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第三章 真っ白け事件


 翌朝、凌一が真美署に出勤して部屋に入ると、待っていたかのように渡辺が声をかけた。

「明日野、早速だが、明和署に行ってくれ」


 凌一は一瞬、不審に思ったがすぐにピンときた。

「明和署? ああ、放火事件の現場検証ですね」

「残念だがそれどころじゃない。まだ、調書も取れていない」

「調書も取れていないって、きのうの夕方、課長から聞いたことは?」

「あそこまでは順調だったらしい…… ところがそれから、その谷口可奈子という女、わけのわからんことをわめき散らすわ、看守に噛み付くわ、服を食いちぎったり、裸でうろうろしたり、どうにもならんらしい」


 凌一は机の上の書類に目を通しながら、無表情に、

「離脱症状ですかね? 今はどうしてるんですか?」


 凌一の問いに渡辺が首を傾げた。

「虫がついているとかぶつぶつ言いながら、自分の腕をつまんだり、何か捨てるような仕草を繰り返しているらしい……」


「振戦せん妄ですね…… 送致までに正気には戻らないでしょう。しかし、あの件は明和署の管轄で、私は単なる目撃証人ですから、私が行っても出来ることはありません。ただ、おかしいですね。普通、覚せい剤では……」


 そこまで言った凌一の肩が急にビクッと震えた。渡辺がどうしたのか尋ねようとした時、凌一が叫んだ。


「まさかっ!」


 先月まで明和署にいた薬物取締課出身の太田は、他署へ転任になっている。後任はまだ着任していない。明和署には薬物依存に詳しい者はいない。


「しまった!」


 凌一は、そう叫んで部屋を飛び出し、捜査車両に飛び乗り、エンジンをかけた。普段は収納されている回転灯のスイッチを入れ、けたたましいサイレンの音を立ててアクセルを踏み込んだ。ハンドルを握る凌一の手のひらに汗が滲んだ。


 明和署に着いた凌一は、奥の留置所まで転がるように駆け込み、看守に向かって叫んだ。

「開けろ! そこを開けろ!」


 先日の放火容疑の誤認逮捕の件で、凌一は明和署でも有名人になっていた。凌一のあまりの迫力にあっけにとられた看守は、慌てて留置場の扉を開いた。凌一は看守が持っていたキーホルダーを奪い取り、谷口可奈子が留置されている一番奥の女子房に向かった。


「……!」


 凌一の目に入ったのは、まるで電気イスにかけられたように、全身を激しくさせながら、白目をむき、口からブクブクと泡を吹いて倒れている可奈子の姿だった。顔の周りは嘔吐物で池のようになっていた。まるで噴水のように吹き上げたのか? 嘔吐物は、天井にまで飛び散っていた。


 凌一は一瞬凍りついたが、すぐにハッとして鍵を開け、房の中に飛び込んだ。凌一は可奈子の胸に耳をあて、そして叫んだ。


「間にあった!」


 凌一は、歯を食いしばっている可奈子の口を両手でこじ開け、その中に強引に左の手のひらを突っ込んだ。そして、後をついて来た看守の方を振り返って叫んだ。


「両足を持ち上げろ! この娘を逆立ちにするんだ!」


 看守が驚いて訊き返した。


「えっ?」


 可奈子の食いしばる歯が容赦なく凌一の手のひらにくい込んだ。可奈子の口の周りは、凌一の手のひらから滲み出る鮮血で赤く染まった。凌一は苦痛に顔をゆがめながら、もう一度悲痛な叫び声をあげた。


「両足を持ちあげろ! この娘を逆立ちにするんだ。気道を開けるんだ! わからないのか!」


 そこへ中村と藤田が飛び込んで来た。凌一の叫び声が聞こえていたのか、二人は急いで可奈子の両足を持ち上げた。嘔吐物で手が滑って何度か可奈子の足を落としそうになった。看守が手を添えた。可奈子は壮絶な全身痙攣を続けながら、白目をむき、逆立ちになった。口からこぼれ出る凌一の血液が可奈子の顔を伝って、床にポタポタ落ちた。


「ゴボッ」という音とともに、凌一の手のひらがはさまった可奈子の口から嘔吐物が吹き出した。それをまともに受けて、凌一の顔が黄土色に染まった。


 悪魔ばらいのような光景だった。



 ハアハアと可奈子の呼吸が聞こえた。


 凌一が叫んだ。

「気道が開いたぞ! 大丈夫だ! 助かる!」


 中村が叫んだ。

「明日野! 今だ! 手を抜け! このままじゃ手を食いちぎられるぞ!」


 嘔吐物にまみれて、表情すら見えない凌一が、

「離脱発作だ! 舌を噛んでしまう! 手を抜くわけにはいきません!」


 中村が後ろを振り返り、

「救急車だ! 誰か救急車を呼べ! 早く呼べ!」


 凌一は大きく首を横に振りながら、

「無駄だ! 救急病院に運んで何になる! パトカーでいい! このままの態勢でパトカーまで運ぶんだ! 南生駒の新阿久山病院に行くんだ!」


 中村は合点がいったのか、

「新阿久山病院? そうか! わかったぞ! そうだ! 新阿久山病院へ行くんだ! この娘をこのままパトカーに積め!」


「ちょっと待って下さい!」

藤田がそう叫んで駆け出して行った。すぐに戻った藤田は、可奈子の口にタオルを噛ませ、頭の後ろで結んだ。そして、

「明日野! もう大丈夫だ! 手を抜いていいぞ!」


 可奈子の歯が凌一の手のひらに食い込んでいた。凌一は苦痛に顔をゆがめながら、ゆっくりと可奈子の口から左手を抜いた。鮮血が溢れ出る傷口をハンカチでギュッと縛った。


「さあ、行きましょう!」


 全身、血と嘔吐物にまみれ、白目をむいて大痙攣しながら、口にタオルを噛まされている可奈子が四人の警官に両手両足を支えられ、十字架のような姿で留置場から出て来た。


 全署員が呆然とその光景を見送っていた。運転免許の更新に来ていた主婦が「ヒャッ、何あれ!」と叫び声をあげた。拾った財布を届けに来ていた青年の手のひらから財布が滑り落ちた。四人はそんなことにかまわず、可奈子をパトカーに乗せ、新阿久山病院に向かった。


