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2-08 心の中のパペッティア

「俺たちは、どうして死ななきゃいけなかったんだ――――」


 十五年前の八月。幸せだったはずの四人家族が、心中未遂事件を引き起こした。この悲劇の中、生き残った浦瀬 悠久はすべての思い出と引き換えに、良き理解者の元で平穏な日々を送っていた。

 しかし大学二年生のある日、飲み会の席で不思議な雰囲気の女性、椿沢 晶と出会う。同じ大学の後輩だという彼女は、会って間もないはずの悠久の耳元で、ある話を持ち掛けた。

「心中事件の真相、暴いてみない?」

 不気味な誘いを受けた悠久は、先輩の名木野 和穂や養母の浦瀬 円に相談をする。だが彼女たちもまた、不可解な言葉を彼に告げた。

「すべて失いたくないなら、絶対にやめなさい」

 怖気づく悠久だったが、自らの過去と向き合うため、事件の真相を探ることにした。


 ――――それが、日常を崩壊させる選択だったと知らずに。


 山間から差し込む夕日が照らし出すのは、川面に浮かぶ、ふたつの影。

 ついさっきまで笑い合っていたはずの優しい影は、今や木偶人形のように動かない。緩やかな川の流れに身を委ね、無言のまま俺の前から去っていく。


 待って――――


 呼び止めようと必死で叫ぼうとするも、声が出ない。それどころか、謎の痛みで口も開けなかった。

 頭が痛い。

 足が痛い。

 全身が痛い。

 痛みで瞼が重くなる。

 それでも、あの影を追いかけたい。いや、追いかけなければいけないと思った。

 しかしその間にも、ふたつの影はどんどん遠ざかる。駆け寄りたくても足を動かすだけの力はなく、重い瞼を支えるだけで精いっぱいだった。


 動け、動け――――


 意識を保つため、拳を叩き壊さんばかりに周囲を叩くが、今はその痛みさえも感じなくなっていた。あれだけ痛かったはずなのに何も感じず、むしろ睡魔に襲われる。

 寝てはいけない。

 助けなくては。

 でも、眠い。

 ねむ、い。

 そして、睡魔との戦いに敗れた俺は、為す術もなく瞼を閉じた。


 誰もいない、暮れなずむ真夏の河原。遠くなっていく意識の中、蝉の声だけがうるさく響いていた。



――――――

――――

――




 二〇一八年、八月六日――――


「っ!」


 力の戻った体に鞭を打ち、俺は勢いよく飛び上がった。ガタンという大きな音と共にパイプ椅子がはじけ飛び、嫌な音色が耳一杯に広がる。

 それに動じることなく、流されていたはずのふたつの影へと手を伸ばす。だが、俺の前からふたつの影は……いや、それどころか川自体が消失していた。

 代わりに現れたのは、乱雑に置かれた写真の専門雑誌と、それよりも圧倒的に数の多いマンガ。広さにしてわずか六畳ほどしかない、写真同好会の部室の見慣れた光景だった。


「あ、あれ?」


 額から伝ってきた汗と、開けた窓から入る生暖かい風が頬を撫でる。この無性に腹が立つ感覚を消すように、余ってしまった力を使って強引に拭う。

 俺はいつの間にか眠りこけ、夢を見ていたらしい。それも、例の悪夢を。


(なんだ。またあの夢、か……)


 パイプ椅子を直すだけの気力さえも失い、安っぽい木製の机へ両手をつき、視線を落とす。ラップトップPCに映った作りかけの課題が、どこか俺をあざ笑っているようにも見えた。

 気を取り直し、軽く頬を叩いて時計を確認する。窓から見える空の色からして、嫌な予感はしていた。しかし実際の数字を見て、俺は残酷な現実に打ちのめされることとなった。


「えっと? うわ、もう四時すぎかよ。やっちまったな」


 課題の提出は明日だというのに、この進捗状況では徹夜確定だ。もっと早く取り組んでいればよかったと、今さらながら後悔してしまう。

 大学二年生ともなると、こうした専門的な課題がとても多くなる。初めから意志をもって受験した学部ならば興味を持てるのだが、俺のように消去法で進学したタイプの人間にとって、この手の課題は苦痛以外の何物でもない。

 先ほどの俺と同じく、睡魔に襲われて醜態をさらした人間は数多いだろう。むしろ、俺はこの姿を誰にも見られなかっただけ僥倖だった、と考えていいくらいだ。

 とにかく、寝てしまったものは仕方がない。そろそろバイトに向かわないと、そっちも間に合わなくなってしまう。遅刻して自分の評価を下げるなんて、絶対に御免だ。


「さてと。バッグ、バッグ……」


 PCの電源を落とし、共用の荷物棚へと振り返る。しかし無意識に手を伸ばした瞬間、俺の目にひとりの女性の姿が映った。


「バッグは――――うわっ!」

「おっと! ……もう、急に動かないでよ! 危ないじゃない、浦瀬(うらせ)くん!」

「せ、先輩?」


 棚の前にいたのは一学年上の女性、名木野(なぎの) 和穂(かずほ)だった。

 彼女はこの写真同好会の会長で、少し性格はキツイが後輩への面倒見のよい、とても頼れる先輩だ。成績も優秀、かつ顔も整い過ぎているくらい端正で、男子からの人気が特に高い。だが彼女はなぜか、このメンバーも活動も少ない弱小同好会に所属していた。

