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第二章 真っ黒け事件


 明日野凌一は、二十九歳独身、真美警察刑事課の刑事だが、ここ二ヶ月は少女誘拐殺人未遂事件の捜査のために設けられた高井田警察の捜査本部に派遣されていた。

(あのくそったれ本部ともお別れだな…… もう県警本部の連中と仕事をするのはマッピラごめんだ。明日は絶対に真子と真穂に会いに行くぞ)

真由美と別れた凌一は、そんなことを考えながら帰宅を急いでいた。


 栄橋のたもとにさしかかった凌一が河原を見下ろすと、昼間、のどかな春の風情をかもし出していた菜の花やタンポポ、ノースポールやクローバーは、皆既に眠りについていた。


 花好きな人は皆知ることだが、野花は夜眠る。夜眠らないのは人工的に栽培され、改良された観賞用の品種である。

 野花の先を流れる真美川は、さざ波が街灯に照らされてゆらゆらときらめき、白黒の幻想的なコントラストを描いていた。

 凌一はほろ酔い加減で頭上を眺めた。星たちが、恥らうように薄雲の向こうからほのかな光を放っていた。

 視線を前に戻すと、前方の黒い塊が凌一の目にとまった。

(自転車か…… 無灯火だな)


「ん?」


 次の瞬間、凌一は何か不自然さを感じた。遠くのものが近づくに連れて、大きく見えるのは当然だが、そのスピードが自転車にしては速いのだ。


 瞬く間にその自転車は凌一の目の前に来た。凌一は自転車をよけようとしたが、運悪く自転車も同じ方向によけようとしたため、凌一とその自転車は接触した。


 「キキー」というブレーキ音と「バタン」という自転車の転倒する音がした。「キャッ」という女性の小さな悲鳴も聞こえた。凌一はあわてて転倒した自転車に駆け寄り、運転していた女性に声をかけた。ちょうど街灯の真下だったので、夜でもハッキリと女性の顔が見えた。お下げ髪が街灯の明りに照らされて艶めき、透けるように肌が白く、


 クリッとした小鹿のような瞳の愛くるしい女性だった。年齢は二十四~五歳に見えた。

(自転車でぶつかったのが縁で、若手刑事と可憐な美女の間に恋が芽生えたりしないかな……)


 男というのはどうしようもない動物だ。凌一の頭には、一瞬そんな不貞な妄想が浮かんだ。その途端、凌一は、とさかを立てて怒っている真子と真穂の顔を思い浮かべ、慌ててその妄想を打ち消した。

「大丈夫ですか?」


 凌一が声をかけると、女性は慌てて自転車を起こそうとした。歩道の手すりにハンドルが引っかかって、ハンドルは女性の手をすべり、自転車はもう一度倒れた。ハンドルがグニャリと変な方向を向いた。


 その女性はどこか打撲したのか、少し動作がぎこちなかった。凌一は黙って左手で自転車のハンドルを握り、右手で自転車のサドルをつかんで、一気に自転車を起こした。


 その女性は、その様子を黙って見守っていた。凌一が自転車のスタンドを立てると、女性が口を開いた。

「私は平気です」


 おとなしそうな女性だったが、その瞬間、凌一は、何か灯油のような匂いを嗅ぎ取った。その匂いが女性の衣服から出ているのか、自転車から出ているのかはわからなかった。


「平気なことはないでしょう。どこか痛いのなら、我慢せずに医師に診せたほうがいいと思います。自転車の転倒事故というのは案外、大怪我をすることが多いんです。近くに外科の救急外来があります。タクシーでお連れしましょう」

 

 その女性は、大きく首を横に振りながら、

「私は本当になんともありません。そちらこそ大丈夫ですか?」

「私は大丈夫ですけど、何をそんなに急いでるんですか?」

「そうですか、すいませんでした」


 女性は、凌一の問いには答えず、自転車にまたがり、ペダルを漕ぎ出した。やっぱり、どこか打撲したのか、ペダルの漕ぎ方がぎこちない。

「ちょっと待ちなさい」


 凌一の呼びかけに振り向きもせず、女性は去って行った。

 凌一はそれ以上追うことはせず、夜の帳に消えて行く女性の姿を見つめていた。


 凌一はしばらく栄橋の歩道に呆然と立ち尽くしていたが、我に返って身の回りを見回した。怪我はしていない。スーツが破れたりもしていなかった。


 凌一は振り返って再び帰路についた。凌一が住む単身者向けのハイツは、近鉄四位堂から歩いて十分程度のところにあり、栄橋はちょうど駅とハイツの中間あたりにある。ハイツから四位堂駅への通勤経路は、栄橋を渡る人通りの少ないルートと商店街の中を通るにぎやかなルートの二つがあるが、商店街を通るルートはかなり遠回りになるので、普段、凌一は栄橋を渡るルートを使っていた。


 駅から栄橋を渡ってかなり急な坂を上ると、中井姉妹の住む新興住宅街があり、閑静な邸宅が建ち並んでいる。一方、駅裏は宅地開発が始められる前から存在したと思われる古い町並みになっている。駅から栄橋付近までは繁華街である。


 凌一の住むハイツは、この繁華街と坂の上の新興住宅街の境界辺りに位置していた。



 凌一が栄橋を渡り切った交差点を左折して、自分が住むハイツが見えるぐらいのところまで来た時、付近の月極駐車場に駐車してある車から、パチパチと閃光のような光が発せられているのが目にとまった。タイヤを燃やすような焦げ臭い匂いがした。他の車に隠れてよく見えないので、凌一は駐車場に入り、奥を見わたせるところまで歩を進めた。一番奥の車から黒煙が上がっていた。


(火事だ!)