 看守がハンドルを握り、藤田が助手席に座った。可奈子は後部座席の中央に乗せられ、両側から中村と凌一にガッチリと押さえつけられていた。看守がバックミラーに目をやると、全身が嘔吐物にまみれ、口から血をたらしながら白目をむいて大痙攣している可奈子の姿が見えた。彼女がチラッっと上目使いにバックミラーをにらんだように見えた。看守は背筋が寒くなって目をそらした。その隣には、頭からセメントをかぶった様な姿の凌一がいた。


 この世の光景とは思えなかった。


 パトカーはけたたましいサイレンを響かせていたが、車中の四人は無言だった。交わすべき言葉を見つけられずにいた。



 パトカーは、新阿久山病院に着いた。


 頂部に有刺鉄線が張り巡らされた高さ約三メートルの古びたコンクリートの塀に囲まれた、一見して精神病院とわかる薄気味の悪い建物だった。玄関は、黒いペンキが塗られた鉄格子製の門で閉じられていた。しかし、病院は、既に明和署から連絡を受けていたらしく、パトカーが近づくと、門が開き、門番がパトカーを病院の駐車場に誘導した。


 病院の中から白衣を着た若い医師が小走りに出て来た。その後ろから寝台を転がしながら屈強そうな男性看護師が二人出て来た。何も説明する必要はなさそうだった。看護師は可奈子を寝台に縛りつけ、院内に運び込んだ。医師が歩きながら可奈子の脈を取り、胸に聴診器をあてていた。可奈子は処置室に運び込まれた。凌一たちは看守をパトカーに残し、後の三人で病院に入った。


 凌一たちが処置室に入ろうとするのを医師が制止した。

「ここから先はちょっと…… 外でお待ち下さい。すぐに終わりますので……」


 そう言って医師は処置室の扉を閉め、中から施錠した。凌一たちは処置室の前のベンチに腰掛けて、身じろぎもせず、処置が終わるのを待った。病院の外来患者たちが、セメントにまみれたような姿の凌一に奇異な視線を送っていた。ハンカチで縛った凌一の左手から、ポタポタと血が滴り落ちていた。


 処置室の扉が開き、マスクと手袋を外しながら医師が出て来た。立ち上がって医師に一礼した凌一たちに医師は無表情に話しかけた。


「ご安心下さい。容態は安定しました。ただ、申し上げにくいんですが、医長の指示により、彼女については、精神保健福祉法に基づく緊急措置入院とさせていただきます。緊急措置入院の有効期限は七十二時間です。それ以降の処置については、二名の精神保健指定医の診断を経て、県知事より命令が下されます。二名の精神保健指定医の診断が一致しない場合、患者さんには、医療保護入院、任意入院、その他、医療の立場から最善と考えられる処置が採られます。患者さんは建造物等以外放火および覚せい剤取締法違反の容疑で逮捕・留置され、取調べ中だったとお聞きしていますが、間違いありませんか?」


 中村が答えた。

「はい、間違いありません」


「患者さんの場合、医療上の立場からみて、留置期限の四十八時間以内に退院することは不可能と判断されます。したがって、今後については、入院中のまま在宅起訴となるか、あるいは起訴猶予・不起訴などの処分となるか、いずれにせよ検察の判断を仰ぐことになります。大変申し上げにくいんですが、時系列的に考えて、彼女、谷口可奈子さんは、現時点から警察の手を離れることになります。お役目、大変ご苦労様でした」


 可奈子に浴びせられた嘔吐物が乾いて、真っ白けになった凌一は、黙って医師の説明を聞いていた。そして、医師に深々と頭を下げた。


「わかりました。おっしゃるとおりです。ただ、彼女の身柄は警察の手を離れますが、事件の捜査は警察を離れていません。この点は、ご理解下さい。また、彼女には母親がいますが、認知症のため、精神保健福祉法上の保護者または扶養義務者とはみなしえないと思います。恐らく公的扶助が適用される事案と思いますが、これは法律上の扶助であり、ご存知のとおり建前に過ぎません。現実的には先生だけが頼りです。どうか、彼女のことをよろしくお願いします」


 医師は凌一の言葉を意外そうに聞いていたが、少し表情を和らげた。

「承知しました。最善を尽くします。それから、あなた、真っ白けの刑事さん、その手を診させて下さい。応急処置をしますので……」


 凌一は初めて自分の左手に視線を向けた。薬指の先から、ポタポタと血が滴り落ちていた。凌一は医師とともに処置室に入った。


 一九七〇年代までは、日本にも『精神外科』という分野があり、精神病院でも外科的手術が行われていた。しかしながら、一九七五年に日本精神医学学会において『精神外科を否定する決議』が可決されて以降、精神病の治療を目的とする外科的手術は原則的に禁止されている。


 凌一が招き入れられた処置室も、今では院内で怪我をした患者の応急処置程度にしか使われていない様子で、室内は古び、壁の塗料はあちこち剥がれ、さながら老朽化した小学校の理科室のようになっていた。薄汚れた窓ガラスには、錆だらけの鉄格子がはめられ、クモの巣だらけになっていた。


 凌一には、かつてこの処置室で何が行われていたか想像できた。精神病院の処置室で過去に行われていたことと言えば、二つしかない。ロボトミー手術とECTだ。ロボトミー手術についてはプロローグに記したが、ECTは、電気ショック療法あるいは電気痙攣療法とも呼ばれ、難治性のうつ病に対しては安全で、しかも非常に効果も高い治療法として知られており、自殺の危険性の高い重症うつ病の患者に対しては、特に有効であると考えられている。

アメリカ精神医学会の報告によれば、ECTはうつ病の治療法の中で最も有効率が高く、難治性うつ病に対しても約半数に有効だったとされている。ただし、ECTがうつ病に有効だという医学的根拠は未だに確立していない。薬物療法にも言えることだが、精神科の治療法の場合、とりあえずやってみたら効いた、という事実が先で、理論は後追いのことが多い。


 そもそもECTは、一九三八年にイタリアのツェルレッティとビニが開発した治療法で、精神病患者の頭に電極をあて、脳に通電して痙攣を引き起こすというものである。


 なぜ彼らがそんなアイデアを思いついたかと言えば、当時のヨーロッパでは統合失調症とてんかんは拮抗するという考えがあったためである。


 統合失調症患者はてんかんになりにくいし、てんかん患者は統合失調症になりにくい(この傾向は現在では否定されている)。それなら人工的に、てんかん発作を起こしたら統合失調症は治るのではないかという推察のもとで、一九三〇年代にはウィーンのザーケルによるインスリンショック療法(インスリンを注射して人工的に低血糖発作を起こす方法。かなりの危険を伴う)や、ハンガリーのメドゥナによるカルジアゾール痙攣療法(薬物を注射して痙攣を起こす方法。注射の後しばらく不快感が続く)など、ショック療法がいくつも生まれたのである。


