。でも、今の規則では、警察官は、学校からの要請がない限り、無断で校内に入れないんだ。学校内の暴力は、家庭内暴力と同じで、被害者が警察に通報してくれないと、なかなか警察は介入できないんだ」

「家の問題もあるのよ。今の生徒は、いじめられていても親に相談しないし……」

「あれは、なぜなの?」


 凌一の問いに真穂が答えた。

「今の子供たちって、友達同士のことは、友達同士で解決しようとするのよ。親に相談するのは、恥ずかしいとか、ずるいとか、変なプライドがあるの」

「人間は成人になるまでは、子供なんだ。あくまで親権者の保護の下で生活してるんだ。法律上も一人前の人間としては認められていない。もちろん、問題解決能力もないとみなされてる。『親に相談するのは恥ずかしい』なんていうのは、十年早いと言ってやりたいところだけどね」

「私は大丈夫よ。私はもうすぐ十八歳になるけど、まだ両親の保護の下で生きてるって自覚してるから」

「そう、その自覚、とても大切なことだよ。特に真穂ちゃんのご両親は二人とも立派な人だし」

「はい、私はちゃんと両親に感謝してます」

「真穂ちゃんは、えらいね」



 二人は、喫茶店を出て中井邸に向かった。

 中井邸に着くと、父の真治、母の祥子、そして真子が玄関で待ち構えていた。

 三人が口々に言った。


「凌一君、お手柄だったね」

「凌一さん、よくご無事で……。本当に、おつかれさまでした」

「凌一さん、すごい。けがしなかった?」


 凌一は、すこし引きつった笑顔を浮かべた。

「ありがとうございます。でも、実際は、そんな格好いい話じゃないんです」


 それを聞いた祥子は、

「凌一さん、そんなご謙遜なさらなくても、新聞に詳しく書いてありましたよ。真子も真穂も、駅で手当たり次第新聞を買って来て、切抜きを額に入れて部屋に飾ってますのよ。自分たちの宝物だと申しまして……」


 凌一はうつむいて首を横に振った。

「いえ、謙遜でもなんでもなく、本当にそんな格好いい話じゃないんです」

「さあ、とにかく上がって、上がって」真穂に促されて凌一はリビングに通され、いつものソファに腰掛けた。


 凌一は思った。きのう、体育館に向かう途中、生きて帰ったら絶対に抱きしめてやろう、折れるほどに強く抱きしめてやろうと思った真子と真穂がここにいるのに…… 何故、今の自分にはそれが出来ないんだろう? きのう思ったのに、人間、明日のことはわからない。やりたいことは今やるべきだと思ったのに…… 何故、二人を抱きしめることが出来ないんだろう。


 五人は食卓に移った。そこには目がくらむほどの料理が並べられていた。


 祥子が、

「今日一日かけて料理しましたの。一日にこれほどの料理を作ったことはありませんので、味にはあまり自信ないんですのよ。お口に合わないものは残して下さい」


 正直言って、ハラペコだった凌一は、

「遠慮なく、いただきます」


 最初、凌一は遠慮がちに料理をつついていたが、あまりのおいしさに、次第に凌一は猛獣と化していった。凌一は、真子の言葉にも、真穂の言葉にも、うわの空で返事しながら、むさぼるように料理を食べ続けた。ようやく、ある程度、満腹感が得られた。凌一は、我に返った。凌一は冷静になってテーブルの上を見た。五人分の料理の三人分ぐらいを自分が平らげていた。凌一は後悔した。


(しまった。もう少し遠慮すればよかった)


 祥子が目を細めた。

「おいしそうにお召しいただいて、ありがとうございます」


 凌一はあわてて答えた。

「あ、いや、その、お腹が減ってたので、つい遠慮なくいただいてしまいました」


 二人の会話を真治は微笑みながら聞いていた。



 翌日から、真由美の命をかけた葛城南高校、いや日本全国の小中高校、教育委員会との戦いが始まった。真由美は使いうる全ての人脈を使い、日本中の週刊誌を動かして、苛烈なまでの学校批判を行った。