 

 そう思った凌一は、とっさに水を探して周囲を見回した。駐車場の入り口付近に水道の蛇口を見つけたが、ホースがない。凌一は、そばにあったバケツに水を汲みながら携帯を取り出し、119番して消防に状況を伝えた。バケツに汲んだ水をかけようと車に近づいた凌一は、本能的に危険を察知して慌てて身を伏せた。車の燃料タンクに火がついたのだ。


 最初、焚き火のようだった黒煙は、突然、爆発的な火災となった。

 凌一の顔はすすで真っ黒になった。犯罪者の逮捕には慣れている凌一も、火災に対しては無力だった。正直なところ、どうしていいかわからなかった。幸い、燃え盛る車の裏手は、小さな公園になっており、隣家が延焼する恐れはなかった。凌一には消防の到着を待つしかなかった。


 消防が到着した頃には、凌一の周りには近所の住民の人だかりが出来ていた。消防が到着し、油火災専用の消化剤を散布すると、火災はあっけなく鎮火した。消火の様子を最後まで見守っていた凌一は、消防とともに到着した明和署の署員により有無を言わさず取り押さえられ、あえなく御用となった。


 連行されるパトカーの中で、凌一は警察手帳を見せて身分を告げようかとも思ったが、あえて黙っていた。明和署には凌一の知り合いは大勢いる。明和署に着けば容疑は晴れる。こんなところでグチャクチャもめる必要はない。凌一はそう考えた。


 凌一が連行された明和署の当直には、凌一の顔見知りの警察官が何人かいた。凌一を連行した新米の警官たちは一躍英雄?となった。

「おう、新米さん、どえらい大物をしょっ引いたな! 奈良県警に明日野を知らない奴がいるとは驚きだ!」


 ベテラン署員たちがからかうのも無理はなかった。凌一は、平成十六年の少女誘拐殺人事件以降、佐藤巡査による傷害致死事件、足立美佐子によるひき逃げ偽装事件、畑中優子による少女誘拐殺人未遂事件など、数々の難事件を解決した伝説の刑事である。


「明日野さんって、この人が明日野さんですか?」

 凌一を連行した新米警官たちがそう言いながら振り返ると、明和署のベテラン署員が、

「そうだ。火事の状況をお訊きしたら、丁重にご自宅までお送りするんだぞ。明日野に手錠をかけたことが県警本部の刑事部長に知れたら、お前さんたちは一生、山奥の駐在所勤務だな…… 刑事部長は明日野を息子のようにかわいがってるんだぞ、県警の宝とまで言ってるんだぞ」


 新米警官が消え入りそうな小さな声で尋ねた。

「どうして、明日野さんだと教えてくれなかったんですか?」


 凌一は苦笑いを浮かべた。

「君たち僕の名前を訊いたかい? 『どこの誰べえ』かわからないまま逮捕するのが、君らの捜査手法なんだろ? もういいからこの手錠をはずしてくれ」


 ようやく手錠をはずされた凌一は、以前から親しかった地域安全課の市橋課長のところに歩みより、ニッコリと微笑んだ。

「こんばんは、というか、もうすぐおはようの時間ですね」


 市橋が申し訳なさそうに頭をかいた。

「いや、まことにもって申し訳ない…… しかし、明日野、その真っ黒けの顔では、どこの誰かわからんよ」

「まあ、いいでしょう。犯行現場にいた者の身柄をとりあえず確保するのは、あながち間違った捜査手法とは言えませんから…… それに、最近は警官の不祥事も多いですしね。私が被疑者扱いされても不思議はありません。いや、しかし、明和署の若い人はやりかたが荒っぽいですね……」

「だからこうして謝ってるだろ、本当にすまないことをした」


 凌一が、急に真剣な表情になった。

「あの火災は放火です。犯人に心当たりがあります」

「心当たり?」

「そうです。火災を発見する直前に猛スピードで現場の方向から走ってきた自転車と接触したんです。ちょうど栄橋の真ん中あたりです。自転車が転倒したので大丈夫かと声をかけた時、灯油のような匂いがしたんです。

自転車に乗っていたのは二十四~五歳の女性で、顔もハッキリ覚えています。上着は水色の薄いジャンパー、下は紺のジーンズ姿でした。自転車の防犯登録番号を控えたかったんですが、その女性は逃げるように急いで立ち去りました。


 その時は特に何か容疑があったわけではなかったんで、後を追ったりはしなかったんですが、状況から見て、あの女性による放火と思われます」


 それを聞いた市橋の顔が明るくなった。

「それなら話は早い。火災現場から自宅まで自転車で往復できる範囲に住んでる二十四~五歳の女性なんて、たかが知れた数だ。犯人はすぐに検挙して見せるよ…… ただ、犯人の顔を見たのはお前だけだ。悪いが面照合には付き合ってくれ」

「わかりました。明日から捜査に立ち会いますので、今夜は少し寝させて下さい」

「わかった。署員に送らせよう」

「ありがとうございます」


 凌一は市橋に一礼して、明和署のパトカーの後部座席に乗り込んだ。運転したのは、凌一に手錠をかけた明和署員だった。途中、その明和署員がすまなそうに凌一に話しかけた。


「あの~ 本当にすいませんでした。警察学校にいた頃から、奈良県警に明日野さんという数々の難事件を解決した伝説の刑事がいるとは聞いてたんです。本部の捜査一課への栄転を断固として拒否していらっしゃることまで…… でも、もっとのベテラン刑事だと思い込んでました。尊敬する先輩に手錠を掛けてしまうなんて……」


 凌一が皮肉たっぷりに、

「僕、放火魔に見えたかい?」


「いえ、そんなことは…… ただ、火事の想定訓練は受けてませんでしたので、テキパキと作業を進める消防を見てると、自分たちも何かしないといけないような気がして……」


 凌一が明和署員を諭した。

「放火魔がいつまでも放火現場に突っ立ってるわけがないだろ? それもバケツに水を汲んで…… 少しは考えろ。あういう場面では、とりあえず『事件の目撃者』として僕の住所氏名を確認して、一旦引き取ってもらうのが正攻法だ。僕だって被害者なわけだし…… この真っ黒けのスーツを見ればわかるだろ? 問答無用でしょっ引くなんてのはもってのほかだ。それともう一つ言っておく。悪い奴らは、何とか警察の想定をはずそうと綿密に計画を練って犯罪を犯すんだ。想定訓練なんかクソの役にもたたないさ…… 犯罪捜査だけじゃなく、世の中、何もかも想定どおりにいかない。女性を好きになればわかるさ……」


 明和署員がハンドルを握りながらチラッと凌一の方を見る。

「自分にはもう好きな女性がいます。ただ、明日野さんがおっしゃるとおり、想定どおりにはいきません」


「女性の行動や心情を推理することに比べたら、犯罪の推理なんてチョロイものさ…… ただし、これだけは肝に銘じておいて欲しい。僕らは金田一耕助でも刑事コロンボでもない。

警官の本業は犯罪推理でも犯人逮捕でもない。僕らの仕事は、市民の安全で快適な生活を守ることだ。そのために犯罪推理や犯人逮捕が必要になる場合があるというだけのことさ」