 一九三八年四月、ツェルレッティらは身元不明の統合失調症患者に世界初の電気痙攣療法を施行、合計十一回の治療によりこの患者は改善、予後は良好だったという。最初に試したのが身元不明の患者だということが如何にも精神科医のやることらしく、施行したツェルレッティらの自信のなさを暗示している。


 当時は精神病の治療薬など何もない時代だったため、電気ショック療法は瞬く間に世界を席巻し、日本の精神病院でも盛んに行われるようになった。ただ、その使われ方にはいささか、いや、深刻な問題がある。


 松本昭夫氏の手記『精神病棟の二十年』(新潮文庫)には、昭和三十年代の精神病院における電気ショック療法の様子が克明に描かれている。


【畳が敷かれた部屋に連れていかれた。三、四人の男が寝ている。その中の一人は、口にタオルをくわえて、全身をガタガタと震わせている。その光景は私の眼に異様に映った。


 次の男の番になった。タオルを口にしっかりとくわえさせてから、係員が器具の二つの端子を二、三秒間男の左右のこめかみに当てた。すると、男の身体が、一瞬硬直し、のけぞって失神した。それから全身をガタガタと震わせた。ちぎれそうにタオルをくわえた口から、激しい息遣いが聞こえた。私の心は氷ったようになった。


 これが電気ショック療法だった。しかも、麻酔をすることもなく生のままかけていたのだった。それはまさに処刑場の光景だった。係員は冷酷な刑吏のように見えた。


 そのうちに、私の番になった。何か叫び出したい恐怖を感じたが、今更逃げ出すことも出来ず、どうにでもなれといった捨て鉢な気持ちになって、床に身を横たえた。

タオルを口一杯にかんだ。瞬間的に電流を走るのを感じたが、その後の意識はない】


 さらに、精神病院への潜入ルポとして有名な大熊一夫氏『ルポ・精神病棟』(朝日文庫)には、ECTが患者たちの間で『電パチ』と呼ばれ、恐怖の対象だったことが書かれている。


【女子病棟保護室。副院長は電気ショック療法用の二つの電極を握っていた。

「なぜ脱走した?」、「だれが計画したんだ?」

問い詰めながら、電極で花子のほほをなでた。ビリビリッ。百ボルトの電流で感電させられるたびに、花子は身をよじった。反抗的な顔は一転して恐怖に引きつった。説教は続く。

「こんなことやられて気持ちがいいかい?」、「悪いことやったと思わないの?」


 これじゃとても治療とはいえない。ただの拷問である。

 当時は麻酔などかけず、ナマで電気をかけることも多かったので、けいれんを起こしたときに骨折したり呼吸停止を引き起こしたりという例も少なくなかったし、電気ショック後の記憶障害も問題だった。当時は反抗的な患者に電気ショックを行っておとなしくすることが多かったのだけれど、それは恐怖によって患者を押さえつけるようなもので、あくまで一時しのぎにすぎないし、治療効果など期待できるはずもない】


 もちろん、これらはいずれもECT本来の使い方とは言えないのだが、こうした暗い過去のイメージが強いせいか、日本ではいまだにECTは閉鎖的で恐怖に満ちた精神病院の象徴のように扱われ、タブー視されている。


 ところが一九八〇年代以降、欧米では日本とは逆にECTの再評価が進んでいる。


 まず日本と違うのは、欧米では一九五〇年代には既に安全性の高い修正型ECTが導入されていたことである。この修正型の場合、事前に患者に全身麻酔をかけ、筋弛緩剤を投与するので、先の引用文で描写されていたような、見た目の恐ろしい全身痙攣は起こさないし、事故も少ない。一九八〇年代にはうつ病への高い効果が再評価され、安全で有効な治療との評価が確立している。たとえば自殺の危険が迫っている重症うつ病の患者の場合など、薬が効くまでのんびりと待っているわけにはいかず、即効性のあるECTの方が有効だという考え方もある。


 一九九〇年にはアメリカ精神医学会が適用マニュアルを作成、一九九三年には四万五千人の患者がECTを受け、その数は年三パーセントの割合で増加しているという。もちろんアメリカのことなのでインフォームド・コンセントは怠りない(ただし、現状でもECTへの批判意見はあるし、一般的な治療になっているとは言い難く、アメリカの精神科医のうちでも約八パーセントが施行しているにすぎない)。


 日本でも一九九〇年代になって、ようやく大学病院や総合病院を中心に、麻酔医の協力のもと、少しずつ修正型ECTが行われるようになったが、依然として従来型の有痙攣性のECTしか行っていない病院が多い。しかも国に認可されている治療器は一九三八年以来まったく変わっていないというありさまである。欧米では一九七〇年代に開発されたパルス波治療器が主流になっているのに、日本で医療機器として認可されている治療器はサイン波電流(コンセントから得られる交流そのまま)のものだけなのだ(パルス波の方が、必要なエネルギーが少なくて済むため、記憶障害の副作用が少なく、安全性も高い)。


 実際、日本の精神病院で使われているECTの治療器は、患者の全身にコンセントからの電流を流すだけで中学生の工作のような装置である。


 林郁夫氏(文春文庫)『オウムと私』には、オウム真理教が製作し、『ニューナルコ』と称して記憶や煩悩を消す目的で多用していた電気ショック装置のことが書かれている。


 「記憶を消す方法を考えろ」という麻原の厳命に対し、林郁夫氏が苦し紛れに提案したのが電気ショックだった。

「装置は安全機構が何重にもつけられた、オウム製作の機械としては、例外的に良質なものでした。装置自体についていうならば、市販のものより使用時の安全対策が施されていました」


 もし、オウムが参考にしたのが欧米の電気ショック装置の設計図だとしたら、彼らが作ったのはおそらく日本では認可されていないパルス波治療器だったに違いない。医療機器の認可など無関係なオウム真理教だからこそ良質なものが作れたというのは、なんとも皮肉な話である。


