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第一章 しらけ野郎

プロローグ

ロボトミー手術という現在は禁止されている手術がある。


 ロボトミーとは、ロブス(脳葉)とトミー(切截)の合成語であると言われるが、その手術の趣旨から人間をロボット化する手術という意味に解釈されていることも多い。


 現在でも、人間の脳の仕組みは完全には解明されていない。

 しかしながら、精神的柔軟性や自発性、我慢、抑制、会話力、危険管理、規律性、社交性、性行動など、人間の高度な知性や感情を司っているのは、脳の中で額に最も近い部分、すなわち前頭葉だと考えられている。


 ロボトミー手術とは、アイスピックなどの鋭利な刃物を前頭葉に突き刺し、これを破壊する手術である。


 一九三五年、米国イェール大学のジョン・フルトンとカーライル・ヤコブセンは、チンパンジーにおいて前頭葉切断を行い、その結果、施術されたチンパンジーの性格が穏やかになったと報告した。実際には『乱暴なサル』だったチンパンジーが、手術後に高度な思考能力を失い、一見『おとなしいサル』になっただけと推測されるが、この結果を見た医師たちは『手術によってチンパンジーの神経症ノイローゼが治癒した』と考えた。


 この報告を聞いたポルトガルのリスボン医科大学神経外科医アントニオ・エガス・モニスは、精神障害が前頭葉内の神経細胞に異常なシナプス結合繊維群を生じるために起こるという仮説を立て、リスボン大学で外科医のアルメイダ・リマと組んで、初めてヒトにおいて前頭葉切裁術(前頭葉を脳のその他の部分から切り離す手術)を行った。

 その手術法とは、頭蓋骨にドリルで穴を開け、『ロボトーム』と呼ばれる棒状の器具を差し込んで、前頭葉の神経繊維を切断し、繊維群の再結合を促すことで、精神障害を克服するというものだった。


 モニスはこの方法で二十人の患者に対して手術を行い、『著しい成果をあげた』と学会に発表したのである。

そして彼は、精神症状を対象とする脳手術の分野を『精神外科』と名づけた。


 モニスはリスボン大学神経科教授にして、下院議員や外務省高官を歴任した政治家でもあり、一九一〇年のポルトガル共和国樹立に参加し、政党党首や大臣も務めている。マドリード駐在の大使だったこともあれば、ヴェルサイユ条約調印の時には自国の代表だったという。


 この人物について特記すべきことは、普通とは逆に、政治家を辞めた後で医学の分野における業績をいくつも残していることである。


 一九三六年九月十四日、ジェームズ・ワシントン大学でもウォルター・フリーマン博士の手によって米国で初めてのロボトミー手術が行われた。対象となった患者は激越性うつ病患者(六十三歳の女性)だったと言われている。


 フリーマンは、モニスが考案したロボトミー手術をさらに研究し、改良を加えた施術法を『経眼窩けいがんかロボトミー』と名づけ、表皮に傷跡が残らない『画期的な治療法』と喧伝して、一躍時の人となった。


 彼は患者に局所麻酔をかけた上で、眼窩から直接アイスピックを挿入して小槌でそれを打ち込み、ほとんど『勘頼み』で神経繊維の切断を行うという手法で、患者の並ぶベッドを次から次へと移動しながら、数多くの患者の施術を行ったという(米国中で凡そ三千四百人もの患者に対して施術を行ったと言われる)。


 その後、ロボトミー手術は世界各地で追試され、そのうちには成功例もあったように言われるが、同時に死亡例も報告されている。また、死亡までに至らなくても、術後の患者には、てんかん発作、人格変化、無気力、抑制の欠如、衝動性などの重大かつ不可逆的な副作用が起こったと報じられている。しかしながら、当時、ロボトミー手術は、その効用のみが強調され、その考案者モニスの功績を認めたノーベル財団は、一九四九年、彼にノーベル医学生理学賞を授与した。


 当時の標準的なロボトミー手術は、前側頭部の頭蓋骨に小さい孔を開け、ロイコトームと呼ばれたメスを脳に差し込み、円を描くように動かして切開するというものだった。前頭前野と他の部位(辺縁系や前頭前野以外の皮質)との連絡繊維を切断していたと考えられる。


 このように医学的な表現を用いると、まるでロボトミー手術が医学的根拠に基づいて慎重に施術されていたかのように聞こえることが恐ろしい。


 実際には、こめかみのあたりにドリルで穴を開け、その中に細い刃を突き刺し、手探りでぐりぐりと動かして前頭葉の白質を切断する。切断する部位や範囲は、施術する医師によりさまざまに異なる。つまり、医者が『適当』に決めるのである。


 日本における最初のロボトミー手術は、一九四二年、新潟医科大学(後の新潟大学医学部)の中田瑞穂によって行われ、第二次大戦中および戦後しばらく、主に統合失調症(二〇〇二年に『精神分裂病』から改称された)患者を対象として、各地でごく一般的に施術された。国内でロボトミー手術を受けた患者数は、一説によると三万人~十二万人に及ぶという。


 三万~十二万というあまりにもアバウトな推計値には驚かされる。推計値があまりにもアバウトである理由について推測することは難しくない。


 本来、ロボトミー手術も電気ショック療法も精神病患者の治療を目的として考案された治療法であるが、実際には、医師や看護師に対して反抗的な患者に対する懲罰として実施されることも多かったと言われる。また、医師が興味本位で人体実験として施した例も多いと聞く。


 つまり、患者に対して腹を立てた医師が、腹たちまぎれにこれらの手術・療法を施したケースや興味本位で実験的に行ったようなケースでは、正確な施行数の報告など望む方が無理というものだろう。


 当時、日本におけるロボトミー手術の第一人者といわれた日本大学医学部の広瀬貞雄名誉教授は、一九四七年から一九七二年までの二十五年間で五百二十三例のロボトミー手術を行ったとされている。同氏の言によれば、


「我々の今日までの現実的な経験としては、ロボトミーは臨床的に有用な棄て難い利器であり、従来の療法ではどうしても病状の好転を来たすことが出来ず、社会的にも危険のあったものがロボトミーによって社会的適応性を回復し、或は看護上にも色々困難のあったものが看護し易くなるというような場合をしばしば経験している」


「精神病院内に、甚しく悩み、また狂暴な患者が入れられているということは、戦争や犯罪やアルコール中毒の惨害以上に一般社会の良心にとって大きな汚点であるとし、このような患者がロボトミーで救われることを肯定する議論もある。

一九五二年にローマ法王PiusXIIは、その個人の幸福のために他に手段のない限り肯定さるべきだという意味の声明をした」


つまり、同氏は、

「実際、上手くいくことだってあるんだし、ローマ法王だって、いいって言ってるじゃん」という趣旨にとれる言を述べた。


 実際には、一九五〇年代になり、電気ショック療法の改良や、精神治療薬の開発が進められると、ロボトミー手術により、重篤な後遺症を生じた患者の家族や医療従事者からもロボトミー手術に対する反対の声があがり始め、ロボトミー手術は急速にその評価を失いつつあったが、前述のようなロボトミー手術の『(狂?)信者』とも言える医師たちにより、この手術法は、存続し続けたのである。


 現在では、患者に対する人権意識の高まりもあり、ロボトミー手術は、多くの犠牲者だけを生んだ『悪魔の手術』とさえ呼ばれており、当時ロボトミー手術を施され、その結果、廃人状態になってしまった患者の家族を中心に、モニス医師のノーベル賞取り消しを求める運動さえ行われているのである。


 元看護婦のキャロル・ノエル・ダンカンソンも、母親がロボトミー手術によって廃人化されたという。

 彼女の母親、アンナ・ラス・チャネルスは一九四九年、妊娠に伴う偏頭痛を治療するためロボトミー手術を受けたが、それまで『活発で聡明な女性』だったアンナは、完全な廃人となって家に戻って来たのである。


 「母は、自分でものを食べることも、トイレに行くことも出来ない身体になりました。しゃべることも出来なくなり、とても怒りやすい人間になってしまったんです。彼女はロボトミー手術で全てを失ったんです。何もかもです」


 すなわちロボトミー手術とは、『人格破壊手術』、『廃人化手術』以外の何ものでもないというのが現在の考え方の主流である。いや、その考え方が主流であることを祈る。


 もともと人間の脳の仕組みがほとんど解明されていなかった一九三〇年代に、脳の一部を切除することによって精神症状を解消するなどという手術が、それもアイスピックを脳に突き刺すなどという極めて残虐かつ短絡的手法で行われてきたことも震撼に値するが、この手術は、一九七五年に日本精神医学学会において『精神外科を否定する決議』が可決されるまで国内でも盛んに行われた。


 日本においてロボトミー手術が禁止されたのが一九七五年、二〇二五年を今現在とすれば、五十年前である。このことは、若い頃にこの手術を受けた患者の多くは、今もなお生存していることを予想させる。いったい、彼らは今、どこで何をしているのだろうか? それについて筆者は一つのおそらくその通りであろう答えを持っている。しかし、その答えはあまりにも痛々しく、悲しく、また、この物語の趣旨とも異なるため、ここには記さない。


『頭痛を治すためには、頭をちょん切ってしまえば良い』


 そのような安易な発想に基づき、人間の思考にとって最も大切な脳を破壊・切除するという手術が、ほんの数十年前まで、ごくあたり前に行われてきたのである。


 なお、日本精神医学学会における『精神外科を否定する決議』は、あくまで学会内の自主規制であり、現在でもロボトミー手術は、法律では禁じられていない。したがって、精神科医に学会からの除名処分などを受ける覚悟があれば、手術自体は今もなお合法である。これについても障害者団体などから批判の声があがっているが、厚生労働省が法改正に向けて動き出したという情報はないし、ハンセン病や薬害エイズなどのように、患者団体が国を相手取って訴訟を起こしたという話も聞かない。


 本書の読者は、『悪魔の手術』、『人格破壊手術』、『廃人化手術』と呼ばれ、現在は禁止されているような手術の考案者であるモニスがノーベル賞を受賞し、いまだにその受賞を取り消されていないという事実について、どう考えるだろうか?