 明和署員が首を傾げた。

「おっしゃる意味がわかるような、わからないような…… ところで明日野さんには好きな女性はいるんですか?」


「いると言えばいる。いないと言えばいない。困ったもんだ……」

そう言いながら凌一は深いため息を吐いた。


 ハイツの前でパトカーを降りた凌一は、運転手の警官に軽く敬礼した。

「ご苦労様。先に休ませてもらうよ」


 重い足どりで部屋に入った凌一は、スーツを脱ぎ捨て、ベッドに潜り込み、明かりを消した。そしてつぶやいた。

「陽はまた昇る。別に昇ってくれなくてもいいんだが……」


 瞬く間に凌一は深い眠りの世界に入った。



 翌朝というか翌日、凌一は真穂からの電話で目を覚ました。

「やあ真穂ちゃん、おはよう」


 電話の向こうで真穂が不思議そうに尋ねた。

「おはようって、凌一さん、今、起きたの?」

「うん」

「きのうは夜勤だったの?」

「いや」

「えっ、それじゃ凌一さん、今何時だと思ってるの!?」

真穂に言われて凌一は壁の時計を見た。十一時五分だった。

「うっ、うそだろ!?」

真穂が驚いた。

「うそだろって、今、十一時五分よ!」

「なんで? 僕の携帯の目覚ましは毎朝六時三十分に鳴るんだ! ひょっとして僕、目覚ましを無視して寝てたの!?」

真穂が困ったように答えた。

「そんなこと、私にわかるわけないでしょ!」

「寝坊だ! 真穂ちゃん、悪いけど後で電話するから」

世紀の大寝坊をかました凌一は、そう言って電話を切り、取るものもとりあえず、転がるようにハイツを飛び出した。

「すいません! 遅くなりました!」


 部屋に飛び込んだ凌一をチラッと見た渡辺は、口に含んでいたコーヒーをいきなり周りに噴き散らしながら大声で笑った。

「ガハハハハハハ」


 渡辺は凌一を指差し、さらに笑う。

「ゥアハハハハハハ」


 何があったのか不思議そうに振り返った島婦警もいきなり「プッ」っと噴き出し、「キャハハハハハハ」と大声で笑った。

「ガハハハハハハハハハ」、「キャハハハハハハハ」


 異様な笑い声が刑事課の部屋中に響き渡った。島は笑い過ぎて苦しそうにおなかを押さえて「ヒィー」とうめいた。

「?」


 ポカンとしている凌一に、渡辺が必死で笑いをこらえながら苦しそうに問いかけた。

「ファッ、ファ日野……。お前……、クックックッ、ここまで、ケタケタ、何で来た? プッ」

「電車です」


 凌一が真顔で答えると、横から「ヒィー、クックックッ」という島の笑い声がした。渡辺が苦しそうにおなかを押さえる。

「ファッ、ファ日野…… 途中、プッ、人にジロジロ見られたろ?」


 中途半端な時間だったので、出勤途中、そんなに大勢の人に出くわしたわけではなかったが、確かに、ギョッとした視線を向ける人やハッとして視線をそらす人がいたような気はする。

「そう言われれば、確かに…… それがどうかしたんですか?」


 渡辺があまりのおかしさに顔をゆがめた。

「お前……、フッ、きのうの火災現場で……、クックッ、放火魔と間違えられて、ヒヒヒッ、明和署に連行されたんだろ? 今朝、ファッファッファッ、市橋から詫びの電話が、ガハハ、あったよ……」

「はい」それがそんなにおかしいんだろうか?

「きのう、お前、帰宅してから風呂に入ったか?」

「い、いえ、もう明け方だったので、すぐに着替えて就寝しました」

「今朝、起きてから、ここに来るまでに、お前、鏡を見たか?」

そう言われれば、大寝坊して慌てて着替えて来たので、鏡を見た覚えはない。


 苦しそうにおなかを抱えながらケタケタ笑い続けていた島が横から口をはさんだ。悲痛な声だった。

「もういいから、ヒヒヒッ、ファ日野さん、顔を洗ってきて、お願い。これ以上笑わせないで……」


「うん、わかった」島が言うことの意味がわからないまま、とりあえず凌一は洗面所に向かった。洗面台の鏡を見た凌一は絶句した。すすで真っ黒けの顔がそこにあった。


「しまった! きのう、あれから顔を洗ってない……」


 凌一は慌ててそばにあったハンドソープを顔に塗りたくり、顔を洗った。後の祭りだった。

 きれいに顔を洗って部屋に戻った凌一を横目で見ながら、島がクスクスと笑いをこらえていた。せめてもの救いは、刑事課の他の者がちょうどその時食事に出ていたことだった。


 警察官は勤務中あまり外食はせず、出前や買い食いで食事を済ませるのが普通だが、新興住宅街に出来たばかりの真美警察の周りには出前をしてくれるような丼屋や中華屋はなかった。


 ただ、最近、署の真裏に全国チェーンのファミリーレストラン『ザ・めしや』が開店したので、署員は好んでその店を利用していた。裏にあるめしやなので、署員はその店を『うらめしや』と呼んでいた。


 席について小さくなっていた凌一に、明和署の市橋から電話があった。

「明日野か、きのうは失礼したな。例の放火の件、こちらの担当が決まった。刑事課の中村と藤田が担当する。ふたりとも顔見知りだろ、協力してやってくれ。被疑者の絞込みはこちらで進めてる。放火現場から自宅まで帰るのに栄橋を通る二十四~五歳の女性は二十一人だ。出勤や帰宅の時間を狙って任意で話を聞こうと思ってる。悪いが付き合ってくれ。犯人の顔を見たのはお前だけだからな……」


