第2章
悟がオフィスに戻ると部長から呼び出しがあった。
「今日はもう早退していいよ」部長室に入ると部長がすぐに口を開いた。
「え?なんでですか?」
「今日やるべき仕事はだいたい片付いているだろ。最近休暇を取ってないようだから休養をとれ」
「休みなら来月1週間とる予定です」
「まあ、いいから。今日は早退しろ」
「はあ。まあ、それが指示ならしょうがないですが……」悟は納得がいかなかった。何かヘマをしただろうか、周りに異常な動きはあっただろうか、と考えたが何も思い当たらなかった。オフィスに戻ると課長が立ち上がって、ゆっくりしてこい、と悟に声をかけながら肩をたたいた。課長以外の人はパソコンに向かって仕事に集中していた。そこには静かな普段のオフィスの風景がフロアの奥まで続いていた。悟はその冷たいオフィスを後にして下りのエレベータに乗った。
地下の駐車場には既にコミュータのジミーが待機していた。乗り込むとすぐにジミーは発進した。
「家にまっすぐ帰って。部屋でゆっくりしたい」急な退社命令に納得がいかなかった悟は気分がむしゃくしゃしていた。
「せっかく午後の時間が空いたのですからどこかに出かけませんか?」ジミーが提案した。
「え?どこに? どこかいいところあるの?」
「任せてください。どこに行くかは着いてのお楽しみということで」
「わかったよ。ジミーを信頼して黙って座っているよ」
「ありがとうございます。それでは1時間程、のんびりしていてください」そう言ってジミーは次の交差点で左に曲がった。そして首都高速道路の入口を抜け速度を上げた。南西方向に下り、標識を見ると神奈川県の横浜の方に向かっているようだった。首都高から眺める都内の景色は殺風景な大小のビルと広告看板が並び決して美しいとは言えないものだった。車内には20年程前の古い歌がかかっていた。
「懐かしいなあ、この曲、俺が好きだったアニメ“ケインの冒険”の主題歌だ。夢中だったなあこのアニメに…… ケインと5人の仲間が世界を覆う闇の謎を追う旅に出る話だ。仲間に個性があって、友達と自分は誰がいいって言い合いをしたなあ。俺は断然、女性のミミだったけどなあ。ちょっと気が強いきれいなお姉さんキャラだった。そうか俺はお姉さん系が好きなんだな」
「何を独り言をぶつぶつ言ってるんですか? そうですよ悟さんはいつもお姉さん系が好きじゃないですか。それも少しきつめの顔をした」
「はは、なんで知ってるんだよ。ジミーに乗りだしてまだ3年だろ」
「私は悟さんのことをもう結構知っていますよ」
「そうか、ばればれか。まあいつも家のセンサで察知されていて、そんなセンサともジミーは裏でつながっているからな」
標識を見るとジミーは横浜を過ぎ葉山、横須賀の方に向かっているようだった。
「おい、横須賀に行くの? 俺の生まれ育ったところじゃないか?」
「そうですよ。だって先週、思い出して懐かしがっていたじゃないですか」悟は先週、家で映画を観ながら少年時代の思い出にふけったことを思いだした。映画はアメリカの小さな街に住む子供たちが遊んでいるうちに犯罪に巻き込まれるストーリーだったが、それを見て自分も子供のときに友達といたずらをしたりして遊んだことを思い出し、あのころは楽しかったなと懐かしがったのだった。ジミーはそのまま横須賀まで走り小高い丘の方に進んでいった。そこはまさしく悟が高校生まで過ごした場所だった。ジミーはしばらく進み小さな児童公園の前で停まった。
「春の山公園じゃないか」
「そうですよ、ここで少し降りて散歩してはどうですか? 私はここで待っています」ジミーが言う通りに悟はコミュータを降り公園の中に入った。そこは悟が小学生のときに毎日のように遊んだ公園だった。小さい公園だが中央に小さな山があり、そこに登ると下に横須賀の港や海岸は見渡せた。
「全然、昔と変わってないなあ。周りの家とかは変わったけど公園は変わってない」悟は独り言をつぶやきながら公園の中を歩いた。
「そうだ、あそこに行ってみよう。ジミー、ちょっと歩いてくるよ」悟は耳に装着したイヤホン・マイクでジミーに話しかけた。
「いいですよ、あそこですね」
「おいおい、ジミー、どこだか知ってるのか?」
「知ってますよ、悟さんのことなら何でもお見通しです。秘密の場所でしょ?」