 痙攣を伴わない修正型のECTの場合、施行は、ほとんどが麻酔科医の仕事で、精神科医の仕事は電気をかけるボタンを押すことくらいである。


 修正型の場合、まずは患者を手術室に運び、全身麻酔をかけて酸素吸入をし、筋弛緩剤を投与してから、マウスピースを咬ませ、両方のこめかみにつけた電極に数秒間通電する。電圧は百ボルトが一般的である。これを週二~三回、合計六~十二回くらい施行して1クールとする。


 なお、最近では、電気痙攣療法よりも、もっと侵襲が少なく安全性の高い経頭蓋磁気刺激法(TMS)という治療法も開発されている。磁場をかけることによって脳内に電流を流すというこの方法なら、麻酔はいらないし、痙攣も起こさなければ記憶障害にもならないので、外来で手軽に出来ると言う。しかも治療効果はECTとほぼ同じであると言われる。


 くどいようだが、ECTやTMSは薬物療法の補助的なものであり、緊急避難的処置に過ぎない。その理由は、これらの療法により患者の症状が改善するという医学的根拠がないからである。本来、現代医学の世界に結果オーライのような治療法があってはならない。


 確かに、反抗的な患者や粗暴な患者に対し、スタンガンの一撃を加えれば、しばらくはおとなしくなるだろう。常識人ならそれを『懲罰』と呼んだり『拷問』と呼んだりするだろうが、精神科医はそれを『治療』と言う。

電気ショック療法の効果について三十年間研究を重ねた神経学者ジョン・フリードバーグ博士は二〇〇四年、以下のように述べている。


「ショック療法が一般的に人々にどんな影響を与えるのかを言い表すのはとても難しいことだが、人々の覇気を破壊し、生命力を破壊する。人々をむしろ受け身で無気力にする。そして、その記憶喪失や無力感、精力の欠如が、いまだ(精神科医が)罰せられずにその処置を行える理由であろう」


 この病院は、廃院となり、現在の新阿久山病院となるまで、極悪暴力病院として、地元の人にも恐れられているような悪質な精神病院だった。その頃、この処置室では、人体実験さながらのロボトミー手術やECTが頻繁に行われていたに違いない。そう思った凌一は、背筋が寒くなる感覚を覚えた。


 処置室のイスに腰掛けた凌一が、医師に手のひらを見せながら問いかけた。

「さっきの彼女の症状は、やっぱり『あれ』ですか?」


 医師が凌一の傷口を消毒しながらぶっきらぼうに、

「そうです」


 医師が続けて言う。

「随分ひどく噛まれましたね…… 骨が見えてますよ。彼女いい歯並びをしてますね……」


 凌一は、黙って苦笑いを浮かべた。


 医師は凌一の傷口に止血の処置を施しながら、

「中途半端な処置をすると、かえって専門医の治療が難しくなるんで、ここでは、止血までにしておきますね。後で必ず外科の専門医の診察を受けて下さい。それから、真っ白けのまま帰っていただくわけにもいきませんので、奥の職員用のバスルームでシャワーを浴びて下さい」


「ありがとうございます。そうさせていただきたいんですが、このスーツ、一度脱いだら、また着るわけにもいかないので……」


それを聞いた医師は、笑いを押し殺した。

「私のものでよかったら着替えて帰って下さい。当直用のものがありますので……」

「ありがとうございます。お言葉に甘えさせていただきます」


「ちょっと待って下さいね。傷口が濡れないようにしておきますので」

 医師は凌一の手のひらにビニールを被せ、手首をガムテープでぐるぐると巻いた。


「いいですよ」

 医師はそう言って凌一をバスルームに導いた。シャワーを浴びてバスルームから出た凌一の目の前には、バスタオルと横縞のパジャマが置いてあった。


「お待たせしました」

そう言って処置室から出て来たパジャマ姿の凌一を見た中村と藤田は、思わず「プッ」と噴き出した。あまりにも間抜けな姿だった。


 後ろから医師が出て来た。

「手の傷はあくまで応急処置ですので、出来るだけ早く外科の専門医の診察を受けて下さい。着替えは適当なものがなくてすいません。スーツはクリーニングに出しておきます」


 凌一が首を横に振った。

「いえ、スーツは持ち帰ります。一応、証拠品の扱いになりますので……」

「わかりました。今、お持ちします」

一旦処置室に戻った医師は、ビニール袋に入れた凌一のスーツを持って出て来た。

三人は医師に深々と頭を下げ、パトカーに乗ろうとした。


 別れ際に凌一が医師に尋ねた。

「あの、失礼ですが……」

「私ですか? 三崎と申します」

「三崎先生ですか、私は真美警察の明日野と申します。この二人は明和警察の中村と藤田です。くどいようですが、谷口可奈子の件、くれぐれもよろしくお願いします」


 三崎医師は最後にニッコリと笑顔を見せて、

「承知しました」



 帰りの車中、凌一が、

「誠実そうな医師でしたね」


 それを聞いた中村が、

「ああ、それもけっこうなイケ面だしな」


 藤田が凌一に尋ねた。

「さっきの彼女の状態、あれ、一体何なんだ?」

「てんかんに似ていますが離脱発作です」


 藤田が怪訝そうな表情をした。

「離脱って、覚せい剤の離脱症状はあんなに酷くないはずだぞ」


 凌一が答えた。

「だからマニュアル刑事はダメなんです。覚せい剤はシャブと呼ばれますが、覚せい剤だけで骨までシャブられる人は多くありません。でも、禁止薬物に手を出すような人は、気持ちよくなる薬なら何でもやるんです。しかも、それぞれの薬物には相乗作用があります。単独で服用するよりも、いろんな薬物を一緒に服用することで、薬の作用は何倍にも強くなるんです。禁止薬物じゃありませんが、相乗作用が最も強いのはアルコールだと言われています。そう、酒です。


 今、世間ではタバコの害ばかりが取りざたされていますが、タバコを吸って暴れる人はいません。反対に、酒に酔って暴れる人は沢山います。それくらい酒は、脳に及ぼす影響が大きいんです。


 アメリカには一九二〇年代、アルコールによる治安悪化、風俗の乱れなどを理由として、禁酒法が施行された時代がありました。アメリカ全土で酒類の製造・販売が禁止されたんです。ところがその結果はどうなったか? 合法的な酒の製造・販売はなくなりましたが、マフィアによる密造・密売が横行し、ギャングが幅を利かせ、治安はかえって悪くなりました。