 真由美の動きに呼応したのは、当初、一部の週刊誌のみだったが、小中高等学校のいじめ対策のおそまつさ、教師の無責任さ、無気力さを叩く動きは、次第に一般紙やワイドショーに波及し、全報道機関をあげてのいじめ撲滅キャンペーンとなった。そして、それは全国の報道機関対学校・教育委員会の戦争のような様相を呈し始めた。


 教師のいじめに対する無関心、無気力、無責任な体質は、市町村議会、都道府県議会ひいては国会審議の対象にまでなった。


 真由美は亡くなった人を悪く言わないという日本の報道機関の暗黙の了解を敢えて無視し、禁忌とも言える射殺された校長の批判記事を掲載した。そこには、捜査権限を持たないライターが入手したとは思えないほどの確固とした証拠、証言が添えられていた。


 一躍、時の人となった真由美は、ワイドショーにも出演し、そこで、はばかることなく公言した。

「現在の学校や教育委員会のいじめに対する取り組みのお粗末さ、無関心さ、無気力さ、無責任さは、目に余るものがあります。いじめというと所詮、子供同士の喧嘩のような幼稚な印象を持ちますが、現在のいじめは、暴力、脅迫、恐喝など立派な刑法犯に相当するものが多く、今の子供たちは、相手が自殺するまでいじめをやめようとはしません。

教師たちは、これらのいじめに対して、見て見ぬふりをするだけでなく、いじめに加担しているような者さえいます。日本の学校からいじめがなくなるまで、いじめに対して、学校と教育委員会が本気で取り組むようになるまで、私は絶対に批判報道をやめません」


 毎日、真由美のマンションのポストには、いじめに苦しむ親たちからの相談や激励の手紙が大量に届き、すべてに目を通すのが辛いぐらいの量になった。真由美は、友人のフリーライターに協力を依頼し、警察の捜査本部なみの組織を作って、それらの投稿者に対して取材を行った。


 投稿には匿名のものも多かったが、敢えて真由美に取材を依頼する親や、真由美に救済を仰ぐ親も多くいた。真由美のマンションは、さながら、いじめ110番の様相を呈した。


 取材に協力的な親たちの証言からは、とても小中高校生のやることとは思えないような、陰湿で、悪辣ないじめの実態が暴露された。真由美は、それらの事実を臆することなく、紙面に掲載した。当初、真由美の記事に対して、事実無根、名誉毀損という立場を貫いていた学校や教育委員会側は、次第に守勢に回らざるをえない状況となった。


 その日、ついに葛城南高校は、いじめはなかったとした先の発表が誤りであったという、謝罪会見を行った。謝罪会見の席上では、PTAや報道関係者から学校側に対する痛烈な非難の言葉が浴びせられた。謝罪会見を行った教頭は、淡々と謝罪原稿を読み上げ、PTAや記者からの罵声に対しては、何も答えなかった。正式な質問に対しても、深くお詫びいたしますという同じコメントを繰り返した。


 真由美は謝罪会見の席上で言い放った。

「いくら謝罪されても自殺した子供たちは帰って来ません。私たちは、今後、学校や教育委員会がいじめをなくすために、どういう取り組みをするのか? それが聞きたいんです!」


 教頭がボソボソ答えた。

「教師一同、全力で取り組む所存です」

「そのお答えは、今までは全力で取り組んでいなかったと解釈してよろしいのですね!」

「え、あ、決して、そう意味ではなく……」


 真由美は拳を握りしめて、腕を震わせた。

「あなた方のような人たちが、一日も早く、教育現場を去ることが、最も良い、いじめ対策ではないのですか?」

教頭は沈黙した。真由美が続けた。

「お答え下さい!」

教頭は沈黙を守った。学校側と記者団のにらみ合いが延々と続いた。


 翌日の各紙紙面は、辛らつ極まる学校・教育委員会批判で埋め尽くされた。



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