神々が怒りをぶちまけるような豪雨が降り注いでいる。

ワイパーがせわしく往復する。

車の天井を叩く雨音が散弾銃のようにけたたましい。


これが熱帯のリゾート地に降るスコールなら、爽やかに街を洗い清める雨だったかもしれない。

しかし、激昻のあまり神々が天から撒き散らす硫酸の雨に、凌一は、神の心臓に反旗の銃弾を撃ち込んだろう。


吐血して倒れる神の姿を想像した。神は死んだ。凌一は冷淡な笑みを浮かべた。


駅前の赤信号で停車する。

運転席の窓から改札口に視線を送る。

突然のゲリラ豪雨に晒されて、駅の構内に逃げ込んだ大勢の女子高生がたむろしている。

服を着たままプールに飛び込んだようにビショ濡れの彼女たちは、黄色い声を発しながら賑やかに騒いでいる。


 とんだ災難に遭ったにも関わらず、彼女たちの表情は嬉々とし、瞳は輝いている。


 凌一は彼女らの無邪気な笑顔を横目で見た後、どす黒い真昼の空を仰ぐ。そして、目を伏せ深いため息を吐く。

 全ての人間は、荒涼たる砂漠の中をたった一人で生きている。彼女たちは、まだその真理を知らない。いや、一生そのことに気づかないまま人生を終える人が圧倒的多数なのかもしれない。


 温かい家庭に包まれ、毎日大勢の友人や同僚と会い、一緒に遊び、学び、働き、携帯電話で会話し、メールの交換をしたところで、その真理を覆すことは出来ない。

『人間』という言葉は『人の間』と書く。人と人との間は、何兆光年という果てしない暗黒の宇宙空間で隔てられており、実はその『間』こそが人間の本質を示し、人間の全てだ。


 自分には親友がいる。自分には恋人がいる。自分には家族がいる。自分は決して一人ぼっちなんかじゃない。そう思っている人も多いだろう。問題は、自分と親友、恋人、あるいは家族との間にある果てしない暗黒の宇宙空間であり、それゆえに全ての人間は、荒涼たる砂漠の中をたった一人で生きているのだ。


 凌一がそれに気づいたのは、平成十六年に奈良市内で発生した少女誘拐殺人事件の捜査中だった。当時、まだ新米の交番警官に過ぎなかった凌一は、天に授けられたとしか考えようのない繊細で敏感な感覚を駆使し、犯人逮捕につながる有力な情報を次々と拾い集めた。そして凌一はその真理にたどり着いた。


 それを知った時、凌一は初めて人から人間になった。


 『友情』、『愛情』、『信頼』、『絆』……太古の昔から、人間はありとあらゆる言葉を作って、自分が砂漠にたった一人でいることを否定しようと試み続けてきた。そして、たった一つの『孤独』という言葉を恐れ続けてきた。


 人と人との『間』を埋めることが出来るのは、友情でも愛情でも信頼でも絆でもなく、唯一『死』である。


 『死』のみが人と人との間に存在する果てしない暗黒の宇宙空間を埋めることが出来るのだ。


 幼児の頃に母と死別した凌一は、そのことを知っていた。


 父の心の中にはいつも母がいた。父とその心の中で生き続ける母に『間』は存在しなかった。二人を隔てるものは何もなかった。


 既に、全ての人間が、砂漠の中を一人で生きていることを認識している凌一にとって、『孤独』という言葉は何ら意味を持たない。



 事件の真相が解明されたためか、いつもの生活に戻れる目途が立ったためか、妙に日差しが明るく、爽やかに感じられる一日だった。凌一は高井田署に設置された捜査本部で、畑中優子による少女誘拐殺人未遂事件の残務処理を行い、午後、警察署に戻った。


 席に戻った凌一を見た課長の渡辺が、ぶっきらぼうに話しかけた。

「おい、今夜は付き合え」

タオルでズボンの裾を拭いながら凌一は渡辺に視線を送った。

「外はすごい雨ですが……」

渡辺は窓の外を見て、ややうんざりした表情を浮かべた。

「ゲリラ豪雨だろ、もうすぐ止むさ」


 刑事ドラマや推理小説で刑事課の課長というと、ニヒルでダンディな中年男性を連想してしまうが、渡辺は腰が低く愛想の良い、一見したところでは、個人商店の店主のように見える温和なおじさんだ。


「わかりました。ご一緒します」

 端正な笑みを浮かべて答えた凌一は、机の上に散乱した書類にざっと目を通していた。濡れた髪から一粒の水滴が落ちる。書類の上に波紋のようなシミが広がる。


 『今夜は付き合え』は、凌一が事件を解決するたびに発せられる渡辺の決まり文句だ。

 凌一より先に仕事を終えた渡辺は、デスクで夕刊を広げていた。口蹄疫の大規模感染やギリシャショックによる株価暴落問題などが大きく取り上げられている紙面上で、渡辺は小さな見出しの記事に見入りながら苦笑いを浮かべた。


 五月十八日、大阪府警運転免許課の職員、酒気帯び運転の疑いで現行犯逮捕。逮捕されたのは、大阪府警運転免許課の主任、寺前彰容疑者(六十一)。大阪府警によれば、寺前容疑者は、今朝七時過ぎ大阪市東淀川区で停車中のタクシーに接触する事故を起こし、警察官が調べたところ、呼気からアルコールが検出されたという。寺前容疑者は、門真市の運転免許試験場で免許の更新手続きなどを担当していた。


「運転免許試験場勤務の警官が酒気帯び運転で逮捕か……」

「えっ?」


 渡辺のつぶやきが聞き取れなかった凌一は、顔を上げて渡辺に視線を向けたが、新聞に遮られて渡辺の顔は見えない。


「どこまで腐れば気が済むんだ? 警察ってとこは……」

「はっ?」


 凌一は再び渡辺に視線を向けたが、相変わらず渡辺のつぶやきは聞き取れない。新聞に遮られて凌一からは見えない渡辺の顔に、まるでバラバラに撒き散らかされたジグゾーパズルを呆然と眺めるような失望感がにじみ出ていた。

三年前、ここに真美警察署が開設されるまで、渡辺は奈良県警警察本部の捜査一課に勤務していた。


 銀行強盗、営利誘拐、連続放火、保険金殺人等の凶悪事件が毎日のように発生し、その捜査に忙殺されていた若い頃に比べれば、閑静な新興住宅街に新設された小さな警察署の刑事課など、渡辺にとっては、のどかでのんびりした仕事だった。若い頃の眼光鋭い敏腕刑事の面影は、今の渡辺から垣間見ることは出来ない。


 白いブラインドに遮られた斜陽が次第に暗くなり、凌一は腕時計を見た。彼のプロトレックが手首をくるりと回り、文字盤が下を向いた。

(ここ二ヶ月は、まともに食事もしてなかったからな……)


腕時計のバンドを締め直している凌一に渡辺が声をかけた。

「そろそろ行くぞ」

二人は渡辺の行きつけの小料理屋に向かった。


 雨あがりの夜空は澄みわたり、空気が乾燥していて、肌寒くさえ感じられた。もともと暑がりの凌一にとっては、ちょうど良く感じるくらいの気温だったが、渡辺はスーツの上から薄いグレーのコートを羽織っていた。


