第1章
渡辺悟はその日の朝、いつもと変わらずに目を覚ました。カーテンを開けると高層マンションの56階の窓の外には、東京のビル群が並び、上空には青い空と幾筋かの白い雲が流れるように続き、その先には富士山の白い頂きがビルの合間から顔を出していた。これもいつもと変わらない景色だ。
悟は軽く朝食を摂り、洗面所で歯を磨いた。鏡に映る自分の顔はいつもの朝と同じく冴えない表情をしていた。今日もつまらない一日なんだろうなと思うと悟の心にやる気は起きなかった。電動歯ブラシの細かい振動が歯と歯茎に単調に響いた。手のひらの中にある電動歯ブラシのグリップで赤い光が一回だけ点滅した。しかし悟はそれに気づかなかった。
時計を見ると予定より5分程遅れていたので、悟は急いで服を着た。青いチェック柄のコットンシャツにグレーのパンツ、濃紺のジャケット。オーソドックスな出社のための服装。こういうきっちりとした服装が悟の好みだった。服を着ると玄関の鏡で身だしなみを軽くチェックし、外に出てエレベータに飛び乗った。この慌てぶりもいつものことだった。地下の駐車場の入口には白い車体が既に横づけされていた。会社が用意してくれた悟のための通勤用の車だった。それはコミュータと呼ばれ、乗れば自動で職場のオフィスビルまで連れて行ってくれた。車内のシートに座るとドアは自動で閉まった。
「ジミー、おはよう。出発して」ジミーとは悟がコミュータにつけた名前だった。
「おはようございます。出発します」とジミーが声を発した。それは朝のまだ眠たい頭にも優しい音量で柔らかな声だった。
オフィスまでの20分間程の道のりは、悟にとって毎日の始まりの準備も兼ねた、くつろげるお気に入りの時間だった。しばらくするとジミーが音楽をかけた。クラシックのオーケストラ演奏の交響曲だった。
「おい、懐かしいなあ、この曲。大学時代につきあっていた彼女が好きだった曲だ。クラシックに詳しくなかった俺もよく聴いていた。あれからクラシックもときどき聴くようになったなあ」
「悟さんが聴きたいだろうなと思って」
「よく知ってたなあ。ありがとう。今日の気分にぴったりだ。ジミーにはかなわないよ、何でも俺の気持ちをわかっている」
「ありがとうございます。そう言ってもらえると光栄です」
ジミーはオフィスのあるビルの入口まで悟を運んでくれた。状況に応じ計算しながら動いているので途中渋滞に合うこともなく、入口で待たされることもなかった。オフィスのある階まで昇るためにエレベータに乗り込むとそこに咲がいた。
「おはよう」悟は咲に目が合うと挨拶をした。
「おはよう」咲も気楽に挨拶を返してくれた。咲は2年前に転職してこのオフィスに来て、悟の友達とも気が合ったので月に1、2回、一緒に飲みに行くようになっていた。
「今週の金曜ですよね、例の食事会」咲が悟の横で小声で言った。
「うん、そうだよ」
「佐藤君のおすすめのお店ってどんなとこか楽しみです」
「そうだね。でもあんまり期待しないで方が喜びは大きいかも」
「渡辺君もいじわるですね」
「そう考えるのが普通さ」エレベータのドアが開いて二人はそれぞれの席に向かった。朝から咲と会話できたのが悟は嬉しかった。悟は咲に好意を抱いていてデートに誘おうと思っていたがなかなか切り出せないでいた。今週の金曜の仲間での飲み会の様子をみて、来週声をかけようと考えていた。今日のように咲の方から気楽に話しかけてくれるのは脈があるのかなと都合よく解釈して、嬉しい気持ちになっていた。
悟は商社に勤めており、工業用の素材を取引する業務を担当していた。市場の状況に応じて素材の需要は変動するが、そのような変動をモニターし、予測することはAIが得意とするので、既に人間が介在する必要はなかった。人間が価値を発揮するのはまだ未発表の技術やプロジェクトの領域だった。新しい技術を開発している人や企業は公に発表する前に開発した技術を高く買ってくれるところを探す。そういうときにコネクションの多い商社は力を発揮する。悟は大学で化学を専攻していたので、技術に対するセンスを持っていた。これはものになると思った技術を商社のネットワークを駆使して需要者に紹介しビジネスを成立させる。悟は鑑識眼と調整力を活かし10名で構成されるチームの中でも月間の取引額は常にTop3に入る成績を収めていた。
悟が席に着いてパソコンを立ち上げると画面の右下が一瞬赤く光った。あれ?何かエラーでもあるのかな?と悟は思ったが、その後、普通にパソコンは動いたのですぐにそんなことがあったことは忘れてしまった。チェックすべきメールが数件届いていた。悟が売り込んでいるオランダの研究所が開発した新しい樹脂に興味があるという企業からの返事だった。詳細な説明をする日取りを決め、サンプルを手配する必要があった。それらの依頼のメールをオランダの研究所に送信したのち、説明資料や動画を確認し一部作り直した。そんな作業をしてその日の午前は過ぎた。
正午になりランチをとりに階下にある食堂に降りると佐藤と田中が既に席についていた。悟がカウンターに行くと悟向けのランチプレートが用意されていた。悟のその日の気分や好み、体調等を考慮しAIがメニューを決め用意してくれる。オフィスの席を立ったときから自動で作り始め、食堂のカウンターに着くときには既にできている仕組みだ。いつも好みのメニューが適度な分量でタイミングよく用意されるので、悟がこのランチに不満をもったことはなかった。
「今朝、咲ちゃんに会ったら今週の金曜を楽しみにしていたよ。佐藤が紹介してくれるお店に期待してるって」悟は佐藤と田中の席に加わった。
「任せてよ。あのお店は自信あるから。先月できたばかりの小さなレストランだ。ロボットには出せない気の利いたものを出すから」
「そんなところ高くないのか?」田中が心配になったのか突っ込んできた。
「大丈夫だよ。シェフがまだ若くて駆け出しだからそんな高い値段をつけていない」
「それならいいけど。そういえばかおるちゃんも来るって」
「やった。よしこのチャンスにお近づきになろうっと」佐藤の目に光が入った。
「まあ、がんばってよ。俺は咲ちゃん一本だから」悟が生姜焼きを口に運びながら言った。
「もう、何回目になるんだよ、この飲み会。早くアプローチしろよ。俺がとっちゃうぞ」田中が右ひじで悟を小突きながら言った。
「来週にはデートに誘うよ」
「え?今週じゃないの? 遅いなあ」
「いいじゃん、俺には俺のペースがあるんだから」そういいながらも悟の心の中にあせりはあった。