 そんな名木野はひとしきり俺を叱ったあと、長い茶髪をかき上げながら呆れたように言う。


「まったく。その様子だと、課題は終わらなかったようね? こんな時間まで、いったい何をしていたのよ」

「すみません。えっと、その……ちょっと寝ちゃって」

「知ってる。ていうか、さっきからここにいたもの」

「そうだったんですか? なんだ、それなら起こしてくれても良かったのに」

「甘えないの。でも、ホント浦瀬くんって嘘をつかないわね。こういうときって普通、誤魔化そうとするじゃない。そういう素直なところは評価してあげる」

「あ、ありがとうございます」

「そんなキミの素直さに免じて……はい、これ」

「え?」


 名木野はそう言うと、手に持っていた何かを俺の前に差し出した。シンプルなデザインのUSBメモリ、のようだ。

 呆気にとられる俺へ、名木野は笑顔で話を続ける。


「法政演習の課題、でしょ? これに五年分くらいのデータが入ってるわ。あの教授、課題どころか試験の内容すら、数年周期で繰り返してるだけなの。だから、これがあればすぐに課題なんか終わると思う」

「ほ、本当ですか? なんか、必死にやってた俺がバカみたいですね……」

「そんなことないわ。ちゃんと自力で終えた方がいいに決まってるもの。でも、この時間からじゃ大変だろうし。それに……」


 不意に女神のような笑顔を消し、俺の顔を心配そうに見つめる。


「きっと悪い夢でも見たのでしょう? 顔色が悪いし、汗もすごいわよ。そんなことじゃ、たとえ課題が終わっても体調を崩しちゃうわ。勉強も大事だけど、健康はもっと大事なんだから」

「そうですか。すみません、気を遣っていただいて」

「いいのよ。ほら、浦瀬くんはいつも真面目に参加してくれるし、大事な後輩のひとりだもの。そんなことはいいからさ、早く支度して」


 差し出したUSBを半ば強引に俺の手に握らせると、名木野はまた先ほどの笑顔を取り戻し、髪を大きく揺らして部屋の扉を開けた。ふわりとシトラス系の香りが漂い、不快な気分が少しだけ和らいでいく。


「急いでるんでしょう? 今ならバスにも間に合うと思うわ」

「え、でも……」

「私はまだ用があるから心配しないで。片付けておくから、早く行きなさい。その代わり、明後日の活動には参加すること。いいわね?」

「はい。ありがとうございます、本当に助かりました。それでは、お先に失礼します」

「気を付けてね」


 これが、名木野 和穂という人間だ。なんでもできる上に、気遣いの達人。まさに完璧超人と呼んでいい。本当にどうして、彼女はもっとちゃんと活動している部やサークルに入らなかったのだろう。まったくもって不思議だ。

 そんな疑問を抱きつつ、名木野に見送られて俺はバス停へと向かった。


 中途半端な時間帯だったため、大学前のバス停に学生らしき人影はない。老婆が一人、劣化したベンチに腰かけているだけだった。

 夕方ということもあり気温はそこまで高くないものの、じわりと滲み出た不快な汗を手で拭う。それというのも、キャンパスの至る所から蝉の鳴き声が聞こえるせいだろう。夢の中で何度も聞いた、にっくき蝉の声。あれを聞くと、嫌な気分になってしまう。

 あまりの不快さに我慢できず、周囲をぐるりと見渡して溜息まじりに小さく呟く。


「……こいつらが鳴くと、決まってあの夢を見るんだよな。ホント、イヤな季節だよ」


 部室で悪夢を見たのも、きっと蝉の声を無意識に聞いてしまったのだろう。窓も開いていたし、条件としては充分だ。それに、寝落ちするような睡眠の質が悪い時は悪夢を見やすい、という説もあるらしい。

 いずれにしても、この時期は俺にとって鬼門だ。毎日ではないにせよ、あの奇妙な夢を見てしまうのだから。

 いや……正確に言えば、あれは夢ではない。あれは紛れもない現実で、俺がこの目ではっきりと見たものだ。


 後に『古志(こし)市一家心中未遂事件』と呼ばれることとなった、悲惨な事件。それがまさに、あの夢で見た河原で起きた。そしてこの俺、浦瀬(うらせ) 悠久(はるひさ)はその心中事件を、被害者のひとりとして目撃したのだ。

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