 途中、街灯の蛍光灯が切れかけてチラチラと点滅していた。

 凌一はその街灯を見上げた。

「そろそろ寿命ですね」

「ああ、そろそろ寿命だ。もう個人の努力ではどうにもならんほど腐りきってる」

凌一には渡辺の言葉の意味がわからなかった。


 その小料理屋は、真美警察署が開設される前からそこにあった店で、真美署の前の名もない小道を真っ直ぐ北に五~六分歩き、国道一六五号線の横断歩道を渡ったところにある。


 駐車場も二台分しかなく、カウンター席だけの小さな店だが、店内は、いつも清潔に磨きあげられ、おかみの女性らしい細やかな心遣いが、いたるところに感じられる店だった。


 四十代後半くらいの小柄で細身なおかみが作る手料理は、やや甘口で渡辺の口に合うらしく、渡辺に誘われた時は、決まって来る店だった。


 二人が引き戸を開けて店に入ると、料理の下ごしらえをしていたおかみが顔を上げた。

「あら、お二人さん、随分お久しぶりね」


 二人は店の一番奥まで進み、渡辺はコートを脱いで、カウンターの後ろのハンガーにかけた。

席に着きながら渡辺が穏やかな笑みを浮かべた。


「そういえば結構ご無沙汰だったかな? 私は日本酒。燗でもらおう。料理は任せるよ。明日野、君はビールだったな」

「はい。私はビールしか飲みません」


 渡辺は凌一の横顔をチラッと覗き、その少し浮かない表情を見た。

「畑中優子のことが気になってるんだろう」


 凌一は、少しうつむき加減になり、首を横に振った。

「彼女の人生です。私には何もしてあげられません」


 渡辺は、一杯目を口に含んだ。

「皮肉なものだな。性格的には離島の駐在さんでもやってるのが一番お似合いなお前が、刑事課とはな……」


 それを聞いた凌一が苦笑いを浮かべた。

「離島の駐在さんですか? 確かに私にはお似合いかも知れません。ただ、残念ながら海なし県の奈良県警では、志願しても離島の駐在さんにはなれませんね」


 渡辺はフッと小さく笑った。それから少し複雑な表情を浮かべた。

「俺の時代とは随分変わった。俺の若い頃は、警察も犯罪者もイケイケの時代で、ハイ逮捕、次行こう。ハイ逮捕、次行こう。そんな感じだった。犯人や被害者の心情に思いをめぐらせてるような暇なんてなかったよ。あの頃の我々は、刑事というより、逮捕屋だったな」


 昔を懐かしむ渡辺の横顔を見つめながら、凌一は小さく首を傾げた。

「今の課長を見てると、そんなふうには見えませんが……」


 渡辺は、おかみが差し出した付出しを少しつまんだ後、杯の酒を一口飲んだ。

「年をとってわかるんだよ。みんな。そして今の俺が感じてるような、ほろ苦さを味わうのさ。自分の捜査の結果、犯罪者は更正せず、それどころか再犯を繰り返し、被害者は必要以上に不幸になる。明日野、お前が、今、苦しんでるような感情は、刑事にとって、とても大切な感情なんだ。ところが、若い間は、往々にして事件の真相を究明し、犯人逮捕の手柄をたてることに躍起になる。いいか、刑事はゴキブリホイホイじゃない。犯罪捜査は、人間の人生を大きく左右するんだ。善良な市民の人生を大きく狂わせることだってありえる。明日野、つらいだろうが、苦しめばいい。俺はお前のようなアマちゃん刑事を応援してるぞ」


「ありがとうございます」

凌一はジョッキのビールを半分ほど飲んだ。


 凌一は、料理を作るおかみの両手をじっと見つめていた。小さな白い手だった。幼児の頃に母と死別し、母の手料理を知らない凌一には、それが何とも言えず、切ないものに見えた。


 凌一はじっと自分の両手を見た。手のひらから湧き出るように次々と父との思い出が蘇った。あまりにも鮮明な思い出の走馬灯に、凌一はしばらく沈黙した。


 父はこんなゴツゴツした男の手で、あんなに温もりのある優しい手料理を僕に作ってくれてたのか? 料理って不思議だな。仕事だって、スポーツだって、趣味だって、みんな自分のために努力して上手くなろうとする。ところが料理だけは、自分がおいしいものを食べたいために、努力して上手くなる人がどれだけいるだろうか?

料理だけは、人においしく食べてもらうために努力し、工夫し、上手くなるんだ。父は、僕においしいものを食べさせるために、ゴツゴツした男の手で、一生懸命料理を作ってたんだろう。そして、今、おかみは、自分たちにおいしいものを食べさせるために、小さな白い手で料理を作ってる。人間ってやっぱり、他人のために努力できる動物なのか?

凌一は、そんなとりとめもないことに思いをめぐらせていた。


しばらくの沈黙を渡辺が破った。


「明日野、実は前からお前に訊いてみたかったんだが、お前は京大なんか卒業しながら、何で警察官僚にならずに、現場の警察官を選んだんだ?」


凌一は、苦笑いを浮かべた。

「先日、深浦にも同じ事を訊かれました」


少し考えて凌一が重い口を開いた。

「課長は、私が民間企業からの転職組なのはご存知ですね」


「一流企業を一年で退職したんだろ?」

「そうです、私はお金儲け以外のために働きたかったんです。課長は民間企業のことはあまりご存知ないかもしれませんが、民間企業は、基本的に、お金儲けのためだけに存在します。それ以外の存在理由はありえません。それが資本主義です。お金は全てに優先する。それが資本主義の基本理念です。ですから、社員はいくら会社の利益に貢献したか? それだけで評価されます。

どんなに立派なへ理屈をこねたところで、民間企業の社員は、企業の儲けの道具に過ぎません。恥ずかしいことですが、私は就職するまで、そのことに気づいてませんでした。いえ、そのこと自体は知ってたんですが、私は、金儲けに情熱を燃やすことが出来ませんでした。金儲けのために頑張ることが出来ませんでした。

私は、他のことのために頑張りたかったんです。その時、警察官募集のポスターを見たんです。そのポスターを見た時、私には市民の安全を守るために働いてる警察官の制服が輝いて見えたんです。私は今、何の因果か刑事課にいますが、私が憧れたのは、優しくて親切な交番のお巡りさんです」


「でも、民間企業の社員だって、社内で昇進したり、ヒット商品を飛ばしたり、いろいろ生きがいを持ってやってるんじゃないのか?」


渡辺の疑問に凌一が大げさにうなずいた。

「それはそうです、民間企業だって、人間関係はありますし、倫理観もあります。売り上げに貢献すること自体に生きがいを感じてる人だってたくさんいますし、たいした成績もあげていないのに、人望があるとか、マネージメントが上手いとか、そんな理由で出世する人もいます。ゴマすりだけで出世する人もいるでしょう。でも、結局会社は、それによっていくら利益が出たか、そこしか評価しません。最後は金額に換算されてしまうんです。

私は共産主義者じゃありませんが、今のような市場原理主義は好きになれません。最近、よく勝ち組とか負け組みとかいう言葉を使いますよね。私は、人生の勝ち組、負け組みは収入だけでは決まらない。もちろん、収入は多いに越したことはありませんが、他にも大切な要素がたくさんあると考えています。いやそう信じたいんです。


 原始人の時代から人間は生きるために働いてきました。生きるために仕方なく働いてきたんです。ところが、最近の仕事が生きがいとか言う人種は、働くために生きてます。企業の金儲けの道具となることに生きがいを感じてます。私には、それが本当の人間のあるべき姿とは思えないんです。


 今の私らの仕事は犯罪捜査ですが、私は交番の前に立って、通行人に道を教えたり、迷子の子供を探したり、そんな仕事をしてた交番巡査の時代が一番性に合ってたんです。


 課長は、私が片親育ちだから苦労人だと思っておられるかもしれませんが、とんでもない。私は苦労知らず、世間知らずの無菌培養で育てられたんです。父は、母親がいないことで私が寂しい思いをしないように、必死で父親と母親の二役を演じました。そして、それを見事に演じきりました。家は貧しかったですけど、父は家の貧しさを私には絶対見せませんでした。世の中の汚さも絶対見せませんでした。だから私は世の中の汚さを知らずに育ちました。私は、とんでもない温室育ちの世間知らずです」


「俺にはお前の清廉潔白さがうらやましい。明日野、いつまでも無菌培養の温室刑事でいろ。警察にはいろんな人間が必要だ」


それを聞いた凌一がはにかみがちに微笑んだ。

「ありがとうございます」


 その夜、渡辺は今まで黙っていた若い頃の経験をいろいろ聞かせてくれた。最後に渡辺がポツリと訊いた。

「お前、射撃の訓練はしてるのか?」

「はい、ある程度は……」


 突然の質問に、凌一は、戸惑いながら答えた。質問が質問だけに、凌一は周りの視線を気にした。まだ時間が早かったせいか、その時、店内には彼ら以外に客はいなかった。


 渡辺は、杯にじっと目をやりながら話を続けた。

「テレビを観てると、時代劇というのは面白いよな。勧善懲悪で善玉が悪玉をバッタバッタと切り捨てる。実に痛快だ」

「はあ……」凌一には、渡辺の話の真意がわからず、そんな、なま返事になった。

「時代劇では刀を持った悪者が主人公に襲いかかる。主人公は、それを華麗にかわしながら悪者を斬り捨てる。単純明快だ」

「そうですね」


 とりあえず相づちを打った凌一に、渡辺は、少し酔ったのか、焦点の定まらない視線を向けた。

「今はどうだ。ナイフを振り回して襲いかかる犯人はいるが、それをバッタバッタと斬り捨てる警官はいない。時代劇が痛快なのは、善玉がためらいなく悪玉を斬り捨てるシーンがあるからじゃないか?」


 凌一は、残りのビールをグイと一口飲んだ。

「今でも警官が凶悪犯を射殺することはありえますが……」

「そんなことが年に何回ある? 実際は、威嚇のために一発発砲しただけで、警官はマスコミに袋叩きにされ、上層部はその釈明に追われる」

「そうですね」凌一がポツリと答えた。


 渡辺は酒で少し眠気がさしているのか、小さなあくびをして話を続けた。

「アメリカ映画も面白いよな。犯人と警官の撃ち合いのシーンは特に面白い。日本はどうだ? 銃を持った犯人なんかほとんどいないし、警官と撃ち合いになることなんかまずないだろう。アメリカには、銃を持った悪い奴はたくさんいるし、警官も銃を持った犯人には、ためらわず発砲する。だからアメリカ映画は面白いんじゃないか?」