 日本でもギャングのボスとして有名なアル・カポネは、酒の密造・密売組織の元締めです。市民もこぞってマフィアから酒を買い、酒をやめようとはしませんでした。例えギャングから購入してでも酒をやめられなかったんです。

中村さん、藤田さん、あなた方は酒をやめられますか? 無理でしょう。現在、宗教的な理由で酒を飲まない国はありますが、それ以外の理由で酒を禁じている国はほとんどありません。それは、酒に害がないからではなく、やめさせられそうにないからです。それぐらい酒というのは、麻薬作用の強い依存性薬物なんです。


 禁止薬物を酒と一緒に飲むと、薬物の作用は何倍、何十倍となります。彼女の場合、自宅から発見された禁止薬物は覚せい剤だけだと聞いてますが、部屋からは安物の焼酎やウイスキーのボトルが見つかったんじゃないですか?」


 藤田が答えた。

「ああ、焼酎の空き瓶がたくさん見つかったよ」


 凌一が話を続けた。

「禁止薬物だけじゃありません。睡眠薬や風邪薬、花粉症の薬だって、含まれている成分によっては、酒と一緒に服用することで麻薬のように作用します。また、酒は何処ででも好きなだけ買えますし、摂取量にも上限はないので、一年中、好きなだけ飲めます。だから、気がついた時には既に重症のアルコール依存症になっていることが多いんです。


 酒は禁止薬物以上に離脱症状が強く、急にやめれば、さっきのような大発作を起こすこともあります。薬物と酒のチャンポンを常習的に摂取していたというのなら、何が起こっても不思議じゃありません」


 藤田が少し不安げに、

「彼女は、治るのか?」


「強い離脱症状は三~四日で治まるでしょう。ただ、長期間の薬物とアルコールで内臓はボロボロでしょうから、長期の内科的な治療が必要になると思います」


「廃人になったりしないのか?」


「薬物とアルコールの長期摂取は、悩萎縮の原因になりますから、知能の低下や性格の変異が起こる可能性はあります。ただ、最近の研究によれば、これらの症状は、薬と酒をやめれば、ある程度回復するという説が有力です。彼女の若さなら、薬と酒をきっぱりやめれば、おそらく元気になるでしょう。ただ、それが一番難しいことなんですが……」


 中村が口をはさんだ。

「難しいらしいな……」


 凌一は窓の外をぼんやりと眺めながら、

「ええ、一度でも薬物の快楽を知った人間は、死ぬまでその快感を忘れません。だから薬物依存を絶ち切るということは、死ぬまで薬物の誘惑と戦い続けるということです。薬物の誘惑を絶つために、自らの命を絶つ人も沢山います。気が遠くなるほど難しいですね……」


 パトカーを運転しながら看守が凌一に尋ねた。

「新阿久山病院はどんな病院なんですか?」


 中村が呆れた顔で逆に問い返した。

「君は、警官になって何年だ?」


 看守が答えた。

「半年です」


 その答えを聞いて中村は合点がいったのか、

「それじゃ、しょうがないか…… いいか、大阪府と奈良県の県境は、精神病院銀座と言われるほど沢山の精神病院がある。大阪と奈良の精神病者のハキダメだ。山奥の精神病院にまともな医療をしているところは少ないが、その中で、新阿久山病院は、薬物依存症の専門病院として有名だ。入院中も治療だけでなく、個人的なカウンセリングをしたり、薬物の怖さを教え、それを断ち切るための教育をしたり、先端的な医療を行ってる。明日野が迷わず新阿久山病院を選んだのはそのためさ。


 新阿久山病院は、廃院になった古い精神病院を買い取って設立された病院だから、見た目は古びていて薄気味悪いが、薬物やアルコール依存症の専門病院としては、近畿で一番の先端医療を行ってる」


 看守はなるほどという表情で、

「そうだったんですか……」


 凌一が付け加えた。

「アルコールを含め、日本では薬物依存患者は精神科の医師が治療するが、実際は、依存症と精神病は全く別の病気だ。


 依存症患者は、薬物が体から完全に抜ければ、もう正常人だ。遊び心ではじめた薬物なら、それだけで治ってしまうこともある。ただ、患者に家庭環境とか、精神的に薬物に頼らざるをえないような事情がある場合、その事情が解消されないかぎり、依存症を克服することはとても難しい。だから、治療よりもカウンセリングや教育が大切なんだ。しかし、精神科医でも薬物依存に関する知識が豊富な医師は非常に少ない。まして、普通の医師など論外さ……」


 凌一を送り届けるため、看守は真美署に向けてパトカーを走らせた。真美署の駐車場にパトカーが止まった。その様子がたまたま書類を持って署から出てきた島婦警の目にとまった。


 パトカーの中には制服警官一人と刑事が二人、後部座席には横縞のパジャマを着た凌一が乗っていた。どう見ても護送される囚人にしか見えない。


「プッ」


 何か事情があるとは思ったが、島は笑いをこらえることが出来なかった。島は口元を押さえながら振り返って部屋に戻り、渡辺に報告した。


「ククッ、あの、フフフ、課長、フゥ、明日野さんが、クックック、いまっ、プッ、戻りました」


 そこへ凌一が入って来た。それを見た渡辺が腹を抱えて笑った。


「ゥアハハハッ、あ、明日野っ、ククククッ、何だその格好は?」


 周りからも、クスクス、ケタケタと失笑が漏れていた。


 凌一は、適当な言葉を見つけられずにいた。

「いや、あの……」


 渡辺が苦しそうに腹を押さえながら、しぼり出すような声を出した。

「クックックッ、いいんだ、別にいいんだけどな……、事情は聞いてる。しかし…… フフフッ、お前は私服警官だからクックッ、別にいいんだけどな…… しかし、たいした私服警官だなァ」


 横で見ていた島婦警は、あまりのおかしさに笑いすぎて息が苦しくなり、おなかを押さえ、涙を流しながら部屋を出て行った。


 凌一は奥のロッカールームに入り、間に合わせのジーンズを履き、薄いジャケットを羽織って出て来た。そして渡辺に、

「すいません。外科の診察を受けて来ます」


 渡辺は笑いを押し殺しながら答えた。

「ああ、行って来い。しばらく戻ってくるな。これ以上笑わされたら仕事にならん」


「わかりました。それじゃ、診察を受けた後、谷口可奈子の実家に行って来ます。母親の様子を見たいんで…… 母親は、認知症らしいですが、可奈子が逮捕されても面会にも来てませんし、認知症が重症の場合、ひとりで放置するわけにもいかないので……」


