2-06 刑吏代行 骨原火鉢と礼儀正しい死体
「処刑にはぁ――礼儀がある!」
正新大学人文学部の流刑地ゼミにてそんなことを宣う謎の先輩を前に、
同学部後輩の不破倫理は覚悟を決めていた。
アルバイト先の教え子が巻き込まれた怪奇事件。
その犯人と目されているのが彼――骨原火鉢なのだ。
だが、「刑吏代行」と他称される火鉢は、逆にその事件の犯人に対する処刑を提案する。
研究室の隅の段ボールハウスに住み着く処刑マニア。
ぬいぐるみに名前をつけて縛り上げるマゾヒズム専門家。
研究室の一角にまじない屋を開く呪い愛好家。
ゼミに住み着く個性豊かな異端者どもが、次々と持ち込まれる謎に挑む!
【1】無礼な訪問者
正新大学人文学部の流刑地ゼミには、『処刑部屋』があるらしい。
噂の出所であるそのゼミの研究室の前で、同学部一年生、不破倫理は唾をごくりと飲み込んだ。
流刑地ゼミ。他のゼミで受け入れてもらえなかった妙な研究課題を持つ生徒が、最終的に流れ着く不毛の地。入る学部を間違えている異端者どもの島流し先。その正式名称を『佐渡島ゼミ』という。
なんでもゼミの主である佐渡島教授が来る者拒まずのおおらかな性格らしく、揃いも揃って協調性皆無のゼミの面々によって、研究室はそれはもうひどい有様になっているのだとか。
そんな無法地帯を前にして、倫理は覚悟を決めようとしていた。
大丈夫。どんな酷い噂があっても大学は大学。学びの園だ。非常識なことが起こるわけがない。処刑部屋というのも言葉の綾だろう。だから怯む必要なんて――
「あれ? 君はどなたかな?」
「ぎゃっ」
胸に手を置いて深呼吸しているところに突然声をかけられ、倫理は無様に肩を跳ね上げる。
顔を上げると、いつの間にか研究室のドアが開いて小柄な男性がこちらを見上げていた。
年齢は四十代か五十代に見える。もしかして彼が佐渡島教授なのだろうか。ほわほわした雰囲気の彼はちょっと考えた後、ぱあっと目を輝かせて倫理の手を握った。
「もしかして見学希望者? どうぞどうぞ気軽に見ていってね。うちはどんな子も大歓迎だからね」
「え、ちょっ」
強引に引き摺り込まれ、倫理の体は研究室に入ってしまう。
そのまま目隠しのパーテーションを抜けた瞬間――倫理の顔は大きく引き攣った。
汚部屋だ。目も当てられないほどの汚部屋だ。
研究室に物があふれているのはこの際いい。往々にしてそういうものだ。
だが、ここまで悲惨な状況になるまでどうして放っておいたんだ。
机にみっしりと物が積まれているのは当たり前として、床にすらそれは及んでいる。
しかもただ積んであるだけならまだしも、雪崩を起こしていくつもの山が混ざっているのはどういう了見だ。
それぞれの山に統一性はないし、それどころか端の折れた展覧会のリーフレットや、何かの書籍のコピーが本と本の間にサンドイッチされている始末だ。
申し訳程度に置かれたゴミ箱は溢れているし、あちらこちらにあるガラクタにしか見えない物品は踏んでくださいと言わんばかりの場所に散乱している。
どんなゼミでも研究室は汚いと聞いたことはあるがここまでではないだろう。
元来、几帳面な気質のある倫理は、背筋が寒くなりながら指をわきわきと動かした。
片付けたい。それが叶わないのなら、今すぐここから立ち去りたい。
そんな倫理を、逃がさないぞと言わんばかりに佐渡島教授は研究室の奥へと押し込む。
「ちょっと散らかっててごめんね。今お茶持ってくるからそのへんに座って待っててね」
座っててもなにも、座るべき椅子が全て書類の山で埋まってしまっているのだがどうしろというのか。
そう尋ねようとした時には既に、教授の姿は奥へと消えていってしまった。
仕方なく倫理は部屋中に視線を巡らせる。
帰りたい。だがだめだ。俺にはここでやらなければいけないことがある。
噂の『処刑部屋』。そこに住み着いているらしい謎の先輩。彼とコンタクトを取らなくては。
だがそんな不穏な名前の場所が、汚いとはいえ仮にも研究室に本当に――
――その時、倫理の目に飛び込んできたのは、研究室の隅に作られたダンボールハウスだった。
……まさか、あれなのか?