「アメリカ映画ですか…… 確かに発砲シーンは多いですね」

「時代劇にしてもアメリカ映画にしても、視聴者は、悪者が容赦なくぶっ殺されるシーンを見たいんじゃないか?」

「そうかもしれませんね……」凌一は、残りのビールを飲み干し、おかわりを注文した。


 渡辺が手酌酒をグイと飲んだ。そして吐き捨てるように言った。

「今の日本はどうだ? 警察はいつもマスコミの目を気にしながら捜査し、裁判は被告の権利ばかりに気を遣ったあげく、何年もかかってうやむやだ。書店に行って推理小説のコーナーを見てみろ。事件の真相を究明するのは、たいてい私立探偵や科学者か、それとも女弁護士だ。警察なんて間抜けなピエロ役さ……」


「……」

 凌一には適当な返事が思い浮かばなかった。ミステリーや推理小説を読まない凌一には、今、どんな本が書店に並んでいるのか想像出来なかった。


宮崎勤による幼女連続殺人事件。

週刊文春が『野獣に人権なし』として、異例の実名報道に踏み切った少年四人による女子高生コンクリート詰め殺人事件(誘拐・略取、監禁、強姦、暴行、殺人、死体遺棄)。

オウム真理教による地下鉄サリン事件。

酒鬼薔薇聖斗による神戸小学生連続殺傷事件。

佐藤宣行が当時小学四年生だった少女を拉致し、母親と同居している自宅に九年二ヶ月に亘って監禁した新潟少女監禁事件。

家族に殺し合いをさせ、児童にまで殺人や遺体の解体を行わせた松永太らによる北九州監禁殺人事件。

宅間守による附属池田小事件。

秋葉原無差別殺傷事件。

木嶋佳苗による埼玉連続結婚詐欺・殺人事件。


 今は、現実の世界で起こっていることが恐ろしすぎて、小説の世界など全くそれに追いついていない。


 そもそも本物の猟奇的な人間が犯す犯罪など、健康な良識人である作家に想像できるはずがない。

 ゴッホが残した数々の独創的名画は、彼が自分の耳たぶを切り取り、それを女友達に送り付け、精神病院に入院させられたような人物だから描けたのだ。


 推理小説の話題になって、凌一が思い出したのは、スティーヴン・キングの『シャイニング』だった。この作品では、平凡な家族の何の抑揚もない日々の繰り返しが描かれており、英語の原文を読む限り、そこには巧みな描写も奇想天外なドンデン返しも存在しないが、読み進むにつれ、読者は耐え難いような重苦しい恐怖感の蓄積を覚える。読み終えた時に感じる独特の戦慄は、生涯、忘れられないものである。


 この小説は、一読すると、フィクションのホラー小説のように思えるが、実は当時アメリカで深刻な社会問題となっていたアルコール依存症と家庭内暴力を題材としたものである。

アメリカというとレディファーストの国と思っている人もいるだろうが、現在でもアメリカにおける家庭内暴力はすさまじく、その苛烈さは日本の比ではない。


 『冬のソナタ』を観て、韓国男性に憧れる女性も多いが、旅行などで一度でも日本を訪れた韓国女性は、二度と本国に帰りたがらないことが多い。その理由は、『日本の男性は暴力を振るわないから』だと彼女らは言う。

『シャイニング』と同様の作風は松本清張の作品にも多く見られる。


 凌一がミステリーや推理小説を読まなくなったのは、現代のミステリーや推理小説が、ただ奇抜な殺人トリックとドンデン返しを競うだけのトリック・コンテストに成り下がったからである。本当の小説は、何度読み返してもそのたびに新しい感動と共感を与え、読者の笑い、歓喜、恐怖、緊迫感、そして涙を誘うものであり、その点において純文学とエンタメの区別はない。


 凌一やそれ以下の年代の若者には、『活字離れ』が進行していると言われるが、それは逆で、現代の若者は活字に飢えている。そして、彼らが漫画やブログ、ライトノベルに走るのは、書店に平積みされているメジャーな小説よりも、それらの方が、はるかに繊細に人間の機微や情感を描いているからである。


 渡辺はおかみが差し出したワカサギのてんぷらをポリポリとかじった後で、急に真剣な顔になり、鋭い視線で凌一を見つめた。


「明日野、お前は違う。お前はピエロじゃない。ただ、これだけは言っておく、警察官である以上、お前もいつか人を撃つことになるかもしれない。そして、お前は絶えずそれを意識して生きていかなければならない。その時、お前が引き金を引くことをためらえば、そのために何の罪もない市民に被害者が出るかもしれない。いいか、警官は護身のために拳銃を持っているわけじゃない。拳銃は凶悪犯から市民を守る盾なんだ。わかるか? その時が来たら、ためらわず撃て」


「はっ、わかりました」

凌一は少し体を硬直させた。


 しばらくの沈黙があった。おかみは、二人に刺身の盛り合わせを差し出した。渡辺はそれを適当につまみながら徳利のおかわりを注文した。


 実際のところ、凌一には射撃の腕など全く自信がなかったし、凌一のような私服員は、普段、拳銃を携帯していないので、自分が人を撃つ時が来るなど、真剣にイメージしたこともなかった。凌一は、空手や柔道はするが、それは父から教わったもので、特に道場に通ったわけではない。


 警察学校では、剣道も逮捕術も習った。でも、その技量は、警察官としては合格最低点レベルのものだった。

凌一には自分が警察学校を無事卒業できたことすら奇跡に近いことに感じられていた。凌一にとって警察学校は、まるで猛獣の檻のようなところだった。それでも年配の警官に聞くと、昔に比べれば随分ましになったのだそうだ。あれでましになったと言うのなら、それ以前は、いったいどんなところだったのか? 想像しただけでも凌一は背筋が寒くなる思いがした。


 多分、警察学校を経験したことがある人なら誰でも、みな口をそろえて刑務所よりも酷いところだと言うだろう。凌一にはそう思えた。


 そんな凌一でも犯罪者に怯むことなく立ち向かうことが出来たのは、凌一が彼独特の『妖術』とも言える武術を持っていたからである。


 彼の武器は、教師が使う指示棒のような伸縮式の棒の先に、十円玉程の大きさの鉄球を付けたものである。それは、伸ばせば1メートルほどの長さになるが、縮めれば、胸のポケットに収まる程度の長さになる。

 凌一は、その棒を『パールスティック』と呼んでいた。文字通り先っぽに真珠のような球がついた棒という意味である。しかし、彼の同僚は、それを凌一の『妖刀』と呼んでいた。


 凌一は犯人に抵抗された時など、ポケットからパールスティックをすばやく取り出し、それをムチのように操って犯人の痛点を一撃する。痛点は急所とは違う。急所とは、そこを攻撃されると生命に関わるような部分である。凌一が攻撃する痛点とは、向こうずねや耳の付け根のように強烈な痛みを感じる部分である。


 実際にその姿を見た者は、同僚の深浦と久保の二人ぐらいだったが、凌一がパールスティックを巧みに操り、相手の攻撃をかわしながら痛点を攻撃する姿は、まさに妖術だった。


 凌一がその妖術をいったいどこで会得したのか知る者はいなかった。凌一自身もそれだけは絶対に教えられないと思っていた。それを絶対に教えられない理由は、同僚が想像していた理由とはかけ離れたことだった。


 渡辺のためらわず撃てという言葉には深い理由があった。

その理由を渡辺は、微笑みながらクイズに置き換えて話した。


「大勢の悪者がちりぢりバラバラに逃げたとする。捕まえられるのは、その中の一人だけだ。お前なら誰を追う?」

「一番悪い奴です」凌一はそう答えて、ビールを一口飲んだ。

「違う。お前に追われるのは一番ついてない奴さ」

そう言って渡辺は笑った。そして話を続けた。

「だがな、中にはついてない刑事もいるんだ。ついてない刑事は、銃を持った奴を追うのさ」


それまで、いそいそと次の料理を作っていたおかみが手を止めて訊いた。

「村田さんのこと?」


 渡辺の親友だった村田という刑事が、犯人に撃たれて殉職した話は、凌一も聞いていた。村田は犯人に向けた銃の引き金を引くことを躊躇したのである。


凌一の妖術のことをうわさだけ聞いていた渡辺が訊いた。

「お前の妖術は、鉄砲玉まで撃ち落とせるわけじゃないんだろ?」

「ええ、まあ、確かに……」

凌一の『妖刀』が飛び道具にもなることは誰も知らなかった。


 二人は店を出た。空を見上げると、満天の星空が広がっていた。凌一は、その中でひときわ大きく輝いている星を見つめた。以前、真穂に言った『悲しい事件の後は、星の光が冷たく見えるんだ』という言葉を思い出した。

凌一の視線の先にある星は、冷たい光を放っていた。


 父に連れられて三陸海岸の星空を見たことがある凌一は、本当はこの程度の星空じゃ、とても満天の星空とは言えないことを知っていた。


 安物のプラネタリウムを満天の星空と信じて生きている自分たちを凌一が哀れんだ。

「これが私たちの星空なんですね」

「そうだ。これが我々の星空だ。でも香芝には空があるだけありがたいと思え。智恵子は東京には空がないと言ったんだぞ」

(智恵子抄の一節か。課長には僕の話の意味がわかったんだ)