「それは心配するな。家宅捜索の時に明和署が母親の容態も見てる。医師にも診せたが認知症は重症らしく、今は、特別養護老人ホームに預けてある」


「そうでしたか…… それを聞いて安心しました。それでしたら、とりあえず外科に行って来ます。でも、どちらにしても彼女の家には行かないと…… 病院では着替えや洗面用具等は支給されないんで、持って行ってあげないと……」


 渡辺が怪訝そうに尋ねた。

「病院って、そんなものは支給されるんだろ?」

「課長はご存知なかったんですか? 病院は、ホテルじゃありません。医療に直接必要なもの意外は、一切支給されません」

「そうか…… それなら持って行ってやらないとな…… ただし、彼女の家に行く時には明和署の婦警に同行してもらえ。いくら犯罪者の家だと言っても、女性のタンスの中を男の警官がまさぐるのはな…… 明和署には連絡しておく」

「わかりました。助かります」

凌一は、そう言って部屋を出た。


 外科の専門医はボクサーのグローブのように腫れ上がった凌一の手のひらを見て驚いた。

「なんだこりゃ? 犬にでも噛まれたんですか? えらく傷が深いですが……」


 医師はレントゲン写真を覗き込んだ。

「小指と薬指の付け根が骨折してますね。指を使うと回復が遅くなるんで、ギブスをはめたいんですが、傷口によくないので、サポーターと包帯で固定しておきます。左手を使わないように気をつけて下さい」


「わかりました」

凌一にはそう答えるしかなかった。


 外科の治療を終えた凌一は、左手の激痛に初めて気づいた。

(こんなに痛かったのか? 今まで興奮していて感じなかったんだな……)


苦痛に顔をゆがめながら凌一は署に戻った。



 一方、凌一らが去った後、新阿久山病院では、可奈子の治療が続けられていた。三崎医師は、女性看護師に指示して、可奈子の髪や体に付着した嘔吐物や血液を綺麗に拭き取らせ、衣類も病院に備え付けのものに着替えさせた。

看護師が尋ねた。


「保護室に入れますか?」


 三崎が答えた。

「いや、ここでしばらく様子を見ましょう」


 保護室と言うと聞こえはいいが、精神病院の保護室とは鉄格子で覆われた独房であり、それは刑務所の独居房のような小綺麗なものではない。三畳ほどの部屋の一画に便器がむき出しの状態で備えられた『牢屋』である。


 建前上は、自殺や自傷の恐れのある患者を一時的に保護するための部屋で、精神病院には例外なくあるが、多くの場合、保護室は医師や看護師の指示に従わない反抗的な患者に対する懲罰房として使われる。


 保護室内の患者は、コンクリートの壁に設けられた小さな窓から食事や飲み物をもらい、部屋の便器で用を足す。便器の水洗ボタンは部屋の外にあり、医師や看護師がボタンを押してくれない限り、患者は自分の汚物を流すことすら出来ない。長時間誰も様子を見に来てくれないことも多く、この場合、患者は便器の水で顔を洗い、それを飲む。男女の区別はない。患者のプライバシーなどという高尚なものはここにはない。日本国憲法で保障された国民の『健康で文化的な最低限度の生活を営む権利』など、ここには存在しない。


 看護師が気軽に「入れますか?」と尋ねた保護室とはそういうところである。


 新阿久山病院の院長である阿久山医師はそのような精神病院の『強制収容所』のような状態を改めるために私財を投げ打ってこの病院を設立した熱血医師であり、その下で働く医師たちも、同じ情熱を持って集まった集団である。三崎医師も保護室廃止論者の一人だった。


 しかしながら、高い理想とは裏腹に、薬物依存患者の治療を専門とする新阿久山病院の保護室の稼働率は高かった。薬物依存患者は、薬が体から抜けていく段階で、妄想、幻覚、幻聴、痙攣などさまざまな離脱症状を伴い、時として、他の患者に危害を加えることがあるためである。


 三崎は、発作がおさまって穏やかに眠っている可奈子の青白い寝顔をぼんやりと眺めていた。白く細い手に刺さっている点滴が、痛々しく見えた。


(外来の患者を待たせたままだな……)

そう思った三崎は看護師に指示した。


「外来の患者を診るから、その間だけ保護室に入れておいて下さい。出来るだけ頻繁に様子を見るように……」


「わかりました」

看護師は、可奈子が乗せられた寝台を押して処置室を出て行った。


保護室に収容されてしばらく後、可奈子の意識が戻った。

うっすらと見開いた可奈子の目に入った景色は、きのうのものとは違っていた。


(違う留置場に移されたのかしら……)


 一瞬、そう思った可奈子は周りを見回した。そして、自分の左手に点滴が刺さっていることに気づいた。

(何? これ……)

 そう思った可奈子の目の前の壁に、何か書かれていた。それは、ペンや鉛筆で書かれたものではなく、コンクリートの壁に爪で彫られた古い文字だった。


『神様おゆるし下さい』


 それを見た可奈子は急に何かにおびえ、上半身から血が引いていくのを感じながら、悲鳴をあげた。

「キャーッ! 何これ! ここどこ! 誰か助けて!」

立ち上がろうとした可奈子はよろめいて膝をついた。目の前にむき出しの和式便器があるのを見た可奈子は完全にパニックになった。

「ギャー! ギャー! 助けて!」


 可奈子は強引に部屋から出ようとして鉄格子の隙間に顔を突っ込んだ。


 慌てて看護師が駆けつけた。そして叫んだ。

「落ち着いて! ここは病院です! 何も心配ありません!」


 悲鳴を聞いて、三崎が駆けつけた。そして冷静に言った。

「鍵を開けて下さい」


 看護師が鍵を開けると、必死の形相の可奈子が飛び出して来た。逃げ出そうと暴れる可奈子を三崎がしっかりと抱きとめて穏やかに諭した。

「谷口さん、落ち着いて、ここは病院です。何も怖くありませんよ」


 三崎の両手を振りほどこうと暴れる可奈子に三崎は繰り返し言った。

「私は医師です。ここは病院です。何も怖くありませんよ」


「じゃあ、この檻は何よ! 何で病院に檻があるのよ!」


 三崎は物静かに、

「後で詳しく説明しますが、あなたは明和警察の留置場で発作を起こしてこの病院に運ばれたんです。これは檻じゃなく保護室といって、患者が暴れてけがをしたりしないように一時的に収容する部屋です。暴れたり逃げたりしないと約束してくれるなら、もう、保護室には入れません。冷静にすると約束してくれますか?」