「わかりました。これから明和署に向かいます」

凌一は電話を切り、渡辺に事情を話した。


「わかった。行ってこい」


 凌一は、渡辺の了解を得て明和署に向かった。

それ以来、凌一の『真っ黒け事件』は、今もなお真美警察署に語り継がれている。


 明和署に向かう途中、凌一は、明和駅前のファミリーレストランで昼食をとることにした。店に入り注文を済ませた凌一は、携帯を取り出し、真穂に電話した。

「真穂ちゃん、さっきは失礼したね。もう仕事に戻ったから安心して」

 電話の向こうで真穂がクスクス笑った。

「渡辺さん、怒ってたんじゃないの?」

「いや、実はきのうは事情があって、深夜まで明和署にいたんで、叱られはしなかったけど、笑われたよ」

これ以上のことは、口が裂けても言えない。


 凌一の答えを聞いて、真穂が尋ねた。

「きのうの事情って、駐車場の放火のこと?」


 凌一が逆に問いかけた。

「真穂ちゃん、車両放火事件のこと、知ってたの?」

「ええ、新聞の地域欄に出てたし、奈良テレビのニュースでもやってたわよ。ひょっとして犯人と間違えられて逮捕された警察官って凌一さんのこと?」

「うん、しょっ引かれた」


 電話の向こうで真穂がふき出した。

「プッ、どこまで間抜けなのよ! 警察手帳を見せて説明すればいいじゃない」

「それが、問答無用で……」


 真穂が呆れたように、

「もういいわ、今夜は来てくれるんでしょ?」

「ああ、行くつもりだけど、ちょっと遅くなるかもしれないから、また電話するね」


 真穂がからかい気味に、

「遅くなってもいいわよ。でも、うちに放火しないでね」

真穂は電話を切った。


「やれやれ……」凌一はそうつぶやきながら、ウエイトレスが運んできたランチを食べ始めた。


 刑事の悲しき習性か、あっという間にランチを食べ終えた凌一は、タバコに火をつけた。なんとなくタバコの包みに目をやると『喫煙は、あなたにとって心筋梗塞の危険を高めます』と書いてある。

(どうせ一度は死ぬんだ。心筋梗塞でも肺がんでもいい)


 凌一は半ばやけ気味に心の中でつぶやいた。

(最近、真穂にはかっこ悪いところばかり見られるな……。ゴミ御殿のような部屋も見られたし、寝坊しているところを起こされたり、放火魔と間違われて逮捕されたのを知られたり、いいとこなしだな……)

凌一は「ふう」とため息をついた。不幸中の幸いか、さっきの真っ黒け事件だけは真穂に悟られていない。



 中井姉妹は姉の真子が大学一回生、妹の真穂は高校三年生で、ひとつ違いの姉妹である。父の真治は近くで内科の開業医をしている。姉の真子が物静かで穏やかな性格なのに対し、妹の真穂はにぎやかで騒々しい女子高生だった。当初、凌一にとっては二人ともかわいい妹のような存在だったが、年頃の男女がいつまでも兄と妹のような関係を続けることは難しい。姉妹は明らかに二人とも凌一に好意を寄せていたし、凌一も姉妹に対して芽生えそうになる異性感情を必死で抑えていた。

(相手はまだ子供だし、自分は警察官だ。変な感情を持つんじゃない)

そう自分を戒めることが、今では凌一の心の日課になっていた。


 結局、凌一はコーヒーをすすりながら、小一時間、ぼんやりと取りとめのないことに想いをめぐらせていた。

 畑中優子による少女誘拐殺人未遂事件を解決した凌一は、その後、これといって担当案件を抱えていなかった。もともと希望して刑事課に配属されたわけでもなく、血なまぐさい犯罪捜査が好きではない凌一にとって、それは、つかの間の穏やかで幸せな日々だった。


 ファミリーレストランを出て明和署へ向かう途中、凌一は通りすがりのコンビニにタバコを買いに入った。レジで精算をしている時、ふと振り返ると、女性店員が陳列棚の前にしゃがんで商品を並べていた。その横顔を見た凌一はハッとした。

(間違いない! きのうの自転車の女性だ!)


 凌一は、静かにその女性に歩み寄り、声をかけた。

「やあ、きのうは大変失礼しました。栄橋であなたとぶつかったのは私です。明日野と言います」


 その女性店員は凌一の方を見上げ、表情を変えずに、

「ああ、あの時の方ですか…… きちんとお詫びもせずにすいませんでした。慌てていたものですから…… お怪我はありませんでしたか?」


 飾り気はないが艶めく栗毛色のショートヘアと透けるように白い肌、そして両側のほほに出来たまるでエクボのようなニキビが愛くるしい女性だった。


 凌一は人懐っこい笑顔を見せ、

「大丈夫です。それより、あの後、付近で放火事件があったのはご存知ですか? 実は、私は警察官で、直接の担当ではないんですが、たまたま事件を目撃した関係で捜査に協力させられることになったものですから、少しお話を伺いたいんです」


 凌一は警察手帳を出し、身分証明のページを見せた。それを見た女性店員の表情が変わった。

「警察の方だったんですか…… 自転車でぶつかったことも罪に問われるんですか?」


 凌一は首を横に振りながら否定した。

「厳密に言うと、業務上過失傷害の疑いがありますが、私はこのとおりピンピンしてるので立件するつもりはありません。私がお尋ねしたいのは、あくまで駐車場で発生した車両放火事件のことです。お忙しいところ恐縮ですが、署まで同行いただけないでしょうか?」

「あいにく仕事中なんで…… それに私は放火事件のことは何も知りません。事情聴取は任意なんですよね」

「あくまで任意です。だからこうしてお願いしてるんです。お仕事が終わってからでも結構ですから、お話を伺いたいんです」


 凌一と女性店員の間でこうした問答が何度か繰り返された。不審に思った店長が二人に歩み寄り、凌一の後ろから声をかけた。

「私はここの店長です。お客様、何か?」


 凌一は振り返って店長に事情を説明した。店長は女性店員の方を振り向いた。

「可奈ちゃん。店のことはいいから、この刑事さんと一緒に明和署に行って、知ってることを話してあげなさい。何も知らなければ知らないでかまわないから、とにかく行って事情を説明してあげなさい。放火魔は捕まるまで同じことを繰り返すし、この辺りの住民の安全にとっても、犯人を早く捕まえてもらわないと……」


 女性店員は、黙ってうなずき、凌一の方を見た。

「わかりました。ご一緒します。奥で着替えて来ます。少しお待ち下さい」

凌一は、黙ってうなずいた。


 奥で女性店員が着替えをしている間に、凌一は、店長からその女性店員の履歴書のコピーをもらった。

氏名は、谷口可奈子、二十四歳、フリーター、父親は既に他界し、彼女は高校卒業後、定職に着かず、母親と同居しているようである。凌一は店先で、その履歴書を見ながら携帯を取り出し、明和署の市橋に電話した。

「明日野です。きのうの放火の件ですが、犯人と思われる女性をたまたま近くのコンビニで見つけました。これから任意で明和署に引っ張ります。住所は香芝市西明和六三九‐一一です。母親と同居しているようですが、証拠隠滅の可能性があるんで、家宅捜索の令状をお願いします」