凌一は、渡辺の文学的な答えを聞いてチョッピリ感動した。


 真美警察署は、大都市大阪に隣接するベッドタウンとして、近年急速に人口が増加しつつある奈良県香芝市に三年前新設された出来たてホヤホヤの警察署である。


 日本の人口は既に減少に転じ、奈良県の人口も平成十一年をピークに減少しつつある中、香芝市は突出した発展を続け、平成十七年に人口増加率日本第三位を記録して以降も、高い人口増加率を維持し続けていた。

 人口が増えれば、それに比例するようにして増加するのが犯罪である。真美警察署は、そうした状況の中で必要に迫られて設立された警察署であり、当然、署員は、他署から赴任した寄せ集め集団だった。

新築ピカピカの建物の中には、他の警察署と同じように、警務課、交通課、警備課、地域課、刑事課、生活安全課など、それらしい部署が設けられた。


 警察署というと、古い、汚い、怖いという三拍子揃ったイメージがあるが、新築ピカピカの真美警察署は、その内部も清潔で最新の設備が整えられていた。



 現在、警察や警察官の仕組みとその実態を詳細に解説した書籍が多数出版されているが、警察の仕組みや実態をを知るために分厚い本を熟読する必要はない。それを知りたければ、サルマワシとサルの一座を想像すればよい。


 元来、警察官という職種は、一流大学を卒業した優秀な人材が希望する職業ではないし、そんな人材なら警察官にはならないで、警察庁に就職して警察官僚になる。誤解している人も多いようだが、警察庁の警察官僚と警察署の警察官は、全く別の職業である。国家公務員である警察庁の警察官僚は、あくまでお役人であって警察官ではない。一方、警察署の警察官は、ごく一部のお偉いさんを除けば、地方公務員である。


 これは東京の警察である警視庁でも同じことで、本来、警視庁は、大阪府警や奈良県警と同じように東京都警と呼ぶべき組織である。国家公務員I種試験に合格して警察庁に就職した警察官僚と各都道府県の警察官採用試験を受けた警察官とは、偏差値のレベルが全く違う。このうち、偏差値が低い方である警察官など、もともとエリートが目指す職業であるはずがない。警察官とその集団である警察署は、あくまで、サルの群れとそれを扱うサルマワシである。日本ザルは、哺乳類の中でも比較的知能が高い動物かもしれないが、その程度は、イルカやオウム以下であり、同じサルでもオラウータンやチンパンジーには遠く及ばない。一方、サルの群れを操るサルマワシも決して一流大学を卒業したエリートたちが望む職業ではない。


 一般に、知的レベルの低い動物の群れは、上下関係や戒律に厳しく、これはサルの群れにも当てはまる。厳しい掟を作らなくては群れとして機能しなくなるためである。警察も同様である。警察の内部でも上司や先輩には絶対服従の掟があり、上司や先輩にはひたすら従順に従い、その前ではキビキビ行動しなければいけない。この様子は、北朝鮮の軍事パレードを想像すればよい。金正日総書記が見守る前で一糸乱れぬ行軍を見せる北朝鮮軍の様子は、警察学校の行進訓練と同じである。ここで注意すべきことは、一糸乱れぬ行進が出来るからといって、必ずしも北朝鮮が戦争に強いとは限らないということである。戦争に勝つために必要な要素は、工業生産力と情報収集力、戦略・戦術計画力や経験・状況判断力、豊富な資源と食料であり、行進の美しさではない。これらの要素を満たしていない限り、軍隊も警察も所詮、サルマワシとサルの一座に過ぎない。


 サルマワシたちは、お客様に喜んでいただける芸をサルにさせるため、サルの群れを徹底的に厳しくしつけ、自分がボスであり、自分の命令には絶対服従しなければならないことをサルに覚え込ませる。警察署のサルマワシである課長や係長も同じことをする。


 一方、イルカの調教師には、イルカを徹底的に厳しくしつける人はいない。イルカに見事な演技をさせるために必要なのは、愛情と教育であって、厳しいしつけではない。もともと知的レベルが非常に高い動物であるイルカに演技を教えるためには、自分の命令には絶対に服従しなければいけないことを覚え込ませる必要などないからである。

ところが、何の間違いか、この出来立てホヤホヤの警察署である真美警察署の刑事課の課長には、サルマワシに見立てるにはあまりにも優秀なベテラン刑事である渡辺が着任した。そして、渡辺の指揮下には、谷川、明日野、久保、深浦、島(婦人)という五人の刑事が配された。


 島は婦人警官ではあるが、私服員なので、世間でいうところの女性刑事にあたる。本来、刑事というのは、私服を着た警察官を指す俗語であり、警察には刑事という役職は存在しないので、実際には彼らは全員、私服を着た捜査員である。大ベテランの谷川を除けば、あとの四人は、刑事経験数年の若手である。


 さっきの小料理屋での会話を聞けば、渡辺も明日野も決して、サルマワシとサルと呼ばれるようなタイプではないということがわかる。


 明日野凌一は、もともと制服警官を希望して奈良県警の採用試験を受けた。

 その彼が今、刑事課にいるというのは、悪い偶然が重なった結果という他になく、彼にとっては、ひどく迷惑な話だった。学生時代から秀才だった凌一は、今までに受験した昇任試験は、全てトップの成績で合格していたし、筆記試験が得意だった凌一にとって、警察の筆記試験などは、わざわざ勉強する必要もないようなくだらない常識問題に思えていた。


 また、天性の非凡な洞察力・観察力の持ち主だった凌一は、交番巡査の時代から、着々と犯罪検挙実績をあげていた。


 その中でも際立ったものは、平成十六年に奈良市内で発生した少女誘拐殺人事件の初動捜査段階において、凌一が収集したさまざまな情報であり、これらはいずれも犯人逮捕につながる極めて貴重な証拠となった。捜査本部が置かれるような重大事件で、当時、新米の交番巡査に過ぎなかった凌一が、次から次へと有力な捜査情報を拾いあげて来たのであるから、(こいつは犯罪捜査のセンスがあるな……)とお偉いさんに見初められてしまったとしても致し方ないことだった。


 凌一が次々と犯罪検挙の実績をあげてきたのは、別に昇進したかったからでも刑事になりたかったからでもない。そもそも地方の所轄署では、刑事課を希望する者は少ない。その理由は、仕事がきつい割には見返りが少ないからである。


 所轄署の刑事課は、都道府県警察本部の捜査一課とは異なり、重大事件だけを扱っているわけではない。スリ、置き引き、引ったくり、覗き、コソドロ、恐喝、痴漢など、凡そ刑事犯に該当する犯罪は何でも扱わないといけない警察署内の雑用係である。


 民間企業の世界と同じで、警察官の世界でも、今は、昔と違って、出世命で昼夜を問わず働いているような者は少ない。


 今は、『仕事と趣味の両立』だとか、『家事や子育ての分担』だとか、そんなことを実現している男のほうが『かっこいい男』と呼ばれる時代なのだ。


 凌一の場合は、特に趣味に時間を割きたいわけでも、家事や子育てに協力的だったわけでもなかったが、ただ、交番のお巡りさんという仕事に不満があったわけではないので、ずっとそれを続けていたかったのである。


 彼にとっては、血なまぐさい事件の捜査をしている今よりも、交番で道案内をしたり、迷子の子供を探したりしている方が性に合っていた。凌一は、悪を憎む正義感も犯人逮捕に執念を燃やすような情熱も持ち合わせていない『サラリーマン刑事』だった。ただ、悲しいかな才能があるために、別に探してもいない犯人を捕まえてしまうのである。


 同僚の中にはそんな凌一を『しらけ野郎』と呼んで蔑む者もいたが、彼のずば抜けた犯罪検挙実績は、そんな妬みによって足を引っ張ることが出来るようなものではなかった。



 真美署に隣接する高井田署に設置された少女誘拐殺人未遂事件の捜査本部。そこに派遣されていた凌一が逮捕した畑中優子は、現場検証の後、取調べに素直に応じ、容疑を全面的に認めた。これにより、既に送検され、身柄を拘置所に移されていた義父の畑中幸一は釈放された。優子は、少年法により、家庭裁判所の審判を仰ぐことになるか、それとも凶悪犯として検察に逆送されるか、裁判所の判断を待つことになった。


 取調べ中の優子は、同じ言葉を繰り返した。

「死んでも償えないことは承知しています。でも他に償いようがないので死刑にして下さい。八つ裂きにして下さい。ただ、もし許されるなら、死刑になる前に、ひと言、少女のご両親にお詫びする機会を与えて下さい」


 鑑別所の中で、優子は、ただひたすら窓の外を向いて、時折うつむきながら大粒の涙をこぼしていた。優子には自殺の恐れありとして、特別な保護司がつけられていた。


 ある日、凌一は、優子の両親である畑中夫妻を連れて、被害者の少女が入院している病院を訪れた。どうしても少女の両親に会って、娘の罪を詫びたいという畑中夫妻の希望を被害者の両親である藤井夫妻が受け入れたのである。