 それを聞いた可奈子は、やっと冷静さを取り戻し、暴れるのをやめた。


 三崎が、

「ベッドを用意してありますから、病室に移って下さい。自分で歩けますか?」


 可奈子はうつむいて小さな声で答えた。

「大丈夫です」


 可奈子は女子患者の大部屋に案内された。ベッドに腰をおろすと、古びた小さなベッドがギシギシと音を立てた。

三崎の透きとおった温かい視線が可奈子に向けられた。

「さっきも言いましたが、あなたは、明和警察の留置場で離脱発作を起こしてここに運ばれました。警察からは、建造物等以外放火と覚せい剤取締法違反の容疑で留置されていたと聞いてます。離脱発作は、依存性のある薬物を長期間服用していた患者さんが発症するもので、薬が体から抜けていく時に起こる症状です。刑事さんの対応が早かったから良かったものの、処置が遅れれば、命に関わる発作です。内臓もボロボロに病んでますし、当分、ここで治療する必要があります。ここは、新阿久山病院と言って薬物依存の治療を専門とする病院なんで、安心して療養して下さい」


 三崎の穏やかな説明を聞いた後、可奈子が恥じ入るような声で、

「でも、私は犯罪者です。刑務所に行かなくていいんですか?」


「医長より、あなたには、緊急措置入院の診断が下されてます。今日中には院長の診断を加えて、措置入院の扱いになります。正式に県知事より措置入院の命令が下されれば、精神保健福祉法により、刑の執行は停止され、あなたの身柄は病院が預かることになります。ただ、措置入院による刑の執行停止は、刑法上の心神喪失とは違いますので、あなたは無罪になるわけじゃありません。検察の判断によりますが、あなたはここに入院したまま起訴される可能性もあります。ただし、もし検察が在宅起訴をして、有罪判決が下ったとしても、病気が治ってあなたが受刑に耐えられると医師が判断しない限り、つまり措置入院が解除されない限り、あなたの身柄は刑務所に送られることはありません。あなたは、逮捕されたのは初めてですか?」


 三崎の問いに可奈子が小さな声で答えた。

「はい」


 三崎は安堵の表情を浮かべ、

「それでしたら、恐らく判決には執行猶予がつくでしょうから、あなたにはここで、病気の治療に専念してもらうことになるでしょう」


「いつ頃退院できるんですか?」

「それはあなた次第です。内臓は二~三週間程度の点滴で回復すると思いますが、薬物依存は完全治癒が極めて難しい病気ですから、医師としても慎重にならざるをえません。あなたは覚せい剤だけじゃなく、いろんな薬物を、それもお酒と一緒に飲んでたんじゃないですか?」

「そうです」


 三崎が険しい表情をした。

「禁止薬物はむしろやめ易いんです。一番厄介なのはお酒です。お酒を飲むことは違法じゃありません。この病院を退院すれば、あなたは好きなだけお酒を飲めます。警察にもやめさせる権限はありません。でも、アルコール依存症は、覚せい剤や麻薬に負けないぐらい怖い病気です。合法なものばかり集めてチャンポンにして摂取すれば、薬毒の強さは麻薬なみになります。それが一番厄介なんです。あなたはまだ若い。薬をやめれば、これから楽しいことが沢山あるはずです。もっと自分を大切にしないと……」


 可奈子が吐き捨てるように、

「私に楽しいことなんかありません。死ぬまでありません」


 三崎は優しく諭すように、

「この病院に来る患者さんは、みんなそう思ってます。酒や薬物以外に楽しいことはない、とか、酒で死ぬなら本望だ、とか、私たちは毎日同じことを聞かされてます。でも、残念ながら酒も薬物も体をボロボロにするばかりで、なかなか死なせてはくれないんです。反対に、私たちの言葉に耳を貸してくれて、薬物やお酒を断てば、最初はつらいことばかりかもしれませんが、いずれ必ず楽しい日々がやって来ます。そうして、十年も二十年もやめ続けている人が沢山いるんです」


「他の人はそうかもしれません。でも、私には死ぬまで楽しいことなんかないんです。楽しい日々なんか絶対に来ないんです」


「……」

可奈子のあまりにも頑固な返事を聞いて、三崎は一旦、次の言葉を失った。そして、気をとりなおして言った。


「まあ、いいでしょう。とにかく今は安静にして下さい。あと、一般の病院でもそうですが、医師の許可なく外出は出来ないんで、それはご理解下さい」


可奈子が答えた。

「わかりました」



 三崎が病室を出た後、可奈子は自分の周りを見回した。この病院は、もともと廃院となった古い精神病院を買い取ったものだったので、病室も老朽化が著しく、窓には錆だらけの鉄格子がはめられた気味の悪い空間だった。窓ガラスのひび割れがセロテープで塞がれているのが、何か侘しさを訴えていた。


 ただし、看護人が清掃する保護室とは違って、入院患者が清掃を命じられる病室は、みすぼらしいなりに清潔には整えられていた。一般の病院では、病室の清掃は、清掃業者の仕事だが、精神病院では入院患者たちが病室の清掃を命じられる。もちろんこれは、病院の経費節減対策であるが、精神科医はこれを『作業療法』と呼ぶ。


 現在、新阿久山病院は、薬物依存患者に対して先端的医療を行っている病院として、横須賀の久里浜病院と並び称されており、この分野を専門とする医師の間では、知る人ぞ知る病院だが、その財政状況はしているようで、院内の設備は、お世辞にも立派なものとは言えない。


『まともな医療をやっていたら、絶対儲からない』というのが、日本の病院業界の常識である。しかしながら、『実際には儲けている病院が多い』というのも病院業界の常識である。