 女性店員が店から出て来た。凌一は慌てて電話を切り、話しかけた。

「谷口可奈子さんと仰るんですね。今日は自転車じゃないんですか?」


 女性店員が落ち着きのない表情を見せた。

「自転車は四位堂駅前の駐輪場に駐めてあります。明和駅からここまでは歩いて来てます」

「そうですか……」


 凌一がそう答えた時、サイレンの音をけたたましく鳴らしながら、一台の捜査車両がコンビニの駐車場に停車した。中から、中村と藤田の二人が飛び出して来て凌一に声をかけた。

「明日野、この女か?」


 凌一は、うんざりした表情を浮かべながら「やれやれ……」と愚痴をこぼし、中村と藤田を諌めた。

「早とちりしないで下さい。この女性には、事件について何かご存知かも知れないので、任意の事情聴取をお願いしただけです。谷口可奈子さんと言う方です。失礼のないようにお願いします」


 中村が慌てて語調を変えた。

「あっ、そうでしたか…… 失礼しました。明和署の中村と藤田です。谷口さん、署までお送りしますので、車にお乗り下さい」


 凌一がやや疲れた表情を見せた。

「その前に、パトランプを止めて下さい。目が回ります」


 藤田が慌ててパトランプを止めた。四人は車に乗り、明和署に向かった。車中、凌一が可奈子に言った。

「びっくりさせてすいませんでした。署では無礼なことはさせませんので、怖がらないで下さいね」


 可奈子は黙ってうなずいた。凌一は続けて中村と藤田に言った。

「二人とも、それでなくても警察や検察に対する世間の目が厳しい時です。言行には十分注意して下さい」


 中村と藤田が口を揃えて、

「いや、申し訳ない……」


 四人は明和署に着き、凌一が婦警を連れて可奈子と取調室に入った。凌一が所属する新築ピカピカの真美署とは正反対に、明和署は、老朽化したオンボロの、さながらお化け屋敷のような建物である。その奥の一画に設けられた取調室もお世辞にも小綺麗な部屋とは言えず、壁は黒ずみ、窓の鉄格子からは赤錆びがしみ出し、天井は煙草の煙で黄ばみ、長くいることさえつらいような、狭く、小汚ない空間だった。


 その取調室の中で、凌一が可奈子に任意の事情聴取について説明しようとした時、可奈子がポツリと言った。


「あの、きのうの放火は私がやりました……」



 何も始まらないうちに全てを終わらせてしまった可奈子の一言に、取調室の時間が止まった。凌一も婦警も次の動作に移ることが出来ず、その場に凍りついた。


 かなり長い沈黙の後、凌一が焦点の定まらない視線を可奈子に向けた。目と目を合わす気にはなれなかった。

「そうですか…… 谷口可奈子さん、放火容疑であなたの逮捕状を請求します。逮捕状が降りて以降は、あなたは、この明和署に留置され、取調べを受けます。その後、あなたの身柄は検察に送致され、今度は検察による取調べを受けます。わかりましたか?」


 可奈子は、うつろで輝きのない視線を凌一に向け、小さな声で「はい」と答えた。


 可奈子は視線をテーブルの上に移し、身じろぎひとつせずにいた。その華奢な体からは、微塵の不安も戸惑いも感じられなかった。放火が可奈子によるものであることは、凌一にはわかっていた。しかし、犯行を自白した後の可奈子の様子は、凌一が想像していた姿とはかけ離れていた。


 悪戯やうさ晴らしが目的の放火の場合、逮捕された犯人は泣きながら謝罪の弁を繰り返し、罪の重さに震撼して、両親を呼ぶように懇願したりするのが普通である。しかし、可奈子には狼狽した様子は全く見られず、むしろ堂々とした落ち着きさえ感じられた。


 可奈子の態度を不審に思った凌一は、可奈子の横顔をじっと見た。透けるような白い肌に、ビー玉のような澄んだ大きな瞳、憂いを含んだ長いまつげ、天使の輪がくっきりと表れた美しく光沢のある髪、とても放火などするような女性には見えない。


 凌一は言葉を選びながら問いかけた。

「君が放火したのが建造物でなくて良かった。建造物放火は非常に罪が重いし、死者が出る可能性だってある。車両放火だって、車は爆発物だ。ひとつ間違えば、巻き添えになる人が出たかもしれない。僕には、君がそんなことをする人には思えないんだが……」


 凌一の言葉を聞いた可奈子は、しばらくの沈黙の後、クスクスと笑いをこらえながら吐き捨てるように答えた。その冷酷で残忍な表情に凌一は戦慄を覚えた。


「フフッ 物が燃える姿って綺麗じゃない。華々しくて、活気があって、情熱的で…… 人間だってどうせ最後は燃やされて灰になるのよ。私は放火魔よ。でもその罪は自分が負うんだからいいじゃない。誰のせいにもしてないわ。好きなことをして、自分が罰せられるんだから、私の勝手じゃない。何十人も何百人も死ぬような大火事になればよかったのよ!」


 それは、耳を塞ぎたくなるような言葉だった。凌一は、次の言葉を発することが出来ずに、その場にたたずんでいた。


 この娘をここまでゆがめたものは何なのか? 凌一は考えていた。犯罪の動機を解明することも犯罪捜査では重要な項目のひとつである。しかし……。


 無言の時が流れ、ただ壁の時計だけが確実に時を刻んだ。傾きかけた日差しを浴びて床に描かれた窓枠の影が、凌一には十字架に見えた。


(取調室に神はいない……)

凌一には、そう感じられた。


 小さなノックの音がして、取調室のドアが開いた。中村が顔を覗かせ、凌一に目配せした。凌一は黙って部屋を出た。


 中村は無表情だった。

「今、鑑識が谷口可奈子の部屋を捜索してるが、覚せい剤らしき粉末と吸引器具が発見された模様だ」


 それを聞いた凌一は、一瞬言葉を失ったが、すぐに気をとりなおし、能面のように無表情に答えた。

「そうですか……」


 凌一は心の中で自分に言い聞かした。

(自分は刑事だ。今は被疑者の取調べ中だ、何を聞かされてもうろたえてはいけない)


 凌一は、再び取調室に入り、婦警に何か指図した。婦警は可奈子のそばに歩み寄り、無表情に言った。

「尿検査をしますので、一旦、部屋を出て下さい」


 可奈子を連れて取調室を出ようとした婦警を凌一が呼びとめ、小声でささやいた。

「逃亡の恐れがある。目を離すな」


 婦警は無言でうなずき、可奈子を連れて女子トイレに向かった。取調室に一人残った凌一は、鉄格子ごしに窓の外を見ながら考えた。

(覚せい剤のなせる業か? 人をあそこまで悪魔に出来るのか?)