畑中優子により誘拐され、首を絞められたことにより、昏睡状態が続いていた少女は、既に意識を回復し、病院内を走り回るぐらい元気になっていた。PTSDなど、精神的な後遺症も、ほとんどないとのことだった。少女の両親は、当初、畑中夫妻の謝罪を拒絶する意向を示していたが、捜査中の凌一の誠実な対応には、感謝していたため、凌一に頭を下げて頼まれると、態度を軟化せざるをえなかった。


 病院の面会スペースで、少女の両親と畑中夫妻が向き合った。殺人未遂犯の両親と被害者の両親が向き合う姿に直面した凌一は、四つの蒼ざめた唇から発せられる言葉に身を切られる覚悟を固めた。


 凌一が両者を紹介した。

「畑中さん、こちらが藤井ゆいちゃんのご両親です」


 畑中夫妻は、いきなりその場に土下座した。幸一が、床に額をこすりつけて謝罪した。

「今回、私どもの娘が、しでかしましたこと、親として、死んでも償えないほどのことだとは存じております。死ねと言われれば死にます。娘にも一生かけて償いをさせます。ですから、どうかお怒りを静められ、私どものお詫びをお受け入れ下さい」


 藤井夫人が凌一の方をチラチラ見ながら、困惑した表情を覗かせる。

「どうかもう、手をお上げ下さい。明日野さんから事情はお聞きしました。私たちはもう、今回のことは、交通事故に遭ったようなものだと考えております。娘さんが罪の償いを終えて戻られたら、どうぞ三人でお幸せになって下さい」


 藤井夫人は、畑中夫妻の手をとって、一通の封筒を手渡した。凌一が見ると、そこには減刑嘆願書と書かれていた。畑中夫妻は病院のフロアにポタポタと涙を落とした。

「ありがとうございます。このご恩は一生忘れません」


 穏やかな凌一の笑みに安堵の色が滲み出る。

「藤井さん……ありがとうございます。畑中さん、よかったですね……」


 藤井夫人の声は明るい。

「さあ、もう私たちのことは結構ですから、娘さんを励ましてあげて下さい」


 畑中夫妻は何度も深々と頭を下げ、藤井夫妻のもとを離れた。

 帰りの車中、凌一が畑中夫妻に真剣なまなざしを向けた。

「畑中さん、さっき、あなた方は死んでも償えない罪だとおっしゃいましたね。獄中で優子さんも同じことを言っているそうです。でも、死んでしまったら償えないんです。優子さんも両親であるあなた方も、一生、罪の重さをひしひしと感じながら、強く、正しく生きていくこと、それが何よりの償いなんです。いいですか、優子さんの刑期が終えても、決してそれで罪の償いが済んだなどと思わないで下さい」


 神妙な表情を浮かべて答える幸一の瞳に、これから歩むべきイバラの道が映っている。

「重々承知しております。そのお言葉、肝に銘じて忘れません」

「だからといって、いつまでもメソメソしてたらいけませんよ。さあ、元気出して! 三人で再出発して下さい。私で力になれることがありましたら、いつでも連絡下さいね」


 声を震わせる幸一の唇が真実の感謝を発する。

「ありがとうございます。明日野さん、私たちは、あなたのご恩も一生忘れません」


 凌一は、畑中夫妻と別れた後、鑑別所を訪れ、優子に面会した。二人は、アクリル板を挟んで向き合った。

「やあ、優子ちゃん、少しは落ち着いたかい?」

「はい」

優子は視線を下に落としたままだった。


凌一の声は弾んでいた。

「今日はいいニュースがある」


優子が少し視線を上げた。

「私にいいニュースなんかあるんですか?」

「ああ、今日、君のご両親と少女の両親に会いに行ったんだ。少女の両親は、君の減刑嘆願書をくれたよ」


優子は、嬉しそうにはせず、再び視線を下に落とした。

「私には罪を減じられる資格はありません」


凌一が一瞬の沈黙を破った。

「そうだ。今の君には罪を軽くしてもらう資格はない。資格はこれから作るのさ。これから一生懸命反省して、立派な大人になることで、罪を減じられる資格を得るのさ」


優子の声は震えていた。

「私は死んでお詫びをしたいんです」


凌一が首を横に振った。

「死んだらお詫びは出来ない。君は、自分が犯した罪の重さを一生背負って、強く、正しく生きていくんだ。それが償いというものさ」


優子の声は消え入りそうだった。瞳が涙で潤んでいた。

「もし、私に生きることが許されるなら、一生かけて罪を償います」


優しく諭す凌一の顔から彼の繊細さが滲み出ていた。

「そうだね。でも、一生かけて罪を償うということは、幸せになっちゃいけないということじゃないんだ。将来、どんなに恵まれた生活を出来るようになっても、自分の過去を忘れ去っちゃいけない。君は一生それを背負って生きていかないといけない。犯した罪は刑期を終えてもチャラにはならない。僕の言うこと、わかってくれるね」


「はい、よくわかります。どんなに辛くても、苦しくても、一生、自分の犯した罪の重さを噛みしめながら強く、正しく、生きていくこと。その上で、幸せになれるよう努力すること。明日野さんのおっしゃること、死ぬまで守って生きていきます」


「そうだね。でも、今回のことで、君は本当のお父さんという宝物を得たんだ。悪いことばかりじゃない。しばらくはアクリル越しかも知れないけど、お父さんに思いっきり甘えるといい」


優子は初めて小さく微笑んだ。凌一が話を続けた。

「優子ちゃん、君にもうひとつ言っておきたいことがある。


 優秀という字は『やさしく秀でる』と書くんだ。つまり、優しさがなければ、秀でた人とは言えない。逆にも言える。秀でた人間にしか人に優しくすることは出来ないんだ。君の優子は『やさしい子』でもあり、『すぐれた子』でもあるんだ。君に優子という名前をつけたご両親の願いを忘れちゃいけないよ」


優子が凛と背筋を伸ばした。

「はい、決して忘れません」

「それじゃ、僕はこれで、また来るね」

優子が深々と頭を下げた。

「ありがとうございます」

凌一が軽く手を上げて立ち去ろうとした時、優子が呼び止めた。

「あの、明日野さん」

「えっ、まだ何か?」

「いえ、なんでもないんです……」



 畑中優子による少女誘拐殺人未遂事件は、凌一の心にも深い爪跡を残した。


 凌一は、栄橋の欄干に両手を添えて、川面を眺めていた。


 栄橋は凌一の自宅と最寄りの近鉄四位堂駅の間にあり、真美川の南北を結ぶ橋長約三十メートル、幅約十メートルの橋である。鉄筋コンクリート製だが、その表面は、石橋風に仕上げられており、なんとなくモダンで風情のある橋だった。


 真美川は幅約十メートル、大人なら中央でも背が立つ深さの清流であり、川の両側には、幅約十メートルの河川敷が広がっている。河川敷の上には、細い遊歩道がある。凌一は、考え事をする時、無意識に栄橋に来てしまう癖があった。


 両側の河川敷を群生した菜の花が幸せ色に染めていた。河原に咲くタンポポも幸せ色だった。

心地よいそよ風が凌一のほほを撫でた。


 沈みかけた夕陽がオレンジ色に染めた景色の中に凌一の姿が埋没して、まるで日に焼けた古い風景写真のようだった。


 春夏秋冬に明確な区切りはなく、自然の営みに始まりも終わりもない。なのに何故、人は春に特別なものを感じるのか? 春を起点に一年を考えるのか? 恋することを『春が来た』などと例えるのか?

(ひょっとしたら、立ち直るのに一番時間がかかるのは、藤井一家でも畑中一家でもなく、僕だったりして……)


 そんなことを考えながら振り返った時、目の前にフリーライターの真由美がいた。警察官とフリーライターという立場の違いはあるが、同じ事件を追うことが多かった二人は既に親しい友人になっていた。