 可奈子には薬物依存症患者の治療を専門とする精神病院に緊急措置入院させられたという自分の立場がまだ完全に理解できていなかった。


 精神病院の病棟には大きく分けて開放病棟と閉鎖病棟の二種類があり、比較的軽症で身柄を拘束する必要のない患者は開放病棟に入れられる。開放病棟は一般の病院に近く、外出や外泊も比較的簡単に認められる。一方、重症患者や脱走の可能性のある患者は閉鎖病棟に入れられる。閉鎖病棟は、病院というより刑務所に近い。もちろん、外出や外泊は、厳しく制限される。刑事犯の可奈子が入るのは、もちろん閉鎖病棟だ。


 保護室を除けば、個室のある精神病院はまれで、ほとんどの患者は大部屋に入れられる。新阿久山病院は、薬物依存の治療を専門とする病院なので、当然、他の患者たちも薬物依存(ヤク中)患者やアルコール依存(アル中)患者ばかりであり、個性豊かな面々が集まっている。


 新入りの可奈子は、同じ病室の他の患者たちから興味津々の視線を向けられた。患者の年齢層は、一見したところ十代後半~四十代後半と幅広かった。十代は恐らく可奈子と同じようなヤク中、四十代になると今度はキッチンドランカーと呼ばれるアル中患者が多くなる。ヤク中でもアル中でもある可奈子は、いわば両刀づかいと言ったところか? 他の患者たちは、もう初期の離脱症状が治まっているらしく、可奈子の目には、普通の人たちにしか見えなかった。隣のベッドで本を読んでいた中年のオバサン患者が可奈子に声をかけた。


「あなた、シャブ中なんだって? ここにも何人かいるけど、いいわね、禁止薬物は。警察が取り上げてくれるから……」


 可奈子が恐る恐る尋ねた。

「奥さんは?」


「私は筋金入りのアル中、三度目の入院よ。お酒って退院すれば、どこでも買えるし、いくらでも飲める。きちんと家事をこなしていれば、やめろとさえ言われない。だから賢いアル中は、仕事や家事はきちんとこなすのよ。人に迷惑かけない限り、やめさせられる心配がないから……。

私も酒瓶片手に家事をこなしていたわ。結局、キッチンドランカーは深みにハマるまで、誰も助けてくれないのよ」


 可奈子が自嘲気味に、

「私はヤク中のアル中です」


「そう、それなら将来はここの牢名主かもね……」

 そう言ってオバサンは、フッと笑みを浮かべ、可奈子に背を向けた。可奈子はその背中に向けて自嘲ぎみに言った。


「私、ここの立派な牢名主になります……」




 翌朝、凌一は新阿久山病院を訪れ、可奈子に面会した。


 看護師に導かれて病院の面会スペースに来た可奈子に凌一が話しかけた。

「おはよう、少しは落ち着いたかい?」


 冷ややかな表情で可奈子が答えた。

「はい。でも、刑事さん、お気の毒ね。せっかく犯人を捕まえたのに、病院に逃げ込まれるなんて……」


 凌一は、「フッ」と小さく笑った。

「警官の仕事は、市民の安全を守ることさ。留置場にいようが病院にいようが、君はもう市民の安全を脅かすことはないだろう。僕らの仕事は終わりさ。君は今日、検察に送致される。後は検察の仕事さ。送致といっても手続き上のもので実際に身柄が検察に送られるわけじゃないから、安心してここで療養すればいい」


「刑事さん、左手の怪我はどうしたの?」


 凌一は、紙袋を三つ、可奈子に手渡しながら言った。

「ああ、これかい、ちょっとね。それより、これ、着替えとか洗面用具とか入院生活に必要そうなものを持って来たから。それから、これ、明和署が預かっていたものだけど、君の財布。入院生活にも多少のお小遣いは要るだろ?」

紙袋の中を覗き込んだ可奈子は、正直にホッとした様子を見せた。入院生活に必要な日用品は意外に多い。彼女は着替えさえ持っていなかった。


「ありがとう。取調べはしないの?」

「だから言ったろ。もう警察の仕事は終わりだし、もともと僕は君の担当刑事じゃない。ただの面会人さ」


 それを聞いた可奈子の態度は急変した。可奈子はせっつくように尋ねた。

「教えて、私はこれからどうなるの? 先生は、執行猶予がつくからここで治療に専念すればいいって言うんだけど……」


「これから明和署の調書をもとに、検察が決めることだけど、君の罪状は建造物等以外放火と覚せい剤取締法違反、どちらも初犯だから起訴されたとしても、判決には、多分、執行猶予がつく。保証は出来ないけど…… 調書も不十分だし、現場検証も出来てないから、君は何度か検察の取調べを受けるだろうけど、この病院から外出の形で行くことになるから、取調べが終われば、帰って来れるよ。放火したのが住居でなくて本当に良かった。現住建造物に放火なんかしたら、殺人と同じくらい重い罪になるからね……。

執行猶予がついた場合、君は、医師の診断により措置入院が解除されるまで、この病院で治療に専念することになる。措置入院から、医療保護入院、任意入院と段階を経て退院になることもある。退院したら、もっと自分を大切にしないとダメだよ……」


「母はどうしてるんですか?」


「心配しなくていい。今、特別養護老人ホームに預かってもらってるから…… これは、君が逮捕されたための緊急的な処置で、本当は入院の順番待ちの人が何百人もいるんだよ」


「そう……」



 可奈子と別れた後、凌一は三崎医師と面談した。凌一が尋ねた。

「彼女の容態はどうですか?」

「正直申し上げて、芳しくありません。内蔵がボロボロです」

「危険な状態ですか?」

「いえ、ご心配なく、この病院にいる限り命に関わるようなことはありません。ただ……」

「ただ……?」

「問題は精神的な薬物依存の方です。退院後、禁止薬物をやめたとしても、世間にはそれに近い作用を持つ合法的な薬物が沢山あります。お酒がその代表です。一旦、ボロボロになった内蔵は、治療して回復しても元の状態に戻り易いんです。今度、薬漬けになるようなことがあれば、命は保証できません」

「そうですか……」


 今度は逆に三崎が凌一に尋ねた。

「捜査の方はどうですか? 医師の立場から言わせてもらえば、密売ルートを根絶して欲しいんですが……」

「彼女に覚せい剤を販売した密売ルートは、大阪府警がマークしてます。近いうちに全容が解明され、組織は根絶されるでしょう。彼女の個人的な処分は、だいたい先生の予想通りになると思います」

「わかりました。どちらにしても、私は医師の立場から最善を尽くします」

「どうか、よろしくお願いします」




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