 振り返ると、さっきまで可奈子が腰掛けていた椅子が無造作に置かれていた。その椅子を見た時、何故か凌一は無性に切ない気持ちになった。


(彼女はどこで覚せい剤を入手したのか?)

 凌一のところには、香芝に麻薬の密売人がいるという情報は入っていなかったし、大掛かりな密売組織があるとも思えない。ここのところ香芝市で発生した禁止薬物関係の事案といえば、中学生の睡眠薬遊びぐらいである。


(まっ、いいか、あとは明和署の仕事だ。広域の密売組織が絡んでいたとすれば、今度は県警本部の仕事になる。どちらにしても、僕の仕事じゃない。どうせ僕はしらけたサラリーマン刑事だからな……)


 凌一は取調室を出て、中村と藤田に声をかけた。

「放火の件は一件落着ですね。目撃者としての私の仕事は終わりました。これで失礼します」

中村が答えた。

「わかった。何か特別なことがあれば、こちらから連絡する」


 凌一は明和署を出て電車で真美署に戻ろうとした。車中、凌一は、(一件落着、一件落着)と繰り返し念仏のように唱えていた。可奈子の輝きのない、うつろな瞳が目に焼き付いて離れなかった。彼女が凌一に吐いた暴言は、たとえ覚せい剤のなせる業だと考えても、可奈子の幼い顔立ちには、あまりにも不釣り合いなものだった。


 凌一は、一件落着どころか、これから全てが始まるのだという嫌な予感を懸命に打ち消していた。電車の窓を通り過ぎる見慣れた景色が、曇天の空に埋没して、殺風景な情景を醸し出していた。


 自分は『敏腕刑事』でも『熱血刑事』でもない、ただのサラリーマン警官だ。刑事だってやりたくてやっているわけじゃない。少なくとも自分ではそう思っていた凌一にとって、犯罪者の逮捕など、嬉しいことでも何でもなかった。


 犯罪者を逮捕する度に凌一の心に残るのは、やり場のない荒涼とした脱力感だけだった。その脱力感が、今、凌一を襲っていた。


 その時、凌一の後ろから小さな声が聞こえた。

「凌一さん」


 驚いて凌一が振り返ると、真子が穏やかに微笑んでいた。

「やあ、真子ちゃん、大学の帰りかい? でもそれなら電車が反対方向だよね」

「ええ、少し友達の家に行ってたので……」


 凌一が少し皮肉った。

「友達って、ひょっとしてボーイフレンドかな?」


 真子がむくれた表情を見せた。

「まあ、凌一さん、ひどいこと言うのね……」


 自分にとって、愛しい人は凌一だけだ。そのことは凌一も察している。真子はそう思っていた。

「凌一さん、今、お仕事中? きのうはひどい目に遭ったのね……」

「ああ、その件を今、片づけて来た。今日の夕刊を読めばわかるよ」

「犯人、もう捕まえたの?」

「ああ、おかげさまで僕の放火容疑は晴れたよ」


 真子は口元に手を寄せながら、クスクスと笑った。

「フフッ、放火容疑って、凌一さん笑わせないで下さい」


 四位堂駅に着いた。真子の自宅である中井邸は、ここで下車して駅前の小さな繁華街を抜け、栄橋を渡って坂を上った小高い丘の上の新興住宅街にある。


「凌一さん、今夜は来てくれるの? お母さん、料理はいつも五人分作ってるのよ」

「うん、一旦、署に戻って課長に事の顛末を報告した後、すぐに行くよ」


 凌一と真子の間を電車の自動ドアがさえぎった。凌一は、真美署の最寄り駅である三上まで、そのまま電車で向かった。

 署に戻ると、凌一は渡辺のデスクに歩み寄った。既に、明和署から連絡があったのか、渡辺は一部始終を知っていた。


 渡辺が、

「明和署の話では、谷口可奈子の薬物反応は陽性だったらしい。したがって、彼女は放火と覚せい剤の両方で起訴されることになるだろう。ただし、現状では、放火については本人の供述とお前の目撃証言以外に物的証拠は、ほとんどない。

 明日野、お前さん気の毒だが、公判で検察側の証人として出廷させられることになるな……」


 凌一は苦虫を噛み潰したような顔をしながらうなずいた。

「覚せい剤の入手ルートはわかったんですか?」

「大阪ミナミの繁華街で外人から入手してたらしい。この密売ルートは大阪府警の薬物取締課がかねてから目をつけてるが、組織の全容を突き止めるため、あえて泳がせてたらしい」

「彼女の覚せい剤歴はどれくらいなんですか?」

「本人の供述では五~六年らしい」

「それではかなりの金額になります。コンビニの店員の給料で賄えるとは思えません」

「彼女の父親は六年前に他界し、同じ頃から母は認知症を患ってる。彼女は現在、母の後見人として、家の財産を自由に出来る立場になってる。明和署の調べによれば、彼女の家は地元の旧家で、父親の生前、かなりの不動産を所有してたが、彼女が後見人となって以来、そのかなりの部分を売却してる。恐らく親の財産を切り売りして薬代にしてたんだろう」

「コンビニで入手した彼女の履歴書には、実家は楽器販売店と書いてありましたが……」

「店は開店休業状態さ」

「覚せい剤を始めたきっかけは?」

「それは話そうとしないらしいが、ちょっとした遊び心じゃないのかな? 悪い男友達にでも誘われたんだろう」


 凌一は少し首を傾げた。しかし、それ以上何も言わなかった。渡辺が尋ねた。

「何か不審なことでもあるのか?」

「いえ、特に……。すいません、今夜は中井邸に行くのでこれで失礼します」

凌一がそう言って一礼すると、渡辺はニッコリと微笑んで言った。

「わかった。早く行ってやれ」



 四位堂駅に着くと、改札口で大きく両手を振っている女性がいた。真子だ。真子はいまどきの女子大生には珍しく、あまりラフな服装で大学に行かない。いかにも良家のお嬢さんらしい清楚なワンピースが真子の普段着だ。凌一は小走りに改札を出て真子に声をかけた。