 真由美が人懐っこそうな笑みを見せた。

「凌ちゃん、こんにちは、約束覚えてる? 事件が解決したら、取材させてくれるって言ったこと」

「やあ、真由美さん、こんにちは。でも、そんな約束しましたっけ?」


凌一のとぼけた答えを聞いて、真由美が少しむくれた表情 を見せた。

「確かに約束はしてないけど、ダメだとも言わなかったわよ。前にも言ったでしょ、最近売れる記事が書けないの。私を餓死させるつもり?」

「わかりました。近くにいい店があるんです。そこで一杯やりながらお話ししましょう」

「えっ本当? それ最高! 早く行きましょ」


 二人は、近くの洋風居酒屋に向かった。この店は四位堂駅前では一番の人気店で、まだ時間が早かったので、空席がたくさんあったが、八時頃には満席になる。


 何せ刑事とフリーライターの二人連れである。どんなヤバイ話題が出るかわからない。そう思った二人は、出来るだけ目立たないような奥の席に着いた。


 凌一はビールを、真由美はカルピスサワーを注文した。

「ここは、香芝で一番の人気店です。料理も結構いけますよ」


 真由美が大げさに嬉しそうな声を上げた。

「本当? 嬉しい、お腹ぺこぺこだし、このカルボナーラきしめん頼んじゃおうかしら」

「いいですね。それは、この店の人気メニューです」


 ウエイトレスが付出しとドリンクを運んで来た。

 真由美がカルピスサワーを一口含んた。

「前にも言ったけど、私が週刊誌で取り上げたいのは、単なる事件のことじゃなく、あなたという刑事のことよ、タイトルは、『悲しき狩人 ―真珠の剣―』」


 凌一が胸ポケットに手をあてた。

「真珠の剣ってパールスティックのことですか? 真由美さんの前でこれを使ったことなんかありましたっけ?」

「いいえ、でも、あなたのパールスティックは、ライターの中でも伝説の妖術よ。まるで木枯らし紋次郎の楊枝ね。だって、あれは飛び道具にもなるんでしょ?」


 凌一は、付出しを一口つまみ、ジョッキを片手に取った。

「真由美さん、随分古い時代劇を知ってるんですね。でも、木枯らし紋次郎は、楊枝を武器に使うことはありませんよ」


 真由美は、カルボナーラきしめんを一口含み、それを飲み込んだ。

「知ってるわよそんなこと。でも、なんとなくイメージが合うのよ。読者受けしそうだし…… 凌ちゃん、もっと料理を頼みましょうよ! 私、北海道産ホタテとタコの和風カルパッチョでしょ、それと国産牛のタタキでしょ、あと、たっぷりあさりのトマトソース焼きでしょ、それと生ハムとモッツァレラのカプレーゼでしょ、あと、ゴルゴンハニーチップスでしょ、あと…… 凌ちゃん、何か欲しいものないの?」


 凌一が首をかしげてクスクス笑った。

「僕が欲しいのは枝豆だけです。他の料理は真由美さんにまかせますよ。しかし、僕のパールスティックが木枯らし紋次郎の楊枝に見えますかねぇ……」


 真由美がまっすぐ前に視線を向けた。勇んだ口調だった。

「私は、本当の刑事のあるべき姿を書きたいの。警視庁捜査一課の頭脳明晰な『敏腕刑事』も犯人逮捕に情熱を燃やす『熱血刑事』もイヤ! もううんざりよ! だいたい大阪に住んでる私や奈良に住んでる凌ちゃんが、どうして一生関わることのないただの東京都警である警視庁の本を読まされ続けないといけないのよ! 日本には四十七も都道府県があるのに、彼らが管轄するのはそのうちのたった一つ、東京だけよ。


 神戸の酒鬼薔薇も、池田小の宅間守も秋田の畠山鈴香も和歌山の林真須美もそうだけど、マスコミが大騒ぎするような猟奇的な犯罪が起こるのは、そのほとんどが他の道府県よ。警視庁なんかに用はないのよ。


 都道府県警察本部の捜査一課もイヤ、あいつらに興味があるのは自分の犯罪検挙点数だけじゃない? 警官が点数制で評価されてるぐらい私だって知ってるわ。殺人犯逮捕の点数が一番高いことも。


 でも、あいつらが家族も省みず、人生の全てを捧げて高得点をあげたところで所詮は警視どまりじゃない。警視なんて民間企業の課長ほどの値打ちもないわ。所詮、警察庁や検察庁の高級官僚の小間使いよ。


 もちろん子供向けの刑事ドラマに出てくるようなやたらと拳銃を撃ちまくる刑事も、刑事コロンボみたいな、ねちこい親父刑事もダメ、若くて、繊細で、純真で、泥臭さのない、そんな刑事を書きたいの。私、あなた以外にそんな刑事を知らないわ。いえ、そんな刑事が本当にいるとは思ってなかった。犯罪者の悲しさや被害者の痛みがわかる刑事がいるなんて思ってなかった」


 凌一が少し照れくさそうにした。

「真由美さん。それは僕を美化しすぎですよ。僕は、しらけたサラリーマン刑事です」

「私の目は節穴じゃないのよ。あなたは、清廉潔白で心優しい、それでいて爪を隠したタカのように鋭い、そんな刑事だわ」


 凌一があきらめ顔をした。

「真由美さんには負けました。実名を出さないのなら、取材に協力しましょう」

「やったーッ。それじゃ早速、質問するわよ」

「いいですよ」


 真由美はカルピスサワーを一気に飲み干し、今度はライムサワーを注文した後、質問を始めた。

「凌ちゃん、最初に今回の少女誘拐殺人未遂事件の真相を教えて」


 凌一が苦笑いを浮かべた。

「そんなことは、もう真由美さんは知ってるでしょう」

「ええ、だいたいね。でも、捜査本部から孤立してまで畑中幸一の無実を信じて、真犯人の畑中優子をつきとめたのは、凌ちゃん、あなたでしょ。その本人の口から聞きたいのよ」


 凌一はしばらく沈黙した後、うつむきぎみに話を始めた。

「今、急増しつつある凶悪犯罪には二種類あります。


 一つは、宮崎勤による幼女連続殺人事件、酒鬼薔薇聖斗による神戸小学生連続殺傷事件に代表される児童を標的とした連続殺傷事件、もう一つは、宅間守による附属池田小事件、秋葉原無差別殺傷事件のような『誰でも良かった』、『死刑になりたかった』という目的の無差別殺傷事件です。どちらも幸せの階段から転がり落ちた、弱者の犯罪という面では共通しています。


 昔の日本は、一億総中流社会と言われ、福祉が充実した弱者に優しい国でした。働く意欲さえあれば、家庭を持って食べていくぐらいは何とかなる国でした。でも、小泉・竹中改革以降、貧富の差は拡大し、弱者は切り捨てられる社会になりました。一旦、幸せになる階段から転がり落ちた弱者は、もうネットカフェで暮らす日雇い派遣ぐらいしか生きるすべがなくなりました。


 今、急増しているのは、そうした社会的弱者が自分よりもさらに弱いものを襲う、いわば自爆テロです。

今回の事件は、当初、宮崎勤による幼女連続殺人事件と同種の変質者による連続犯となる可能性があるとみなされて、奈良県警が捜査本部を設置し、大がかりな捜査が行われた事件です。

僕も最初、少女を誘拐し、首を絞めた挙句に山林に放置するという手口から、犯人は変質者だろうと思ってました。


 そして、現場に残されていた遺留品から犯人と断定された畑中幸一が逮捕されました。本人も犯行を自白したんですから、逮捕されたのはやむをえないことです。


 でも、畑中幸一は裕福な自営業者だし、生活を調べても変な性癖も出てきませんでした。それに、少女が誘拐された現場、つまりあの特別養護老人ホームに祖母の面会に来るのは水曜日の午後だけです。


 畑中幸一はそれを知っているはずがありませんでした。あの特養ホームは偶然通りかかるような場所にはありませんから、僕は、犯人は少女が祖母と面会する曜日と時間帯を知ってた人物だと確信したんです」


 そこで凌一は一旦話を止め、タバコに火をつけた。

 真由美がグビグビとライムサワーを飲んだ。

「他の捜査員は、畑中幸一が犯人だと断定した。でも凌ちゃんには犯人は別人だという確信があった。だから凌ちゃんは捜査本部から孤立したのね」


 凌一が話を続けた。

「捜査本部というのは、ある特定の事件を解決するために編成される特別な組織です。私がいる所轄の刑事課などとは全く異種の恐ろしい軍隊のような組織です。一旦、捜査本部に配属されれば、その事件が終結するまで、三食もろくに取れず、遠方から配属された捜査員は、ろくに帰宅することも許されません。


 刑事だって人間ですから、早く捜査を片付けて家族のもとに帰りたい。普段の生活に戻りたいと願います。

有力な証拠が見つかって被疑者が特定できれば、その被疑者が犯人であって欲しいと願うんです。これは人間として仕方ない感情です。そうでなければ、捜査は一からやりなおしですから…… そうした理由で、本来、犯罪捜査に最も大切な客観性が失われていくんです。


 だから、警察は今まで多くの冤罪事件を生み出して来たんです」


「でも、凌ちゃんは畑中幸一を犯人だと断定しなかった。証拠もあり、本人も自白してるのに、真犯人は別にいると思った」

「そうです。真犯人は、少女が毎週水曜日の午後に祖母の面会に来ることを知ってた人物だと確信してたからです。

畑中幸一は、あの特養ホームとも被害者の少女とも関わりがなく、それを知ってるはずがありませんでした。

そして、少女が祖母と面会する曜日と時間帯を知ってた人物をピックアップしてるうちに、佐野明子というネットカフェ難民が浮かんで来たんです。


 佐野明子は、あの特養ホームで日雇いバイトをしてましたし、犯行現場から見つかった犯人の遺留品であるレシートが発行されたコンビニでもバイトしてました。


 畑中夫妻が三年前に提出した家出人捜査願に添付されてた写真を見た僕は愕然としました。それが佐野明子そっくりだったからです」


 ウエイトレスが次々と料理を運んで来た。二人はそれをつまみながら話を続けた。

「それで、凌ちゃんは、佐野明子が本当は、家出した畑中幸一の養女、畑中優子じゃないかと思うようになったのね」

「そうです。でも写真は三年前のものだったので、僕にも確信はありませんでした。年頃の女性は三年も経つと、かなり容姿が変わりますから…… でも、捜査を進めるうちに佐野明子と畑中優子は同一人物だと確信するようになりました」