「そうか、ジミーには何にも隠せないな」悟は心の中で苦笑いしながら公園を出て少し坂道を下った。家は変わったけど、道は変わっていない。でも悟には道が記憶よりだいぶ狭く感じた。子供のときはもっと広いと感じてたんだけどなあ、やっぱり体が大きくなったからか、そう悟は思いながら道を下った。その先の家と家の間にどぶのような細い水路が流れていた。悟はその水路沿いに左に曲がった。水路の脇は辛うじて人が一人通れるような隙間があり体を横に向けながら歩いて抜けた。その水路の先にはこじんまりした林があった。
「ここも全然、変わってない。残っていたんだ」悟は林の中に足を進めた。木漏れ日だけの薄暗い地面にはシダや草が生えていてところどころに捨てられた雑誌やビニール袋などのごみが落ちていた。
「まだ誰か入っているな。俺のときみたいに子供かな」林の中央に幹の太い木が立っていた。
「前より太くなったかな? 成長しているんだな、この木も」木の根元には絡むように多くの根があり、その間に大きな穴が開いていた。
「この穴を囲むように段ボールやベニヤ板を立てて造ったんだよな、秘密基地。毎日のように健治や仁とここに通って遊んでたな。ここが世界の中心だ、世界を悪から守るんだという気分になって。そうあのアニメ“ケインの冒険”のメンバーになった気でいた」悟は、懐かしく思いながら、あのときのような夢を見るように想像を膨らますことを最近はしていないことに気づいた。
「ジミー、そろそろ帰るよ」
「はい、先程のところでお待ちしています」悟は来た道を戻ってコミュータに乗り込んだ。
「ありがとう、ジミー。懐かしい場所に連れてきてくれて。気分も新たになったよ」
「喜んでもらえてよかったです。これから帰りますが、夕食を横浜辺りでとるのはいかがですか?」
「いいけど、一人でも食べられる店はある?」
「お任せください。悟さんの好みはわかっていますから」
ジミーは走り出し、細い住宅街の道を抜けると両脇に大きな街路樹が続くまっすぐな道に出た。いちょうの太くて大きな木が並んでいた。
「ここも懐かしいなあ。秋になると葉っぱが真っ黄色になってきれいなんだよ。母さんが銀杏を好きだったから秋に拾いに来てたなあ。お姉ちゃんは銀杏の変なにおいが嫌いだったけどな。木は前より一回り大きくなったかなあ? 周りの建物はだいぶ変わっちゃったなあ」
「ここを通って通ってたんですよね。高校に」ジミーが声を上げた。
「そうだよ、高校までは自転車で30分位の距離だった」
「高校にも寄ってみます?」
「いいね」
銀杏並木の道を抜けて住宅街の細い路地の角を何回か曲がると桜の木に囲まれて開けた校庭が現れた。悟の通っていた高校だった。
「その先の角を左に入ってくれないか」
「そのつもりですよ。あそこですよね」
「え? 知ってるの?」ジミーは悟の気持ちを先に読んでいるようだった。錆びた鉄のフェンスに沿って続く細い道を進むとフェンス越しに古びた木造の長屋のような建物が現れた。
「まだあった、スタジオが」それは部活動のための離れの建物で部によってはただの物置に使っていたが、悟が入っていた軽音楽部はここで演奏の練習をした。そのため悟たちはここをスタジオと呼んでいた。
「ここでバンドの練習をしたよな。俺がベースでギターのタケシとドラムのトオルがいて。もちろんボーカルは里江子。里江子元気かな?」
「里江子さんはもうご結婚されていますよ。今はご主人の仕事のためにアメリカのロサンゼルスに住まわれています」
「えーそうなんだあ。あいつの声は最高だった。よく通る声でグルーブ感もあって」ジミーの中にそのときのロックナンバーが流れた。うねるリズムに乗る透き通る女性のボーカル。
「そうそう、この曲。これをコピーして、文化祭で演ったんだよなあ。懐かしいなあ」大学時代の友達とは今でも連絡を取りときどき会うこともあるが、高校時代の友達とはお互い連絡も途絶え、会うこともなかった。今思えば高校時代は純粋に好きなことに夢中で充実した時間だったなと、悟は懐かしんだ。
「そろそろ行きますか?」
「うん、ありがとう、ジミー。いい場所に連れてきてくれて。おまえは何でもお見通しでかなわないな」
「どういたしまして」
「もうジミーとは離れられないなあ」
「私もずっとご一緒したいです。では夕食に向かいましょう」