「真子ちゃん、待っててくれたの?」

「ううん、本屋さんで少し立ち読みしてたらこんな時間になって……」

「そう、それじゃ行こうか」

「はい」


 二人はピッタリと寄り添って商店街を歩いた。この辺りなら近所の人に見られても不思議ではないが、真子は全くかまわない様子だった。


 真子がうつむき加減にポツリと言う。

「私、本当はあまり大学になじめてないんです……」


 凌一は、真子の横顔を覗き込んだ。ポニーテールの前髪が少し目元にかかり、その下の憂いを含んだ瞳が不安げだった。


 凌一が心配そうに問う。

「それは…… どうして?」

「うーん、なんとなく。私は翻訳家志望だから、ちゃんと勉強はしてるんですけど、翻訳は通訳とは違って、才能が必要なの。原文よりも翻訳後の文章のほうが面白いぐらいじゃないとダメなの。でも、私の翻訳ってまるで機械翻訳みたい。ただ、原文に忠実なだけ…… ユーモアもウイットもないの。戸田奈津子さんのような翻訳家を目指しているのに……」


 それを聞いた凌一は、天候が回復して澄みわたった夜空を見上げ、

「それは、真子ちゃんがまだ原文を翻訳することに精一杯だからじゃないのかな。戸田奈津子さんのような翻訳をするためには、原文を完全に理解したうえで、原作者が文章に描ききれなかったような細かい感情や状況まで汲み取れないとダメだと思うんだ。僕の好きな写真家の言葉に『写真で説明しようとするとつまらなくなる』という言葉がある。


 実際には立体的で、絶えず動いてるものを、写真では一枚の小さな紙切れに写すんだから、当然、全ての情報は入らない。どこを強調し、どこを省略するか? 選択が必要になる。感性の勝負さ。


 でも感性の勝負に持ち込む以前に、カメラで写真を撮る技術は完璧でなきゃいけない。写真の腕が十分でない間は、ちゃんと写すことばかり考えてしまうから、『ただ説明してるだけの写真』になる。


 真子ちゃんの感性が発揮されるのは、翻訳の技術がもっともっと上達してからのことじゃないかな?」


 凌一の言葉を聞いた真子の表情はパッと明るくなった。

「凌一さんの言うとおりですね。才能の心配なんかするのはまだまだ早いですね……」


 凌一は黙って微笑んだ。


 正直言って、凌一は真子の学業にそれほど関心があるわけではなかった。それよりも、半年前からは比べられないほど目に見えて真子の自閉症が改善していることの方が嬉しかった。


 身体的に何ら異常なく出生した真子の様子に、父の真治と母の祥子が不審を抱き始めたのは、生後、数週間からのことだった。他の乳児のように、泣いたり笑ったりせず、ただ、いつもうつろな表情で遠くを見ている真子、真治や祥子があやしても何の反応も見せない真子、真治と祥子の心配は、生後半年頃には疑いの余地がないものとなっていた。


「お子さんには自閉症の疑いがあります」


専門医にそう宣告されたのは、生後一年近い頃だった。内科の開業医である真治にとっても自閉症というのは、あまり接することのない病気であったため、当初二人は、真子のことを内気な性格で、努力次第では改善できるものかと期待したが、専門医による説明は残酷なものだった。


「自閉症は、先天的な脳の疾患と考えられており、性格や教育の問題じゃありません。また、生後の治療や努力により完全治癒した例は、ほとんどありません。ただし、ノーマライゼーションといって、トレーニング次第で症状が軽減されることはありますし、健常者と同じように生活できるようになった例もあります。一口に自閉症と言っても、その症状は千差万別なので、長い目で見てあげて下さい」


 その日、帰宅後、

「どうして私たちの子が……」


 真子の将来を悲観して泣き叫ぶ祥子を真治が諭した。

「真子がどんな子でも、私たちにとっては宝物だ。世の中にはいろんな宝があるんだ」


 その後の真治と祥子の生活は、真子のちょっとした仕草に一喜一憂することの繰り返しだった。

 真子の場合は、知的発達傷害を全く伴わない高機能自閉症で、その症状は、自閉症というよりも『失語症』と言った方が適切かもしれない。小中学校から大学生となった今まで、真子は筆記試験では決して他の子供に劣らない学力を示していたし、思うことは思うように文章に表わすことが出来た。ただ、他の人と面と向かって会話をすることが出来なかったのである。


 大学入学を直前に迎えた高校三年の冬、そんな真子に一大転機が訪れた。凌一との出会いである。

凌一はその夜、偶然、真子と妹の真穂が河原で地元の悪ガキどもに絡まれているところに通りかかり、二人を救助した。そして姉妹の両親である中井夫妻は、感謝のしるしにと凌一を夕食に招待した。その食事後に、真子が生まれて初めて言葉を発したのだ。それは凌一に対して発せられた言葉だった。


「コーヒーお召しになる?」


 これが真子が生まれて初めて発した言葉だった。


 真子のこの言葉を聞いた時の両親の喜びは、口では表現できないほどのものだった。中井夫妻はこの時まで真子の会話能力の欠如については、回復をあきらめていたのである。


 次の朝、早速、母の祥子は専門医を訪ね、真子が言葉を発したことを報告した。専門医は祥子に説明した。


「とても稀なケースですが、ありえないことじゃありません。恐らく、真子さんはその刑事さんのことが好きなんでしょう。家族と違って、相手が他人の場合は、以心伝心というわけにはいきませんから、好きな人と親しくなりたければ、会話をしないわけにはいきません。だから、真子さんは心の壁を破って言葉を発することが出来たんだと思います。その刑事さんが協力してくれれば、真子さんの会話能力はもっともっと向上する可能性があると思います」


 専門医の意見を聞いた祥子は、すぐに凌一にその旨を伝え、協力を依頼した。そして、凌一は快くそれを承諾した。

 凌一にとって、中井邸の訪問は市民サービスの一環のつもりだった。警官の仕事は犯人逮捕だけじゃない。安全で快適な市民の生活を守ることが警察官の仕事だ。だから、自分が訪問することで真子の病気が回復するのなら、これも警察官の役目の一つだ。凌一はそう考えていた。


 凌一が訪問すると、真子の症状が改善する理由が、真子の凌一に対する恋愛感情にあることは、両親ともに気づいていた。また二人は、妹の真穂まで凌一を慕っていることも知っていた。しかしながら、凌一の人柄には、真治も祥子も絶対的な信頼を寄せていたため、三人の交際には、真治も祥子も口を出さなかった。


「凌一君は、分別のある立派な大人の男性だ。彼は純粋に真子の回復を祈って、うちを訪れてくれてる。もともとそれを頼んだのは我々の方だ。妹の真穂まで彼に惹かれているのは、彼がそれだけ立派な男性だという証拠だ。この先、あの三人がどんな結果になったとしても、それはそれで、あの三人の人生だ」