誰に隠れているというわけでもないのに、そろそろと足音を殺して倫理はそちらへと向かう。
よくよく観察してみると、ダンボールハウスとは言ったが人一人がやっと座れるぐらいのスペースしかなく、どちらかというと秘密基地といった趣が強い。
それにしては造りは精巧で、ちゃんとした素材で作れば家具として成立しそうにも見える。
そしてその壁面には、天秤らしきものがやけに几帳面に描かれていた。
――何故、天秤? 『処刑部屋』なのに?
倫理はさらに一歩近づき、ダンボールハウスの中をそっと覗き込む。
最初に見えたのは黒色だった。
ダンボールの影に溶け込むように黒くて長い髪が垂れている。さらさらとした質感で、わずかに風に揺れる様はまるでカーテンのようだ。
その髪の持ち主は真っ白な指をぴくっと動かすと、ぎろりと倫理へと剣呑な視線を向けた。
「ノックもなしとは大した了見だな」
低い声で凄まれて無礼を一瞬納得しかけるも、すぐに思い直す。
いや、ダンボールハウスのどこをノックしろと?
困惑している倫理を置き去りに彼は軽くため息を吐くと、今し方まで読んでいた本をパタンと閉じた。
そして器用にも周囲のダンボールを揺らさないまま、ぬっと体を秘密基地から抜け出させる。
立ち上がった男は、頭一つ分ほど上の位置から倫理の顔を見下ろした。
折れてしまいそうなほど細身だが、こんな隙間によく収まっていたものだといっそ感心するほど上背がある。
服装は几帳面な倫理が思わず顔をしかめるほどだらしない。特に胸元まで開けられた皺の寄ったシャツを見て、倫理はアイロンをかけたくてピクピクと指先を動かした。
そんな服装とは対照的に、絹のように滑らかな黒髪は胸の下あたりまで伸び、軽い印象を与える垂れた目元は、今は不機嫌そうに細められている。
「んで? 君、誰よ」
妙な存在感を放つ彼に圧倒されて口を開けていた倫理は、慌てて背筋を伸ばして睨みつけるように彼の目を見返した。
「不破倫理。学部の一年生です」
「不破倫理ぃ?」
ほとんど凄まれるように尋ね返され、倫理は知らずのうちに一歩後ずさる。
しかしその直後、彼はゆっくり時間をかけてにんまりとした笑みを作った。
「じゃあ『ふわりん』だねえ。可愛いじゃん」
あまりに馴れ馴れしい呼び方に、倫理の指先はぴくっと動く。
ふざけた奴だ。こちらをなめくさっている。
「……変な呼び方をしないでください」
唸るように倫理は言う。
すると男は少し身をかがめて、倫理の顔を覗き込んできた。
「ごめんねえ、ふーわりんっ」
ぴこんっとデコピンをされ、声を荒げて怒りそうになるのを倫理は必死でこらえる。
「ふわりーん? おーい?」
話しかけても怒りに肩を震わせるだけの倫理を見下ろしながら、男は倫理の目の前にヒラヒラと手をかざしている。
倫理は密かに歯ぎしりをした。
駄目だ、このまま相手のペースに乗せられては。
落ち着け俺。大丈夫。相手はただの変な先輩だ。
大切なのは冷静に目的を達成することだけだ。冷静に、冷静に――
倫理は怒りと緊張でバクバクと暴れる鼓動を抑え込み、大きく息を吸い込んだ。
「あなたが、骨原先輩ですか」
「そうだよお。俺は骨原火鉢。刑吏代行なんて言う奴もいるねえ」
何がおかしいのかケラケラと笑いながら骨原は答える。
その異様な雰囲気に呑まれてたまるか、と倫理は拳をぐっと握り込んだ。
こいつが、今俺が直面している事件の犯人かもしれない男だ。