「凌ちゃんは、養女の畑中優子が、義父の畑中幸一に少女誘拐殺人未遂の罪を被せようとした理由をどう考えたの?」


「ここからが事件の全貌です。

母親の恵子は、幸一と結婚する前、まだ本田恵子だった頃、女手ひとつで昼も夜も働いて優子を育てました。

そして優子は家事を手伝い、アルバイトまでして家計を助けてきました。

二人は貧しいながら、それなりに幸せに暮らしてたんです。

そこへ畑中幸一は、無一文で転がり込んで来ました。

そして、優子のたった一人の家族である恵子と結婚しました。

畑中幸一は優子から母を奪った。少なくとも優子はそう思いました。

優子はお母さんが死んだお父さんを裏切ったと思いました。


 優子には、幸一に尽く幸一と亡くなったお父さんを裏切ったお母さんのいる家に戻る気にはなりませんでした。


 そして、優子はコンビニでバイトをしてる時、偶然、客として店に来た幸一を見つけました。幸一は優子に気づきませんでした。優子は幸一の後をつけて、彼とお母さんが今のマンションで幸せに暮らしてることを知りました。

優子にはそれが許せませんでした。何とかあの二人を不幸にしてやろうと思いました。そして、幸一に少女誘拐殺人犯の罪を被せることを思いつきました。そうすれば、幸一もお母さんも不幸になる。優子はそう考えました。

優子は綿密に犯行計画を立てました。少女を誘拐し、殺害し、その現場に犯人が畑中幸一だと示す証拠を残す計画です。


 幸一には、普通の人ならその場で捨てるような小額のレシートでもスーツのポケットに入れる習慣がありました。優子はその習慣を利用しました。


 コンビニのレジは防犯カメラで撮影されてることを知ってた優子は、幸一が缶コーヒーとマイルドセブンを買っているレジの他のレジで、同じ商品のバーコードナンバーを打ち込み、偽のレシートを作りました。少女殺害現場に犯人の遺留品として残すためです。優子は、あのレジに缶コーヒーとマイルドセブンのバーコードナンバーを打ち込み、レシートを印刷した後、レジに取り消し伝票を打ち込んでいます。取り消し伝票を打ち込んだのは、店の収支を合わせるためです。


 そして、優子は、あの特別養護老人ホームへ行きました。


 以前から何度もあそこで日雇いバイトをしてた優子は、水曜日の午後に、いつもあの少女が祖母の面会に来ることを知ってました。犯行計画であの少女を誘拐することを決めてた優子は、以前からあの少女に優しくして少女とは親しくなってました。だから優子は簡単に少女をホームの外へ誘い出すことが出来たんです。車を運転できない優子には、少女を力ずくで誘拐することは出来ないからです。


 優子はホームの庭でタンポポを摘んでいる少女に、もっと綺麗なお花がたくさん咲いてるところがあると言って、ホームの外へ連れ出しました。ホームから現場までは、前の道路を歩くと一時間近くかかりますが、ホームの裏手の散策道を登って沢沿いに歩けば、ほんの十分程度です。


 上手い具合に、沢沿いにはタンポポや菜の花がたくさん咲いてたので、少女は喜んで優子について来ました。

そして優子は、あの茂みの前で、背後から、いきなり少女に土嚢袋を被せ、ロープで縛り上げました。

優子は少女を押し倒し、首を絞めました。もちろん殺害するためです。


 少女がぐったりしたのを見た優子は、少女が死んだと思い込みました。


 それから、優子は少女が性的悪戯を受けたことを装うため、少女の下半身を裸にし、局部を爪で引っかきました。

そして優子は、犯人が幸一だという証拠を残すために、わざわざ目立つところにあのレシートを捨てました。

それから優子は携帯で幸一に電話し、彼を現場におびき寄せました。


 長い間、優子を探し続けてた幸一は、優子からの電話を受けて、急いで林道の入り口までやって来ました。でも、いくら探しても優子がいないので、幸一はあきらめて帰って行きました。


 幸一は自営業で、留守中に会社にかかった電話は、自分の携帯に転送してました。幸一の会社の電話番号は、彼の会社のホームページに出てるので、優子は簡単に彼の携帯に電話できたんです。


 優子の計画通り、警察はあのレシートから幸一を割り出し、彼を被疑者として連行しました。優子の計画は成功しました。


 優子は例え警察が事件の真相を解明して真犯人の自分が逮捕されてもかまわないと思ってました。優子は例え義理でも幸一の娘です。そして、恵子の実の娘です。その娘が猟奇的な犯罪を起こして捕まったとしたら、その両親がどうなるか? どっちに転んでも両親はマスコミの餌食になる。自分か幸一、どっちが捕まっても計画は成功だ。優子はそう思ってたんです」


 真由美がポツリと言った。

「でも、優子が少女誘拐殺人事件の罪を被せようと思うほど憎んだ畑中幸一は、優子の義父じゃなかった……」


「そうです。

畑中恵子は、独身でまだ本田恵子だった頃、ある男性を好きになり、優子を身ごもりました。その相手の男性が幸一です。

でも、幸一には妻がいました。幸一は、恵子が身ごもったのを知って、なんとか前の奥さんと別れようとしました。でも、前の奥さんは離婚届にハンをついてくれませんでした。


 恵子は自分から身を引きました。そして女手ひとつで優子を育てました。でも幸一は決して恵子を忘れませんでした。財産をすべて前の奥さんに譲って離婚してもらい、懸命に恵子と優子を探しました。


 そして三年前にやっと二人を見つけました。恵子は無一文で転がり込んで来た幸一を受け入れました。

恵子は優子に、優子が私生児だと知られないため、お父さんは生まれる前に亡くなったと言ってました。そして、無一文で転がり込んで来た幸一が職に就き、立派な男性であることをわかってもらえるようになったら、本当のことを、幸一が優子の実の父親であることを話そうと考えてました。でも、その前に優子は家出しました。


 幸一は、優子を探しながらも必死で働きました。そして事業に成功し、裕福になりました。何のためか? 優子のためです。優子が帰って来たら、きっと幸せにしようと、彼は必死で働きました。幸一がやってもいない少女誘拐殺人未遂を自白したのも、娘の優子をかばうためです」


 真由美が心配そうに凌一を見つめた。

「事件の真相を知った時、凌ちゃんショックだったでしょう」


 凌一が苦笑いを浮かべた。

「警察を辞めようかと思いました。


 真由美さんが言うように、僕は『敏腕刑事』でも『熱血刑事』でもない、しらけた『サラリーマン刑事』です。

だから、県警本部の捜査オタクたちのような犯人逮捕に対する情熱も執念も持ち合わせてません。


 でも、善良な市民の安全で快適な生活を守りたい、いつも市民の笑顔に接してたい、彼らを悲しませる犯罪から守りたい。そう望む気持ちでは他の警官に負けてるつもりはありません。


 警察がそれすら守れない、ただの逮捕屋なら、僕はそんなところに興味はありません。


 本部の捜査一課の連中は、捜査本部では、いわば将校で僕たちのような所轄の刑事は、一兵卒に過ぎません。

 でも、捜査一課の連中は、ただ犯人逮捕の手柄が欲しいだけで、犯罪者の情状にも被害者の心情にも興味はありません。


 僕には、それが本当の警官のあるべき姿だとは思えない。思いたくない。僕は断じて『逮捕屋』にはなりたくない。そう、思ってます」


「凌ちゃんらしい考え方ね。でも、血のつながった本当の父である畑中幸一を義父だと思い込んで、両親を憎しみながらネットカフェで暮らしてた優子と、今の優子と、どっちが幸せだと思う? 何が良くて、何が悪いかは月日が経たないとわからないものよ」


凌一がうなずいた。

「そうです。何が良くて、何が悪いかは月日が経たないとわからないものです」



 しばらくの沈黙の後、真由美は話題を変えた。


「ところで、例の姉妹はどうなの? 二人とも凌ちゃんのことが好きなんでしょ。凌ちゃんは、どっちの娘が好きなの? 二人とも好きだなんて答えはなしよ」


 凌一が少し照れくさそうな表情を覗かせた。

「僕が、中井姉妹のところに通ってるのは、お姉さんの自閉症の治療に協力するための市民サービスです。何故か、僕と一緒にいると、お姉さんの症状が改善されるんです。あの姉妹は二人ともまだ子供です。僕は彼女らに異性感情は持ってません」


 それを聞いて、真由美は皮肉っぽい笑みを浮かべた。

「かわいそうだは惚れたってことよ。少なくともあの姉妹は、あなたのことを慕ってるじゃない。私も女の端くれよ。とぼけたってダメなんだから……」


 凌一は、既に自分の心に、あの姉妹に対して、兄や友人としての感情ではない、異性としての感情が芽生えていることに気づいていた。凌一は返答に詰まった。

 

 真由美があきらめ顔でつぶやいた。

「まあいいわ、この質問だけは勘弁してあげる」


二人はしばらく無言で飲み続けた。

 

別れ際に真由美が訊いた。

「まだ、取材は終わりじゃないわよ。今度はいつ会ってくれるの?」

「まだ、捜査本部の残務処理が少し残ってるんで、手が空いたら、こちらから連絡します」

「わかったわ。早めにお願い」


凌一は黙ってうなずいた。

二人は別れを告げ、それぞれの家路についた。




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