 これが父、真治の意見であり、祥子も同感だった。



 凌一と真子は中井邸に着いた。

 凌一が中井邸のインターホンを押すと、いつものように真穂が飛び出して来た。真穂は、凌一と真子が二人並んでいる姿を見て、急にむくれた表情になった。

「あれ、凌一さんとお姉ちゃん、一緒だったの! そう、私に内緒で密会してたわけ?」


 凌一は、慌てて首を横に振った。

「そんなんじゃないよ! 例の放火魔の件、今日、明和まで片づけに行ってたんだ。その帰りに偶然、同じ電車に乗り合わせたのさ」


 それを聞いた真穂が納得したようにうなずいた。

「あーっ それでわかった。夕刊にもニュースにも出てたわよ。放火魔逮捕って…… 犯人の女、覚せい剤中毒だったんだってね。もう密会の容疑が晴れたから入っていいよ、さあ、どうぞ、どうぞ」


 たった一つ違いの姉妹なのに、真子に近寄り難いような気品があるのとは対照的に、真穂には何とも親しみやすい人懐っこさがあった。

 門から玄関までの通路の両側にはパンジーがあでやかに寄せ植えされていた。三人は、笑顔を交わしながらその通路を歩き、中井邸に入った。


 中井邸は豪邸というほどのものではないが、閑静な住宅街に建つ立派な屋敷である。ただ、その中は、大きな家では感じることの少ない、心の安らぐ温もりが漂っていた。中井家の訪問を始めた頃は、緊張してお地蔵さんのように固くなっていた凌一も、最近はやっとリラックスして、くつろげるようになっていた。


 料理を食卓に並べながら、祥子が上品な笑顔を見せた。

「凌一さん、きのうは大変な目に遭われたんですね。でも、さすがですね、一日で犯人を逮捕なさるんだから……」


 周りを見回して真治がいないのに気づいた凌一が祥子に尋ねた。

「今夜は、お父さんはお出かけですか?」


 祥子が答えた。

「ええ、医師会の会合だそうで……」


 それを聞いて真穂がクスクス笑った。

「お父さん、一応は、内科医だもんね……」


 祥子が真穂を諭した。

「『一応』は、余分でしょ!」


 四人とも真治の仏頂面を思い浮かべながら笑いをかみ殺した。真治がくしゃみをしている姿を想像した。和やかな夕食の時が流れた。


 夕食の後、いつものように真子がコーヒーを入れてくれた。

 ミルクをたっぷり入れたカフェラテのようなコーヒーが凌一の好みだった。コーヒーにミルクを注ぐ真子の横顔は美しかった。たった一年年下の真穂がどんなにおめかししても真似できない大人の女性の魅力が真子から漂っていた。


 真子のほほに小さなニキビを見つけた凌一は、急に表情を曇らせた。


 真穂は凌一の変化を見逃さなかった。

「凌一さん、どうかしたの?」


 凌一は慌てて首を横に振り、

「いや、なんでもない」


 忘れかけていた昼間のことが凌一の胸いっぱいに膨らんだ。凌一は自分に言い聞かせた。

(あの件は、一件落着だ、一件落着)


 凌一がコーヒーを飲み干すと、真穂が言った。

「私、凌一さんを送ってくる」


 祥子が半ばあきらめ顔で真穂を諭した。

「それで、また凌一さんに家まで送って来てもらうんでしょう。凌一さんが気の毒じゃない」


 それを聞いた凌一は、

「いいですよ。どうせ近くですから」


「いつもすいません。わがままばかり申しまして……」

 凌一と真穂の二人は中井邸を出て、坂を下った。


 真穂が夜空を見上げた。

「凌一さんと二人の夜って、いつも星が綺麗ね」

「そうだね。雨が降ったことはないね」

「曇り空もないのよ」

「そうだね。不思議だね」


 二人の頭上には満天の星空が広がっていた。

「真穂ちゃんは三陸海岸の星空は見たことあるのかな?」

「ううん、そんなに綺麗なの?」

「別世界だね。目が回りそうになるよ。三陸の星空を見ると、流れ星なんか当たり前の景色に思えてくる。数えられないぐらいの流れ星が飛び交ってる」

「へえ、そんな星空、想像できない。絶対見に行く」

「ああ、お父さんに頼んでごらん」

「いやよ。凌一さんと見に行くの」

「それなら、一度、五人でいっしょに行きたいね」

「まあ、それでもいいけど……」


 栄橋のたもとに着いた。凌一が訊いた。

「真穂ちゃん、またお願い出来るかな?」

「うん、いいよ」


 真穂は少し照れくさそうにしながら唄い始めた。真穂は声の美しい娘だった。凌一は、真穂に、時々、この大好きな歌を唄ってくれるようにねだるのだった。


菜の花ばたけに、入り日薄れ

見わたす山のは、かすみ深し

春風そよふく、空を見れば

夕月かかりて、におい淡し


里わのほかげも、森の色も

田中のこみちを、たどる人も

かわずのなくねも、かねの音も

さながらかすめる、おぼろ月夜


 それは、天使の歌声だった。全てを忘れて、凌一は歌に聴き入った。既に日は暮れ、河原には、遊歩道に設置された街灯の明りが等間隔に見えるだけだったが、凌一は、真美川の両側が菜の花の幸せ色で埋めつくされる昼間の景色を思い浮かべた。川面に降り注ぐ星の滴が、心の中で幸せ色にきらめいていた。


「ありがとう、感動した」凌一が言うと、真穂は少しはにかんでコックリとうなずいた。

二人は、さっき下った坂をもう一度上り始めた。二人は手をつないで無言で坂を上った。


 人は親しくない人と一緒にいる時、会話が途切れると緊張するものである。今、こうして凌一と真穂が無言で歩き続けられるのは、二人の間に何か強いものが出来ていることを意味した。


 中井邸の門の前まで来た。真穂が言った。

「凌一さん、ありがとう。おやすみなさい」

「それじゃ、おやすみ」


 坂を下る凌一の後ろ姿を真穂は、ずっと見送っていた。真穂は、頭上に三陸海岸の星空を想像した。夜空に、小さな流れ星がひとつ、流れた。


 ハイツに戻った凌一は、真穂の美しい歌声の余韻に浸っていた。シャワーを浴びてもテレビを観ても、耳元には真穂の透きとおった歌声が響いていた。しばらくして凌一はベッドに寝転び、明かりを消して、静かにまどろんだ。



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